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第296回講演会
 古代年代論批判(5)  古代年代論所説の検討


 

1.古代年代論

(1)諸説の検討

纒向遺跡の土抗から魚や動物の骨が出土し、祭祀の行われた場所ではないかと報道されていた。そしてその年代が3世紀中頃とされていた。

このように新聞で発表されると、確かな根拠があって3世紀の中頃と判断されたのだろうと一般の人は思ってしまう。

しかし、報道された祭祀の場所とか3世紀中頃という内容は、客観的な事実ではなく、特定の立場からの解釈である。

たとえば、このあたりには大市と呼ばれた市場が在ったので、魚や動物など、様々なものが集まったとも解釈できる。

また、年代については、その根拠を調べてみても良く分からない。何か高邁な理論から決められたように思われるが、根拠が論理的に述べられていないから分からないのである。

そこで、これまで述べたことと重複するが、別の観点から年代を整理し直してみる。誰が、どのような根拠で、どのような土器の年代を考えているか、そして、その根拠が本当に納得できるものなのか考えてみたい。

代表的な以下の三人の考古学者の見解を取り上げる。この3人は、たとえば、箸墓古墳の年代を次のように考えている。  

・関川尚功氏橿原考古学研究所4世紀の中頃(西暦350年頃)
・寺沢薫氏橿原考古学研究所3世紀の終わり頃(西暦280〜300年頃)
・白石太一郎氏近つ飛鳥博物館館長3世紀の中頃(西暦250年前後)

それぞれの方がどのような根拠で年代を決めているのか見てみよう。

奈良の年代は、土器の編年から決められている。したがって、この三人の土器の年代の見方がこのくらい異なっていることを意味する。

発掘を行うと、発掘担当者の年代観がマスコミなどで報道されるが、人によって年代観が異なるので、誰が発掘担当者かによって報道される年代が変わる可能性がある。

■関川尚功(ひさよし)氏の土器の編年

箸墓古墳より古いとされているホケノ山古墳から、布留1式期の指標である小型丸底土器が出ている。

小型丸底土器は「庄内式土器の時代」には全く出土しない。

小型丸底土器は、「庄内式土器の時代」と「布留式土器の時代」とを分ける重要な指標土器として使われてきたものである。

従って、小型丸底土器を出土したこの古墳は、庄内式の土器が同時に出土していても、「布留式土器の時代」の築造と、関川氏は考えるのである。

そして、ホケノ山古墳より新しいとされている箸墓古墳は、当然、布留式土器の時代の築造となる。

関川氏は、まえまえから、箸墓古墳の時期が、布留式土器の時代であることを述べている。

箸墓古墳は後円部から特殊埴輪、前方部から壷式土器が出土している。

纒向遺跡の土器編年と箸墓古墳出土の壺を比較すると、その時期的位置が判明する。これによれば箸墓古墳の壺のような二重口縁壺は布留式の前の段階の庄内式のなかには見当たらない。

庄内期の壺形土器はいくつかの形態に分かれたり、文様を持つのが普通であるが、箸墓古墳、桜井茶臼山古墳の壺形土器のように定型化した二重口縁壺は、次の布留式期に普遍的になるものと理解できる。

特殊埴輪にしても、箸墓古墳出土より時期的に遡ると思われているものが近年、大和の弁天塚で出土しているが、布留式の壺も共伴している。

また、纒向遺跡からは特殊埴輪片が出土しているが、これを出土した旧河川あとの土器のほとんどはほぼ布留式である。

このように大型前方後円墳の出現は布留式初現期と一致している。

このような様相を総合すると、一部で言われているように、箸墓古墳を庄内期に遡らせることは難しいと思われる。

大まかにいって、庄内式の土器のあとに、布留式の土器があらわれ、布留式の土器は、いくつかの案はあるが、ほぼ三ないし四形式に分類されその最終末に須恵器の出現を見ることに異論はない。

