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第311回 邪馬台国の会
金印論争
日本語の起源
日本古代史についての諸説
『魏志倭人伝』狗邪韓国、対馬国


 

1.金印論争

金印(きんいん)は志賀島(しかのしま)(現、福岡県福岡市東区志賀島叶が崎)で江戸時代の1784年(天明4)に発見され、現在は金印公園となっている。
定説では、奴国が滅ぶときに、志賀島に埋められたとされている。(隠匿説)

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金印は、一辺2.3cmのほぼ正方形で厚さ0.9cmのもので、蛇形の紐がつく。印面には「漢委奴国王」の5文字が3行にわたって陰刻されている。『後漢書』にいう建武中元2年(57年)に倭の奴国王が後漢に朝貢して光武帝から印綬を受けたという記事と符合する。
読みは「かんのわのなこくおう」とされている。

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金印を偽造とする説
2006年、千葉大学の教授・三浦佑之(すけゆき)氏は、『金印偽造事件』(幻冬舎刊)という本を刊行し、「志賀島から出土したとされる国宝の金印は、江戸時代に、亀井南冥(かめいなんめい)らによって、わが国で製作された偽造物である」と主張する。
この本は衝撃的な内容であるが、捏造というには無理がある。しかし、この本は三浦佑之氏の緻密な考証によってささえられており、金印についての入門書としては非常に参考となる。

亀井南冥(1743-1814)について、人名事典では「江戸時代中期~後期の儒者。寛保3年8月25日生まれ。徂徠学派の僧大潮に儒学を、のち大坂で永富独嘯庵(どくしょうあん)に医学をまなぶ。筑前福岡藩儒医にとりたてられ、天明3年甘棠(かんとう)館の総受持(総裁)となった。朱子学派の東学問所[修猷(しゅうゆう)館]と対立し、寛政異学の禁の余波をうけ、寛政4年失脚。門下に広瀬淡窓ら。文化11年3月2日死去。72歳。著書に『論語語由』『肥後物語』などがある。」とある。

確かに、江戸時代は『風土記』の偽物が多く出回っていることなどから、信用できないとする風潮があるが、金印ははたしてどうであろうか?
金印が偽物とすると、今後の奴国などの話が難しくなるので、金印は本物であることを証明したいと思う。

a.印面の文字
「漢」の字は画数が多く「字体」として、種類が多いので、「漢」の字について、緒印譜を調べてみる。[字体の違いとは筆跡鑑定に使う書体の違いとは別であり、画数などの違いを問題にする](下の表)
例:「1」の「漢夷邑長」は草冠の下に横線があり、「2」の「漢氏文園宰」は横線がない。「4」の「漢威武将校尉」は下が土になっている。などである。

後漢の光武帝前後のものとみられる印にみられる「漢」の字は、つくりの下が「火」の字になっているものが多い。
これは『後漢書』の「光武帝紀上」の建武二年(26年)正月の条にあるつぎの文と、あるいは関係があるかとみられる。
「はじめて火徳を正とし、色は赤を尚(たっと)ぶ。」
ここで、「火徳」というのは五行思想によるもので、五徳の一つ。
『後漢書』のこの文には、つぎのような唐の李賢の注がついている。
漢の初めには、土徳であって、色は、黄をとうとんだが、ここにいたって、はじめて火徳なることを明らかにし、象徴(シンボル)としての旗[徽幟(きしょく)]は、赤をとうとぶ。」
前漢の時代に、王朝のシンボルが土徳であったことは、司馬遷の『史記』の「張丞相列伝」に、つぎのようにあるとおり。
「漢は、五行からいえば、土徳の時代にあたる。」

これらが、漢の字体の違い影響があったと思われる。

これら印譜を見て、どれが後漢のものか分からない。後漢書から関係記事を探し出すのは、中国の学者が調べた先行文献がないと分からない。

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上記表において、
「1」の「漢委奴国王」は志賀島で発見された金印である。
漢の字体を見ると
・完全な「火」の文字。
・「火」と上の文字とが離れている。
・「漢」1字で2字分のスペース。
などの特徴がある。

「2」と「3」は戦後に出土したものであるが、
「1」に「漢」の字体が一番よく似ている印譜は「2」の「漢帰義羌長」である。
これは、1954年に新疆ウイグル自治区の沙雅で発掘されたので、江戸時代には知られていない。

