- 学界での発表・検討のまえになぜマスコミ発表を急ぐのか。
歴博は有力な反証が現れると、追加調査などを行わずにこれを無視し、ただちに、マスコミを使って新たな事実が見つかったように報道を行い、他の説をつぶそうとする。
科学は検証によって成り立つものであるが、歴博はマスコミ報道の宣伝力で正しさを
証明しようとしているようにみえる。
考古学者の森浩一氏は、発表前に世論の操作を行おうとする歴博のこのようなやり方を、「研究者としてやり方が卑劣です」と怒りを顕わにしている。
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昨年、橿考研が発刊した報告書『ホケノ山古墳の研究』には、歴博年代論と明確に矛盾し、歴博年代論を否定する重要な測定データが掲載されている(下図)。
歴博はなぜこのデータに触れないのか。
このデータだけをとっても、歴博の主張はほぼ完全といってよいほど崩壊している。歴博仮説は5%以下の危険率で棄却できることになってしまう。
下表は、橿考研の奥山誠義氏が、ホケノ山古墳の樹齢15年ほどの若い小枝を資料にして炭素14年代を測定したデータ(右図)をまとめたものである。
表内の下線部で示されるように、小枝は320年〜400年ぐらいの年代である可能性が高い。
すなわち、ホケノ山古墳の築造は4世紀である。
寺沢薫氏によると、ホケノ山古墳の土器は、庄内3式であるとする。
つまり、布留0式より一つ前の土器型式である庄内3式の土器の年代が、320年〜400年ごろということになる。
この結果は、布留0式土器の年代を240〜260年とする歴博の主張が成立しないことを意味している。
左図のように、歴博は、布留0式土器の年代を240〜260年とするために、庄内3式の年代を200年〜210年ごろに持っていく。
しかしこれは、上述のホケノ山古墳のデータと矛盾し、成立し得ないものである。(危険率5%、あるいは1%で棄却される)
- 箸墓古墳の年代を、西暦350年ごろにもっていってもさらにうまく説明できること。
歴博は、箸墓の年代を250年ごろとしているが、較正年代のグラフをよく見ると、箸墓のデータをうしろに100年ぐらいずらしても当てはまるエリアがある。
他のさまざまなデータを考慮すると、むしろ、この新しい年代のほうが適しているように見える。
歴博は、100年ほど後にずらす考えについて、「考古学的にありえない」として退けている。
しかし、橿考研の考古学者関川尚好氏などは、30年以上まえから一貫して「考古学的にあり得る」ことを主張している。
このような見解を問答無用で切り捨てるのはおかしい。歴博は、きちんと説明するべきである。
- 土器付着炭化物は年代が古くでること。
歴博は土器に付着した炭化物を試料として多く用いている。
新井宏氏が歴博発表のデータについて原典に当たり調査した結果(下表)、そのほとんどが土器付着物であった。
しかし、土器付着物は他の資料よりも炭素14年代が古く出ることを北海道埋蔵文化財センターの西田茂氏などが指摘している。
現在のところ、その理由は明確に分かっていないが、以下に示すように、土器付着物が古く出るデータが多数報告されている。
下の表3、表4は、江別市の縄文晩期の遺跡である対雁(ついしかり)2遺跡の土坑から発見された焼けたクルミなどを、西田茂氏が炭素年代法によって年代測定をおこなった結果である。
明らかに、土器付着物は他の試料に比べて、数百年古い年代を示している。
纏向の東田大塚古墳や矢塚古墳の出土物でも同様に土器付着物が古く出る結果が得られている。
西田茂氏は、土器付着炭化物は、これを試料とした年代測定で、同じ時期のクルミや炭より年代が古く出るので、試料として適していないと述べる。
このような批判が数多くあるにもかかわらず、歴博はあいかわらず土器付着物を試料として使い続けている。
橿考研が2001年に『箸墓古墳周辺の調査』という報告書を出しているが、そこには箸墓古墳から出た桃の種(桃核)の炭素14年代測定結果が報告されている(下表)。
土器付着物は、桃の種よりも100年ほど古い年代を示している。
箸墓の桃の種は、4世紀中頃のものである可能性が大きい。
ここでも、箸墓の築造年代が4世紀であり、築造を240〜260年ごろとする歴博の主張は成立しがたいことが示されている。
庄内式期〜布留1式期で、公表されている全データをまとめてみた(下表)。
やはり、土器付着炭化物は年代が古くでることが分かる。
この表で、桃の種(桃核)と土器付着炭化物の年代に、偶然以上の違いがあるか統計学的に検定してみると、1%水準で偶然とはいえない違いがあるという結果になった。