布留式土器についても確たる実年代を推定する根拠は直接的にはない。

しかし土器から時期を決定しようとするならば、その最終末に出現する須恵器の初現時期が直接的に 布留式の実年代を知る手掛かりとならざるをえない。

関川氏は、須恵器の専門家が、大体5世紀の真ん中ぐらいに須恵器が出てくると述べていることを起点として土器の編年を考えている。

三ないし四形式に分類される布留式の期間は100年を大きく越えることはないので、布留式の初現は4世紀の真ん中頃とする。

また、庄内式はいくら分けてもせいぜい2形式であるとして、庄内式の前段階である纒向1式は3世紀後半まで行くかどうかちょっと難しいところだと述べる。

安本先生は関川氏の編年が妥当だと考えている。

考古学的な年代について、森浩一氏は古墳やその出土遺物にたいして、たとえば「5世紀中頃」と推定を下す考古学者がいるとしても、それは相対的な年代観にすぎず、その年代の前後60年は判断誤差をつけるべきだと考えている。その判断誤差は、北九州から遠ざかるにしたがって、年数をふやす必要があると述べる。

■寺沢薫氏[橿原考古学研究所]の編年

寺沢氏は、箸墓古墳の築造年代を3世紀終わり頃(280〜300年ごろ)としている。

寺沢氏は、「布留1式」より一形式古い「布留0式」という形式を設定し、箸墓古墳は「布留0式」の時代と考えている。

そして、「布留0式」の年代について、寺沢氏は「箸中山古墳(箸墓)」と題する文章で次のように述べている。

それでは、この「布留0式」という時期は実年代上いつごろと考えたらよいのだろうか。

正直なところ、現在考古学の相対年代(土器の様式や形式)を実年代におきかえる作業は至難の業である。ほとんど正確な数値を期待することは現状では不可能といってもいい。

しかし、そうもいっておれない。私は、製作年代の分かりやすい後漢式鏡などの中国製品の日本への 流入時期などを参考に、弥生時代の終わり(弥生第4−2様式)を西暦3世紀の第1四半期のなかに、また、日本での最初期の須恵器生産の開始を朝鮮半島での状況や文献記事を参考にして西暦400年(関川氏は450年頃としている)を前後する時期で考え、これを基点として、この間の時間を土器様式の数で機械的に按分する方法をとっている。

つまり、それは180〜400年を九つの小様式で割ることになり、一様式約20年、ほぼ1世代で土器様式が変わっていく計算になるわけだ。

これでいくと、「布留0式」は、古墳時代の始まりにあたる最初の様式「庄内0式」から数えて五番目、つまり300年を前後とする時期となる。

ところが、布留0〜2式は土器の様式内容やこの時期の古墳の数から判断して、他の土器様式より多少時間的に長いか、将来古相と新相に分けられる可能性が高い。

とすると、この時期が全体に3世紀にむかって多少は遡る公算は無視できないのである。

したがって、私は「布留0式」の実年代を西暦280〜300年頃と考えておきたいが、その精度からして当然、プラスマイナス10〜20年の修正は将来必要となろう。

ここで寺沢氏が年代の手がかりとした後漢式鏡とは、ホケノ山古墳から出た画紋帯神獣鏡である。

画紋帯神獣鏡は揚子江流域からは出土するが、黄河流域から出ない。建業(現在の南京)に都を置いた東晋時代の鏡で 4世紀に日本に入ったものではないか。後漢鏡ではないと思われる。

したがって、これを拠り所にして、弥生時代の終わりの時期を決めることはできないのではないか。

また、寺沢氏の土器の編年については、橿考研の川上邦彦氏が、形式を細かく分けすぎると批判している。

寺沢氏は、布留0式をさらに古相と新相に分割することを検討しているようだが、不用意に形式を多くすることで、年代を古い方に持って行ってしまう危険がある。

寺沢氏は、布留3式以降については、「熱残留磁気法などの理化学的な成果をも含むいくつかの年代のクロスチェックによっても整合的であり、大きな矛盾のないことを示している」と述べるが、熱残留磁気法は非常に誤差の多い測定法で、普通は用いられない。

