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第280回特別講演会
土器から見たホケノ山古墳と箸墓古墳
関川尚功先生


 

1.土器からみたホケノ山古墳と箸墓古墳                 関川尚功先生

■土器の編年について

土器は地味な遺物だが、遺跡を発掘すると遺物の9割以上が土器である。

土器は、遺跡の年代を知る手がかりなので土器の編年が重要。編年は若い人がやることが多い。

編年に用いる土器は集落から出たものが良い。

「ふだんづかい」のもであり、古い土器と新しい土器が混在するので、ある年代の土器だけというピュアな状態ではない。

貯蔵庫のような遺跡があれば一番良い。そこで完型の壺や高坏などが見つかると理想的であるが、実際はゴミためのような遺構ばかりで貯蔵庫のようなの例はない

発掘される土器の数は少ないので、編年するのが難しい。量的には溝のような場所からの出土が多いが、溝では下の土器と上の土器が混じることがあるので注意が必要。

河川から出た土器は、流れによって新旧の土器が混ざってしまうので編年は難しい。

生産が中止になってもしばらくは使われ続けるので、土器の製作期間と使用期間は厳密に言うと異なる。この特性を考えると、土器の年代を何世紀の何年ごろなどとはっきり言うのは難しい。

古墳から出た土器は、次のように区分して考えなければならない。

編年用としては、古墳の構築時に供えられた土器や副葬品がベストである。

古墳の周濠から出てくる土器は、大体の時期は分かるかもしれないが、いつだれが捨てたかわからない素性不明のものである。

盛り土からも土器が出てくる。これらも周濠の土器と同様にある程度の目安にはなるが、編年用として用いるのには問題がある。

埴輪が出土するときには土器に不足を埴輪で補う。埴輪は古墳の完成前後に供献された物なので、この年代が判れば古墳の編年に大変有効である。しかし、埴輪は集落からは出て来ないので、土器との比較ができずむずかしい面がある。

過去に生産された物のうち、考古学的な遺物として見つかるのは数%であろう。盗掘や災害で失われた物もあるので時間が経っても100%見つかることはない。考古学者はほんのわずかな量で年代の推定などをしている。

遺物が少ないことによる難しさがある。たとえば、古墳の年代が布留式と庄内式のように2つの土器形式にまたがることがある。土器の出土数が少ないと、どっちの時期か間違える場合もある。一個や二個での判断は危ない。

このような事情で、現在の土器編年が完全なものとは言えないが、大枠でははっきりしている。

■纒向古墳群の周辺の古墳分布

ホケノ山古墳と箸墓古墳とは大変近い距離にあり、300メートルぐらいしか離れていない。このすぐ北側に纒向古墳群が広がっている。

纒向古墳群は1キロ四方といわれているが、山側から何本か出ている尾根の上に築かれており、べったり遺跡があるわけではない。尾根と尾根の間は川になっている。

吉野ヶ里のように環濠で囲まれた大集落とは少し様子が異なる。



■ホケノ山古墳

長方形の木槨の周囲に石を積んで囲ってある。木槨の周囲に11個の壷が発見された。これらの土器は古墳が築造され直後に埋葬施設に供えられたものである。

布留式土器である小型丸底土器も出土している。小型丸底土器は、壺の下になっていたのもあることから、壺と同時期に共伴されたものである。



小型丸底土器は、口縁部が開いた典型的な布留式土器である。庄内期にはまったく出土しないことから、庄内期と布留期を分ける指標として活用される土器である。

個体差が大きい。規格品ではないので作り手の個性が出る。村によっても違ってくるので同時期の土器であっても微妙な差が現れる。

須恵器になるともっと規格化される。

庄内期にはまったく出土しない小型丸底土器が出土しているので、土器から判断すると、ホケノ山古墳の築造は布留式の古い時期である(布留1式)。

11個の壺を観察すると、個体差が大きく、定型化する前の庄内期のものである。二重口縁のかたちや円形斑文(2の壺など)の装飾などをみると、庄内式の最初のころのデザインの壺であるが、5や6の壺は、庄内の新しい時期のもので布留式期まで続くデザインである。

