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第313回 邪馬台国の会
文献的年代論
邪馬台国の遺跡・遺物
日本古代史についての諸説
『魏志倭人伝』を徹底的に読む


 

1.文献的年代論

■干支
まず、十干と十二支についてのべる。
十干とは、つぎのようなものをさす。
   甲(こう)、乙[おつ(いつ)]、丙(へい)、丁(てい)、戌(ぼ)、己(き)、庚(こう)、辛(しん)、壬(じん)、癸(き)
これを、中国の原子論、五行説の五元素(これは、五つの遊星とも対応する)
   木、火、土、金、水
に配して、おのおの陽すなわち兄(え)と、陰すなわち弟(と)にわけた。すなわち、
   甲 きのえ  木の兄    乙 きのと  木の弟
   丙 ひのえ  火の兄    丁 ひのと  火の弟
   戊 つちのえ 土の兄    己 つちのと 土の弟
   庚 かのえ  金の兄    辛 かのと  金の弟
   壬 みずのえ 水の兄    癸 みずのと 水の弟
と名づけた。
また、十二支とは、
   子(し)、丑(ちゅう)、寅(いん)、卯(ぼう)、辰(しん)、巳(し)、午(ご)、未(び)、申(しん)、酉(ゆう)、戌(じゅつ)、亥(がい)
をさす。これは、ふつう、
   ね、うし、とら、う、たつ、み、うま、ひつじ、さる、とり、いぬ、い  とよばれている。

干支による紀年法では、いま、最初の年を甲子(きのえね)の年とすれば、翌年は、乙丑(きのとうし)の年となる。その翌年は丙寅(ひのえとら)の年である。

   (十 干)甲乙丙丁戊己庚辛壬癸甲乙丙丁戊…
  (十二支)子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥子丑寅…

このような組みあわせを一回おこなうと、とうぜん、十干のほうは終わってしまっても、十二支のほうは二つあまる。そこで、十干をもう一度はじめからくりかえして組みあわせて行く。十二支のほうも終りまでくれば、またはじめからくりかえす。同じようにしてつづけて行くと、十と十二の最小公倍数である六十年目で、いちばんはじめの甲子の年がもどってくる。
なお、干支による紀年法は、中国の戦国時代(紀元前476年-紀元前221年ごろ)にはじまったものらしく、殷の時代にはない。殷代には、年は、何何王の何年というように記されていた。ただ、殷代には、日々に六十干支をふっていく記日の方法はあった。

干支のよみかたは、たとえば、丙午「ひのえうま」という仮名の訓でよむよりも、「へいご」と音でよむほうがよいと思われる。しかし、ここでは、いちおう仮名の訓でよんでおいた。なお、干支は、方角や時の名前としても用いられる。たとえば、北を子、南を午としたので、現在でも南北の線を子午線(しごせん)よんでいる。
なお、暦のばあい、「乙」は、ふっう、「いつ」と読む。たとえば、645年、「乙巳(いつし)の年」に、中大兄(なかのおおえ)の皇子(おうじ)と中臣(なかとみ)の鎌足(かまたり)とによって、蘇我(そが)の入鹿(いるか)が誅滅される、大化の改新がはじまる。645年のときの変事を、「乙巳(いつし)の変」という。「乙巳(おつし)の変」とはいわない。

 