これは、『後漢書』の「西羌伝」で、「漢委奴国王」の印と同じく、後漢の光武帝時代の印と考えられる。
「帰義」とは、「建武13年(37年)、広漢(現在の四川省にあった郡名)の塞外の白馬羌(はくばきょう)の豪(かしら)の楼登等(ろうとうら)は種人(同一種族の人)五千余戸を率いて(後漢に)内属[ないぞく](属国として服従)し光武(帝)は、楼登封じて、『帰義に帰するはとは、帰順するの意味)』君長とした。」から来た。

三浦氏は印譜類を見れば、簡単に偽物が作れるとした。
それを証明するには亀井南冥が金印を作ったことの証明が必要
(1)江戸時代に入手可能であった諸印譜のなかに、「漢帰義羌長」印と同じていどに、「漢委奴国王」の「漢」の字に近い「漢」の字を、見出すことができることを示すこと。
(2)見出すことができたその印が、光武帝時代ごろのものであることを鑑識しうる能力を、偽作者が持ちえたことを示すこと。

b.金印の寸法
長さの単位は時代によって変わって来ている(下の表参照)のに、
志賀島の金印は後漢時代の1寸の寸法にあっている。

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これいついて、三浦佑之氏は、『金印偽造事件』のなかで、つぎのようにのべている。
「漢代の一寸がどれだけの長さかということを知らなくても、のちの時代の人間は、漢代の一寸に相当する金印を作ることができるからである。
どのようにして作るかといえば、たとえば、『集古印譜』に捺された印の一辺の長さを測って、それとまったく同じ大きさの印を作れば、漢代の方一寸法と同じ長さの辺をもつ印章はできてしまう。あるいは、漢代に作られた銅印があれば、その大きさに合わせて金印をつくればよい。」

確かに、下記の表にある、顧従徳編の『集古印譜』の「蛮夷王印」の寸法を見ると志賀島金印と同じ寸法である。

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しかし、ここで問題がある、これらの顧従徳編の『集古印譜』は非常にたくさんの印譜があるが、蛇の紐は一つもない。一番多いのは亀の紐である。また金の印もない。
『後漢書』では倭国に与えた印は金の印とは書いていないので、
もし、亀井南冥が偽造するとしたら、銅で、亀の紐としたと思われる。
(別の文献で金の印とあるが、亀井南冥がその文献まで分かったかは疑問)

「滇王之印」が1957年に雲南省晋寧県石塞山の土壙墓から出土した。これは金印で蛇の鈕である。
また、「滇王之印」は紀元前109年に、漢の武帝が滇王に与えた『漢書』に記されているものとみられる。

c.金印のつくり
「漢委奴国王」印の、印台の部分打重さは、およそ、つぎのようになる。
2.347×2.347×0.887×19.3=94.299g
金印全体の重さは、109gである。
よって、印台の部分、あるいは、鈕の部分が、金印全体のなかで占める重量、あるいは体積の割合(百分比)はつぎのようになる。
印台の部分の占める割合(94.275/109×100)・・・86.5パーセント
鈕の部分の占める割合・・・13.5パーセント

同様の計算を「滇王之印」について行なえば、つぎのようになる。
印台の部分の占める割合(2.4×2.4×0.7×19.3/90×100)・・・86.5パーセント
鈕の部分の占める割合・・・13.5パーセント
この二つの金印は、金印全体のなかで印台の部分の占める割合が、正確に一致するのである。
これは偶然おきたことなのであろうか。志賀島の金印と石塞山の金印は共通点が多いのである。

しかし、この石塞山の金印は1957年の出土で江戸時代には知る由もない。後から出土した後漢の金印は志賀島の金印と共通点が多いのである。これは志賀島の金印が本物であるということではないか。




2.日本語の起源

■コンピュータを使って基礎語彙の一致を調べる
・基礎語彙
文化語は変化しやすいが、基礎語彙は変化しにくので、基礎語彙200の単語リストを作成する。そして、基礎語彙200単語を並べて比較し、一致の度合いを調べる。
日本語と朝鮮語とアイヌ語の単語リストの例を下記表に示す。