また、下に述べるように、年輪年代法や炭素14年代法についても、いまのところは年代の確たる基準とは言えない。

結局、寺沢氏が編年の拠り所としているのは、後漢鏡だけであり、しかも、その年代認識については非常に疑問がある。

■白石太一郎氏(元国立歴史民俗博物館副館長)の編年

白石氏は箸墓古墳の築造年代を3世紀の中頃(250年前後)とみている。

白石氏の編年は、考古学固有の方法によるものではない。

土器の絶対年代を求めるための手がかりとして、大正時代から昭和のはじめにかけて活躍した考古学者、笠井新也氏の見解などを援用するものである。

笠井新也氏の年代論は明治時代の東洋史学者、那珂通世氏などの年代論にもとづく。

那珂通世氏の年代論は『古事記』に記されている何人かの天皇の「没年干支」によっている。

『古事記』には分注の形で、第十代崇神天皇以下十五人の天皇について、その没した年が干支で記されている。

戊寅の年とされた崇神天皇の没年については、318年とする説と60年遡り258年とする説があり、笠井新也氏は崇神天皇の没年を、卑弥呼の没年247年(または248年)に近い258年とする。

『日本書紀』は崇神天皇の時代に活躍した倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)が崇神天皇より早く亡くなったとしている。およそ時代があうから、この倭迹迹日百襲姫が卑弥呼であろうとする。

『日本書紀』では倭迹迹日百襲姫の墓が、箸墓であると記されている。したがって、箸墓古墳が、卑弥呼の墓であるというロジックになる。

しかし、卑弥呼が倭迹迹日百襲姫であるとすると、『魏志倭人伝』に長年王がいなかったと記されているのに、崇神天皇(男王)が存在するのは矛盾することになる。

また、卑弥呼には夫がいなかったと記されているのに、倭迹迹日百襲姫には大物主命という夫がいたのも矛盾である。

そして、天皇の崩年干支によって崇神天皇の没年を、318年や258年にすることについては、次のように問題がある。

まずこの没年干支の信憑性について、日本史家井上光貞氏は次のように述べる。

この没年干支は、あまり信用できない。『古事記』のできた頃にはすでに、なんらかの記録によってできあがったものと考えられるが、その書かれた内容をすべて信用することは賛成しかねるからである。没年干支によってあまりはっきりした数字を出すことはしばらくあきらめる方が無難であろう。



上図で、第21代雄略天皇から第50代桓武天皇までの期間を見ると、300年以上の期間に29代の天皇が在位し、天皇一代の平均在位年数は10.88年である。

崇神天皇は、雄略天皇より11代前の天皇なので、天皇一代の在位期間約10.88年で計算すれば、雄略天皇よりも約120年前の天皇であり、358年ごろ在位した天皇ということになる。

318年や、258年のような没年干支で推測した在位年代と大きく食い違う。

仮に没年干支で推測した258年が崇神天皇の在位年代とすると、雄略天皇から崇神天皇までの各天皇の平均在位期間は20年ほどになってしまう。

それまでの300年以上の期間と比較すると、これは明らかにおかしな値であり、没年干支によって在位の年代は決められないことを示している。

このようなことから、白石氏の年代論は、無理があるのではないかと考える。

なお、『古事記』の没年干支によると雄略天皇の5代前の仁徳天皇の没年は427年である。この間の平均在位年数は10年強であり、仁徳天皇までは、没年干支はそれほどおかしくないように見える。

笠井新也氏や那珂通世氏、あるいは、白石太一郎氏のように、崩年干支を全面的に信用するのも問題だが、井上光貞氏のように、全く信用できないとするほどでもないように見える。

(2)貨泉

畿内説の考古学者たちは、畿内では鏡があまり出ないので、貨泉、年輪年代、炭素14年代年代などを年代の手がかりとして活用している。これらについて検証してみる。

貨泉は、新の王莽が前漢の幣制を改めて制定した円形方孔の10円玉ほどの銅銭である。(右図)

新の時代はAD8〜27年であり短かったので、貨泉が年代を特定するのに向いていると考えられている。

石野博信氏は畿内の古い年代を決めるのに、上限は一世紀初めの貨泉で決め、下限は五世紀の須恵器で決めると述べている。

いっぽう、安本先生は、上限は洛陽焼溝漢墓で決め、下限は洛陽晋墓で決めるとする。

洛陽焼溝漢墓からは、陶器に西暦170年(建寧3年)、190年(初平元年)にあたる年を、朱で記したものがある。また、洛陽晋墓からは墓誌が3つ出土しており、いずれも西暦300年ごろの年代が記してある。