干支の読みを下記に示す。

  干支 訓読み 音読み   干支 訓読み 音読み
1 甲子 きのえね こうし 31 甲午 きのえうま こうご
2 乙丑 きのとのうし いっちゅう 32 乙未 きのとのひつじ いつび
3 丙寅 ひのえとら へいいん 33 丙申 ひのえさる へいしん
4 丁卯 ひのとのう ていぼう 34 丁酉 ひのとのとり ていゆう
5 戊辰 つちのえたつ ぼしん 35 戊戌 つちのえいぬ ぼじゅつ
6 己巳 つちのとのみ きし 36 己亥 つちのとのい きがい
7 庚午 かのえうま こうご 37 庚子 かのえね こうし
8 辛未 かのとのひつじ しんび 38 辛丑 かのとのうし しんちゅう
9 壬申 みずのえさる じんしん 39 壬寅 みずのえとら じんいん
10 葵酉 みずのとのとり きゆう 40 葵卯 みずのとのう きぼう
11 甲戌 きのえいぬ こうじゅつ 41 甲辰 きのえたつ こうしん
12 乙亥 きのとのい いつがい 42 乙巳 きのとのみ いっし
13 丙子 ひのえね へいし 43 丙午 ひのえうま へいご
14 丁丑 ひのとのうし ていちゅう 44 丁未 ひのとのひつじ ていび
15 戊寅 つちのえとら ぼいん 45 戊申 つちのえさる ぼしん
16 己卯 つちのとのう きぼう 46 己酉 つちのとのとり きゆう
17 庚辰 かのえたつ こうしん 47 庚戌 かのえいぬ こうじゅつ
18 辛巳 かのとのみ しんし 48 辛亥 かのとのい しんがい
19 壬午 みずのえうま じんご 49 壬子 みずのえね じんし
20 葵未 みずのとのひつじ きび 50 葵丑 みずのとのうし きちゅう
21 甲申 きのえさる こうしん 51 甲寅 きのえとら こういん
22 乙酉 きのとのとり いつゆう 52 乙卯 きのとのう いつぼう
23 丙戌 ひのえいぬ へいじゅつ 53 丙辰 ひのえたつ へいしん
24 丁亥 ひのとのい ていがい 54 丁巳 ひのとのみ ていし
25 戊子 つちのえね ぼし 55 戊午 つちのえうま ぼご
26 己丑 つちのとのうし きちゅう 56 己未 つちのとのひつじ きび
27 庚寅 かのえとら こういん 57 庚申 かのえさる こうしん
28 辛卯 かのとのう しんぼう 58 辛酉 かのとのとり しんゆう
29 壬辰 みずのえたつ じんしん 59 壬戌 みずのえいぬ じんじゅつ
30 葵巳 みずのとのみ きし 60 葵亥 みずのとのい きがい

 

『古事記』の「没年干支」によるの古代天皇の没年を下記に示す。

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■『古事記』の記す没年と、『日本書紀』の記す没年との差
第31代用明天皇以降では『古事記』と『日本書紀』の記す没年が一致している。しかし用明天皇より古くなるとズレが生じ、古くなるほどズレが大きくなり、第1代崇神天皇の時代では300年近くの差が出る。
『古事記』と『日本書紀』を比較すると、仁徳天皇の没年は『古事記』の記した427年が、ほぼよいのではないか。

下図において、棒線の引かれているのは、『古事記』に記載のないばあい。『古事記』は、崇神天皇の没年月を、戊寅の年12月とする。ふつう、この戊寅の年は、西暦318年または258年にあてる。しかし、この年の12月は、西暦319年および259年の1月にあてられる可能性も、かなりある。

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■崇神天皇の没年の推定
下図で基準点Ⅰを第50代桓武天皇の794年(平安遷都)とし、基準点Ⅱを第31代用明天皇の586年(『古事記』、『日本書紀』と没年が一致する)とし、用明天皇から桓武天皇までの天皇19代で208年となり、天皇1代平均は10.95年となる。用明天皇から10代さかのぼると、第21代雄略天皇477年となる。宋書の記載478に近い年代となる。そして用明天皇から21代さかのぼると、第10代崇神天皇となり、崇神天皇の活躍年代は356年と推定できる。

ところが、このやりかたでは、基準点Ⅰと基準点Ⅱの間が短く、そこから崇神天皇を推定すると、確かな年代が短く、推定の期間が長いということになる。そこで、下図の下にあるように基準点Ⅱを、『宋書』記載の倭王武を雄略天皇として再計算する。そのように計算しても崇神天皇の活躍年代は356年となりほぼ同じ結果となる

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下図は没年を中心として、再計算する。基準点Ⅰの桓武天皇806年(没年)、基準点Ⅱ仁徳天皇427年(古事記没年)とすると、天皇平均在位年数=11.15年となる。この数字を使って、雄略天皇の没年を推定すると、483年となり、古事記の没年489に近い。また、仲哀天皇の没年は404年となり、『三国史記』の未斯欣が人質として倭に来た402年とほぼあう。更に崇神天皇の没年を推定すると、360年となる。
この結果から、『日本書紀』の崇神天皇の没年の年代とするBC29年にはまったく合わない。『古事記』の崇神天皇の没年の年代は318年あるいは258年とされており、笠井新也氏などは258年として、崇神天皇時代の倭迹迹日百襲(やまとととひももそ)姫が卑弥呼とし、箸墓古墳が卑弥呼の墓とする説を唱えるが、この方法で崇神天皇の没年を推定すると360年になり、258年は否定される。箸墓古墳は4世紀の墓となるので、卑弥呼の墓とは言えない。