つまり、土器付着物は明らかに桃の種より年代が古く出る。 桃の種は、明らかに土器付着物よりも新しく出る。 これは偶然ではないということである。
西田茂氏は、土器付着物について次のようにも述べている。
「炭素14年代は、地球規模での物理現象から得られる数値である。生物が生きた証しとしての生成物であり、数値でもある。
ところが、土器付着物は何によって生成されたのか、未解明の物質であり、試料としての妥当性を欠くものである。
私のみるところ複合汚染としか形容できない物質であり、『増長効果』(年代が古めに増長される効果)を引き起こし易い試料である」
警告は何度も出されているのである。
- Aポイント(下図の較正曲線で凹んでいるところ)を、なぜ布留0式から、布留1式の
上限に変えたのか。
Aポイントは、東田大塚壕埋没の木材のデータである。
昨年の歴博発表では、この凹んでいる部分を布留0式とし、箸墓古墳にあてはめていた。そして、これを
前提に多くの論文が発表された。今回の発表では、ここが「?」付で布留1式とされている。
これは、箸墓古墳出土の土器を布留0式とする寺沢薫氏の主張と整合させ、その年代を240〜260年の間に収めるための変更と思われる。箸墓を240〜260年の間にするためには、Aポイント(270年)が布留0式では都合が悪い。箸墓を古く見せるために、ここを布留1式に変更したように見えるのである。
この変更で、昨年の発表の多くの論文と矛盾を生じるが、これをどう説明するのか。去年の論文はすべてキャンセルするのか。その場限りの場当たり式の発表としか言いようがない。
また、歴博が箸墓古墳の土器が布留0式とするのも問題で、橿原考古学研究所の関川尚功氏は布留1式としている。
Aポイントや、ホケノ山の小枝のデータが、新しいBP年代(グラフで下側)で示されているのは、これらが、土器付着物ではないからである。
これらの点の実年代をこの位置に置く根拠は全くない。ホケノ山を350年付近、東田大塚を400年付近にプロットするのが妥当である。
- 炭素14年代測定は、もともと測定誤差が大きい。
西田茂氏は、ひとつのクルミを20個に分割して、炭素14年代の測定を行った。
その結果は、ばらつきが大変大きく、実年代に換算すると、たったひとつのクルミの年代の最大幅が400年にもなる可能性のあることが判った。
このように、炭素14年代法はもともとばらつきが大きく、精度の点でも問題が多い。
測定には慎重行う必要があるのに歴博はその点の配慮がなされていない。
「歴博の発表が考古学協会で共通認識になっているのではありません」と、報道関係者に異例の呼びかけを行った発表会の司会者、東海大学教授の北条芳隆氏は、
ご自身のブログでも、歴博の発表がおかしいことを次のような言葉で記している。
「私がなぜ歴博グループによる先日の発表を信用しえないと確信するに至ったのか。その理由を説明することにします。」
「問題は非常に深刻であることを日本考古学協会ないし考古学研究会の場を通して発表したいと思います。」
「彼らの基本戦略があれだけの批判を受けたにも関わらず、一切の改善がみられないことを意味すると判断せざるをえません。」
「彼の返答は、どこかに『ごまかし』が含まれているものと受けとめざるをえなかった次第です。」
歴博の発表はどこかおかしいと多くの研究者が気づき始めている。
昨年11月に、橿考研からホケノ山古墳の研究報告が発刊され、その中で、出土した小枝の炭素14年代測定のデータが、古墳の築造が4世紀であることを示していた。
これは、今回の歴博の箸墓の年代の有力な反証である。歴博は、自分たちの結論と異なるこのようなデータについて、なんらかの見解を示すべきである。
歴博は、当然、橿考研の発表を知っているはずだし、その試料を取り寄せて再調査なり、追加調査なりを行える立場にある。にもかかわらず、歴博はそのような作業を一切行わないし、今回の発表でも、ホケノ山古墳や西田茂氏のデータなど、都合の悪いデータにはまったく触れようとしない。
ある新聞記者が、橿考研のホケノ山のデータについて歴博に質問したときに、「あれは他の機関がやったことですから」という回答があったそうである。
他の機関の成果は無視して自分たちの研究を進めるというスタンスならば、宣伝力の強いほうが勝ちである。たくさん新聞発表ができるほうが勝ちである。
科学やサイエンスはPRや宣伝によって決まるものではない。証明によって決まるものである。証明を行わずマスコミ宣伝に頼るアプローチは誤りである。
なぜ、歴博は証明や追跡調査などを行わないのか。 たぶん、その結果を恐れているのであろう。
有力な反証が現れると、ただちにマスコミを通じてそれを圧倒するように新事実の発表を大々的に行う。反論や反証を封鎖するようなマスコミの大宣伝は、旧石器捏造事件とたいへん似通っている。