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第314回 邪馬台国の会
邪馬台国時代は庄内式土器の時代
朝日新聞の記事について
『魏志倭人伝』長大の意味
『魏志倭人伝』の官名
神武東征の年代


 

1.邪馬台国時代は庄内式土器の時代

■邪馬台国の遺物についての強い法則性(略して、邪馬台国の法則)
『魏志倭人伝』に記載されている事物などに焦点をおくばあい、おもに、邪馬台国時代、三世紀代の遺跡・遺物は、福岡県を中心に分布する。おもに古墳時代、四世紀代の遺跡・遺物は奈良県を中心に分布する。
この二つは、それぞれ十分対比できる豊富で、特徴的な文化的文物をもっている。そのことはあきらかである。

・寺沢薫氏による「庄内様式期の土器出土鏡」の表に年代表記があり、そこでは西暦200~250年としている。この土器はほとんど九州から出土している。

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・奥野正男氏による「後漢鏡を伴う庄内期の遺構・墳丘墓」の表でも同じである。
平原遺跡の鏡を入れている。
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・小山田宏一氏による「庄内0式~庄内3式期の鏡の副葬」の表でも同じである。
平原遺跡の鏡を入れている。
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・樋口隆康氏のデータでも同じである
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上記4名の資料から言えることは、邪馬台国時代(庄内期)の代表的な鏡は内行花文鏡や、方格規矩鏡と言える。これらの鏡を取り上げるとほとんど、九州から出土する。
これらのデータからも、邪馬台国近畿説はおかしいと思える。

寺沢薫氏の論文では、「庄内期」は、西暦200年をすこしすぎたころから、250年をややすぎたころがあてはめられている。まさに、邪馬台国時代にあたるころの年代が、あてはめられている。

確実な根拠がないため、たとえば、布留0式とされている箸墓古墳の築造年代でも、考古学者によって、次のように、およそ百年ぐらいの幅で異なる。
・四世紀の中ごろ(西暦350年前後):関川尚功氏(奈良県立橿原考古学研究所)
・三世紀のおわりごろ(西暦280年~300年ごろ):寺沢薫氏(奈良県立橿原考古学研究所)
・三世紀の中ごろ(西暦250年前後):白石太一郎氏(大阪府立近つ飛鳥博物館長)
[注:白石太一郎氏が西暦250年前後とするのは『日本書紀』の崇神天皇の没年から算出している(前回講演)]

考古学の年代の根拠は何を根拠にしたか、根拠を深く調べていくとよく分からないものが多い。誰かが強く主張すると、みんながそちらに動いていくようである。

小説家で、工学博士でもある森博嗣(ひろし)氏は、その著『科学的とはどういう意味か』(幻冬社、2011年刊)のなかで、つぎのようにのべている。
「科学と非科学の境界はどこにあるのだろう?
実は、ここが科学の一番大事な部分、まさにキモといえるところなのである。
答をごく簡単にいえば、科学とは『誰にでも再現ができるもの』である。また、この誰にでも再現できるというステップを踏むシステムこそが『科学的』という意味だ。
ある現象が観察されたとしよう。最初にそれを観察した人間が、それをみんなに報告する。そして、ほかの人たらにもその現象を観察してもらうのである。ぞの結果、同じ現象をみんなが確かめられたとき、はじめてその現象が科学的に『確からしいもの』だと見なされる。どんなに偉い科学者であっても、一人で主張しているうちは『正しい』わけではない。逆に、名もない素人が見つけたものでも、それを他者が認めれば科学的に注目され、もっと多数が確認すれば、科学的に正しいものとなる。
このように、科学というのは民主主義に類似した仕組みで成り立っている。この成り立ちだけを広義に『科学』と読んでも良いくらいだ。なにも、数学や物理などのいわゆる理系の対象には限らない。たとえば、人間科学、社会科学といった分野も現にある。そこでは、人間や社会を対象として、『他者による再現性』を基に、科学的な考察がなされているのである。」
「まず、科学というのは『方法』である。そして、その方法とは、『他者によって再現できる』ことを条件として、組み上げていくシステムのことだ。他者に再現してもらうためには、数を用いた精確なコミュニケーションが重要となる。また、再現の一つの方法として実験がある。」