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■古代史メモ 世数と代数
古代の天皇の活躍年代(あるいは、即位年代、在位年代など)を推定しようとするばあい、天皇の「代数」を基本的な変数(独立変数)と考える立場と、天皇の「世数」を基本的な変数と考える立場とがある。
たとえば、下の系図のようなばあい、第24代仁賢天皇は、第16代仁徳天皇から数えて「8代目」の天皇である。しかし、世数からいえば、「3世目」の天皇である。
「世数」では、親子関係によって、何世目かを数えるわけである。

系図 「世数」と「代数」のちがいを示すための例

(16)仁徳天皇-(17)履中天皇- 市辺押磐皇子-(24)仁賢天皇
                             └(23)顕宗天皇
         ┠(18)反正天皇
                    ╓ (20)安康天皇
         └(19)允恭天皇 -(21)雄略天皇-(22)清寧天皇

これを世数でみると、第22代清寧天皇は仁徳天皇から3世となる。このようにすると、仁徳天皇から、清寧天皇まで天皇の代数間は短いが、世数では長くなる。この長くなった世数による年数を使って、天皇の代の間に当てはめて、神武天皇の時代を推定すれば、時代を古くすることができる。
このように世数から計算することは那珂通世氏が唱え、笠井新也氏へと引き継がれてきた。

すでに、慶応大学の教授であった橋本増吉は、大著「東洋史上よりみたる日本上古史研究」(東洋文庫、1956年刊)のなかで、つぎのようにのべている。
「父子直系のばあいの一世平均年数が、ほぼ25.6年ないし30年前後であることは、那珂博士の論じられたとおりであろうけれども、わが上代のおよその紀年を知るために必要なのは、父子直系の一世平均年数ではなく、歴代天皇のご在位年数なのであるから、那珂博士算出の平均世年数をもって、ただちに上代の諸天皇の御在位平均年数として利用すべきでないことは、明白なところである。


下図は『日本書紀』と那珂通世氏の説による、天皇1代の在位年数を示す。
天皇1代の平均在位年数は徳川時代および現代(18代)で22.28年、安土桃山時代・鎌倉・足利時代(25代)で16.13年、平安時代(32代)で12.69年、奈良時代(7代)で10.43年、飛鳥時代(13代)で10.20年[飛鳥・奈良時代雄略天皇~敏達天皇(29代)10.33年]と古くなるにつれ、短くなる。
『日本書紀』では、神武天皇~欽明天皇(29代)の天皇1代の平均在位年数が39.24年と長くなってしまう。
那珂通世の説でも神武天皇~雄略天皇(20代)が23.90年とまだ長い。

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下図は卑弥呼=天照大神説と卑弥呼=倭姫説による、天皇1代の在位年数を示す。
卑弥呼=倭姫説では卑弥呼~雄略天皇(9代)が26.56年と長くなってしまう。
この結果から、卑弥呼=天照大神説がグラフ上整合性があることが分かる。

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■古文献についての三つの立場
(1)古典信奉主義
年代をふくめ、『古事記』『日本書紀』に記されていることは、なるべくそのままうけとろうとする立場。 本居宣長などの立場だが、『古事記』と『日本書紀』で天皇の没年が違う場合どちらを信ずべきかの問題がある。

(2)半実半虚主義
『古事記』『日本書紀』などに記されていることは、実と虚とがあいまじったものと考える立場。安本説はこれに近い。

(3)抹殺博士主義 
『古事記』『日本書紀』に書かれていることで、すこしでも疑わしい記述は、否定し、史料としてみとめない立場[重野安繹(しげのやすつぐ)]


■(2)の半実半虚主義がよいと考える
江戸時代に、故実家の伊勢貞丈(いせさだたけ)(1717~1784)はのべている。
「語り違へもあり、聞き違へもあり、忘れて漏れたる事もあり、事を副(そ)へたることもあるべし。百年五十年以前の事だにも、語り違へ聞き違へて、相違一決せざる事あり。……和漢ともに、太古の事は太古の書籍はなし。古(いにしえ)への語り伝へを後に記したるものなれば、半実半虚なりと思ふべし。」(『安斎随筆』)