壺だけから見ると、庄内から布留にまたがる時期である。小型丸底土器があるので布留期と判断できるが、これがなければ、庄内期と誤認する可能性もある。

弥生時代は長い期間続いたので、布留式が出現したときに、全てがすぐに布留式になったわけではない。古い庄内式の土器も引き続き使用されていたのである。
 
■箸墓古墳

周濠から出た土器についての議論もあるが、周濠の土器は得体の知れないものである。箸墓では墳丘から土器や埴輪が発見されているのでこちらに注目する。



前方部から出た二重口縁壺は形がそろっていて、いわゆる定形化された壺である。

定形化された壺は、桜井茶臼山古墳、古市場胎谷遺跡、葛本弁天塚古墳、東殿塚古墳などからも出土しており、「茶臼山型の壺」とも呼ばれている。



定形化された壺は庄内期の遺構からは出土しない。布留期に制作されたものである。

箸墓古墳とホケノ山古墳を比べると、土器形式の範疇ではほぼ同じである。古墳の型式としては、ホケノ山古墳は竪穴式石室ではないので、箸墓よりは古い要素を残しているが、築造年代については、小型丸型土器が出ているので、布留式の中で考えなければならない。

結論的にいうと、箸墓もホケノ山古墳も布留式の古い時期(布留1式)の前期古墳であり、これより古くはできない。

ただ、箸墓(全長280m)とホケノ山古墳(全長80m)では、大きさがまったく違うので、古墳の内容として同列には考えられない

■埴輪について

古墳の発掘をしないと土器は出ないが、埴輪は、発掘しなくても古墳の表面で採取できることが多いので、土器の話を埴輪で補足してみたい。

箸墓古墳からは普通の円筒埴輪は出土せず、吉備の特殊器台が発展したものとされる特殊埴輪しかでてこない。

円筒埴輪は、特殊埴輪と比べると形状がシンプルである。突帯を廻らし、口縁がストレートで側面には丸や四角などのシンプルな孔が開いていて文様はない。

特殊埴輪は、足部を踏ん張り、特殊器台で壺を載せていたなごりのような口縁部を持つものがおおい。

全長200mを越える古墳で特殊埴輪だけを出土するのは箸墓だけである。70mほどの葛本弁天塚古墳も特殊埴輪だけを出土する珍しい例である。ほかには、特殊埴輪だけを出土する古墳は見つかっていない。

中山大塚古墳、西殿塚古墳、東殿塚古墳では、特殊埴輪と普通の円筒埴輪の両方が出てくる。特殊埴輪と円筒埴輪の中間的なものもある。

中山大塚古墳から出ている埴輪は、口縁部が広がり特殊埴輪に似ているが、文様が無いので、円筒埴輪の範疇のものである。

西殿塚古墳から特殊埴輪のようなものが出ているが、文様がないので特殊埴輪とは言えない。

東殿塚古墳からは前期前半の特徴である耳のような突起を持つ特殊埴輪が出ているが、前期後半の特徴である楕円形の円筒埴輪も出土している。

メスリ山古墳からは2mもの大きな円筒埴輪が出てくる。小型丸底土器が出土していることから布留T式の時代である。

箸墓古墳からは前期の前半のものとされる特殊埴輪しか出なかったが、特殊埴輪と円筒埴輪の両方が出土する古墳を見ると、古い特徴を持つ特殊埴輪と前期後半の特徴を持つ円筒埴輪が共存していたり、埴輪そのものが定形化されていないことなどから、前期前半は、ごく短い期間だったと思われる。

前期前半は古墳の数も少なく、期間的には布留T式の中にすっぽり収まってしまう

いっぽう、前期の後半とされる古墳はたくさんある。後半の埴輪は定形化されているのが特徴である。



2.ホケノ山古墳                                安本美典先生

■土器の編年

現在の考古学者は、ホケノ山古墳は250年頃と言っているが、関川さんはホケノ山 古墳は300年以後であると述べており、年代が大幅にくい違っている。

土器の編年の流れを整理すると、1980年代の前と後で、多くの考古学者が土器の年代を古いほうにずらしてきていることが判る(表1、表2参照)。

たとえば、佐原眞氏の1968年のデータでは、庄内式は300年ごろで、布留式はそこから数十年後と見積もっている。

石野博信の1973年のデータでは、纒向2式の庄内1式が300年よりややあと、纒向4式の布留1式は、3百数十年と見積もっている。

しかし、1980年代の半ば以降を見てみると、多くの学者が庄内式を200年代前半にまで古くしている。

そして、寺沢薫氏の2000年のデータでは、庄内式が200年、布留式が2百年代末になっている。

また、柳田康雄氏の2004年のデータでも、庄内式が200年、布留式が240年ごろに持ち上がっている。

このような傾向に対して、森浩一氏は1994年の時点で「最近は年代が、特に近畿の学者たちの年代が古いほうへ向かって一人歩きしている傾向がある。」と述べている。森氏がこのようにのべた意味は、どうもこれはおかしいのではと、暗に言っているのである。