また、生物学者の池田清彦氏は、その著『科学とオカルト』(講談社学術文庫、2007年刊)のなかで、つぎのようにのべている。
「十九世紀までは、現在のような制度化された科学はなかった。そればかりか、今日、科学の重要な特徴と考えられている客観性や再現可能性を有した学問それ自体もなかったのである。」

そして。池田清彦氏は、「『再現可能性』という公準」という見出しの節をもうけて、例をあげて、(再現)可能性」「同じやり方に従って行なえば、だれがやっても同じ結果がでること」こそが、「科学」においては、重要であることをのべている。
私は、化学や物理学や医学・薬学など、実験可能な分野における「実験」にあたるものが、天文学における「観測」や。人文科学における「統計的調査」であると考える。

「実験」や、「観測」や、「統計的調査」は、いずれも、外部世界、客観世界にたずねかけ、「再現できる」かどうか、をたずねる「方法」であると思う。森博嗣氏のいうように、科学というのは、「方法」なのである。

以上から、平原遺跡を、庄内期のものとみるかみないか、など、個々の事例においては、「意見」の一致をみないことはありうる。調査のための基準や実験の条件などが、完全には一致しないばあいがありうる。調査や測定には、誤差もともなう。しかし、そのような違いをのりこえて、たとえば、いまとりあげている問題のばあい、庄内期の鏡は、奈良県よりも、福岡県のほうが圧倒的に多く出土しているという全体的、統計的な傾向、あるいは統計的にみた結論においては、寺沢薫氏、奥野正男氏、小山田宏一氏、樋口隆康氏の示すいずれのデータにおいても一致している。

2.朝日新聞の記事について

■『朝日新聞』大阪本社版2012年9月12日に奈良・箸墓古墳の宮内庁調査資料についての記事がある。

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ここで今回の資料から問題になるのは、箸墓古墳には槨があることが分かったことである。箸墓古墳より古いとされるホケノ山古墳では木槨が出土していおり、箸墓古墳も槨があることが考えられていたが、明確になった。
『魏志倭人伝』には、倭人の墓制が記されている。そこには「棺あって槨なし」とある。北部九州の「甕棺」や「箱式石棺」、あるいは「木棺直葬」などは、「棺あって槨なし」の記述に合致する。ホケノ山古墳や箸墓古墳は槨があり、これは『魏志倭人伝』の「棺あって槨なし」の記述に合致しない。槨のある墓制は、時代的に、邪馬台国よりものちの時代の墓制ではないか。

■箸墓古墳出土の「石槨」やホケノ山古墳(庄内3式期)出土の「木槨」は、『魏志倭人伝』の記述「棺あって槨なし」などにあわない。
いわゆる邪馬台国論争は、『魏志倭人伝』という中国の文献から発している。
ここでは、『魏志倭人伝』に書いてある具体的な事実、「棺あって槨なし」という墓制について議論してみたい。

・箸墓古墳(布留0式期)出土の「石槨」、庄内3式期といわれるホケノ山古墳の「木槨」をとりあげる。
まず、下図をご覧いただきたい。この図と写真のホケノ山古墳の「木槨」は、『魏志倭人伝』の記述にあわない。

