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Rev2 2021.1.25

第312回 邪馬台国の会
奴国の滅亡と邪馬台国の台頭
葛の葉の話
日本語の起源(4)
邪馬台国はどこか
『魏志倭人伝』を徹底的に読む


 

1.奴国の滅亡と邪馬台国の台頭

前回は志賀島の金印が偽物ではないかとの三浦佑之氏の説に疑問を述べた。今回は本題の「奴国の滅亡と邪馬台国の台頭」について、説明する。
金印について、和田清(わだせい)氏と、中山平次郎(なかやまへいじろう)氏の研究があり、おおまかに言って、良いのではないかと考えている。

和田清氏と、中山平次郎氏については、下記の人名事典の抜粋を参考にしてほしい。
・和田清(1890-1963)
大正-昭和時代の東洋史学者。明治23年11月15日生まれ。昭和8年母校東京帝大の教授となる。のち日大教授、東洋文庫専務理事。学士院会員。昭和38年6月22日死去。72歳。神奈川県出身。著作に「内蒙古諸部落の起源」「東亜史論藪(ろんそう)」「中国史概説」など。

・中山平次郎(1871-1956)
明治-昭和時代の病理学者、考古学者。明治4年6月3日生まれ。39年京都帝大福岡医科大学(現九大)教授となる。考古学に関心をもち、金印など北九州の弥生文化についておおくの論文をかいた。昭和31年4月29日死去。84歳。静岡県出身。東京帝大卒。著作に「博多の考古学的研究」。

和田清氏も、中山平次郎氏に近い見解をのべている。
「墓から出たものならばともかく、道ばたから出たのがあやしいとか、丁重に箱におさめていたのがあやしいとかいう説もありますが、私どもに言わせると、道ばたから出てきたからこそ本物なので、もし陵墓から出ればかえって怪しいと思います。
これは国王の印ですから、宝として代々伝えたもので、一代ごとに墓に葬ったものとは違います。
これは想像ですが、おそらく奴国王家に国王の金印があるということは、当時に知られた事実で、これを欲しがったものがたくさんあったでありましょう。そこで奴国が衰えたとき、南方から大敵が起って(おそらく後の女王国などでしょう)、これをうち滅ぼしたとき、国王かもしくは印綬を預たものがこれを懐いて逃れ、ついに道ばたに隠して、その身はそのまま亡びてしまったのでしょう。
それだからこそ金印が博多のさきの海の中道の奥の志賀島などから出たのだと思われます。」(『東洋史上より観たる古代の日本』ハーバード・燕京・同志社東方文化講座委員会刊、1956年2月。『季刊邪馬台国』19号、梓書院刊、1984年春号に転載がある。)

中山平次郎氏や和田清氏は、このように、金印は、倭国内の戦禍によって、隠されたものであろう、とする。そして、あとの女王国などであろうと考えられる「南方からの大敵」によって、奴国は、うち滅ぼされたのであろう、とする。

他に、金印発見の地が墓であったとする説がある。
金印が出たところは箱式石棺である。奴国は甕棺であったので、埋めるなら、甕棺に埋めるべきで、墓説の根拠は少ないと考えられる。

金印が発見された状況を示した資料がある。
『筑前国続風土記付録』所載の「漢委奴国王印」発見絵図(原図は関東大震災で焼失。下の左の図は、福岡県郷土教育研究会編『志賀島の研究』〔『郷土研究』第1輯〕にのせられている原図の写真。右の図は、中山平次郎氏が、原図を鉛筆でその輪郭を写し、帰宅後に描き改めたもの〔『考古学雑誌』1914年所載〕。)

この資料から、発見されたところ(金印発光の処)は、道を挟んだ海の近くで、田んぼのはしっこで、溝の近くで出たらしい。墓ならば、もっと墓があってもよいように思える。隠匿説が妥当ではないか。