このように年代が古くなっていく現象は、多くの考古学者が、年輪年代や炭素14年代で得られた古い年代を、深く吟味せずにすぐに取り入れたことによると思われる。




年輪年代法は木の伐採時期が分かるのであって、古墳や建物の築造時期を表すものではない。 木は、水分や油分を抜くために長期間寝かせたり、数百年後に再利用されたりするので、伐採してから大分年数を経てから利用することが多い(下表)。



■ホケノ山古墳

ホケノ山古墳については、2001年に『ホケノ山古墳 調査概報』が、2008年に最終報告である『ホケノ山古墳の研究』が、いずれも橿原考古学研究所(橿考研)から刊行されている。

注意しなければいけないのは、これらの報告書の内容は橿考研の統一見解ではないことである。各研究者の研究結果を重んじているので矛盾する内容が含まれている。

橿考研の河上邦彦氏は『調査概報』のまとめで次のように述べている。

ホケノ山古墳の年代を3世紀中頃とするのも整合性があると考える。

3世紀中頃の築造年代は推定できる。

関川尚好氏とは、100年も違う年代である。

『調査概報』では、ホケノ山古墳の資料がC14年代測定されたデータが掲載されている。このデータが非常に古い時代を指していたので、さまざまな議論があった。

河上氏は、この中のAD30-245年というデータに注目し、ここからホケノ山古墳の築造年代を3世紀中頃とした(下表)。



しかし、同じ報告書の「木簡の炭素14年代測定」のところで、今津節生氏は、

C14年代測定値の信頼度は、現在の考古学年代の精度(土器や鏡の年代観)からすると、まだまだ不十分で参考程度にしかならない。

と述べ、炭素14年代測定の執筆者が、炭素14年代に簡単に飛び付くのは危ないと書いている。

また、桜井市教育委員会の橋本輝彦氏は、

(ホケノ山古墳の)構築の年代については土器以外には墓壙・棺内から副葬品が見られなかった ため、土器の年代に頼らざるをえないが、墳丘や周濠にともなって出土した土器の年代 と大きく齟齬することのない布留0式期新相から布留1式期にかけてのものと考えている。

この土器群は布留0式期新相から、布留1式期にかけてのものと考えられ、木簡直葬墓の周辺から出土していることや、時期が一致することなどから、あるいは墓壙の供献されたものかも知れない。

つまり、橋本氏は布留1式の物が含まれていると判断しているので、築造年代は古墳時代の布留1式期であることを意味している。

昨年、最終報告の『ホケノ山古墳の研究』が橿考研から刊行されたが、この中で、河上邦彦氏は相変わらず次のように同じことを述べている。

ホケノ山古墳のこの年代(3世紀中頃)に対して、一部から実年代はさらに新しいのではないか、との指摘がある。

その根拠は、埋葬施設内に4個体分ほど存在していた土師器である。これは、かつて「ホケノ山古墳調査概報」でも記してあるように、極めて布留式の小型丸底坩によく似ている。

私は、これは後世の混入とみている。

埋葬施設内に新しい時期の土師器坩が混入するはずがないと考えるかも知れないが、すでに埋葬施設の構造のところで記したように、古墳の墳頂に石積みの方形檀が存在した。この壇は、墳頂にあって露出していた。内部の木製部分が腐食するとともに、石の落下があり、石の表面に置かれていたものが落ち込むのである。

検出された木柱の痕跡などから、相当長い年月を経なければ木は腐食しないと考えてよい。 おそらく、この新しい時期の小型丸底坩が置かれていた頃には未だ方形壇が維持されていて、その後に方形壇の周辺に置かれていた二重口縁壺などと同時に落下したものと考えられる。

布留式の小型丸底坩は、ホケノ山古墳の周濠内に堆積していた土師器中にも同時代のものが多いことから、後世に方形壇上のこの坩を置く機会があったことが窺える。

埋葬施設内にあった11個体の二重口縁壺の全てが同時代の庄内式土器であり、わずかな布留式の坩は、混入と考える以外にないと思う。

しかし、『ホケノ山古墳の研究』には、河上邦彦氏の見解を否定するようなデータが掲載されている(下表、および、第277回講演記録参照)。



このデータは、ホケノ山古墳の築造が4世紀であることを示しており、関川尚好氏や橋本輝彦氏の主張と整合している。

『ホケノ山古墳の研究』のなかで、「ホケノ山古墳の時期的な位置づけと前方後円墳の出現」を執筆した水野敏典氏は、ホケノ山古墳の築造年代について次のように述べる。

鉄鏃、銅鏃型式の編年上の位置づけとともに個々の副葬品の類例や特徴を概観した。その結果、古墳時代前期に通有でない型式を多く含むが、類例は基本的に古墳時代初頭から前期前半に求められ、古墳時代の技術系譜の中で理解可能である。