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奈良県立橿原考古学研究所編『ホケノ山古墳 調査概報』(学生社、2001年刊)によれば、ホケノ山古墳においては、「木槨木棺墓がみつかった」「木の枠で囲った部屋があり、その中心に木棺があった」「栗石槓みの石囲いに覆われた木槨と木棺があった」という。『魏志倭人伝』には、倭人の葬制は「棺あって槨なし」と記されている。
ホケノ山古墳では、木槨の中に木棺があり、『魏志倭人伝』の記述にあわない。
『三国志』の筆者は、葬制には関心をもっていた。つぎのように各国ごとに、いちいち書き分けている。
  『韓伝』……「槨(外箱)ありて棺(内棺)なし。」
  『夫余伝』……「厚葬(贅沢な埋葬)にして、槨ありて棺なし。」
  『高句麗伝』……「厚く葬り、金銀財幣、送死に尽くす(葬式に使い果たす)。石を積みて封(塚)となし。松柏を列べ種(う)う。」(この記述は高勾麗の積石塚とあう。)
  『東沃沮(とうよくそ)伝』……「大木の槨を作る。長さ十余丈。一頭(片方の端)を開きて戸を作る。新たに死するものは、皆これに埋め、わずかに形を覆(おお)わしむ(土で死体を隠す)。」
  [倭人伝]……「棺あって槨なし。土を封じて冢(つか)を作る。喪(なきがら)を停(とど)むること十余日(もがりを行なう)。」

このように、倭人の葬制が「韓」「夫余」「高句麗」「東沃沮」のいずれとも異なっていることを記している。

・日本で「もがり(死者を埋葬する前に、しばらく遺体を棺に納めて弔うこと)」が行なわれたことは、『古事記』『日本書紀』に記述がみえるし、沖永良部島では明治のころまで行なわれていた(斎藤忠『古典と考古学』学生社、1988年刊)。
畿内のばあい、「木槨木棺墓」も「竪穴式石室墓」も、時代のくだる「横穴式石室墓」も、一貫して『魏志倭人伝』の「棺あって槨なし」の記述にあわない。
邪馬台国がかりに畿内にあったとすれば、魏の使いはそれらの葬制を見聞きせずに記したのであろうか。
時代のくだった『隋書倭国伝』は、「死者を斂(おさ)めるに棺槨をもってする。」と記す。隋の使いが畿内に行ったことは、『日本書紀』に記されている。西暦600年ごろ、日本の墓には棺槨があったのだ。中国人の弁別記述は鋭い。
いっぽう、九州の福岡県前原市の平原遺跡からは、40面の鏡が出土している。平原遺跡では、土壙(墓穴)のなかに割竹形木棺(丸太を縦二つに割り、それぞれの内部をくりぬいて、一方を蓋、一方を身とした木棺。断面は円形)が出土した。
平原遺跡の割竹形木棺は、幅1.1メートル、長さ3メートル。ここでは、「木の枠で囲った部屋」などはない。『魏志倭人伝』の「棺あって槨なし」の記述に合致している。
平原遺跡の時期は、1998年度の調査で周溝から古式土師器(はじき)が出土し、また出土した瑪瑙(めのう)管玉、鉄器などから、「弥生終末から庄内式(時代)に限定される」(柳田康雄「平原王墓の性格」『東アジアの古代文化』大和書房、1999年春・99号)。これこそ三世紀の邪馬台国時代に相当するといえよう。また、平原遺跡出土の仿製鏡の製作年代は、西暦200年ごろと考えられている(前原市文化財報告書の『平原遺跡』「前原市教育委員会、2000年刊」)。
北九州で大量に発見される「甕棺墓」や「箱式石棺墓」なども一貫して、「棺あって槨なし」の記述に合致するといえよう。
九州では、古墳時代初頭の土師器の出土した福岡県福岡市の那珂八幡古墳なども、割竹形木棺が直葬されていた。
九州でも時代が下り、竪穴式石室や横穴式石室が行なわれるようになると、「棺と槨」とがある状態となる。このことは、「棺と槨」とがある葬制は時代がやや下るのではないかという疑いをもたせる。