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・墓制について
まず、墓制を取りあげる。北九州中心部の埋葬形式は、大まかに次の四段階のうつり変わりを示す。
(1)甕棺墓葬(紀元前300年~紀元後180年ごろ)
まず、土器の甕(かめ)の中に死体を葬るという甕棺の時代が西暦紀元前後から180年ごろまで続く。北九州で盛んで、弥生時代の大集落である吉野ヶ里(佐賀県神埼郡吉野ヶ里町)遺跡なども、おもなものはこの墓制で、ほぼ邪馬台国時代より前のものだったと考える。甕棺墓葬は、弥生時代後期中ごろに姿を消す。
(2)箱式石棺墓葬(西暦180年~300年ごろ)
甕棺時代のつぎにやってきたのが箱式石棺の時代、平らな石を組み合わせて作る墓制の時代で、これがまさに、おもに邪馬台国時代の埋葬形式だと考えられる。
(3)竪穴式石室墓(西暦300年~400年ごろ)
そのつぎに、竪穴式の石室を持つ墓制の時代がやってくる。これがおもに4世紀の古墳時代の墓であると思われる。
(4)横穴式石室墓(西暦400年~600年ごろ)
そしてそのつぎに、横穴式の石室を持つ墓制の時代がくる。おもに、5~6世紀ごろの墓制とみられる。

・ここで、甕棺から箱式石棺に移行する時期に注目する。
前宮崎公立大学の教授の考古学者、奥野正男氏はいう。
「いわゆる『倭国の大乱』の終結を2世紀末とする通説にしたがうと、九州北部では、この大乱を転換期として、墓制が甕棺から箱式石棺に移行している。
つまり、この箱式石棺墓(これに土壙墓、石蓋土壙墓などがともなう)を主流とする墓制こそ、邪馬台国がもし畿内にあったとしても、確実にその支配下にあったとみられる九州北部の国々の墓制である。」
(『邪馬台国発掘』PHP研究所刊)
「前代の甕棺墓が衰微し箱式石棺墓と土壙墓を中心に特定首長の墓が次第に墳丘墓へと移行していく---。」(『邪馬台国の鏡』梓書院、2011年刊)

九州では、弥生時代の後期前半頃、甕棺墓は激減消滅する。
九州歴史資料館の考古学者、高倉洋彰氏は、つぎのようにのべている。
「甕棺墓葬の伝統が(弥生時代の)後期前半を境に急速に消滅し、箱式石棺墓・石蓋土壙墓と交替していく。」(『季刊邪馬台国』32号所載、「弥生時代小形仿製鏡について」)岡県教育庁文化課の考古学者、柳田康雄氏は、のべる。
「(弥生)後期中頃になると土器棺である甕棺墓が姿を消し、箱式石棺や土壙墓に後漢鏡が副葬されるようになり---。」(『森貞次郎博士古稀記念古文化論集』所載論文「3・4世紀の土器と鏡」)
また、福岡市埋蔵文化財センターの浜石哲也氏はのべている。
「甕棺墓地の形成時に比べ、その終焉はきわめて唐突な感がある。弥生時代の後期初頭に甕棺墓は激減し、前半にほとんど消滅してしまう。佐賀平野を含めた外縁地域では、甕棺墓と同一墓域内で土壙墓・石蓋土壙墓に引き継がれる状況もあるが、福岡平野および近隣地域では墓そのものが激減する傾向がある。元来保守的な墓制が変化し、さらに墓そのものの激減する現象の背景には、大きな社会変動が考えられる。その要因は甕棺墓の最盛期である中期後半の社会状況のなかに潜んでいよう。」 (「甕棺墓社会の発展と終焉」福岡市立歴史資料館編集・発行『早良王墓とその時代』1986年、所収)
私は、「甕棺墓の時代から、箱式石棺墓の時代へのうつり変わりは、奴国隆盛の時代から筑後川流域の邪馬台国隆盛の時代へのうつり変わりに対応するものであると思う。