・黒板勝美(くろいたかつみ)の神話伝説へ論文
1932年に、日本古文書学を確立した東京大学の黒板勝美(1874~1946)の大著『国史の研究 各説』の上巻が、岩波書店から刊行されている。これは、当時の官学アカデミーの中心に位置した黒板の代表的著作といってよい。
「国史の研究」が刊行された当時、岩波書店は、この本を、「学界の権威として、洛陽の紙価を高からしめたる名著」とし、「わが国史に就(つ)きての中正なる概念を教示する」もので、一般人士はもちろんのこと、「専門研究者も座右に備ふるべき好伴侶たるを失はない」とのべている。
黒板勝美は、『国史大系』などの編集者であり、他の説の批判や自説の主張においては、つねにその根拠を、くわしくのべている。黒板は、津田左右吉の日本神話作為説を「大胆な前提」から出発した研究とし、それを「余りに独断に過ぎる嫌がある」と批判する。そして、黒板は、神話伝説は、むしろ長い年月の間にだんだん作られて来たとする方が妥当であり、はじめはひとつのけし粒であっても、ついに金平糖になるようなものであり、しだいに立派な神話となり伝説となるところにやはり歴史が存在するのではあるまいか、とする。
黒板は、『国史の研究 各説』上巻の冒頭で、およそつぎのようにのべて、「国史の出発点を所謂(いわゆる)神代まで、遡(さかのぼ)らしめ得る」と説く。
「史前時代と有史時代との境目を明瞭に区別しにくいことは、世界の古い国々みなそうである。その太古における物語は、霊異神怪や荒唐無稽の話に富んでいて、神話や伝説などのなかに歴史がつつまれているといえる。
わが国の神話伝説のなかから、もしわが国のはじまりについての事がらを、おぼろげながらでも知ることができるのであれば、私たちは、国史の出発点を、いわゆる神代まで、さかのぼらしめ得るのであり、神代史の研究がまた重要な意義を占めることになるであろう。
もっとも、神武天皇が始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)という尊称をもち、大和に都をひらいた第一代の天皇であるという古伝説にしたがって、あるいは、わが国の歴史の発展を、神武天皇から説明するにとどめようという人があるかも知れない。しかし、わが国のはじまりが、どのようであったかを、いくぶんでも知ることができるとするならば、従来神代といわれている時代に研究を進めることは、また緊要なことといわなければならない。」
ついで、黒板は、天照大御神よりもまえの神々は、皇室の祖先として奉斎(ほうさい)されていないことなどから、実在性はみとめがたいが、天照大御神は、「半ば神話の神、半ば実在の御方」と説く。
「天照大御神は、最初から皇祖として仰がれた方であったからこそ三種の神器の一つである八咫鏡(やたのかがみ)を霊代(たましろ)をして、やがて伊勢に奉斎され、今日まで引きつづき皇室の太廟として、とくに厚く崇祀(すうし)されているのである。
元来史話なるものは、截然(せつぜん)と神話に代るものではなく、その境界は、たがいにいりまじって、両者をはっきりと区別することがむずかしい。これが、天照大御神の半ば神話の神、半ば実在の方として古典に現れる理由である。
神話がほどよく史的事象を包んでおり、史的事象がほどよく神話化されている。したがって、須佐の男の命に関する古典の記載なども同様であるが、天照大御神の御代に皇室の基礎が定まり、わが国は天照大御神の徳によってはじまったことは、おぼろげながらみとめられなければならない。


2.邪馬台国の遺跡・遺物

■邪馬台国の遺物についての強い法則性(略して、邪馬台国の法則)
『魏志倭人伝』に記載されている事物などに焦点をおくばあい、おもに、邪馬台国時代、三世紀代の遺跡・遺物(蝙蝠鈕座内行花文鏡や魏晋鏡、鉄の鏃、五尺刀、勾玉、絹製品など)は、福岡県を中心に分布する。

・長宣子孫銘内行花文鏡、蝙蝠鈕座内行花文鏡

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・小型仿製鏡、10種の魏晋鏡

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・鉄鏃、鉄刀・鉄剣・鉄矛・鉄戈313-10

 

・絹、勾玉

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おもに古墳時代、四世紀代の遺跡(巨大前方後円墳)・遺物(三角縁神獣鏡、画文帯神獣鏡)は奈良県を中心に分布する。