・中国の「槨」は棺の外箱である
以上述べてきたような疑問を、2008年6月22日の「邪馬台国の会」に考古学者石野博信氏をお招きして、討論会「邪馬台国は畿内か九州か」を開いたさい、私は石野氏にぶつけてみた。
石野氏の答えは、つぎのようなものであった。
「『槨』ですけれども、ホケノ山を掘って橿原考古学研究所が木槨と発表したときに、講演会で会場からの質問がありました。『邪馬台国が大和でないことがこれで決まったのですか』という質問でした。
私はそのときにつぎのように答えました。『魏志倭人伝』で『棺ありて槨なし』と書いているときの『槨』は漢墓を参考にしますと、学校の教室くらいの大きさがあります。部屋を三つも四つも連接しているものもあります。それを『木槨』と呼んでおります。魏に使いに行った倭人が倭の墓の構造を説明したか、倭に来だ魏の使者が倭人の墓を見て、棺を囲む施設があっても、そんなものは『槨』ではないと思ったのではないか、と。

ホケノ山古墳の木槨は、2メートル70センチ×7メートルですから、そんなものは『槨』とは呼べない。だから『棺ありて槨なし』と言ったのではないか、と考えています。」(「季刊邪馬台国」100号、2008年刊)

石野氏にやや近い見解を、桜井市教育委員会の橋本輝彦氏や、考古学者の萩原儀征(よしゆき)氏も述べている。石野博信氏『大和・纏向遺跡』(学生社、2005年刊)に、つぎのような座談会記録が載っている。出席者は石野氏のほか、寺沢薫、橋本輝彦、萩原儀征の三氏である。やや長い引用になるが、紹介してみたい。

「寺沢 卑弥呼の墓は『棺ありて槨なし』で考えるでしょう。
石野 そうそう。だから、ホケノ山古墳の石囲い木槨が新聞に載ったときに問い合わせがあった。『魏志倭人伝』では邪馬台国の葬法は『「棺ありて槨なし」だから、邪馬台国は大和じゃないということがわかったのですか』という質問でした。
寺沢 あの『棺ありて槨なし』の「槨なし」というのは、中国人的な目で見た槨がないということですね。だから、卑弥呼が大和にいたという前提で物を言えば、逆にホケノ山のものは「槨」じゃないのでしょうね(笑)。
石野 中国の槨は学校の教室かそれ以上の大きな部屋だからね。
寺沢 ぼくは日本のこの時期の木槨というのは土留めだと思っているから。
橋本 『槨』という用語をわれわれが使ったから、一般の人が誤解しちゃったのかもしれないですね。
石野 竪穴式石槨なんて言うのも恥ずかしいよ。むしろ今の日本語だったら石室、木室でいいだろうと思う。
寺沢 でも中国でいう室は、あとで追葬可能な機能をもった構造の大ぎさですから、どちらかといえばやっぱりあれは槨なんでしょうね。
萩原 二重木棺みたいなものですね。
橋本 中国人が見るとちゃんちゃらおかしかった、ということなのでしょうけれどもね。」

2008年6月22日の「邪馬台国の会」では、時間切れで「槨」の問題について、それ以上、石野博信氏と討論できなかった。いつか石野氏とさらに議論を重ねる日がくればと願っている。
石野氏は「槨」を「学校の教室くらいの大きさがあります」「中国の槨は学校の教室かそれ以上の大きな部屋」と述べている。

しかし、そのように大きなものがあるとしても、それは中国の「槨」の本質なのだろうか。

・『中国古典』の「槨」の記述
まず、『三国志』の範囲でみてみる。『三国志』の『魏志』の「文帝紀」に、つぎのような文がある。
「棺槨(内棺と外棺)は、骨を朽ちさせ、衣衾[衣服と褥(しとね)]は肉を朽ちさせるだけのもので充分と考える。」(世界古典文学全集『三国志I』筑摩書房、1977年刊)
この文で、「三国志Ⅰ」の翻訳者は、「棺槨」を「内棺と外棺」と訳している。要するに「槨」は「外棺」で、「大きな部屋」のようにはみえない。
藤堂明保編の『学研漢和大字典』(学習研究社、1980年刊)にも、「椁(=槨)」は「うわひつぎ。棺を入れる外箱。外棺」とある。

