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第290回講演会
古代年代論批判(1)  「鏡はいつ作られたか」


 

1.画紋帯神獣鏡

画紋帯神獣鏡は文様に多くのバリエーションがあり、必ずしも定義が明確ではない。

いろいろ変形があるので、人によって画紋帯神獣鏡に含める鏡が若干異なることがある。

画紋帯神獣鏡で、画紋帯の代わりに文字があるもの(銘帯神獣鏡と呼ぶ人もいる)、 「神」の代わりに「仏」の文様のもの(画紋帯仏獣鏡)、これらは画紋帯神獣鏡に分類する。

範囲を広げていくと際限がないので、どこかで境界を決めておく必要があり、安本先生は、「神」がなくて「獣」だけのものは画紋帯神獣鏡に分類してない。

三角縁神獣鏡は中国から1枚も出ていないので、畿内説の学者でも、これを卑弥呼の鏡とするには問題があると思うようになった。そこで、三角縁神獣鏡ではなく、画紋帯神獣鏡こそ卑弥呼の鏡とする主張が現れた。

「画紋帯神獣鏡」の分布を見ると、日本では近畿から73面、九州から21面出土しており、近畿から多く出ている。

中国では湖北省から86面、浙江省から46面出土しているが、卑弥呼が使いを送った洛陽のある河南省からは2面しか出ていない。

画紋帯神獣鏡は黄河の流れる中国の北の地域より、南の方の揚子江の地域と関係していると云える。

なお、河南省の2面については、鏡の写真集ではなく『洛陽考古集成』という論文集を精査して見つけたものだが、1面は6世紀の墓から出土したもの、もう一面は300年ごろの洛陽晋墓から見つかった鏡で、いずれも、卑弥呼の時代よりもかなり後の時代のものである。

わが国の近畿(とくに奈良県大和)を中心とする勢力は中国の華南とつながる形をしている。倭人が洛陽に都する魏王朝から、「三角縁神獣鏡」や「画紋帯神獣鏡」をもらったとすれば、神獣鏡のほとんど出土しない地域の皇帝から敵国呉系の神獣鏡を多量にもらったことになる。これはおかしい。



日本の場合、神獣鏡は古墳時代の遺跡から出土している。埼玉県の稲荷山古墳、熊本県の江田船山古墳などからの出土例のように、あきらかに五世紀以後の古墳から出土している例がある。

中国では、316年に西晋から東晋に変わり、都が洛陽から揚子江付近の建康(南京)移った。 日本で神獣鏡がたくさん現れるのは、晋の都が神獣鏡の分布の中心である揚子江下流域で営まれるようになった後のことではないか。

倭国は中国南部の東晋と交流し、このときに中国南方の鏡である神獣鏡が日本に入ってきたのではないか。

邪馬台国畿内説の人が説くほど画紋帯神獣鏡は古いものではない。魏の時代より新しいのではないか。

岡村秀典氏、樋口隆康氏、などの鏡の専門家の書いた本は、はじめから卑弥呼のもらった鏡は三角縁神獣鏡である、あるいは、画文帯神獣鏡であるという前提ですべて書かれている。

彼らの本では、中国の南と北で鏡の出方が違うことは全く無視されているので注意が必要である。

現代中国の考古学者の王仲殊氏や徐苹芳氏は「三角縁神獣鏡や画紋帯神獣鏡などの 神獣鏡は卑弥呼が魏からもらった鏡ではない。」と繰り返し言っている。

中国の社会科学院考古学研究所の所長であった王氏は「中国の平縁神獣鏡はどの種類で あれ、すべて南方の長江流域の製品であって、北方の黄河流域のものではなかった。 それは長江流域の呉鏡であって、黄河流域の魏鏡ではない。」と言っている。




2.位至三公鏡、蝙蝠鈕座内行花文鏡

位至三公鏡は「位は三公(最高の位の三つの官職)に至る」という銘のある鏡である。 鈕をはさんで、上下に「位至」と「三公」の銘文をいれ、内区を二分する。

左と右とに、双頭の獣の文様を配する。獣の文様はほとんど獣にみえないことがある。 小形の鏡。双頭竜鳳文鏡の系統で、双頭竜鳳文鏡にくらべ獣の文様がくずれている。

位至三公鏡の分布はわが国でも中国でもある程度の出土数がみられ、傾向をつかみ やすい。洛陽晋墓の発掘からあきらかなように、中国ではおもに黄河流域、とくに 洛陽(東都)西安(西都)に分布の中心がある。