・巨大前方後円墳

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・三角縁神獣鏡、画文帯神獣313-13



この二つは、それぞれ十分対比できる豊富で、特徴的な文化的文物をもっている。
そのことはあきらかである。
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■前方後円墳と三角縁神獣鏡
前方後円墳は時代が下がるにつれ、後円部に比し、前方部が相対的に発達して大きくなる。

横軸(x軸):前方部の幅/後円部の直径
縦軸(y軸):前方部の幅/墳丘全長

・多くの代表的な古墳をxーy座標上にプロットすると時代の新しい古墳は右上の方に、古い古墳は左下にくる傾向がある。

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三角縁神獣鏡出土の古墳が出土する古墳は4世紀ごろの古墳である。画文帯神獣鏡も三角縁神獣鏡ほぼ同じ時期と考えられる。

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3.日本古代史についての諸説(第7回)

白石太一郎氏は「相対年代の枠組に絶対年度を与えるのは、非常に難しく、考古学の方法だけでは決定できない。文献史料の助けを借りたりして総合的に考えていかなければいけないわけで、今後も我々に与えられた材料を総動員して、最も合理的な年代観を想定していかなければいけないし、新しい資料が出てくればどんどん修正されていくわけです。[『稲城山古墳の鉄剣を見直す』(上田正昭・大塚初重監修、金井塚良一編、学生社2001年刊)]」と述べている。

しかし、実際は一回出したら修正しない。笠井新也氏の説をベースに、箸墓古墳は卑弥呼の墓としている。そして、修正しないで土器の年代をどんどん古くしている。

京都大学の考古学は、梅原末治氏と小林行雄氏の二代の教授によって確立された。
特に小林氏による発掘技術の精緻化や正確・精密な図面作成手法、更に三角縁神獣鏡問題への傾斜により遺物学的精緻化で、世界のトップレベルとなった。

その結果、以下が問題点となった。
・資料、データを総合して、歴史や文化の流れについてのすぐれた仮説を構築することや、日本国家の成立をより総合的な観点から説明する理論をうちたてることや、データを整理し法則性などを見出しなにかを推論することなどがおろそかになった。
・田中角栄の「列島改造」により、多くのお金が考古学に流れ込んだことにより、粗雑な仮説のママスコミ発表の乱造をした。
・多くのデータが得られたが、コンピュータや統計学を用いてそれらのデータを整理し、法則性を見出し、適切な仮説を立て、理論を構築することが必要になっている。つまりデータベースの作成など、情報考古学会が必要である。

小林氏は繰り返い「定説を疑え」と言っていたが、小林氏の学説が京都大学での定説となり、それを疑うとういことを行わなくなった。そこから外れると就職も出世も望めなくなった。そして、九州大学といえども、この定説がベースとなっている。

 

参考:二教授の人名事典の記述
【梅原末治】(うめはらすえじ)(1893-1983)大正-昭和時代の考古学者。明治26年8月13日生まれ。同志社普通学校在学中から京都帝大考古学教室に出入りし、浜田耕作、内藤湖南らに師事。昭和14年京都帝大教授。銅鐸、中国青銅器、古墳などの研究によって東洋考古学の基礎を確立した。38年文化功労者。昭和58年2月19日死去。89歳。大阪出身。著作に「鑑鏡の研究」「考古学六十年」など。

【小林行雄】(こばやしゆきお)(1911-89)昭和時代の考古学者。明治44年8月18日生まれ。弥生式土器の編年研究で浜田耕作にみとめられ、昭和10年京都帝大助手。戦後は古墳から出土した鏡の研究によって豪族の勢力関係をあきらかにし、邪馬台国畿内説をとなえた。49年京大教授。平成元年2月2日死去。兵庫県出身。神戸高工(現神戸大)卒。著作に「日本考古学概説」など。



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4.『魏志倭人伝』を徹底的に読む。(第7回)

・末盧国
また、一海をわたる。千余里で、末盧(まつら)国(肥前の国、松浦郡)にいたる。四千余戸がある。山が海にせまり、沿岸にそって居(住)している。草木が茂りさかえ、行くに前の人をみない(前の人がみえないほどである)。(住民は)よく魚や鰒(あわび)を捕える。水の深浅をとわず、みな沈没してこれをとる。