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・実際の手法例
実際の計算において、子音は、ある程度まとめることにする。たとえば、「上古日本語(奈良時代の日本語)」においては、現代日本語の「h」音は、両唇摩擦音「F(Φ)」であったとする説が有力であり、「p」または「pΦ」であったとする説もある。私は、コンピュータへは、上古日本語の「鼻」は、「Fana」の形で入れた。この「F」音も、さらにさかのぼれば、「p」音であると考えられている。
これは、国語学者上田万年(かずとし)氏によってとなえられ、現在は、ほぼ定説となっている。このようなことなどから、「F、h、p、b、f、v、(ドイツ語のNacht〔夜〕などのchの音)」は「h」音としてまとめた。すなわち、たとえば、「上古日本語」の「F」音が、「中期朝鮮語」の「h」音や「p」音に対応しているばあいも、「一致」とみなすことにした。
また、「t(Θ、ð)、t∫(c)、ts、d、s、z」の音も「t」音としてまとめた。現代日本語の「チ(t∫i)」「ツ(tsu)」の音は、奈良時代には、「ti」「tu」の音であった。また、現在の日本語のサ行音のすくなくともいくつかが、奈良時代においては、t∫またはtsであったとする説は、現在、きわめて有力である。
たとえば、「すずめ」は、もと「ちゅぢゅめ」であり、擬音語から来た名であろうと考えられる。また、『日本書紀』の「仲哀天皇紀」に、地名「伊覩(いと)(悟土、伊都)」は、「伊蘇(いそ)」のなまったもの、という記事がある。このような記事も、当時の「伊蘇」の音が、isoではなく、itsoであったと考えれば、理解しやすい。さらに、「k、g、q、η(ng、あげる'aηeruなどのηの音)」を「k」音としてまとめ、「r、l」を「r」音としてまとめた。このようなまとめは、コンピュータのなかで行なった。

・シフト法(アメリカのオズワルドによる)
日本語と朝鮮語とアイヌ語の基礎語彙表200語で単語の頭の音がいくつ一致したか調べる。次は組み合わせを一つづらす。これは意味が対応していなくても、いくつ一致するか調べるもので、偶然の一致を調べるため。次は二つづらす。こうして偶然以上の一致かどうか調べる。このようにして200回繰り返す。
これは、意味が対応しない場合、どの程度一致するか調べるためである。

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コンピュータで解析した結果は下記の表になる。○は意味が対応する場合の一致で、×は意味が対応しない場合の一致である。上古日本語と中期朝鮮語は○が53であり、シフトによる×平均値が35.95なので、偶然以上の一致と言える。中期朝鮮語とアイヌ語幌別保元も○が57であり、シフトによる×の平均値が37.36なので、偶然以上の一致と言える。

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上古日本語と偶然以上の一致が見られる言語

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東京方言と偶然以上の一致が見られる言語

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日本語の起源には、大きくわけて、つぎの四つの層が関係しているようである。
(Ⅰ)「朝鮮語」「アイヌ語」などの「古極東アジア語」の層。
(Ⅱ)「インドネシア語」「カンボジア語」などの「インドシナ半島語」の層。
(Ⅲ)「ナガー語」「ボド語」などの「ビルマ系江南語」の層。
(Ⅳ)中国語の層。

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ボド語、ナガー語などのビルマ系の言語が日本語に影響していることがわかる。

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■日本語の起源・形成のプロセス
・分派する言語と流入する言語
例えば、ヨーロッパのラテン語は古代ローマ帝国の公用語であった。ルーマニア語、イタリア語、フランス語などはラテン語の子孫で、ラテン語が分派してできた言語である。
源があり分かれて来たもの。

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それに対し、日本語はそうではなく、いろんな言語が日本に流れ込んで出来てきた言語である。インドヨーロッパ言語のように強くない。

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・時枝誠記(ときえだもとき)氏の仮説
東京大学の教授であったすぐれた国語学者、時枝誠記(1900~1967)は、『国語学原論続篇』(岩波書店、1955年刊)のなかで、私と同じようなモデルを、すでに50年以上まえに示している。
時枝誠記氏は、私がかかげたのと、きわめてよく似た図を示してのべる。
「人間の文化の歴史は、たえず異質的なものが、流れこんで、一つの新しい文化を形成して行くのが普通である。歴史的研究は、全体を、組成する要素に分析し、その全体が形成される経路を明らかにするところに使命があると見るべきである。一般に、文化史は、そのように記述されている。言語史も、例外ではないはずであるのに、ふしぎに、それらとは、揆(き)を異にしていた。言語は、文化のにない手であると言われている。文化が混淆すれば、言語が混淆するのは、当然である。
これまでの言語史研究は、その淵源である印欧比較言語学の性格に規定されている。そこでは、言語を、根源へ根源へとさかのぼって、失われた祖語の再建に、学者の興味と関心が向けられた。そのさい、国語の中に流れこんだ異質物は、問題でなく、むしろ、それらを拭(ぬぐ)いさって、ただ源流を探ることが大切であった。
自然発生史の樹幹図にならって、言語発達史の樹幹図が作られるようになった。従来の国語史研究による国語の位置づけを、樹幹図式に表わせば、次のようになる。