これらの年代のはっきりした墓所から出土する鏡を手がかりにして日本の年代を決めようとするのである。

石野氏のアプローチに比べると、この方が時間幅が狭いし、両端の年代がはっきりしているので、精度の高い年代推定が可能である。

石野氏は、年代の上限を貨泉によって決めようとしているが、貨泉が、日本に来るまでに要した時間がわからないので、あまり確実な根拠とは言えない。

考古学者の高倉洋彰氏は、次のように述べて、貨泉を年代の手がかりとすることについて警鐘を鳴らしている。

「古代末以降中世の遺跡から出土銭は、遺跡数と出土数の双方ともに、弥生〜古墳時代出土のそれよりも多い」

「貨泉の出土時期に幅があることと、中国そのもので長期に流通していることから、弥生時代の実年代資料としては、ごく一部の資料を除いて使用できないことを意味している。貨泉の活用にあたっては慎重さが求められるのである。」

日本で発表されている貨泉の出土データを別表にまとめてみたが、出土する地域は、南は沖縄から北は北海道に及び、出土遺跡の年代は弥生時代中期から鎌倉・室町にまでに至っている。

鏡などに比べると貨泉の出土遺跡は、地域的にも年代的にもものすごく大きな幅を持っている。貨泉は中国でも明時代まで流通していた。

貨泉を土器編年の手がかりにするのはあまりに根拠がおぼろげである。みずからの好む任意のところに、貨泉の埋納時期を持って行くことができる。

このような状況を考えると、貨泉を拠り所にして、遺跡の年代を決めようというのはナンセンスというものである。

(3)年輪年代学

池上曽根遺跡の大型建物の柱根を年輪年代法にて測定した結果、BC52年という値が出た。これによって「弥生時代中期の年代が決まった」として、従来の年代観よりも100年ほど年代を繰り上げた。

そして、箸墓の年代も繰り上げて卑弥呼の時代に持って行った。

このトコロテンのような年代操作は寺沢薫氏なども批判している。「上が100年古くなったからといって、下も一緒に引きずって古くしてよいのか」

年輪年代法でわかるのは木材の伐採年代であり、建物の築造年代ではない。

前回の講演会でも、「年輪年代法による伐採年代」と「文献による建物などの建築年代」を比較すると、古い時代に顕著に年代の食い違いが起きていることを述べた。

下表は炭素14年代のデータであるが、古木効果の影響があるものと、ないものでは、同じ方法によっても数百年の差が出る。

これらは、木材が再利用された可能性のあることを示している。

つまり、木材の再利用の可能性を考えると、年輪年代では、遺跡や建造物の年代は決まらないのである。



(4)炭素14年代法

歴博が、土器付着物の炭素14年代を計って箸墓の年代などを3世紀に持って行く操作をしているが、土器付着物の年代は古く出るという多くの事例が報告されている。

桃核や小枝などの炭素14年代データでは、箸墓もホケノ山古墳も4世紀の築造であるといえる。

土器付着物を中心に行っている歴博などの現状の炭素14年代測定は、資料の選択や取り扱いの問題があり、報告された結論を鵜呑みにはできない。

以上見てきたように、畿内の年代の拠り所とされる、貨泉、年輪年代、炭素14年代のいずれも信頼できないものばかりである。

また、『魏志倭人伝』に描かれていないものを取り上げて、邪馬台国や卑弥呼の宮殿の議論しているのも問題である。

畿内からは『魏志倭人伝』に描かれているのもは全く出土しないので、土器の年代を懸命に古く持って行って卑弥呼の時代の遺跡や古墳に仕立て上げているように見える。


2.墓制の年代論

■棺ありて槨なし

『三国志』の筆者は墓制に関心をもっていて、次のように各国ごとにきちんと書き分けている。
  • 『韓伝』
    「槨(外箱)ありて棺(内棺)なし」

  • 『夫余伝』
    「厚葬(贅沢な埋葬)にして、槨ありて棺なし」

  • 『高句麗伝』
    「厚く葬り、金銀財幣、送死に尽くす(葬式に使い果たす)石を積みて封(塚)となし、松伯を列(なら)べ種(う)う」 (この記述は高句麗の積石塚と合う)