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・『魏志倭人伝』
その国は、もとまた男子をもって王としていた。七・八十年まえ倭国は乱れ、あい攻伐して年を歴(へ)る。すなわち、ともに一女子をたてて王となす。名づけて卑弥呼という。鬼道につかえ、よく衆をまどわす。年はすでに長大であるが、夫壻(ふせい)[おっと・むこ]はない。
男弟があって、佐(たす)けて国を治めている。(卑弥呼が)王となっていらい、見たものはすくない。
其國本亦以男子爲王住
七八十年倭國乱相攻伐
歴年乃共立一女子爲王
名曰卑彌呼事鬼道能惑
衆年巳長大無夫壻有男
弟佐治國自爲王以来少
有見者

・『後漢書』「倭伝」
建武中元2年(光武帝、57)、倭の奴国が奉貢朝賀した。使人はみずから大夫と称した。倭国の極南界である。光武(後漢第1代、25~57在位)は賜うに印綬をもってした。
安帝(後漢第66代、107-125在位)の永初元年(107)、倭の国王帥升(師升、倭面土ヤマト説、九州イト説、委面説などがある)らが、生口160人を献じ、請見を願うた。
桓(後漢第11代桓帝、147-67在位)・霊(同第12代霊帝、168-88在位)の間、倭国が大いに乱れ、かわるがわるたがいに攻伐し、歴年主がいなかった。一女子があり、名を卑弥呼といった。年が長じても嫁にゆかず、鬼神の道につかえ、よく妖をもって衆を惑わした。 そこで、共に立てて王とした。

『魏志倭人伝』の
   本亦以男子爲王住
七八十年倭國乱相攻伐
歴年
について、いろいろな読み方がある。

つまり「住」には二つの意味がある
①住(す)む。住(とど)まる
②住(ゆ)く。

そして、「七・八十年」について、二つの解釈ができる
a.永初元年(107)から、七・八十年。「男子が王である状態に住(とど)まること七・八十年。」「住(ゆ)くこと、七・八十年。」

b.「魏の使が日本に来たとき(247年~250年ごろ)から住(ゆ)くこと(さかのぼること)七・八十年。」

どちらにしても『後漢書』「倭伝」の話とつじつまがあう。西暦170~180年頃倭国が大いに乱れた。これが、墓制の変化に合っており。この変化が奴国から邪馬台国へ移っていた時期であろうとするものである。

 

・更に甕棺と箱式石棺について
甲元真之・山崎純男共著の『弥生時代の知識』(東京美術刊)には、次のように述べられている。
「弥生時代における箱式石棺墓の分布をみますと、広島県、大分県、熊本県を結ぶ線の西側
に限られています。おもしろいことに弥生時代の前期には、佐賀県、福岡県、山口県西部の、甕棺墓地からはずれた周辺地域の、海岸砂丘上に多くみられ、中期になると、長崎県対馬や、広島県、熊本県などに分布が拡大する一方、福岡県や佐賀県の甕棺墓地群の外縁部にみられるようになります。後期になりますと、かつて甕棺地帯であった地域にまで墓群をなして”進入”する勢いをみせています。」

国立歴史民俗博物館の考古学者、白石太一郎氏はのべる。
「北九州地方は、弥生時代を通じて支石墓、箱式石棺、土壙墓・木棺墓・甕棺墓など各種の葬法や墓制が複雑に展開した地域である。まず前期には土壙墓や木棺を土壙におさめた木棺墓が一般的であったようで、西北九州では箱式石棺墓も少なくない。ところが前期の中頃から甕棺墓が出現、中期には福岡・佐賀両県を中心にこれが盛行し、土壙墓や木棺墓も共存するが、いちおう甕棺葬がもっとも普遍的な葬法となるのである。ただ周辺の大分、熊本、長崎県などでは、甕棺はそれほど多くはみられず、大分、熊本県では土壙墓・木棺墓が、長崎県などでは箱式石棺墓がより一般的な墓制であった。」

