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第295回講演会
 古代年代論批判(4)  自然科学的年代論の検討


 

1.中国で発見されつづける「三角縁神獣鏡?」

最近、中国で三角縁神獣鏡が発見されたという論文がいくつか雑誌に掲載された。

三角縁神獣鏡は日本では500枚以上発見されているのに対して中国からは1枚も出ていないというのが通説であった。

王仲殊氏などによれば、三角縁神獣鏡は、揚子江流域の平縁神獣鏡と三角縁画像鏡を足しあわせた特徴を持っている鏡である。

しかし、中国でも日本でも、三角縁神獣鏡そのものの定義が曖昧であり、三角縁神獣鏡の範囲を広げて三角縁画像鏡も含むようにすれば、中国でも三角縁神獣鏡がでたことになる。

以下の最近の中国の学者たちの議論は、おおまかにいえば、このような話である。

■『中原文物』2010年/4 総154期(河南博物館主辧)の雑誌に掲載された記事。

− 1本の帯で境をした欄をもつ同向式三角縁神獣鏡  王趁意−
  • この鏡の採集地は、現在は淮河の流域の魯の西南である。ここは三国時代には曹魏の琅邪国に属していた。

    黄河の下流域は、歴史上100回を上まわるほど河の流れが変わってきた。従って、この地域は古代の北方黄河流域に属していた。
    三角縁類の銅鏡は多く東漢(後漢)晩期から三国時代に到るころに流行していた。 この鏡も、まさに、この時期に属している。

  • この鏡と、日本の東之宮(とうのみや)古墳出土鏡を比較すると、多くの似ているところがある。

  • ここ数年のあいだに、洛陽を中心とする調査により、陸続として、東漢(後漢)晩期から三国西晋早期にいたる三角縁神獣鏡、三角縁竜虎仏飾鏡、三角縁笠松文神獣鏡、そして今回発見したような三角縁神獣鏡など、10余面の銅鏡が出現している。

    これは、まさに「漢魏の時期の洛陽地区が、日本の三角縁神獣鏡の源の地」であることを証明する学術的推論の助けとなるものである。


この記事では、中国で三角縁神獣鏡が次々と出現しているとの内容だが、日本の専門家の判断ではこれは三角縁神獣鏡ではないとうことなので、日本ではあまり話題にならなかった(下記参照)。

この記事についての安本先生のコメント
  • わが国からは、すでに550面以上の三角縁神獣鏡が出土している。しかし、中国本土、および朝鮮半島からは、これまでに、三角縁神獣鏡は確実なものとしては、ただの一面も出土していない。

  • 何年かに一度くらい、中国でも三角縁神獣鏡が出現したという報告書などがでて騒ぎがおきる。今年(2010年)はとくに、それが重なっている。そして、いつも、それは結局、三角縁神獣鏡ではない。ということにおちつく。今年も、またそうなりそうである。

  • 今年の4月に『中原文物』に掲載された河南省鑑定評估委員会の王趁意(おうちんい)氏の「一面帯界欄的同向式三角縁神獣鏡」に紹介された鏡は、樋口隆康著『三角縁神獣鏡新鑑』(学生社、2000年刊)に、「三角縁神獣鏡」としてのせられている愛知県犬山市(大字丸山字白山平)の東之宮古墳出土の鏡にきわめて近い鏡が中国で「採集」されているというもので、関係者を一瞬ハッとさせるものであった。

  • しかし、わが国の東之宮古墳出土の鏡は『三角縁神獣鏡研究辞典』(下垣仁志[しもがきひとし]著、吉川弘文館、2010年刊)や『大古墳展』(東京新聞、2000年刊)、『三角縁神獣鏡の研究』(福永伸哉著、大阪大学出版会2005年刊)などでは、「三角縁神獣鏡」として認められていない。

    「三角縁」ではなく、「斜縁」の「同向式神獣鏡」とされている。

  • しかし、「三角縁神獣鏡」と他の形式の鏡(斜縁神獣鏡、平縁神獣鏡、三角縁画像鏡[三角縁神人竜虎画像鏡など])との違いは、かならずしも、明確に定義されていない。そのため今後も、この種の騒ぎが、くりかえされる可能性がある。

  • これまでに、騒ぎとなったものは、いずれも、「三角縁神獣鏡」と他の形式の鏡との微妙な、境界線上にあるような鏡である。

    わが国でも、典型的な「画文帯神獣鏡」のふちに「三角縁」をとりつけたものであるとか(これはふつう「三角縁神獣鏡」のなかに含まれていない)、さまざまな、微妙な鏡が出土している。

  • これまでに、中国で「出現」し、問題になった鏡は、いずれも、「採集品」「購入品」などである。墓などから、出土状況が明確にわかるような形で、発掘されたものではない。

