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卑弥呼の墓は、すでに発掘されている!!

卑弥呼の墓はすでに発掘されている

考古学者の森浩一は、福岡県糸島市の平原古墳の年代が、卑弥呼の年代と重なる可能性を述べている(『日本神話の考古学』朝日新聞社刊)。                
平原王墓発掘者の原田大六は、この墓を、天照大御神(あまてらすおおみかみ)の墓とする。考古学者の奥野正男氏は、この墓を、卑弥呼の墓とする。吉野ヶ里遺跡の発掘で著名な高島忠平氏も、この墓が、卑弥呼の墓である可能性があるとする。古代では、後の時代でも、都の場所と天皇などの墓が遠く離れていることは、よくあることである。    
平原王墓出土の青銅鏡の質と量とは、他の遺跡から、超絶している。
平原王墓からは、直径46.5センチに達する大鏡が五面出土している。       
わが国では、弥生時代〜古墳時代を通じて、約五千面の青銅鏡が出土している。その五千面ほどの鏡において、面径のトップ5は、すべて平原王墓というただ一つの墓がしめるのである。このような遺跡が、今後出現する可能性は、まずないといってよい。
平原王墓=卑弥呼の墓の可能性をさぐることからはじめるべきである。



本書「卑弥呼の墓は宮殿は、どこにあったか」より
『魏志倭人伝』は、倭人の墓制について、「棺あって槨なし」と記す。
北九州出土の甕棺や箱式石棺であれば、「棺あって槨なし」の記述に一致する。

おもに四世紀におこなわれた前方後円墳などの「竪穴式石室」などは、たとえば、近藤義郎編の『前方後円墳集成』(山川出版社刊)
などが、「竪穴式石槨」と記すように、棺をおおう「槨」の一種とみるべきである。『魏志倭人伝』の記述と一致しない。

『晴書』「倭国伝」などは、「死者を斂(おさ)むるに棺槨をもっです」と記す。のちの時代のわが国の墓制が、『魏志倭人伝』のころと、異なっていたことを示している。



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