又渡一海千餘里至末盧
國有四千餘戸濱山海居
草木茂盛行不見前人好
捕魚鰒水無深淺皆沈沒
取之

・伊都国
東南に陸行すること五百里で、伊都(いと)国[筑前の国怡土(いと)郡]にいたる。官を爾支(にき)といい、副(官)を泄謨觚(しまこ)・柄渠觚(ひここ)という。千余戸がある。世々王がある。みな女王国に属している。(そこは帯方)郡使が往来するときつねにとどまるところである。

東南陸行五百里到伊都
國官曰爾支副曰泄謨觚
柄渠觚有千餘戸丗有王
皆統屬女王國郡使往来
常所駐

・奴国
東南(行)して、奴(な)国(筑前の国、那の津、博多付近)にいたる。百里である。官を兕馬觚(しまこ)という。副(官)を卑奴母離(夷守)という。二万余戸がある。

東南至奴國百里官曰兕
馬觚副曰卑奴母離有二
萬餘戸

・不弥国
東行して不弥(ふみ)国[筑前の国、糟屋(かすや)郡の宇瀰(うみ)、いまの宇美(うみ)町付近、または、筑前の国、穂波(ほなみ)郡]にいたる。百里である。官を多模(玉または魂)といい、副(官)を卑奴母離という。千余の家がある。

東行至不彌國百里官曰
多模副曰卑奴毋離有千
餘家

・投馬国
南(行)して投馬(つま)国にいたる。水行二十日である。官を弥弥(みみ)(耳)という。副(官)を弥弥那利(みみなり)(耳成・耳垂か)という。五万余尸ばかりである。

南至投馬國水行二十日
官曰彌彌副曰彌彌那利
可五萬餘戸

・邪馬台国
南(行)して、邪馬壹(やまと)(臺の誤り)国にいたる。女王の都するところである。水行十日、陸行一月である。官に伊支馬(いきま)がある。次(官)を弥馬升(みまと)という。(その)つぎを弥馬獲支(みまわき)といい、(その)つぎをか奴佳鞮(なかて)という。七万余戸ばかりである。

南至邪馬壹國女王之所
都水行十日陸行一月官
有伊支馬次曰彌馬升次
曰彌馬獲支次曰奴佳鞮
可七萬餘戸

■一万二千余里の道程
(帯方)郡から女王国にいたるのに一万二千余里ある。

女王国までの距離「一万二千余里」
『魏志倭人伝』には、帯方郡から女王国までの距離は、一万二千余里」と明記されている。
技術者の藤井滋氏は、『東アジアの古代文化』1983年春号(特集「邪馬台国め時代」)掲載の論文「『魏志』倭人伝の科学」のなかで、およそ、つぎのようにのべる。
「帯方郡から狗邪韓国までの七千余里、狗邪韓国から末廬国までの三千余里を合計すると、一万余里となる。したがって、末廬国から邪馬台国までは、一万二千余里から一万余里を引いて二千里ほどとなる。末廬国から邪馬台国までは、約千五百里から二千五百里の範囲にあることになる。
邪馬台国は、末廬国から一大国([壱岐]までの距離千余里)よりは遠く、狗邪韓国(三千余里)よりは近い所にあることになる。これを図示すれば、下の地図のようになる。地図は、帯方郡から邪馬台国までの一万二千余里のもっとも単純、明快な解答である。
それゆえ、地図の範囲外に、邪馬台国を比定する論者は、その正当な理由を、明示する必要があると思う。」

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■「実測里」と「標準里」
なぜ大きなちがいが生じたか?
『魏志』の、「倭人伝」「韓伝」に記されているつぎの十一個の「里数値」は、標準里(400メートル強)では、まず、説明がつかないようにみえる。
(1)韓……方可四千里
(2)帯方郡→狗邪韓国……七千余里
(3)狗邪韓国→対馬国……千余里
(4)対馬国……方可四百余里
(5)対馬国→一大(支)国……千余里
(6)一大(支)国……方可三百余里
(7)一大(支)国→末盧国……千余里
(8)末盧国→伊都国……五百里
(9)伊都国→奴国……百里
(10)奴国→不弥国……百里。
(11)帯方郡→女王国……万二千余里