日本では北九州に分布の中心があり、大阪府などに広がっている。 大阪府の位至三公鏡は古墳時代のもの。

洛陽晋墓から8面の位至三公鏡が出土し、同時に、太康8年(287年)、元康9年(295年)、永寧2年(302年)などの墓誌が出ている。

洛陽晋墓の位至三公鏡は、流行した年代をほぼ決定できる鏡としてたいへん重要である。

位至三公鏡は、墓誌などにより年代のわかるものはほぼすべてが西晋のものであることが 注目される。

下の2つの表に示した27面の「位至三公鏡」のうち26面までが西晋時代のもので ある。

位至三公鏡の盛行は、ほぼ西晋時代(265〜316)の短い期間であったことがわかる。
 


  中国出土の「位至三公鏡」の年代 (墓誌による)
時代年代出土地(直径)
西晋285年山東(記載なし)
西晋285年山東(記載なし)
西晋285年江蘇(9.8cm)
西晋286,288,289年遼寧(8cm)
西晋287年浙江(8.3cm)
西晋289年遼寧(8cm)
『洛陽考古集成』の中に「洛陽晋墓の発掘」という論文がある。この論文の内容は、次の点で大変重要な意味を持つ。
  • 上述のように、8枚出土した位至三公鏡の年代が、墓誌によって西暦300年前後であることが決定できること。

    日本では、この鏡は北部九州で多数出土するが、奈良県からは出てこない。すなわち、西暦300年ごろは、洛陽と交渉していた日本の勢力は北部九州を中心とした勢力であり、奈良県の勢力ではないと判断できる。

  • 洛陽晋墓から、王莽が西暦14年に発行したとされる「貨泉」が出ていること。

    大阪から貨泉が出てきていることから、畿内の土器の編年を、貨泉が発行された西暦14年を拠り所にして行っている。

    しかし、この方法は、貨泉が日本に来るまでにどのくらいの時間が経過しているのか判らないので、もともと問題がある。

    300年前後の洛陽晋墓から50枚以上の貨泉が出土したことは、貨泉がこの時代まで流通していたことや、王莽の時代以降も、私鋳がかなり行われていたことを示している。

    すなわち、貨泉が出たからと言って西暦14年という王莽の時代の貨泉の年代に依拠するのは非常にあぶない。つまり、これを拠り所にした近畿の土器編年は、根拠を失ってしまったのである。

  • 晋の時代のモノサシが出土したこと。

    これにより、この時代の1尺が24cmであることが判った。

    古代の天皇の在位期間が平均約10年とすると、この時代の日本は崇神天皇の治世である。崇神天皇の陵墓の全長は、240mで、晋の尺度でちょうど千尺に相当する。
蝙蝠鈕座内行花文鏡についても、位至三公鏡と同じようなことが言える。
  • 中国では、おもに黄河の流域、洛陽(東都)、西安(西都)地区に分布の中心がある。

  • 日本では北九州に分布の中心がある。

  • 北九州を中心に分布する鏡(位至三公鏡や蝙蝠鈕座内向花文鏡など)は黄河の 流域、特に洛陽政権と関係があり、奈良を中心に分布する鏡(神獣鏡)は長江流域 政権と関係をもつ。
黄河流域(とくに洛陽)と長江(揚子江)流域では、鏡の出土傾向が大きく異なっている。

魏晋時代の洛陽出土鏡の特徴は「位至三公鏡」と「蝙蝠鈕座内向花文鏡」が多く出土 することである。

「位至三公鏡」よりも古い「方格規矩四神鏡」や「長宜子孫銘内向花文鏡」なども、北部九州から圧倒的な数が出土する。

中国の「位至三公鏡」は、洛陽晋墓の例に見られるように、西暦300年前後の墓誌のある墓から8面出土するなど、圧倒的に西晋時代のものが多い。

ここからは中国北方の洛陽政権と関係のある倭の勢力は、西暦300年前後まで、 福岡県にあったことがうかがえる。

地域黄河流域長江(揚子江)流域日本
場所魏晋時代の洛陽後漢時代の洛陽呉晋時代の浙江省後漢時代の浙江省鄂州奈良県
位至三公鏡と
蝙蝠鈕座内行花文鏡
20
神獣鏡2242143139
(三角縁神獣鏡と画文帯神獣鏡)
出典『洛陽考古集成』『浙江出土銅鏡』『鄂州銅鏡』既存資料
全調査