  • 『東沃沮(とうよくそ)伝』
    「大木の槨を作る。長さ十余丈。一頭(片方の端)を開きて戸を作る。新たに死するものはこれに埋め、わずかに形を覆わしむ(土地で死体を隠す)」

  • 『倭人伝』
    「棺ありて槨なし。土を封じて塚を作る。喪(なきがら)を停(とど)むこと十余日(もがりを行う)」
『魏志倭人伝』には、倭人の墓制について、「棺ありて槨なし」と記されている。

箸墓古墳と同時代か少し前の時期のホケノ山古墳には、「木の枠で囲った部屋があり、その中心に木棺があった」あるいは、「栗石積みの石囲いに覆われた木槨と木棺」があったとされ、木棺が木槨のなかに納められていた。

これは、『魏志倭人伝』の記述とあわない。



畿内の場合、「木槨木棺墓」も「竪穴式石室墓」も、時代の下る「横穴式石室墓」も一貫して『魏志倭人伝』の「棺ありて槨なし」の記述に合わない。

邪馬台国が仮に畿内にあったとすれば、魏の使いはそれらの葬制を見聞きせずに記したのであろうか。

時代の下がった『隋書倭国伝』は、「死者を斂(おさ)めるに棺槨をもってする」と記す。

隋の使いが畿内に行ったことは『日本書紀』に記されている。西暦600年頃、日本の墓には棺槨があったのだ。中国人の弁別記述は鋭い。

一方、40面もの鏡が出土している福岡県糸島市の平原遺跡は、土壙(墓穴)の中に割竹型木棺が出土した。ここには木の枠で囲った部屋などはなく、『魏志倭人伝』の「棺ありて殻なし」の記述と一致している。

平原遺跡の時期は、1998年度の調査で、周壙から古式土師器が出土し、また、出土した瑪瑙管玉、鉄器などから、「弥生時代終末から庄内式(時代)に限定される」(柳田康雄「平原王墓の性格」『東アジアの古代文化』99号) これこそ3世紀の邪馬台国時代に相当すると言えよう。

また、九州から多量に発見される「甕棺墓」や「箱式石棺墓」なども一貫して「棺ありて槨なし」の記述に合致する。

九州では、古墳時代初頭の土師器の出土した福岡県福岡市の那珂八幡古墳なども、割竹型木棺が直葬されていた。

九州でも時代が下がって、竪穴式石室や横穴式石室が行われるようになると、「棺と槨」とがある状態となる。

このことは、「棺と槨」とがある葬制は、槨のない葬制よりも時代がやや下がることを示唆する。

『魏志倭人伝』の「棺ありて槨なし」と合わないホケノ山古墳は、時代的に『魏志倭人伝』の時代よりも後のもののように見える。

とすれば、ホケノ山古墳よりもさらに新しいかとみられる箸墓古墳は、当然、ホケノ山古墳よりも時代が下るとみられる。

■槨の大きさ

石野博信氏は槨の大きさについて次のように述べている。

『魏志倭人伝』で「棺ありて槨なし」と書いているときの「槨」は漢墓を参考にしますと、学校の教室くらいの大きさがあります。 部屋を三つも四つも連接しているものもあります。それを木槨と呼んでおります。