二世紀後半から三世紀、すなわち弥生後期になると、支石墓はみられなくなり、北九州でもしだいに甕棺が姿を消し、かわって箱式石棺、土壙墓、石蓋土壙墓、木棺墓が普遍化する。
ことに弥生前・中期には箱式石棺がほとんどみられなかった福岡、佐賀県の甕棺の盛行地域にも箱式石棺がみられるようになる。」
「九州地方でも弥生文化が最初に形成された北九州地方を中心にみると、(弥生時代の)前期には、土壙墓、木棺墓、箱式石棺墓が営まれていたのが、前期の後半から中期にかけて大型の甕棺墓が異常に発達し、さらに後期になるとふたたび土壙墓、木棺墓、箱式石棺墓が数多くいとなまれるようになるのである。」(以上、「墓と墓地」学生社刊『三世紀の遺跡と遺物』所収)

卑奴母離の存在は、卑奴は田舎の意味であり、邪馬台国を囲んだ周囲にあると考えられる。




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箱式石棺の勢力が甕棺の勢力を滅ぼしたと考えられる。
この図で投馬国の「京都郡(みやこぐん)」あたりから勃興して、奴国を滅ぼしたのではないか。奴国では甕棺であり、投馬国は箱式石棺であった。

壱与の時代に、また豊前、豊後の方に都を戻したのではないか。


2.葛(くず)の葉の話

今回の奈良方面の旅行は池上曽根遺跡、大阪府立弥生博物館へ行く予定である。
この近くにに和泉黄金塚(いずみこがねづか)古墳がある。ここから景初三年銘の画門帯神獣鏡が出土している。

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この近くに、葛の葉町がある。ここには悲しい話が伝えられている。

・信太の森のうらみ葛の葉
平安時代の中期、今から千年ほどむかしに、安部晴明(あべのせいめい)[921~1005]という陰陽師(おんようじ)がいた。よく識神(しきがみ)[陰陽師の命令にしたがって、変幻自在の、ふしぎなわざをする精霊(せいれい)]を使いあらゆることを、予知することができたという。
この安倍晴明の父を、安倍保名(あべのやすな)という。安倍保名は、摂津の国阿倍野(現在、大阪市南部)の武士であった。
和泉(いずみ)の国(現在の大阪府南部)の信太(しのだ)(信田)の森で、陰陽師の芦屋道満(あしやどうまん)の弟の、石川悪右衛門(あくえもん)におわれていた白狐をたすける。
白狐は、美しい娘、葛(くず)の葉にばけて安倍保名と結婚し、安倍晴明をうむ。
しかし、その正体が知られることとなる。
白狐は、つぎの歌を残して、古巣の信太山の森に帰って行く。

恋しくば
たずねて来て見よ
和泉(いずみ)なる
信太(しのだ)の森の
うらみ葛の葉

もともと、歌の世界では、「葛(くず)の葉の」という枕詞(まくらことば)があった。葛の葉の、風に見せる白い葉の裏の印象から、「うら(裏) 」や、「うらみ(恨み)」にかかる。
『古今集』の恋歌に、つぎの歌がある。

秋風の吹き
裏返す葛の葉の
恨みてもなお
恨めしきかな

この歌の「秋」は、「飽き」のかけことばになっている。「秋風の吹き」は、「相手が、自分のことに飽いて、いやになってしまって」の意味をふくんでいる。相手の心がはなれていったのを、恨むんだ歌である。
ここから、 「恋しくばたずね来て見よ和泉なる信太の森のうらみ葛の葉」は、つぎのような意味になる。「もし、私のこと恋しく思って下さるのならば、和泉の国の信太の森に、たずねて来て見て下さい。そこで、葛の葉が、白い裏をみせてゆれているのを、ご覧になって下さい。あなたがたとお別れした、悲しいうらみが、その葛の葉となって、ゆれつづけているのです」 この話が語りつがれるのは、身につまされる人が多いからである。