3.岡村秀典氏の鏡の年代論

京都大学人文科学研究所の岡村秀典氏や樋口隆康氏は中国鏡の専門家として知られている。

たしかに中国の文献を良く読んでおられるが、三角縁神獣鏡が卑弥呼の鏡であるという強い思いこみがあるため、全て文献をその前提で読んでしまうので大きな間違いを犯しているように見える。

ところがなにかあると、彼らが新聞やテレビに登場して自分たちの説が正しいことを述べる。

彼らの説は、全く正しくないと思う。

京都大学には、三角縁神獣鏡やlが紋帯神獣鏡は卑弥呼の鏡とする伝統があって、すべての研究がそれを前提に行われているようだ。

岡村氏は中国の漢・三国時代の鏡を次のように8期に大別している。

漢代400年間の鏡は、文様と銘文の流行の推移をもとに、およそ50年前後の目盛りでつぎのように大きく7期に区分する。
  • 漢鏡1期(前2世紀前半、前漢前期)
  • 漢鏡2期(前2世紀後半、前漢中期前半)
  • 漢鏡3期(前1世紀前半から中ごろ、前漢中期後半から後期前半)
  • 漢鏡4期(前1世紀後葉から1世紀はじめ、前漢末から王莽代)
  • 漢鏡5期(1世紀中ごろから後半、後漢前期)
  • 漢鏡6期(2世紀前半、後漢中期)
  • 漢鏡7期(2世紀後半から3世紀はじめ、後漢後期)
  • これに3世紀の三角縁神獣鏡をはじめとする魏鏡を加え、都合、漢・三国代の中国鏡を 8期に大別することにする。
鏡については、岡村氏の与えた年代を基準にしている考古学者も多い。とくに、畿内説の学者に多い。

岡村氏の分類は「相対年代」を与えるものとしては大略妥当のようである。たとえば、「漢鏡5期」とされる鏡は大略「漢鏡6期」とされる鏡の型式よりも早く発生しているようである。

しかし、「絶対年代」としては殆ど信用できない。

また、同じ型式の鏡でも、「踏み返し」によって、古く製作された鏡もあれば、すっと後の時代に製作された鏡もある。にもかかわらず、岡村氏は、同じ型式の鏡は、ほぼ同じ時期に鋳造されたとするような前提に基づき、かなり無理な議論も展開しておられる。

具体的に見てみよう。

■ 「漢鏡5期」の鏡の年代

福岡県糸島市の平原遺跡出土の鏡を取り上げる。

岡村氏は、平原遺跡出土の鏡について次のように述べる。

『後漢書』には57年と107年に倭人の朝貢が記録されている。平原一号墓の鏡群の年代はちょうどこの時期にあたる。

鏡の製作年代は57年の朝貢に近いが、いずれにせよ倭人の活発な朝貢が記録された時期に、それにともなって大量の漢鏡や素環頭太刀がまとまって輸入されたのである。

しかも、鏡がまとまった状態で平原一号墓に副葬されているから、墓の年代も後一世紀後半からあまり下ることはないだろう。

平原一号墳から出土した漢鏡5期の方格規矩四神鏡の31面には、定形化した型式のものから、方格の十二支銘が失われ、四神と瑞獣の組み合わせや配置がくずれた型式のものまでふくまれている。

年代の下限は、後一世紀後半にある。

(以上『三角縁神獣鏡の時代』による)

この文からわかるように、岡村氏は平原一号墳から出土した方格規矩四神鏡31面を「漢鏡5期」の鏡であるとし、西暦紀元後一世紀後半を下限とする鏡であるという。

しかし2000年の3月に前原市教育委員会から刊行された『平原遺跡』(「前原市文化財調査報告書」第70集)では、これらの鏡を製鏡であるとし、紀元200年前後のものとする。

つまり、岡村氏のほうが、150年ほど古く見ていることになる。

岡村氏は、「平原一号墓の築造年代も後一世紀からあまり下ることはないだろう」と述べているが、平原一号墓について柳田康雄氏は論文「平原王墓の性格」のなかで、3世紀前半以降としている。

また、福岡大学の考古学者、小田富士雄氏らも、『倭人伝の国々』のなかで、「平原(王墓)になると、これはもう邪馬台国の段階に入っています」と述べている。

平原王墓の築造年代についても、岡村秀典氏と、柳田康雄氏や小田富士雄氏らとは、150年程度は違う。

■ 「漢鏡6期」の鏡

岡村氏などの『倭人と鏡』(埋蔵文化財研究会1994年刊)によると、わが国出土の 位至三公鏡は、漢鏡6期(2世紀前半)か7期(2世紀後半〜3世紀はじめ)の鏡に分類される(下表) 。