諸橋轍次編の『大漢和辞典』(大修館書店、1980年刊)でも、「ひつぎ。うわひつぎ。棺を納める外ばこ」とある。

『後漢書』の「孝明(こうめい)帝紀」(第二代明帝の紀)につぎのようにある。
「帝、初め寿陵(じゅりょう)[生前に建てておく墓]を作るや、制して水を流さしむるのみにして、石槨の広さは一丈二尺、長さは二丈五尺、墳を起つる得ること無からしむ。」
後漢時代の1尺は23センチほど。1丈は2.3メートルほどである。石槨の幅一丈二尺は2.8メートルほど、長さ二丈五尺は5.75メートルほどである。ホケノ山古墳の木槨、2.7メートル×7メートルよりも小さい。後漢の帝王の「槨」でも、学校の教室ほどはないようにみえる。
中国の周の末から秦・漢時代の儒者の古代の礼についての説を集めた『礼記(らいき)』の「檀弓(だんぐう)編」の「上」にはつぎのようにある。

「天子の棺は四重。(中略)もっとも外側に柏(ひのき)の椁(槨)をかぶせる。これは柏の根もとの部分でつくり、槨の長さは六尺(約1.35メートル)である。」
「斉の国子高がいった。衣服が死者を包み、棺が衣服を収め、椁が棺を収め、墓土が椁を収める。」
ここでは、「棺が衣服を収める」のと同じように、「椁が棺を収める」ものであるといっている。長さ六尺(約1.35メートル)では、ホケノ山古墳の木槨、長さ7メートルほどよりも、かなり小さい。
さらに『晋書』の第三十三の、「王祥(おうしょう)伝」(二十四孝の一人。継毋につかえて孝であったことでしられる)などでも、王祥は、子孫に遺訓をのこし、「槨は棺を容(い)るるを取れ(槨取容棺)」と述べている。「槨」は「棺」が、はいるていどのものを用いよ、と述べているのである。

・現代中国考古学者の「槨」の記述
現代の中国の考古学者も、槨を教室のように大きなものとは、考えていないようである。現代中国で出ている『文物』という雑誌の1973年、第2期に洛陽の、東関の地で出た後漢時代の墓についての報告がのっている。

そこに、出土した墓の「室」と「槨」と「棺」についての、記述がある。これを、私なりに、日本語に訳したものを、下に示しておく(「文物」記載の文章の日本語訳)。
ここでは下図のような墓の図が掲載されている。「室」と「槨」と「棺」とは区別され、「槨」については、つぎのように記されている。
「槨の長さは、1.6メートル、幅1メートル、高さは0.5メートルであった。」
「棺の壁と槨の壁とのあいだのへだたりは3センチメートルほどであった。」
このていどが、帝王でない人の墓の「槨」の大きさではないか。
これらにくらべれば、ホケノ山古墳の木槨は、十分立派な木槨のようにみえる。
ホケノ山古墳の木槨は、『魏志倭人伝』の記す「棺あって槨なし」の記述とあわない。
槨のあるホケノ山古墳は、時代的に、『魏志倭人伝』の時代、邪馬台国時代よりも後のもののようにみえる。

 

