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徳間文庫
日本語の起源を探る  (文庫版)

日本語の起源を探る

日本語の源流は、いまだ明確ではない。 世界の言語の孤児ともいえる。これまでに も数多くの論が唱えられ、最近ではタミル 語との関連も喧伝された。
だが、単に個々 の単語の類似等に基づく推論は、古代日本 語形成を探る科学的方法論たりうるのか?
著者は、膨大な単語の中から最も変化し にくい基礎語彙二百を抽出、アジア諸方言 との音韻的比較を試み、古代日本国家の形 成をも展望している。力作論稿。


 本書「文庫本あとがき −日本語と朝鮮語−」より

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「万葉集の時代には、日本人と朝鮮人とは通訳なしでも、話が通じた」

「やはり万葉集は韓国語だった」

さいきん、このような趣旨のことを主張する本が、さかんに刊行されている。

しかし、このような主張は、いちじるしく事実に反すると思う。

『万葉集』の時代も、現代の日本語と同じく、「手」は「て」といった。「目」は「め」といっ た。「山」は「やま」といった。「川」は「かわ」といった。「鳥」は「とり」であった。「花」 は「はな」であった。

基本的な単語は、現代の日本語とごくわずかの違いがあるだけである。

『万葉集』時代のことばは、あきらかに、現代の日本語の、祖先といえることばである。

琉球列島のことばは、およそ、いまから1700年まえに、日本列島のことばから分かれた とみられる(南九州から南下したとみられている。これについてくわしくは、拙著『言語の数 理』筑摩書房刊参照)。

1700年まえといえば、『万葉集』の時代すなわち、奈良時代よりも、さらに400年ほどま えである。

それでも、琉球列島のことばは、あきらかに、現代の日本語と対応する形をしている。ひろ い意味で、琉球列島のことばは、日本語の方言とみてよい形をしている。 たとえば、琉球列島の首里方言では、「手」のことは、「ていー」である。「目」は、「みー」 である。

朝鮮語で、「手」のことを「そん」といい、「目」のことを「ぬん」といったりするのとは、 事情が、はっきりと異なっている。 この本の54,55ぺージの表7や、114ぺージの図7をみれば、「日本語と朝鮮語」とのへだた りが、「日本列島語と首里方言」とのへだたりよりも、はるかにはるかに大きいことは、一目 瞭然であるように思える。

54,55ぺージの表7をみればあきらかなように、『万葉集』の時代も、上古日本語と朝鮮語とのへだだりは、現代日本語(東京方言)と万葉日本語(上古日本語)とのへだたりよりも、 はるかに大きかった。

現代の日本人が、万葉時代の日本人と話をして、通訳なしで、話が通じたとは思えない。と すれば、万葉時代においても、さらにへだたった言語を用いていた日本人と朝鮮人とが、通訳 なしで、直接話をして、話が通じたとは、とうてい思えない。


   2
奈良時代に、『古事記』『日本書紀』『万葉集』『風土記』などが成立した。 これらの文献によって、私たちは、奈良時代、すなわち、万葉時代の日本語を、体系的に知 ることができる。

「久羅下那州多陀用弊流時(くらげなすただよえるとき)」(『古事記』)と記されているときは、「くらげのようにただよって いるとき」の意味であることが理解できる。このような文は、あきらかに、平安時代の日本文 の、過去への延長線のうえにある。

日本語の古典としての性格を、あきらかにそなえており、朝鮮語の古典としての性格をもっ ていない。

私たちは、『古事記』『日本書紀』『万葉集』『風土記』よりもまえの日本語については、断片 的な資料しかもっていない。

『魏志倭人伝』にみられる日本語らしい断片的な単語(「卑狗」→「彦?」、「多模」→「玉?」 「魂?」など)や、稲荷山鉄剣銘文にみられる単語(「足尼」→「宿禰」など)、あるいは、元 興寺塔露磐銘にみられる単語(「比弥」→「姫」)などである。

朝鮮語は、体系的には、朝鮮の国字であるハングル(日本語のひらがなやカタカナにあた る)の発明された15世紀中ごろの、中期朝鮮語までしかさかのぼれない。

ハングルが、1443年に制定され、1446年に、朝鮮の仮名文字として、広められるよ うになった。

15世紀以前の朝鮮語については、断片的な資料しか存在していない。その事情は、私たち が、奈良時代よりもまえの日本語については、断片的な資料しかもっていないのと同じである。