    この点も、日本では、三角縁神獣鏡の相当数が、古墳から発掘によって出土しているのと状況が異なっている。確実な発掘品にもとづいて議論すべきであるように思える。

  • 中国では「造旧」(にせの古物の製造)がかなり専門的な職業になっている国なので、この点も私たちを用心ぶかくさせる要素になっている。

  • 『日本古墳大辞典』(東京堂出版刊)によるとき、東之宮古墳の築造時期は、「4世紀の後半の築造と考えられる」とされている。

    このことも考えあわせると、中国で今回「採集」された鏡の鋳造年代がいつごろのものなのか、型式だけでは判断のできない要素がある。

  • 中国の考古学者、王仲殊氏によれば、日本の「三角縁神獣鏡」は基本的には、中国の「平縁神獣鏡と三角縁画像鏡」とを参照にしてつくられたものと言えるという。

    たとえば「典型的な三角縁神獣鏡」と「典型的な三角縁画像鏡」とのあいだには明確な違いがある。両者の境界線上の微妙な鏡が、いくつか発見されたとしても、それによってただちに、圧倒的多数をしめる何百ともいえる「典型的な三角縁神獣鏡」の由来が説明されたことにはならない。

    東之宮古墳出土の鏡は、わが国出土の550面以上の三角縁神獣鏡とくらべれば、1面だけ出土しているやや特殊な鏡なのである。

  • なぜ、中国で出土する「三角縁神獣鏡」が、現在までのところ、どれもこれも、 わが国の東之宮古墳出土鏡系の鏡なのか。
■『中國文物報』2006年12月22日号の記事

『中国文物報』に、陝西師範大学教授の張懋鎔(ちょうぼうよう)氏がかなり興奮した筆づかいで、三角縁神獣鏡が 洛陽で発見されたと主張している。

これについて、朝日新聞は、2007年1月24日朝刊で次のように伝えている。

「三角縁神獣鏡」が中国で見つかったとのニュースがこのほど同国で報じ られた。本当なら、東アジア古代史上の大発見だ。でも、写真を見た日本の研究者の 多くは、「?」。 背後にはこの鏡をめぐる研究者の認識の相違があるようで・・・

朝日新聞はそうとう慎重に、かつ、やや批判的に伝えているが、この鏡は「三角縁神獣鏡」ではない。 「三角縁画像鏡」の系列の鏡で、「斜縁二神二獣鏡」というべきものである。

■京都新聞2010年10月26日朝刊の記事

邪馬台国の女王卑弥呼の時代に中国・魏から伝えられたとされる「三角縁神獣鏡」に 似た鏡(東之宮古墳出土の鏡と類似した鏡)がこのほど、中国の徐州で見つかり、 中国人研究者(楊金平氏)が中国の学術雑誌に発表した。

三角縁神獣鏡は中国では出土していないが、鏡の形状などから三角縁神獣鏡の成立過程の解明につながる発見になるとみられる。

前述のように東之宮古墳出土の鏡は三角縁神獣鏡ではないとされているので、これなども『中原文物』と同じような誤解である。

■これらの対する論評  

何度も同じような騒ぎがおき、また、現代における鋳造品、あるいは模造品によって 騒ぎがおきることをふせぐために、つぎのような規準を定めるべきであるように 思える。
  • 中国でも、わが国でも、すでに、何百という鏡が発掘によって出土しているので あるから、議論は確実な発掘出土品をもとにして行うことを基本とすべきである。

  • 鏡にふくまれる鉛の同位体を測定することを原則とすべきである。三角縁神獣鏡の鉛の同位体比はやや特殊な傾向を示す。

    • もし、中国から「発現」した「三角縁神獣鏡」が、中国北方系の鉛の同位体比を 示すならば、なぜ、わが国出土の鏡と鉛の同位対比が合致しないのかが、問題になる。 (あるいは、現代の模造品?)

    • もし、中国で「発現」した「三角縁神獣鏡」がわが国のものと同じく中国南方系の 鉛の同位対比を示すのなら、さらに、つぎのことが問題となる。

      • 卑弥呼は中国の北方の魏と交際したのに、なぜ鉛の同位対比は南方系なのか?