千昌男の「星影のワルツ」も、このような悲しい別れの歌である。


3.日本語の起源(第4回)

二つの言語の関係をしらべるには、一般につぎの三つについてしらべる必要がある。
①音韻体系
②文法体系
③基礎語彙

今まで、③基礎語彙について、述べてきた(基礎語彙200語から、日本語に偶然以上の確率で近いのはどの言語か?)。 今回は音韻や文法について説明する。

■音韻体系
音韻とは意味の弁別をもたらす音声の違いのことである。男性が「やま」と言っても、女性が「やま」と言っても、音声的には違うが、「やま」であることが識別できる。

・濁音が語頭に来ない
古代日本語(やまと言葉)では、語頭に濁音が来ない。
例えば現在、濁音が語頭となっている「どこ」があるが、「どこ」はもともと「いどこ」「いづく」の「い」(i音)が歴史の過程で欠落したものである。
また、「だれ」も、「たれ」と言っていたものが、「だれ」となったもの。現在でも「夕方」のことを「たそがれ」と言う。これはもともと夕方で暗くなると人の識別ができなくなり「あの人はだれか」つまり「たそかれ」と言ったことによる。
基礎語彙において、日本語、朝鮮語、アイヌ語は語頭に濁音が来ていない。

・「l」音、「r」が語頭に来ない
古代日本語(やまと言葉)では、語頭に「l」音、「r」が来ない。
現在、「ライオン」や「論語」など「l」音、「r」が語頭にくつ言葉はヨーロッパ語や中国語からの借用語である。
基礎語彙において、日本語、朝鮮語、アイヌ語、モンゴール語などは語頭に「l」音、「r」が来ていない(下図参照)。

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・l音とr音の音韻対立
日本人は英語の学習で「collection」(収集)と「correction」(修正)の発音を識別するのが苦手である。
これは日本語でl音とr音の識別ができないからで、これをl音とr音の音韻的対立がないという。

マオリ語には、r音はあるが、l音はない。サモア語には、l音はあるが、r音はない。そして、マオリ語のr音は、サモア語の1音に対応している。たとえは、数の「5」はマオリ語ではrima、サモア語ではlimaである。
マオリ語、 サモア語では、 rとlとのいずれか一方だけがもちいられるのであるから、これらの言語では、rとlとの音韻的対立がない。


そこで、rとlとの音韻的対立の度合い、あるいは、「rとlとの両方がもちいられる度合い」を、つぎのようにしてはかることにする。
(1)基礎二首語のなかに、r音が何回もちいられているかをしらべる。これを「r音の出現回数」とよぶことにする。
(2)基礎二百語のなかに、l音が何回もちいられているかをしらべる。これ一を、「l音の出現回数」とよぶことにする。
(3)「r音の出現回数」と「l音の出現回数」との大きさをくらべる。そして、大きいもので、小さいものをわる。すなわち、rとlとの音韻的対立の度合いTは、つぎの式ではかる。

T=r音の出現回数/l音の出現回数
(「r音の出現回数」<「l音の出現回数」のばあい)

T=l音の出現回数/r音の出現回数
(「r音の出現回数」>「l音の出現回数」のばあい)

マオリ語やサモア語のはあいは、Tはいずれも0となる。
また、たとえば英語のばあい、 200語中にr音が25回、l音が41回あらわれる。したがって、

T=25/41=0.610

である。Tは、つねに0と1とのあいだの値をとり、Tが0ならば、「rとlとのいずれか一方だけがもちいられていること」を意味いし、Tが1ならば、「rとlとの両方が同じ程度にもちいられていること」を意味する。 312-10

・単語の頭に子音群がこない
「stop」のように、子音群がこない。

更に、子音の「ん」でもは始まらない。
しかし、 「ん」から始まる言語は多い
ンヴァラ語(アフリカの諸言語)
ンヴィ夕方言(アフリカの諸言語)
ンゲバ語(アフリカの諸言語)
ンヴンボ語(アフリカの諸言語)