しかし、上で述べたように、中国の位至三公鏡は、墓誌によって年代を知ることができる洛陽晋墓などから多く出土し、その年代は3世紀半ばから4世紀前半であることは明らかである。

岡村氏の見解よりも、100年ほど新しいのである。

『洛陽考古集成』掲載の19面の位至三公鏡を上の表にまとめたが、その内18面は西晋時代の鏡であるが、1面だけ後漢の時代のものがある。

この1面を根拠にして、位至三公鏡全体の年代を後漢の時代に持っていこうとするのは、正しい議論とは云えない。

位至三公鏡と同じ分布をする蝙蝠鈕座内向花文鏡の場合も、岡村氏は「漢鏡6期」や「漢鏡7期」に分類する。



蝙蝠鈕座内向花文鏡について、中国社会科学院考古研究所の楊泓(ようおう)氏は、「魏晋の時代にはいってあらわれる鏡である。」と述べている。

魏の国の成立は220年である。

つまり、楊泓氏は蝙蝠鈕座内行花文鏡を、おおよそ220年以後に現れる鏡であるとしていることになる。

いっぽう、岡村氏は「2世紀前半の漢鏡6期」とか「漢鏡6期前半の蝙蝠鈕座内行花文鏡」などと述べ、蝙蝠鈕座内行花文鏡の年代を、2世紀前半まで引き上げる。

楊泓氏ののべる年代と約100年食い違う。

獣首鏡という鏡がある。獣首鏡も、中国およびわが国で「位至三公鏡」や「蝙蝠鈕座内行花文鏡」とおなじような分布を示す。

岡村氏によれば、獣首鏡も「漢鏡6期(2世紀前半)」か「漢鏡7期(2世紀後半〜3世紀はじめ)」の鏡であるとする。(下表)



ところが、魏の時代の(甘露)5年(260年)の年号の入った「獣首鏡」が河北省の高碑店市から出土しているのである。

このことも、6期、7期の鏡が、岡村秀典氏のいうような、古い時代の鏡ではないことを示している。

岡村氏は、中国鏡の年代を次々にくりあげ、それに伴い、三角縁神獣鏡の年代も引き上げる。そうして、三角縁神獣鏡の年代を卑弥呼の時代の持っていくのである。

畿内説の学者でも、河上邦彦氏や白石太一氏、原口正三氏は、三角縁神獣鏡は卑弥呼の鏡ではないと述べている。

石野博信氏も「日本で400面近くも出土しているにもかかわらず中国から1面も出土しない鏡を中国と考えるのは論理的に無理がある。」、また、「三角縁神獣鏡はヤマト政権が弥生以来も祭式を廃止し、中国鏡をモデルとして4世紀にヤマトで創作した鏡なのである」と述べている。

九州説の森浩一氏や奥野正男氏などは、もちろん三角縁神獣鏡を中国鏡・魏鏡と認めてはいない。

中国を代表する考古学者の王仲殊氏や徐苹芳氏なども、三角縁神獣鏡を魏の鏡ではないとしている。

以上のように、三角縁神獣鏡を魏鏡とすることには相当な異論がある。したがって、三角縁神獣鏡=魏鏡を説くためには、詳密な論証が必要である。

ところが、岡本氏の議論では、その論証がほとんど抜けている。

岡村氏の本は、三角縁神獣鏡=中国鏡・魏鏡・3世紀の鏡ということが前提になって書かれているように見えるのである。


4.三角縁神獣鏡を作った人々

■ 三角縁神獣鏡の製作者

三角縁神獣鏡が国産鏡とすると、この鏡は誰が作ったのであろうか。

『古語拾遺』神武天皇の段に次のような記述がある。

「また、天(あま)の富の命(高皇産霊の命の子で、忌部氏の祖神)をして、もろもろの齊部(いんべ)氏をひきいて、種々の神宝、鏡、玉、矛、盾、木綿(ゆう)、麻(お)などを作らせた。」

また、崇神天皇の段には、「崇神天皇の時代にいたって、宮中にまつられていた天璽(あまつしるし)の鏡と剣とから天皇は威圧を感ずるようになられ、同じ宮殿に住むことに不安をおぼえられた。そこで、齊部氏をして、石凝姥(いしこりどめ)の神の子孫と、天の目一箇(まひとつ)の神の子孫との二神をひきいて、さらに鏡を鋳造し、剣を作らせて(レプリカを作らせて)、天皇の護身用のものとした。これがいま践祚する日にたてまつる神璽の鏡と剣である。」と記される。