そして、弥生時代墳墓に特有な副葬品は確認できず、現状では特に新相の副葬品を確認できないことから、先の鉄鏃の分析における側面分類 i 類出現期との解釈と整合する。

副葬品からみる限り、ホケノ山古墳の年代は古墳時代初頭と考える。

要するに水野敏典氏はホケノ山古墳は古墳時代のものと述べているわけで、同じ報告書の中で河上邦彦氏とは異なる見解を示している。

また、石野博信氏は、ホケノ山古墳から箟被(のかつぎ)のついた銅鏃が出土したことを述べている。

このタイプの銅鏃は比較的新しい時代の物で、前期古墳の後半で布留T式以降と考えられている。

箟被(のかつぎ)つきの銅鏃が発見されたことにより、発掘当初から、ホケノ山古墳は新しいのではないかと見る専門家もいて問題になっていた。

これも、ホケノ山古墳の築造を布留1式期の4世紀と見れば説明がつく。

以前、箸墓古墳の周濠から輪鐙(わあぶみ)が出土して話題になった。この輪鐙について桜井市埋蔵文化センター発刊の図録は「箸墓古墳の輪鐙は出土した層位から、布留T式期のものと考えていますが……」と記している。

馬具が出てくる時期は、400年以降である。布留T式の層で馬具が出たと言うことは、布留T式の時代は、あまり古くはできず、400年に近い時期と言うことになる。

3.対談

安本:
石野博信氏はホケノ山古墳は庄内式の中葉と述べた。また、寺沢薫氏はおそらく箸墓古墳を布留0式の古相とみておられる。

布留0式は布留1式の一つ前の段階なので人によっては庄内式ということになるかも知れない。

石野先生の見解についてどう考えるか?

関川:
ホケノ山古墳からたくさんの庄内式の壷が出土したが、石野先生はこの壺から判断していると思われる。これらの壷は定形化する前の古いタイプとともに、庄内式の新しいものもあり、年代の幅が広い。数が多いことから石野氏は中葉と考えたのでしょう。

安本:
古いもの、新しいものなどいろいろの年代が出てきたのなら、新しい年代のもので 判断すべきとおもうのですが。

関川:
原則的にはその通りです。壺がこれだけきれいに出てきているので壺の問題を重視したいという思いがあったのでは。

安本:
非常に答えにくい質問だと思うが、河上先生の小形丸底土器がどこかからまぎれこんだという話はどう思いますか?

関川:
土器をやっているものからみてこの二つの土器が同時に出ることはそうそうあるもの ではない。河上さんの土器の常識から考え、これはちょっとおかしいのではないかと思うのは 分かる。

混入も考えられるのではないかと言ったのではないか。

ただ報告書を見ると、同時偏在であると担当者が言っているので、混入の可能性はない と見た方がよい。

安本:
年代を古く持っていく考古学者が多い中で、関川さんはたいへんオーソドックスに判断されていると思うが、寺沢氏の箸墓古墳は布留0式の古相という判断についてはいかがですか?

関川:
箸墓古墳の前方部の裾を調査したとき布留0式の土器がたくさん出た。その出方をみて、寺沢さんは箸墓古墳の築造時期にかなり近いと判断したのではないか。

私は周濠から出た土器しかなければこれで判断するが、墳頂に築造直後に供えられた土器もある訳だから、これで判断すべきだと考える。

会場からの質問A:
箸墓古墳から丸底土器が出たのでしょうか?

関川
箸墓古墳からは出ていません。

会場からの質問B:
最近の年輪年代測定のデータによると、須恵器が出てくる古墳の年代が早まっていて4世紀代の可能性さえあるように見える。30年ほど前の関川先生の著作を読んだが、須恵器が早まっていることに関連して、布留式、庄内式の年代について、そのころと現在では先生の年代観は変わっていないか。

関川:
須恵器は、土師器や弥生土器と違って、非常に細かい。須恵器が日本に伝わって5世紀の後半に定形化する。稲荷山古墳の時期から出てくるが、窯の数も少ない。須恵器は5世紀の前半といわれる古墳からほとんど出ないので、須恵器はそんなに古くないと思う。

安本:
須恵器と布留式土器は併行して使用されていたが、外来の須恵器の年代が繰り上がると、布留式土器の年代も繰り上がって古くなるのか。

関川:
須恵器が出る段階は、土師器も輸入される。日本の土師器ががらっと変わる。 須恵器の年代が古くなっても、布留式土器の年代は変わらないのではないか。



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