・重母音がない。
「やま」「かわ」など、子音+母音+子音+母音の繰り返しである。
アフリカのスワヒリ語と同じである。




■文法について

・母音の数
母音体系のタイプと出現頻度について資料から、684言語からみると、現代東京方言の母音数5というのは世界的に見て、最も多い母音数といえる。


・校本克己(かつみ)氏の類型論的研究
ところで、日本語など、「古極東アジア語」系とみられる言語の「語順」は、ユーラシア大陸にひろくひろがる諸言語の語順と一致する。この点について、金沢大学の言語学者、松本克己氏は「日本語の類型論的位置づけ」という論文のなかでのべている。
「語順の特徴に関するかぎり、日本語はユーラシアの中核的な『主語-目的語-動詞』圏の一環をなし、この地域との結びつきは疑うべくもない。また日本語の『目的語-動詞』的配列は、支配の方向性が驚くほど首尾一貫したもっともプロトタイプ(原型)に近い型といってもよい。また、この語順の型は、現存資料で溯りうる最古の時代から、基本的にはほとんど変化がなく、多くの過渡地域に見られる動揺や混合特徴は、漢語やヨーロッパ語の影響による一部の現象を除いて、まったく認められない。日本語はこの点で、インド亜大陸のドラヴィダ諸語、アジア北・東部のアルタイ諸語と共に、『目的語-動詞』言語圏の中のもっとも安定したタイプに属し、他方、東南アジアとオセアニア(オーストラリア、ニューギニア、メラネシア、ポリネシア、ミクロネシア)を中心とする『動詞-目的語』言語圏とは明確な一線を画している。」
「このように語順の特徴から見ると、日本語はユーラシア、特にその北・東部ともっとも密接につながる。」(『月刊言語』総合特集 日本語の古層、1987年、大修館書店刊)


・語順
「主語-目的語-動詞」(S-O-V)の語順の言語は世界的に多い。
ユーラシア大陸東部で、中国などを囲むように分布するのは、かつてすべてが「主語-目的語-動詞」言語であったところに、中国の勃興で、その周辺に追いやれたとする周圏論で説明できるのだろうか?

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上図で「主語-目的語-動詞」は地図斜線部の地域。黒点部は、原住民の言語は不明の地域。ただしもともとは、アルタイ諸語やウラル諸語が分布していたとかんがえられる。




■どの言語が日本語に近いか
ここで、各項目とも、できるだけ16の言語に○印が、9の言語に×印がつくようにしたのは、つぎのような理由による。
(1)「語頭に子音群が立たない」という調査項目のばあい、語頭に子音群がまったく立たない言語が、16言語ある。この項目のばあい、○印の数を16よりすくなくすることは不可能なのである。そこで、他の調査項目の○印の数も、この項目の○印の数にあわせるようにした。
(2)このようにすると、文法上の諸項目のように、計量化できない項目で、たとえ○印のつく確率を16/25にすることが不可能な項目でも、○印のつく碓率は16/25以下にはなる。すなわち、○印のつく確率は16/25であるとして確率計算を行なえば十分である。(統計学的にいえば、このようにしたばあい、たとえば、5パーセント水準で有意になったようなばあいは、危険率は、じつは、5パーセントよりも もっと小さいことになる。確率の計算は、二項分布の式による。)

日本語に近いのは、アイヌ語、朝鮮語である。(図参照)

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4.邪馬台国はどこか(一部省略)