100メートル以下となる「実測里」と、400メートル強となる「標準里」との大きなくいちがいは、なぜ生じたのか。これについては、つぎのような、さまざまな説が提出されている。
(a)標準里説
『魏志』の、「倭人伝」「韓伝」にみられる十一個の「里数値」をふくめ、すべて、標準里(400メートル強)によって、説明できるとする。文章の読みとり方の問題である、とする。
(b)誇張説
帯方郡の役人たちは、倭国を、帯方から、はるか遠方におこうとした。そのために誇張がおこなわれたとする。
(c)地域的短里説
当時、倭や韓においては、1里=100メートルていどの、短里が、実際におこなわれていたとする。
(d)魏晋朝短里説
当時は、倭や韓ばかりでなく、中国本土においても、1里=100メートルていどの、短里がおこなわれていたとする。
(e)日数換算説
海上の距離など、もともと、直接測定することはできない、海上を移動した時間または日数を測定し、それを、距離に換算したとみられる。魏使の記録など、最初の原資料は、すべて、時間または日数で記されていたのではないか。「韓地」や「倭地」のような不案内な場所では、中国本土内の熟知した場所にくらべ、移動に、はるかに時間がかかった。かかった時間または日数が、すべて長大であったのであって、その「時間」「日数」を、できるだけ、「里数」に換算しようとしたため、「里数」が、一見標準里にくらべて、長大になった。「水行二十日」「水行十日・陸行一月」など、日数で記した部分は、原資料の数字を、そのまま残したものであろう。意図的な「誇張」ではなく、実際にかかった時間または日数が大きかったのである。
(f))類ハッブル定律現象説
京都大学の人文科学研究所長の尾崎雄二郎教授がのべられる。
天文学で、地球から離れているほど、星雲の遠ざかる速度も大きいという「ハッブルの定律」がある。それと同じように、昔の人は、都から離れた場所は、遠く離れれば離れるほど、実際よりもはるかに遠いように感じた。年代なども、ある時代から、昔のことを考えるばあいには、遠い昔のことほど、実際よりも、さらにはるかに昔のことのように感じた。そのため、距離的、時間的にはなれた場所や時代を記すさいの数字は、実際よりも、大きくなりがちである(『季刊邪馬台国14号所載、尾崎雄二郎「古代里程記事における類「ハッブル定律現象について」参照)。
  すなわち、意図的な「誇張」ではなく、遠く離れており、正確には測れない「距離」や「時間」を、「感覚」は大きめに判断する傾向があるとする。

■個別詳細説明
(1)誇張説( 倭国を遠隔の地に置こうとした)
「誇張説」は、白鳥庫吉氏が、論文「卑弥呼問題の解決」(昭和23年8月・24年11月『オリエンタリカ』第1・2号。『白鳥庫吉全集 第一巻』岩波書店、1969年刊にも所収)で、もっともくわしくのべた。
白鳥庫吉氏は、およそ、つぎのようにのべる。
「魏使が重い恩賞にあずかろうとする下心から、ことさらに、倭国を遠隔の地に置こうとしたとする考え方もなりたつであろう。しかし、その理由だけでは解釈がつかない。
魏はまず公孫氏を滅し、高句麗を討ち、楽浪・帯方の二郡も掌中に握った。この隆々たる勢いは、人に、ある種の自信を懐かせ、倭国をも、海を越えて討伐しようという主戦論者を出したであろうことは、想像に難くない。他方、このような遠征は一大暴挙で、とうてい成功しがたいことを主張するものもいたであろう。倭国征討論を唱えるものがいたとすれば、それはどちらかといえば、倭国の事情にうとい中央政府の役人に多く、地方役人、とくに、倭国の事情に精通した帯方郡の役人たちはこの討伐に、もっとも反対するものであったであろう。帯方郡から郡使として倭国に来た経験のあるものなどが、この倭国討伐反対論者の錚々(そうそう)たるものであったことは、ただちにうなずかれることである。もしそうであるとすれば、彼らが帰郷してからの報告書を魏の朝廷に提出するさい、ことさらに実際の里程を延長し、倭国を帯方郡からはるかに遠方の海中におき、暗々裡に倭国征討は非常な大事業で、とうてい実行しえないものであることを、中央政府に知悉(ちしつ)させ、倭国征討論を封じようとしたであろうことも、察するに難くない。
『魏志』倭人伝の里数があまりにも過大であることの理由は、このように倭国討伐を阻止しようとした帯方郡の役人によって、故意に誇張されたためであると見るのが、一番穏当であろう。」