・「文物」記載の文章の日本語訳
墓の中から棺三つが、ともに見いだされた。後室の中から二つ、南耳室(耳のようにつきでた室)から一つの計三つである。人骨とそれをおいた台は、すべて、すでに朽ちそこなわれていた。
後室の中の二つの棺は、南北にならべておかれていた。頭を西にし、足を東にしていた。南がわの棺の外に槨があった。棺の壁と槨の壁とのあいだのへだたりは3センチほどであった。棺はすでにくさりくずれて灰になっていた。
槨のほうは、かえって、保存がよく、比較的安全といってよいほど、ととのっていた。ただ、槨の蓋は、盗掘者によつて、打ちこわされていた。槨は、長方形をしており、底部の中ほどが内むきにくぼんでいた。前後の両端は円い孤になっていた。角のところは、およそみな、内がわは円く、外がわは方形になっていた。槨の長さは2.6メートル、幅は1メートル、高さは0.5メートルであった。槨の蓋の厚さは2センチ。槨のつくりは、相当に堅くしっかりしており、きちんとしていた。蓋と壁とをくっつけ縫ったあとは、見出すことはむずかしかった。この一つの遺体については、特別あつかいしているようにみえた。槨の外は布でつつみ封じ、漆の朱い絵がかかれていた。ただ、脱落がかなりはなはだしかった。えがかれている紋様や飾りは、はっきりしていない。重さは、一般の木槨にくらべ、軽いものであった。槨内の棺の木は、すでに朽ちていた。ただ、(中の棺を守るべき)槨はかえって、このように久しくよくたもたれていた。槨が堅くしっかりしていることと、防腐性が比較的高かったことを示していた。これは、特殊な材料を用い加工し、作ったものであることを示していた。

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とすれば、ホケノ山古墳よりも、さらに新しいかとみられる箸墓古墳は、当然、ホケノ山古墳よりも時代が下るとみられる。 

現在の考古学の主流派は、白石太一郎氏(大阪府立近つ飛鳥博物館館長)らに主導されて、箸墓古墳の築造年代などを百年ほど、古くみつもっている可能性が大きい。この百年の違いは、きわめて大きな違いである。
そして、白石太一郎氏らの理論の主要な根拠は、考古学的事実にもとづくものではない。白石太一郎氏の年代論の主要な根拠は、考古学的な年代論ではなく、笠井新也氏による「古事記の記す天皇の没年」にもとづく文献的な年代論なのである。そして、文献的な年代論にもとづけば、第10代崇神天皇の没年は、西暦360年前後とみられ、箸墓古墳がきずかれたのも、せいぜいその10年前後ていどとみられる。

■『朝日新聞』の予期せぬ新情報
箸墓古墳について、その中は竪穴式石室とみられる。
『朝日新聞』東京本社版2012年9月9日は宮内庁発の1次情報が減って、2次情報が増えている。竪穴式石室の記事がない。

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『朝日新聞』大阪本社版2012年9月9日
1面

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・地下式板石積石室
箸墓古墳の竪穴式石室について、
九州の川内市には邇邇芸命の墓ではないかと言われているお墓がある。このお墓は「地下式板石積石室墓」という平らな石を積むお墓である。しかし地下に置かれており地面に出てこない。九州の北の方では地面の上の方に土を盛ってお墓とし、割型木棺や箱式石棺を埋めるお墓がある。近畿の箸墓古墳などはこの両方が合わさったようなお墓ではないか。
今回は時間がないので、詳細については別の機会に説明する。


3.『魏志倭人伝』長大(ひととなる)の意味

『魏志倭人伝』につぎの文がある。
卑弥呼の年齢について述べた個所である。
「年、已(すで)に長大なれども、夫壻(ふせい)無し。」この文のなかの「年已に長大なれども」とはどういう意味であろう。なんとなく「おばあさんであるが」という意味のような印象を受ける。「おばあさん」とはいかないまでも、「年をとっても」などと翻訳されていることが多い。
しかし、ここの「長大」はそのような意味ではない。「成人したけれども」あるいは「大人になったけれども」の意味である。それは、日本の古典の使用例からも、中国の文献の使用例からも、そう言える。