      • 「画文帯神獣鏡」その他の鏡も、「三角縁神獣鏡」と同じく、中国南方系の鉛の 同位対比を示すことがある。このばあいは出土地その他を、さらに精査する必要が 生じる。
以上とは別に「三角縁神獣鏡とはなにか」をもっと厳密に定める必要がある。

つぎのような特徴をもつものは「三角縁神獣鏡」の「中核」をなす。
  • 縁が、だれがみても三角縁である。

  • 「神獣鏡」である(三神三獣鏡、二神二獣鏡など)。「画像鏡」「龍虎鏡」 「盤竜鏡」などの類との区別は、なお検討の必要がある。

  • 「笠松型文様」をもつ。

    現在「画像鏡」に近いものでも、「笠松型文様」をもつもの は「三角縁神獣鏡」の仲間にいれているが、逆に「笠松型文様」をもっていても、 「画像鏡」の類は「三角縁神獣鏡」にいれないことが考えられる。

    このように、「中核」のなかにはいらないものを、どうあつかうべきか。
中国の洛陽では平縁神獣鏡の初現が273年であり、邪馬台国の時代に届かない。また、洛陽のある河南省で三角縁の初出は隋唐時代にでた三角縁画像鏡である。したがって、卑弥呼の鏡とは結びつかない。

いっぽう、中国の南の地域では、三国時代から神獣鏡や画像鏡がでている。とすると、全体的に見れば王仲殊氏が述べているように、日本の三角縁神獣鏡は呉の工人が食い詰めて、日本に来て中国の南の鏡の文様を真似して三角縁神獣鏡を造ったと考えるのが妥当ではないか。


2.鉛の同位対比研究

■鉛の同位対比測定法

鉛には、化学的性質がまったく同じで重さだけがわずかに異なる 4 種類の同位体が存在しており、それ ぞれの鉛原子の質量数は 204、206、207、208である。

ある鉱床における鉛同位体の構成比率は、鉱床ができるまでの地質学的な履歴によって決まり、鉱床ごとに固有の値を持つと考えられる。

これを調べることで、青銅製品の原料となる鉛の産地を推定できる。

右図は、縦軸をPb-208/Pb-206、横軸をPb-207/Pb-206として描いてある。

■三角縁神獣鏡と小型製鏡第U型

三角縁神獣鏡は領域Sに分布し、小型製鏡第U型は領域Yに分布する。

三角縁神獣鏡と小型製鏡第U型とは、分布域がはっきりと分かれている。

ところが、三角縁神獣鏡の領域Sに小型製鏡第U型が1面入っているが、領域Yには三角縁神獣鏡はない。

このことから、三角縁神獣鏡は小型製鏡第U型より新しいものであることが分かる。

すなわち、小型製鏡第U型は、邪馬台国時代の鏡であるので、三角縁神獣鏡はそれより新しい古墳時代の鏡と言うことになる。

小型製鏡第U型の領域Yの中に、広型銅矛・広型銅戈や、近畿式・三遠式銅鐸も分布する。

これは、九州が小型製鏡第U型を用いていた邪馬台国の時代は、近畿・東海地方は、銅鐸の時代であったことを意味する。

三角縁神獣鏡の分布する領域Sについて、馬淵久夫氏は、「神獣鏡・画像鏡など後漢中期から三国・晋の時代に作られた鏡の占める範囲」「華中・華南の鏡」「後漢・三国時代の舶載鏡の占める範囲で、華中または華南の鏡」「古墳出土中国鏡」などと記す。(『季刊邪馬台国』60号)

馬淵氏は、畿内説の影響を受けていたため、すこし曖昧な表現になっている。

馬淵氏と同じく鉛同位体の研究をしている平尾良光氏は、図の二つの領域について「華北地方(前漢鏡)と華南地方(後漢・三国時代鏡)との違いとしても表現されるので、地域差と考えるほうが時代の違いと考えるよりも よいのかもしれない」と、多少遠慮したような書き方ではあるが、かなりはっきり述べている。


3.年輪年代論

考古学者の間では邪馬台国畿内説が優勢とされる。彼らは年代をどんどん繰り上げることによって、畿内の古墳や遺跡を邪馬台国と関連づけてきた。

たとえば、庄内式土器の初現は、かつては西暦300年頃と言われていたのに、いまでは220年頃までさかのぼらせてる。

しかし、年代論の本を読んでも普通の人には年代が繰り上がる理由がよくわからない。

ジャーナリストの倉橋秀夫氏の『卑弥呼の謎 年輪の証言』は、畿内説の立場で書かれた本で中身は賛成できないが、畿内説の年代が繰り上がっていったプロセスが分かり易い。

この本によると、年輪年代法による報告が土器の編年を古くする根拠となった。

1995年6月大阪府和泉市の池上・曽根遺跡で、大形建物を発見。ヒノキの柱根は年輪年代法によって西暦紀元前52年に伐採されたものと判定された。

この柱根と一緒に出た土器が、弥生時代中期後半のものだったので、弥生時代中期後半は、従来よりも100年ほど古い紀元前52年頃ということになった。

池上・曽根遺跡発掘の現場責任者、秋山浩三氏(大阪府化財調査研究センター)は、この柱根は、年代判定の定点になりうると主張したが、奈良県立橿原考古学研究所の寺沢薫氏はそれを批判。