(2)地域的短里説( 「倭人伝」の里数は特別の里制による)
白鳥庫吉氏は、また、明治43年に発表した論文「倭女王卑弥呼考」のなかで、つぎのようにのべている。
「『魏志』がここ(倭人伝)に示している里数は、ところにより伸縮があるにしても、その全道程を通じて、ことごとく普通の標準里より短小であるので、あるいは、これをもって、魏時代に行われた制度であったと考えるものもいるかもしれない。」(原文は、文語文。岩波書店『白鳥庫吉全集 第一巻』)
このように、白鳥庫吉氏は、『魏志倭人伝』が、あるいは、特別の里制によるのではないかと疑った最初の人であった。
しかし、白鳥氏は、『魏志』の「高句麗伝」「夫余伝」などに記されている里数を、実測値とくらべ、それが標準里によっていることから、みずから提出した疑問を、みずから否定した。そして、「誇張説」をとった。

これにたいし、『魏志』の「韓伝」「倭人伝」の里数は、当時その地域でおこなわれていた特別の里制、いわゆる「短里」によるものであるとする見解がある。
山梨大学、立命館大学などの教授であった地理学者、藤田元春氏(1879~1958)は、昭和18年(1943)に、『上代日支交通史の研究』(刀江書院刊)という本をあらわしている。その本には、「魏志倭人伝の道里について」という章があり、『魏志倭人伝』の里程が考察されている。
藤田元春氏は、「誇張説」をとらず、「魏略時代に書記された多くの倭韓の里」は、「古周尺の尺度」によるとしている。
すなわち、実際に、当時おこなわれていたモノサシによるものであるうとした。
藤田元春氏は、わが国において、地域によって、1里が36町であったり、50町であったり、42町であったり、5町であったり、6町であったり、不定ではあるが、それなりの標準があったことをのべ、『魏志倭人伝』の道里も、それほど不確実なものではないであろうとする。
藤田元春氏は、およそ、つぎのようにのべる。
「道里というものは、いったん定まると、容易にかわらないといえる。したがって、『魏志』の道里なども無闇に記しかものではなく、おそらく魏以前のよほど古い時代の言い伝えではなかったかと考える。漢代の一里は、およそ400メートルである。しかし、日本は遠い国であって、漢代においては中国本土の尺よりも、さらに古い尺を用いていたのではなかったか。漢尺よりも、古い尺は、周尺である。」
そして、いくつかの仮定をおいたうえであるが、藤田元春氏は、つぎのようにのべる。
「魏略時代に書き記された多くの倭韓の里は、すべて今の日本里(1里を約4キロとする)の40倍(すなわち、魏略時代の倭韓の1里は、約100メートル)という古周尺の尺度で、全部明瞭に説明がつく。」

(3)魏晋朝短里説( 『三国志』全体が「短里」によって書かれた?)
「魏晉朝短里説」では、『三国志』全体が、「短里」によって書かれているとする。古田武彦氏が、『「邪馬台国」はなかった』で主張した。
この説は、現在、ほぼ否定されているとみてよい。篠原俊次氏の詳細な研究によれば、『三国志』のなかの、中国本土内の二地点間の距離の記載は、すべて、標準里によって説明される(『季刊邪馬台国』35号所載、「『魏志』『倭人伝』の里程単位」参照)。 1982年に、中華人民共和国の地図出版社から、譚其驤(たんきじょう)主編の、『中国歴史地図集-三国・西晉時期-』が出版されている。
『魏志』は、魏郡鄴県から、洹水(えんすい)までを50里、陽平亭までを、17里と記している。譚其驤氏の『中国歴史地図』をみれば、魏郡鄴県、洹水、陽平亭の三つの場所は、地図のように描かれている。
この地図 から、求めれば、鄴から洹水(安陽市のあたり)までが、約20キロ、陽平亭までが約7キロほどである。ここから、1里の長さを求めれば、鄴から洹水までのばあいで、400メートル、鄴から陽平亭までのばあいで、412メートルとなる。 これらの値は、直線距離によって求めたものであるが、1里を434メートルとする標準里で、十分説明できる。
直線距離のように、小さめの値ででるような測りかたでも、1里は、100メートルていどには、とうていならない。
道路の屈曲その他を考えれば、1里を、実測値よりも長めにすることは可能であるが、直線距離で求めたものよりも、短かめにすることはできない。

他の事例も同様であって、譚其驤氏の『中国歴史地図』によってチェックしてみると、篠原俊次氏ののべるとおり、『三国志』のなかの、「韓伝」「倭人伝」以外の中国本土内の二地点間の距離の記載は、すべて、標準里で説明できると考えるべきである。

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