国語史は、国語を、その根源よりの分化発展として、樹幹図式に捉えるべきでなく、異分子の総合として、河川図式に捉えるべきである。
本書で考えられている国語史を図に表せば次の図式に表わされることになるであろう。

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一本の川には、水源を異にした大小幾多の支流が流れ込んで、下流の大をなしている。それらの構成分子を分析し、それがどのように組みあわされて、下流をなしているかを明らかにすることが必要である。日本の文化は、外来文化の絶えざる波状的な進入によって、古い文化の残存の上に、新しい文化が積み重ねられて、ここに文化の重層性ということが起こってきた。

国語も、古い文化圏の言語の上に、新しい文化圏の言語が重ねられるということが繰りかされてきた。古来、国語の中に流れ入った外国語は、日本周辺の言語としては、アイヌ語、朝鮮語、南方語、そして、最も徹底的には、漢語であり、また、漢語を媒介とする印度の古語梵語である。近世以後においては、ヨーロッパ諸言語がある。

・日本語の起源・形成のプロセス
まとめると次のようになる。
古極東アジア語からわかれた古日本語(日本基語)は、はじめ、北九州と南部朝鮮とにあり、ビルマ系江南語と結びついて、倭人語(日本祖語)が成立した。その言語を母胎として、大和朝廷の原勢力邪馬台国が北九州に発生し、大和朝廷の原勢力が南九州などにおよぶとともに、南九州などで行なわれていたとみられるインドネシア系の言語や、カンボジア(クメール)系の言語などと接触した。さらに、その原勢力が東漸し大和朝廷をたて、その力が日本列島の各地におよぶとともに、縄文期以来の長年月にわたって、庶民のあいだにかなり広くひろがっていたインドネシア系の言語や、カンボジア系の言語などをも吸収しながら、日本列島を、言語的に統一していった。また、朝鮮語は、もともとは、現代よりも北のほうで行なわれていたのが、南下したと考えられる。

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■ピジン語とクレオール語
・ピジン語(英 pidgin 英businessの中国語なまりからという説も)は、共通言語をもたない複数の集団が接触して、集団間コミュニケーションの応急手段として形成される接触言語の一種。音声面では一方の言語を、単語と文法の面では他の言語の形を強く残し、文法はかなり簡略化される。ピジン語の話者は日常生活での母語を必ず持つ。世界各地に多数見られるが、太平洋諸島でのピジン英語が最もよく知られている。

・クレオール語(英creole)[またはクリオール言語]は、ピジン言語が母語化したものである。複数のピジンが言語接触を通じて単一のクレオールに収斂する場合もあれば、逆に、一つのピジン言語が歴史的・地域的に複数のクレオールに分化していく場合もある。いずれにせよ、クレオール言語の出現とは、ピジン(ないしその発展形態)を第一言語(first language) として習得し、常用する人々(典型的にはピジン使用者の子供たち)の出現を意味する。すべてのピジンが必ずクレオール化するわけではない。
ピジンが、状況特異的で、語彙的・文法的に限られたコード体系をなすのに対して、クレオールは、合理的に発達した文法とゆたかな語彙をもち、日常生活のあらゆる場面での使用に耐える。またピジン段階にくらべて、音声変異の度合いは小さくなる。発生から時間を経るにつれ、その言語構造の中にさまざまな不規則性も発生し、究極的には通常の自然言語(natural language)と区別がつかなくなる(このことは、現在では「通常の自然言語」とみなされている数多くの言語の中に、実はクレオール起源のものが含まれるという理論的可能性を示唆する)。当然ながら、クレオールが二次的にピジン化することも起こる。

カリブ海域のハイチ語、インド洋のセイシェル語、西アフリカのシエラーレオネのクりオ語などが特によく知られている
日本語も一種のクレオール語ではないか?
北九州で人の流入からピジン語が発生して、それがクレオール語化したと考えられないだろうか?