卑弥呼は何天皇の時代の人かと考える。
日本の天皇平均在位年数を推定すると、1代の天皇の在位年数を10年としてさかのぼればよい。



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グラフにすると下記となり、卑弥呼=天照大御神とする。

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基準点の考え
基準点Ⅱが第50代桓武天皇783.5年(中数)
基準点Ⅰが第21代雄略天皇478年(倭王武、宋へ遺使)
6代前第15代応神天皇413年の推定値が晋書「倭国伝」の記載「413年倭王讃あり」とほぼ合う。
7代前第14代仲哀天皇402年の推定値が広開土王碑文404年とほぼ合う。
11代前第10代崇神天皇357年の推定値が「4世紀半ば中過ぎ」とされるものとほぼ合う。

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北九州の夜須町の廻りと奈良県の大和郷の廻りで地名が一致する。これは邪馬台国東征説で説明できる。北九州にあった邪馬台国勢力がのちに奈良の方へ移動して、同じ地名を付けたのではないか。




5.『魏志倭人伝』を徹底的に読む

・対馬国
(帯方郡から)七千余里にして、はじめて一海をわたり、千余里で、対馬国にいたる。その大官を卑狗(ひこ)といい、副(官)を卑奴母離(ひなもり)[夷守]という。いるところは絶島(離れ島)で、方(域)は、四百余里ばかりである。土地は、山けわしく、深林多く、道路は、禽(とり)と鹿(けもの)の径(みち)のようである。千余戸がある。良田はない。海(産)物をたべて自活している。船にのり、南北に(出て)市糴(してき)[米を買うこと]をしている。」

七千餘里始度一海千餘
里至對馬國其大官曰卑
狗副曰卑奴母離所居絶
㠀方可四百餘里土地山
險多深林道路如禽鹿徑
有千餘戸無良田食海物
自活乗船南北市糴

・一支国
また南に一海をわたること千余里、名づけて瀚海(かんかい)[大海、対馬海峡]という。一大国[一支(いき)国の誤り。壱岐国]にいたる。官(吏)をまた卑狗(ひこ)[彦]といい、副(官)を卑奴母離(ひなもり)[夷守]という。方(域)は、三百里ばかりである。竹木の叢林(そうりん)が多い。三千(戸)ばかりの家がある。やや田地がある。田をたがやしても、なお食に不足である。(この国も)また南北に(出て)市糴している。

又南渡一海千餘里名曰
瀚海至一大國官亦曰卑
狗副曰卑奴母離方可三
百里多竹木叢林有三千
許家差有田地耕田猶不
足食亦南北市糴

 

横山順(よこやま・じゅん)
1941年、長崎市生まれ。国学院大学文学部中退。現在、壱岐郷土館館長。著書・論文「壱岐の古代と考古学」『海と列島文化第3巻 玄界灘の島々』(共著、小学館) 「壱岐鎌崎海岸遺跡」(『九州考古学』54号共著、九州考古学会)、他。

横山氏による壱岐と対馬の戸数・人口の推移(下の表は原本のいくつかの資料をまとめた)

   
壱岐
対馬
資料名
    戸数(大正から世帯数)
人口
戸数(大正から世帯数)
人口
 
1775
安政4年
 
23,200
 
14,800
官中秘策
1804
文化元年
 
25,368
 
13,862
吹塵録
1846
弘文元年
 
27,005
 
16,904
吹塵録
1876
明治9
9,144
31,754
 
 
壱岐石田郡村誌
1884
明治17年
 
 
6,579
31,019
上・下県郡村誌
1891
明治24年
8,540
35,987
5,680
32,305
徴発物件一覧表
1893
明治26年
8,535
35,892
 
 
郡村要覧
1896
明治29年
 
 
6,257
32,620
増訂対馬村誌
1920
大正9年
8,276
38,669
11,546
56,646
 
1935
昭和10年
8,399
40,777
10,747
56,137
 
1946
昭和21年
9,266
47,605
10,814
53,137
 
1955
昭和30年
9,937
51,765
13,157
67,140
 
1965
昭和40年
10,087
45,654
15,025
65,304
 
1975
昭和50年
10,395
41,871
14,760
52,472
 
1985
昭和60年
10,656
39,530
15,228
48,873
 






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