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POPな古代史 |
スッキリくっきり日本のはじまり 縄文人は文明人? ヒミコはアマテラス!? 古代日本史の謎にわかりやすく迫る |
本書「はじめに」より 謎の世界へのガイドブック |
この本は、ロマンつきない古代史の世界へのガイドブックである。 最近は、未知の秘境が、すくなくなった。 世界のほとんどのところへは、行こうと思えば、行くことができる。 行かないにしても、テレビの画面に、うつし出される。 古代史は、最後の秘境ともいえる。 謎に満ちている。 未知の世界へあこがれる精神は、ロマン主義といえる。 未知の神秘体験をしたいばかりに、あやしげな宗教などにはいって行く人たちもでてく るようである。 その点、古代史の世界は、健全である。 私たちの知的好奇心も、十分に満たしてくれる。 この本を読めば、新聞報道などの、新しい発見の意味も、よりわかりやすくなるだろう。 例をあげよう。 1994年の7月から8月にかけての諸新聞は、青森市の三内丸山遺跡について、大き く報じている。 |
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など、意表をつく遺跡であった。 直径80センチの掘っ立て柱を使った建物は、高さ20メートルとの見方もでている。 掘っ立て柱の建物あとは、約30基出土したが、そのほとんどは、正確に南北か東西に 長い長方形であった。 都市計画が行われていた。 漆塗りの木製晶や、新潟産出のヒスイの原石、ヒョウタンの種なども出土した。 さらに、『歴史街道』の1995年4月号の特集で、国際日本文化センターの安田喜憲 氏は、三内丸山遺跡に住んでいた人々は、クリ林を造り育てながら、相当高度な食料生産 を行っていたことを、くわしく論じている。 三内丸山遺跡の土器は、縄文前期〜中期(5500年前〜4500年前)のものである。 1000年ものあいだ、定住していたのである。 驚くべき遺跡であるが、謎は多い。 この三内丸山遺跡のにない手は、どんな人たちだったのだろう。 この地は、アイヌ語系の地名の多く残っている場所である。 地名学者の山田秀三氏は、1993年に刊行された遺稿集『東北・アイヌ語地名の研 究』(草風館刊)のなかで、「サンナイ」という地名じたいが、アイヌ語の「(増水が)流 れ出る・川」という意味であることを、くわしい根拠をあげて述べている。 この地は、雨がちょっと長く降ると、水がいっぺんに、ドーッと出て来る場所なのであ る。 縄文時代の海岸線は、現在よりもずっと内陸よりで、三内丸山遺跡の地は、海に近かっ たとみられる。 漁業にかなりたよっていたとみられるが、この地は、洪水の出やすいところであったの で、台地の上にある三内丸山遺跡の地に、人が集まることになったようである。 三内丸山遺跡の人々は、アイヌだったのだろうか。とすれば、その後の日本人と、どの ような関係をもつのだろうか。 高い建物は、洪水などを観察し、人々に知らせる物見やぐらだったのかもしれない。 祭りのための建物だったのかもしれない。 また、1995年1月22日の『朝日新聞』などは、広島の小丸遺跡で、三世紀のもの とみられる製鉄炉が見つかったことを報じている。 これまで各地で確認されている製鉄炉は、六世紀以降のものがほとんどであった。 鉄については、つぎの三つを、わけて考える必要がある。 |
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この(3)の製鉄はむずかしく、これまで、日本で製鉄が行われるようになったのは、六世 紀にはいってからであろうといわれていた。 新聞の報道は、これまでの考えを、くつがえすものであった。 このように、新しい発見のたびに、従来の考えは、あらためられていく。 そして、ほとんどのばあい、古代人は、それまで考えられていた以上に、高度な生活を 行っていたことが明らかになる。 この本、『POPな古代史』は、できるだけ新しい知識もとりいれるようにしながら、 無土器時代からはじまって邪馬台国時代をへて、畿内大和に政治権力が成立するころまで の様子を、わかりやすく、そして、興味がもてるようにまとめたものである。 この本は、古代にあこがれるロマンの心にこたえながら、神秘主義におちいらないよう、 古代史についての基礎的な知識や、考えるワク組みを提供するものである。 |
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