3.日本古代史についての諸説 騎馬民族説

・騎馬民族征服説
邪馬台国は、北九州にあった。邪馬台国の勢力をうけつぐものが、古墳時代前期に畿内にう つり、神権的政権をたてた。そののち、古墳時代前期末(五世紀のころ)、南朝鮮から騎馬民族(夫余民族の一派)がはいり、九州をへて、大和に進出した。この騎馬民族は、大和の神権的政権の地方豪族と合作して、統一国家政権としての大和朝廷を創め、応神、仁徳などの大王の時代となった。
騎馬民族征服説は、東京大学の東洋史家、江上波夫がとなえた。
図で書けば、次の図のようになる。

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しかし、
①日本では長弓が受け継がれてきたのにモンゴル系などは短弓である。
②日本の神社建築(大和朝廷の権力者の住居)は高床式住居であるが、朝鮮半島系は高床式ではない
③騎馬民族征服であるなら、ツングース・満州族などの言語の影響が相当あるべきだがそれほど強くない。
④祭りなどは農業の影響が強く、騎馬民族の影響がみられない。
など、かなり無理があると思われる。

・高句麗の広開土王と戦った日本
五世紀は、風雲の時代であった。万をこえる倭(日本)の軍隊が、朝鮮半島の奥地にまで侵入し、かささぎの群れ飛ぶ朝鮮の野山で、戦いをくりひろげ、屍(かばね)が地を覆った。
そのことは、朝鮮側の史料「広開土王の碑文」に記されている。また、それを裏づける記事が、わが国の『古事記』『日本書紀』『風土記』『万葉集』などの奈良時代文献や、朝鮮側の史書『三国史記』『三国遺事』、さらに、中国の史書『宋書』などにみえる。

まず、「広開土王の碑文」の記事を、とりあげてみよう。
広開土王(374~412。在位は391~412)は、古代の朝鮮半島から中国東北地方にかけて栄えた高句麗第19代の王である。好大王(こうたいおう)ともいう。一代の英傑といってよい。
広開土王が18歳のとき、父の故国壌王(ここくじょうおう)が没したので、王位を継いだ。まもなく、百済を攻めて、漢江以北の地を奪った。396年、ふたたび百済を攻め、日本・百済の連合軍を破って、百済の王都に迫った。かくて、朝鮮半島の大部を支配下におさめた。

あとを継いだ長寿王(ちようじゅおう)により、広開土王の死後二年(414)に、広開土王の功績を記した石碑が、鴨緑江岸の、通溝(中華人民共和国の吉林省集安県の地)東北方6キロメートルのところに立てられた。広開土王の陵を守護するためのもので、高さ6.3メートルの巨碑である。この碑文は1884年(明治17)に、わが国の学界に紹介された。
4世紀末から5世紀はじめにかけての同時代史料である。その碑文は、碑の四面にきざまれ、41字詰44行、約1800字からなる。

「獲るところの鎧鉀一万余領」
「広開土王の碑文」によれば、「倭人は、新羅の国境に満ち」ていた。
400年、好大王は軍令を下し、歩騎5万を派遣して、新羅を救った。
高句麗軍が、男居城から新羅の国城にいたると、倭がその中に満ちあふれていた。
高句麗軍がいたると、倭賊は退却した。しかし、その4年ののちの404年に、「倭は不軌(無軌道)にも、帯方界(もと帯方郡のあった地域)に侵入」した。帯方界といえば、現在の京城から、その北のあたりをさす。倭は、朝鮮半島の、そうとう奥地にまで侵入しているのである。

「広開土王の碑文」は記す。
「好大王の軍は、倭の主力をたち切り、一挙に攻撃すると、倭寇は激減し、(高句麗軍が)斬り殺した(倭賊は)無数であった。」
さらに、407年、好大王は、「軍令を下し、歩騎5万を派遣して」、「合戦して、残らず斬り殺し、獲るところの鎧鉀(よろいかぶと) 一万余領であった。持ち帰った軍資や器械は、数えることができないほどであった。」
朝鮮に侵入した倭は、正規の高句麗軍五万と、くりかえし戦う力をもつ、万を越える大軍であった。