日本文献の例からあげよう。
わが国の文献で、「長大」ということばがはじめてみえるのは、『上宮聖徳法王帝説』である。『上宮聖徳法王帝説』は、最古の聖徳太子伝である。そこには、つぎのようにある。
「上宮王(聖徳太子)産生(あ)れます。王(おおきみ)の命(みこと)、幼く少くして聡敏(さと)く智(さとり)有り。長大(ひととな)る時に至りて、一時(ひととき)に八人(やたり)の白(まを)す言(こと)を聞き其(そ)の理(ことわり)を弁(さだ)む。」(岩波書店刊、日本思想大系2「聖徳太子集」による。原文は漢文。校注および訓(よ)みは、家永三郎・築島裕氏による。)

ここでは、「長大」は、「長大(ひととな)る」と読まれている。そして、「長大(ひととな)る」について、『聖徳太子集』の補注で、つぎのように説明されている。
成実論(じょうじつろん)[仏教書・一切皆空を説く]天長(てんちょう)[824~834年]点(漢文を訓読するために原文に書き加えた文字・符号)に『長大』を『人トナラシメタテマツレリ』と訓じている。ヒトトナルは成人となるの意で、この名詞形はヒトトナリである。」
『上宮聖徳法王帝説』は、成立年代の異なる五つの部分からなる。「長大」をふくむ部分は、奈良時代の成立とみられる。『古事記』『日本書紀』と、ほぼ同じ時代の成立である。「長大」は、「老人になる」というような意味ではなく、「成人となる」「成年に達する」意味で用いられている。
なお、『日本書紀』の「推古天皇紀」では、さきの『上宮聖徳法王帝説』の、「一時(ひととき)に八人(やたり)の白(まを)す言(こと)を聞きて」のところを、「壮(をとこさかり)に及びて、一(ひとたび)に十人(とたり)の訴(うたへ)を聞(き)きたまひて」と記している。
「長大」を、「壮(男ざかり)」にあたるとしている。               

「長大」という言葉がつぎに日本文献にあらわれるのは、奈良時代に成立した藤原氏の人物伝『藤氏家伝(とうしかでん)』である。『藤氏家伝』の「武智麻呂伝(むちまろでん)に、「年長(としひととな)るに及(いた)りて、小節(せうせつ)に繋(かか)らず」(年及長大、不繋小節)とある。
この「長大」も、「成人するにおよんで」の意味である。

最終的には、平安時代の810年~824年(弘仁年間)に成立したとみられる『日本霊異記」(にほんりょういき)』に、つぎのような使用例がある。
「(産まれた児が、)長大(ひととな)り、年十有余(としとをあまり)の頃(ころほひ)に、」(上巻、第三。この文では成人して、十有余のころに、とのべている。)   「(子牛が、)長大(ひととな)りて後に、」(上巻、第二十。これは、子牛が、車を引くことができるていどに大きくなった、ことをのべているところにみえる。)
「長大(ひととな)るに随(したが)ひて、面容端正(かほかたちきらぎら)し。」(中巻、第三十一。) 
「(子牛が、)長大(ひととな)り、寺の産業(なりはひ)に馳(は)せ使(つか)はれ、」(中巻、第三十二巻。)
「(女の子が、)八箇月(やつき)を経(へ)て俄(にはか)ならずして長大(ひととな)る。」(下巻、第十九。八ヵ月のあいだに、徐々に大人になってしまった怪異をのべる。)

西暦927年に撰進された律令の施行細則である『延喜式』にも、「長大」の使用例がある。『延喜式』の巻第五の「斎宮(いつきのみや)」に、つぎの文がある。
「凡斎王(およそいつきのみこ)の国に到(いた)るの日は、度会郡二見郷(わたらひのこほりふたみのさと)の礒部氏(いそべうぢ)の童男(どうなん)を取(と)り、卜(ぼく)して戸座(へざ)と為(な)し、其の炬火(ひたき)には当郡(たうぐん)の童女(どうにょ)を取り、卜(ぼく)して用(もち)ひよ。但し喪に遭ひ及長大(またひととな)らば、すなはち替(か)へよ。」
  吉川弘文館刊の『国史大系』では、この文の原文は、つぎのようになっている。
「凡斎王到国之日。取度会郡二見郷礒部氏童男。卜爲戸座。其炬火取当郡童女卜用。但遭喪及長大即替之。」
ここの文の意味は、「童男童女が大人になる」という意味である。したがって『延喜式』の「長大」の訓読みの「ひととなる(大人になる)」はきわめて的確である。