寺沢氏は、著書や論文の中で次のように述べている。

「転用の可能性が材そのものや出土の状況からも十分想定されるたった数例の資料によって即、弥生時代の実年代の起点とするなどという学問的軽率さそのものに反対なのである。」

「いまある数少ない(年輪年代測定の)データを実年代基準資料として鵜呑みにすることがいかに危ういものかが理解できるはずである。」

「いままでの出土木材は所属時期や経緯など資料のもつ環境に不十分なものが多く、池上・曽根遺跡をはじめとするいくつかの良好とみられる資料も直ちに実年代の定点として使えるものでないことを明らかにした。」

「現時点で、年輪年代測定の成果に一方的に転向、依拠することは考古学者としての責任放棄でしかあるまい。」

(寺沢薫『紀元前52年の土器はなにか−古年輪年代の解釈をめぐる功罪−』、森浩一・松藤和人編『考古学に学ぶ−遺跡と遺物−』[同志社大学考古学シリーズZ]1999年刊所収などによる)

下表によって、「年輪年代法による伐採年代」と「文献による建物などの建築年代」を比較すると、時代の古い方が食い違いが大きいとこがわかる。
 


これは、古い時代では、大きな木材を伐採するのが大変だったので、既存の建物の材木を再利用したことを示していると考えられる。

なお、鷲崎弘朋氏が、年輪年代の基準データのつなぎ目が、ある年代で100年ほどずれていることを指摘している。この表のデータもそのように見えなくもない。

年輪年代法そのものは科学的な方法であるが、これでわかるのは、樹木の伐採年代であり、建物の建造された年代ではない。

年輪年代法と同じような科学性を持って、木材が再利用されたかどうかを判定する方法は確立されていない。 木材の再利用についての現状の判断は、全く科学的ではない。ほとんど主観的に行われていることが問題である。

このように、信頼できないデータによって、年代がどんどん古くされているのである。

畿内の年代は、ほとんど根拠らしいものがないので、池上・曽根遺跡のようなデータがでると、それに飛びついてすぐに年代が上がったり下がったりする。

大阪で出土した貨泉の場合も同じである。

貨泉は西暦14年ごろに王莽の新の時代に鋳造された貨幣だが、中国では、西暦300年前後の晋の国の墓からも多数出土している。日本でも、はなはだしいのは鎌倉・室町時代の遺跡から出土しているものもある。

このような状況があるので、貨泉だけでは年代を決められない。

しかし、畿内の土器の年代を繰り上げた研究者は、池上・曽根遺跡の年代データが出たのを見て、大阪の貨泉と同時に出た土器の年代を、西暦14年のほうに古く持って行っていいんだと考えたようである。

また、もし仮に、池上・曽根遺跡の年代が100年繰り上がったとしても、それは、弥生時代中期に年代が100年ほど動いたということである。これによって、後ろの年代もトコロテン式に繰り上がるということにはならない。

ところが、畿内説の研究者は、これによって箸墓などの古墳の年代を繰り上げ、邪馬台国の時代に持っていくのである。

邪馬台国畿内説は、このような話の積み重ねによって成立しているように見えるのである。

 

4.炭素14年代

下表は古墳発生期の遺物の炭素14年代の測定値である。



以前にも述べたが、桃核や小枝などのデータと、土器付着物のデータとでは100年以上異なる値が出ている。

土器付着物はほかの遺跡でも、クルミなどよりは年代が古く出ることが報告されている。

国立歴史民俗博物館(歴博)の研究グループは、桃核のような新しい年代のデータを異常値として捨て去り、年代が古く出る傾向にある土器付着物のデータだけを採用して、この時期の年代を邪馬台国の時代の3世紀とする。

数理考古学者の新井宏氏に上表の「桃核」および「桃核型の若い年代を示すもの」の全データにもとづく、確率密度分布図を作成して頂いた(下図の左下の部分)。



これによれば、纒向古墳群(ホケノ山古墳、箸墓古墳、東田大塚古墳)の築造年代は、

西暦260年以前である確率  1%以下
   西暦260年〜300年である確率約15%
西暦300年以後である確率約85%

箸墓古墳の築造年代が、4世紀である確率は約85%である。

箸墓古墳の築造年代を、240年〜260年とする歴博の研究グループの「歴博仮説」は、統計的に十分な安全さ(危険率1%以下)をもって否定(棄却)できる。

箸墓古墳は卑弥呼の死後100年以上のちに築造された可能性(確率)が大きいのである。

「箸墓古墳=卑弥呼の墓説」は十分な安全性を持って否定できる。

なぜ、「歴博仮説」のような誤った説の大報道が、新聞・テレビで、繰り返されることになるのか?



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