・西暦351~500年の東アジアの国際関係
倭(『日本書紀』)、百済(『三国史記』「百済本記」)、新羅(『三国史記』「新羅本記」)、高句麗(『三国史記』「高句麗本記」)の各文献に出てくる「戦闘および不和」の文脈のなかでの国名、「その他」の文脈のなかでの国名から、各国の関係を表記した。倭と百済とは戦っていないが、倭は新羅と繰り返し戦ったと書いてあり、新羅も倭と繰り返し戦ったと書いてある。しかも戦場は朝鮮半島である。騎馬民族が倭で戦ったとは書いていない。

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4.『魏志倭人伝』を徹底的に読む

■狗邪韓国(魏志倭人伝)
(帯方)郡から倭にいたるには、海岸にしたがって水行し、(南鮮の三韓)をへて、あるときは南(行)し、あるときは東(行)し、倭からみて北岸の狗邪韓国(弁韓・辰韓など十二か国の一つで、加羅すなわち金海付近)にいたる。

従郡至倭循海岸水行歴
韓国乍南乍未東到其北岸
狗邪韓国

■狗邪韓国はどこか
帰途についた倭の使は、洛陽を出発し、帯方郡治に足をとどめ、さらに、船で、朝鮮の南の、狗邪韓国の方向へとむかった。

狗邪韓国は、弁韓べんかん)・辰韓(しんかん)など十二ヵ国の一つである。『三国志』の「弁辰伝」に、弁辰の「狗邪国」とあるのは、狗邪韓国のことである。現在の慶尚南道の金海付近にあった。
朝鮮の歴史書『三国史記』では「金官国」と記されている。また、『三国史記』にみえる「加耶(かや)国」の「加耶」も「狗邪」に通じる。同じく朝鮮の歴史書である『三国遺事』では、「駕洛(からく)国」、『日本書紀』では「南加羅」と記されている。
この狗邪韓国については、これを倭の一国とみる説と、そうとは見ない説とがある。

(1)倭の一国とみる説
『後漢書』は、「其西北界狗邪韓国」と記し、狗邪韓国を倭の領域に属する国とみなしている。当時、朝鮮半島の南には、倭が住んでいた。狗邪韓国は、この倭の領域内にはいっていたとみる。『魏志倭人伝』には、「(中国または帯方郡と、)使者と通訳との通ずるところは、三十ヵ国」と記されている。そして、『魏志倭人伝』には、女王国に属する国として、二十九ヵ国の名があげられている。狗邪韓国を加えると、ちょうど三十国となり、「使者と通訳との通ずるところは、三十ヵ国」というのと、数があう。三十ヵ国は、通じていたからこそ、名が記されたのであると考える。『魏志倭人伝』には「(帯方)郡から倭にいたるには・・・」
と記されており、帯方郡のあとに記されている狗邪韓国は、当然、倭のなかにはいると考える(地図 参照。このばあい、邪馬台国は三十ヵ国の代表として、他の二十九ヵ国の貢表もまとめたずさえて入貢したとみる)。

(2)倭の一国とはみない説
「狗邪韓国」と、国名に「韓国」という文字がはいっている以上、これは明らかに倭の国ではなく、韓の国である。『三国志』の「弁辰伝」に、「弁辰狗邪国」とあるのであるから、弁辰韓の一国と考えられる。当時、朝鮮半島の南に、倭が住んでいたとみる考え方には疑問がある。「使者と通訳との通ずるところは、三十ヵ国」の「三十ヵ国」は、だいたいの数を記したともみられるし、あるいはまた、狗邪韓国を入れず、女王国に属さない狗奴国を入れて、「三十ヵ国」という意味にもとれる。

さらにまた、通説では、邪馬台国に帰る倭の使は、狗邪韓国を通ったと考えるが、狗邪韓国を通らなかったとする説もある[張明澄(ちょうめいちょう)など]。その根拠は、つぎのとおりである。
「朝鮮半島と対馬海峡との間の、朝鮮海峡は、かなり速い速度で、西から東へ流れている。金海付近まで行ってしまって、海を渡ろうとすると、船は大きく東に流されて、対馬につくことができない。現に、昭和50年(1975年)に、角川書店の主催で、古代船野性号で、朝鮮海峡を渡ろうとしたが、 船は東に流されて、人のこぐ力だけでは対馬につく ことができず、母船に曳航してもらった。船はもっと西のほうの地点から出発し、潮の流れにのって、対馬に到着したはずである。