これでみると、宮廷の祭祀をつかさどる氏族である忌部氏が、石凝姥の神の子孫(鏡作り氏)などをひきいて鏡を鋳造したという。

鏡作り氏は職業集団をひきいる伝統のあるリーダー氏族である。

鏡作り氏は各地の部民を指揮して鏡を作り、それを大和朝廷に貢納していたとみられる。

大和の国、伊豆の国田方郡にある鏡作り郷に加えて、各地にある香美(土佐)、各務(美濃)などの郡名や、覚美(摂津)、香美(美作、安芸、阿波)各務(美濃)などの郷名が部民の存在を示している。

鏡作り氏の首長は鏡作造(かがみつくりのみやつこ)であり、天武天皇の時代に連(むらじ)姓になっている。

鏡作り氏を中央で掌握していたのは、忌部氏であった可能性が高い。

忌部氏は祭祀具の製造に従事した氏族で、持統天皇の即位式では神璽の剣と鏡を奉った記録がある。

その後、忌部氏が中臣氏におされて衰えるにつれ、鏡作り氏も衰えたものであろう。

■ 鏡作り氏の役目

大化前代の4世紀を中心とする時代において、各地にいた鏡作り氏の役目は、およそ次のようなものであったと考えられる。
  • 各地で、鏡作り部という部民をひきい、鏡を製作し、作った鏡を、各地の大和朝廷 関係の豪族、あるいは、大和朝廷そのものに貢納した(生産品の貢納。貢納型の仕事)

  • 各地の鏡作り部の工人などが、交代で故郷をはなれて畿内に上番(勤務につき)、 中央で、大和朝廷の必要とする鏡を製作した。そのばあい、工人などの生活費などは、 出身地の鏡作り氏が負担する(労働の貢上。上番型の仕事)。

  • 中央の鏡作り氏は、渡来系の工人をかかえ、それらの工人の生活費などを各地の 鏡作り氏が負担する(資養型の仕事)
各地の鏡作り氏は、おそらく、この三つの役目を、ともにはたしていたのであろう。

各地の鏡作り氏に属する部民は、平生は、農民としての生活をし、製作した鏡の貢上、 または労働の負担をするかわりに、租税の一部が免除されたとみられる。

鏡作り氏の内部には、リーダ氏族と血縁関係のない人々(部民)も含まれていた。 部民とって伴造は君であり、伴造は世襲であった。伴造は各地で土地と人民を分有していた。

なお、東晋が建国し混乱したこの時代、食い詰めた東晋の工人が日本に渡って来て鏡を作った可能性がある。彼らは鏡作り氏などのリーダ氏族の配下に属し、身分はあまり高くなかったとみられる。

中国の官営手工業の現場で働く一般の工人は、身分は低く実質的に工業奴隷であった。中国では賎民であったが日本は良民の最下層であったと考えられている。

全国各地から上番した鏡作り氏の工人や渡来系の工人などを、中央でグループにして組織化したものが、大化前代の「品部(しなべ)」といわれるものとみられる。

品部としての鏡作り部という部民は、鏡作りという世襲的な職業を通じて、大和朝廷に 隷属していた。伴造にひきいられ、「鏡作り」という職業名をもつ部民であった。

鏡作り氏は「鏡作り」という職業の名を負い、これを世襲する氏を中心として、天皇に 従属し、国家のなかでの一定の身分を「造(みやつこ)」という「姓(かばあね)の 形でもち、天皇家の臣としての集団をなしていた。

各地で、皇族などの古墳が作られるさいには、鏡作り氏は、鏡を製作して納めたもので あろう。中央にも、納めたであろう。中央でも鏡は多量に作られた。また、中央や 各地の鏡作り氏のあいだで、情報や技術、製作物の流通・交換・があったとみられる。

三角縁神獣鏡のほとんどは、墳墓から出土し、明器(墳墓のなかに埋めるための、 非実用的な器物)とみられる。

三角縁神獣鏡は人が死ぬたびに、各地の鏡作り氏によって鋳造されたケースがきわめて 多かったとも思われる。現在のような大量生産ではなく、見本鏡をもとに鏡作りの 職人の手により鋳造されたケースがきわめて多かったと思われる。



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