魏に使いに行った倭人が倭の墓の構造を説明したか、倭に来た魏の使者が倭人の墓を見て、棺を囲む施設があっても、そんなものは「槨」ではないと思ったのでしょう。

ホケノ山古墳の木槨は、2メートル70センチ×7メートルですから、そんなものは「槨」とは呼べない。だから「棺ありて槨なし」と言ったのではないかと考えています。

『季刊邪馬台国』100号

石野氏は「槨」を「学校の教室くらいの大きさがあります」と述べる。

しかし、そのような大きなものがあるとしても、それは中国の「槨」の本質なのだろうか。

石野氏の見解は事実に照らし合わせてみると全くの誤りであることがわかる

まず、『三国志』の範囲で見てみると、『魏志』「文帝紀」につぎのような文がある。

「棺槨(内棺と外棺)は、骨を朽ちさせ、衣衾(衣服と褥)は肉を朽ちさせるだけで充分と考える。」

この文で『三国志』の翻訳者は「棺槨」を「内棺と外棺」と訳している。要するに「槨」は「外棺」で「大きな部屋のようには見えない。

藤堂明保編の『学研漢和大辞典』にも、「椁(=槨)」は「うわひつぎ。棺を入れる外箱。外棺」とある。

諸橋轍次編の『大漢和辞典』でも、「ひつぎ。うわひつぎ。棺を納める外ばこ」とある。

『後漢書』「孝明帝紀」に次のようにある。

「帝、 初め寿陵を作るや、水を流さしむるのみにして、石槨の広さは一丈二尺、長さは二丈五尺、墳を起つる得ること無からしむ」

後漢時代の一尺は23センチほど。一丈は2.3メートルほどである。石槨の幅一丈二尺は2.8メートルほど、長さ二丈五尺は5.75メートルほどである。ホケノ山古墳の木槨、2.7メートル×7メートルよりも小さい。

後漢の帝王の「槨」でも、学校の教室ほどはないように見える。

さらに、中国の周の末から秦・漢時代の儒者の古代の礼についての説を集めた『礼記』の「壇弓編」の「上」には、次のようにある。

「天子の棺は四重。(中略)もっとも外側に柏の椁(=槨)をかぶせる。これは柏の根もとの部分でつくり、槨の縦の長さは六尺(約1.35メートル)である。」
「斉の国子高がいった。衣服が死者を包み、棺が衣服を収め、椁が棺を収め、墓土が椁を収める」

ここでは、「棺が衣服を収める」のと同じように、「椁が棺を収める」ものであるといっている。長さ六尺では、ホケノ山古墳よりもかなり小さい。

中国の資料『文物』1973年第2期に、「洛陽東関後漢殉人墓」の記事と図(下図)が掲載されている。

この中に出ている後漢時代の墓は、「棺の壁と槨の壁とのへだたりは3cmほどであった。(中略)槨の長さは2.6m、幅は1m、高さは0.5mであった。」と記されている。




■墓の形式の変遷

鏡などの遺物を埋納する墓の形式は、北九州では、ごく大まかには、次のように移り変わってきたといえる。

1.甕棺墓葬(西暦紀元前後〜180年)
  細形銅剣、銅矛、銅戈は甕棺から出土している例がかなりみられ、甕棺時代に対応している。

2.箱式石棺墓葬・石蓋土壙墓葬(180〜300年)
  この時代の代表的な遺物は、小型製鏡U型と、「長宜子孫」銘内向花文鏡、鉄剣、鉄刀などである。

3.竪穴式石室葬(300〜400年)
  三角縁神獣鏡が盛行する。

4.横穴式石室葬(400〜600年)

1と2は北九州に分布する。3と4は畿内を中心に分布する。

九州の場合は、下表のように墓の形式と出土する遺物に間に関連が認められる。

前漢鏡は、箱式石棺からまれに出てくることはあるが、主に甕棺のみから出てくる。

後漢鏡や小型製鏡は、ほとんど箱式石棺から出土する。

蝙蝠紐座内行花紋鏡や位至三公鏡などの、中国の王仲殊氏などが、魏や晋の時代とする十種の魏晋鏡は、箱式石棺と古墳の両方から同じような数で出土する。

位至三公鏡は、西暦300年前後の築造の洛陽晋墓から多数出土することから、弥生時代と古墳時代の境がおよそ西暦300年前後であることがわかる。

福岡県の場合、画紋帯神獣鏡や三角縁神獣鏡は、古墳から出土する。

そうすると、画紋帯神獣鏡を出土したホケノ山古墳は、古墳時代のものであり、しかも、弥生時代と古墳時代の境は、位至三公鏡などを出土する西暦300年頃なので、ホケノ山古墳は、それ以降の築造と言うことになる。

九州では、このように洛陽晋墓と同じ鏡や、『魏志倭人伝』記載のものが遺物として出土するので、これらを手がかりにして年代の推定が可能である。

しかし、畿内からはこのような手がかりが全く出土しない。 そこで、魚や動物の骨まで持ち出して、何とか卑弥呼の時代に持って行こうとしている。

マスコミも巻き込んで大々的な報道をしているが、根拠のないことに振り回されないように注意する必要がある。





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