もともと、ここの原文は、藤堂明保などが、読み下しているように、つぎのように読むのが、中国文として自然である。
『(帯方)郡従(よ)り倭に至るには、海岸に循(したが)いて水行し、(諸)韓国を歴(へ)て乍(たちま)ち南し、乍(たちま)ち東し、其(そ)の北岸狗邪韓国に到る。
(郡より)七千余里にして、始めて一つの海を度(わた)り、千余里にして対馬国に至る。』
すなわち、『七千余里』は、上の文の狗邪韓国にかかるのではなく、下の文にかかるのである。帯方郡から七千余里いったところで、陸地をはなれて、海をわたったという意味である。『七千余里』は、帯方郡から、狗邪韓国までの距離を記しているのではない。狗邪韓国の名をここに記したのは、それが倭の一国なので、記したのであろう。狗邪韓国よりも西の、帯方郡から七千余里の地点から、海をわたったと考えるべきである。」
この、張明澄などの読み方は、現在、多数意見にはなっていないようであるが、一つの合理性のある見解といえるであろう。

ずっと後にできた『新元史』の「日本伝」は、つぎのように記す。
「巨済(きょさい)島に至り、はるかに対馬島を望んだが、大洋は万里、風と清とは、天を蹴っていた。」
魏の使いも、巨済島から対馬に渡ったことが、十分考えられる。『魂志倭人伝』の、朝鮮半島から対馬へ至る記事には、方向が記されていない。朝鮮半島のかなり西のほうから、海流にのって対馬にわたったとみるほうが、自然であるようにも思える。



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■対馬国(魏志倭人伝)
(帯方郡から)七千余里にして、はじめて一海をわたり、千余里で、対馬国にいたる。その大官を卑狗(彦)といい、副(官)を卑奴母離[ひなもり](夷守)という。いるところは絶島(離れ島)で、方(域)は、四百余里ばかりである。土地は、山けわしく、深林多く、道路は、禽(とり)と鹿(けもの)のこみちのようである。千余戸がある。良田はない。海(産)物をたべて自活している。船にのり、南北に(出て)市糴[してき](米をかうこと)をしている。

七千餘里始度一海千餘
里至對馬国其大官曰卑
狗副曰卑奴母離所居絶
島方可四百餘里土地山
險多深林道路如禽鹿徑
有千餘戸無良田食海物
自活乗船南北市糴

■対馬国にいたる
倭の使は朝鮮半島をはなれ、対馬へとむかう。『魂志倭人伝』は、対馬について、つぎのように記している。
「いるところは絶島(離れ島)で、方四百余里ばかりである。土地は、山けわしく、深林多く、道路は、禽(とり)と鹿(けもの)の径(みち)のようである。千余戸がある。良田はない。海(産)物を食して自活している。船にのり、南北に(出て)市糴[してき](米を買うこと)をしている。」
万里の旅をした倭の使いは、対馬まで帰れば、自国にもどったという気持を抱いたことであろう。
この対馬については、つぎのことは知っておいたほうがよい。
(1)対馬には、十世紀にできた『和名類聚抄[わみょうるいじゅしよう](和名抄)』の時代から現在にいたるまで、「上県(かみあがた)郡」と「下県(しもあがた)郡」とが存在する。地図に示すように、「上県郡」と「下県郡」と、上島、下島とは、上下さかさまである。まぎらわしいので、以下では、上島を南島、下島を北島とよぶことにする。

(2)対馬はもともと一つの島で、江戸時代以降の人工開削によって、北島と南島とがわかれた。すなわち、現在、対馬は大船越、万関瀬戸は昭和にはいってから開削された。したがって『魏志倭人伝』の対馬を、北島か南島かの、いずれか一方だけをさすとする見かたは正しくない(東洋史家の白鳥庫吉は、「方四百余里」の「方」は、周囲を意味すると考え、『魏志倭人伝』の「対馬国」が、対馬全島をさすとすれば、周囲が長すぎるとして、南島だけをさすと考えた)。ただし、「大船越」の名からうかがわれるように、この地を船をかついで越えたことは古代から行なわれた可能性がある。

(3)対馬の主要遺跡は、地図のとおりである。また、対馬からは、百本以上の銅鉾(どうほこ)が出土している(壱岐からは四本のみである)。

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