8世紀の万葉時代の朝鮮語が、あたかもわかっているかのように述べたり、古代百済語につ いて、そうとうな資料が存在しているかのように述べたりしている本があるが、それらの本は、 一定の目的をもって、事実をゆがめているとしか思えない。

奈良時代、つまり、万葉の時代の朝鮮語を、断片的にでも、直接うかがえる資料があるとす れば、それは、朝鮮側に存在している資料ではない。むしろ、日本側の文献『日本書紀』に記 されている朝鮮語である。


   3
『日本書紀』の、朝鮮関係の記事では、「山」を、しばしば、「むれ」「もろ」と読ませている。 たとえば、つぎのとおりである。

「辟支の山(へきのむれ)」「古沙の山(こさのむれ)」「谷那の鉄の山(こくなのかねのむれ)」(以上、いずれも、「神功皇后摂政前紀」にみえ、百済の山をさしている)。

「帯山の城(しとろもろのさし)」(「顕宗天皇紀」)、「久礼山(くれむれ)」(「欽明天皇紀」)、「怒受利の山(のずりのむれ)」「任射岐の山(にざぎのむれ)」「北 の任叙利の山(にじょりのむれ)」「都都岐留の山(つつきるのむれ)」(以上、いずれも、「斉明天皇紀」)。

現代朝鮮語では、「山」のことを「san」というが、これは、中国語からの借用語であ る。

中期朝鮮語では、「山」のことを、「」(o の上の棒は、長音記号ではなく、アクセ ント記号)という。これは、「むれ」「もろ」に近い形をしている。

奈良時代の日本語では、「」のように、ひとつの単語のなかに、母音が二つつづくこと は、原則としてなかった(現代語の「aoi(青い)」も、奈良時代には、「awosi(青し)」であっ た。母音は、つながらない)。

したがって、「」を、「mori」のように聞きなすことは、十分ありうることである。

あるいは、奈良時代の朝鮮語で、「山」のことは、「むれ」「もろ」のようにいい、のち、「r、 音」が脱落し、中期朝鮮語の時代には、「」のようになったのかもしれない。

日本語でも、「鳥」のことを、奈良時代にも「とり」といったが、のち、「r音」が脱落し・ 現代の沖縄の首里方言では「tui(とうい)」、といっている(東京方言の「o音」は、首里方言ではほ ぼ規則的に「u音」に変化している)。

日本語においては、奈良時代も、「山」は、現代と同じく「やま」であった。 奈良時代の日本語「やま」と、朝鮮語「むれ」「もろ」とでは、現代語にみられるの同じ ていどのへだたりがあった。


   4
以上「山」についていえたのと、ほぼ同じような議論が、『日本書紀』に記されている朝鮮語 の他の単語についてもいえる(『日本書紀』に記されている朝鮮語の単語でほぼ確実な議論が できるのは、10語前後)。

なお、『日本書紀』に記されている朝鮮語の単語から、つぎのようなことがいえる。

新羅が、朝鮮半島を統一したため、中期朝鮮語および現代朝鮮語は、新羅語を母胎としてい る。そして、「山」をはじめとする百済語の単語が、中期朝鮮語や現代朝鮮語に近い。

このことは、百済語と新羅語とが、ともに、「韓語」であって、方言ていどの差異しかない ことを示しているとみられる.

「まえがき」でも述べたように、「日本語の起源」のような、やや漠然としたテーマをとりあ つかうようなばあいは、方法を、科学的検証にたえうるようにしておかなければ、とかく、き わめて主観的な議論になりがちである。

この本は、はじめ、いまから5年ほどまえの1985年に、PHP研究所から刊行された。

そして、現在の、『人麻呂の暗号』「もう一つの万葉集』『日本語の悲劇』などのような、言 語学的には、ほとんど無価値と思われる本が、つぎつぎと刊行されて、なかには、数十万部と いうベストセラーになっているような情況をみれば、本書が、よそおいを新たにして、いま一 度世に問われる意味は、十分あるのではないかと思っている。

なお、日本語と朝鮮語の問題については、下の拙著、拙論を参照していただければ幸いであ る。

『朝鮮語で「万葉集」は解読できない』(工ICC出版局、1990年1月刊)




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