このような訓(よ)みの伝統は、その後も引きつがれる。『今昔物語』巻第一の第三話の「太子、年已(すで)に長大に成給(なりたま)ひぬ」も同じ意味である。この文は、つぎのような文脈のなかで用いられている。
「今は昔、浄飯(じようぼん)王の御子悉達(しつだ)太子は十七歳におなりになったので、父の王は大臣たちを集めてお話し合いになり、『太子はもうりっぱにおとなにおなりだ(太子、年已に長大に成給ひぬ)。そこで妃を奉ろうと思うが、理想的な妃としては誰がいるだろうか。』」
つまり、「長大」は「妃をめとるほど大人になったこと」を意味している。

『平家物語』巻六のつぎの文の「長大」も同じ意味である。
「かひがひしう廿余年養育す。ようよう長大するままに、ちからも世にすぐれてつよく……。」
この文は二十余年の養育の結果、木曾義仲が大人になったことを言っている。

このような使い方は『三国志』のばあいも同じである。「東夷伝」のなかで拾ってみても、つぎのような例がある。
「今の高句麗王の曾祖(父)の、名は宮(きゅう)なり。生まれて能(よ)く目を開き視(み)る。其の国の人之(これ)を悪(にく)む。長大するに及び、果たして凶虐にしてじ数数寇鈔(しばしばこうしょう)し、[そのために]国、残破せらる。」(「高句麗伝」)この文の「長大」も「成長する」「大人になる」の意味である。

『三国志』の「東夷伝」の「高句麗伝」ではつぎのような例もある。
高句麗の習俗では、婚姻が成立すると、婿は娘の家の妻屋(つまや)に住み、子供が生まれてその子が「長大」になると、妻をつれて自分の家に帰る。

以上内外の文献はいずれも「長大」の意味が「おじいさんやおばあさんになって」の意味や「年をとって」の意味ではないことを示している。単に「成長して」「成人して」「大人になって」の意味で用いられている。
もともと、「長」には、「長(ちょう)ず」「成長する」「大人になる」の意味がある。

『日本書紀』の「神武天皇紀」に、つぎのような文がある。
「長(ひととな)りたまひて日向国(ひむかのくに)の吾平津媛(あひらつひめ)を娶(ま)きて、妃(みめ)としたまふ。」
また、『日本書紀』の「神代上」につぎのような文がある。
「素戔鳴尊(すさのをのみこと)、年已(としすで)に長(お)いたり。復(また)、八握鬚髯生(やつかひげお)ひたり。しかれども、天下(あめのした)を治(しら)さず。」
この文の「年已に長(お)いたり。」も、「おじいさんになった。」の意味ではなく、「成人した。」の意味とみられる。



4.『魏志倭人伝』の官名

『魏志倭人伝』で奴国などに卑奴母離とい官職が書いてある。「卑奴」は田舎という意味である。
『古事記』の神々の名が、忍穂耳の尊(おしおみみのみこと)の耳(みみ)の名が、投馬国などに出てくる「弥弥(みみ)」と同じか?
不弥国の多模の官名があるが、これは「たも」と発音するのではなく「たま」と発音する。
「模」は随唐音では「も」だが、秦漢音では「ま」である。

古くから中国で知られた名は秦漢音で読まれ、その後に知られた名は随唐音で読まれたとする人もいる。

314-14

314-15



5.神武東征の年代

白鳥庫吉「倭王卑弥呼考」(1910年)
「つらつら神典(『古事記』『日本書紀』)の文を考えると、天照大御神は、素戔鳴(すさのお)の尊の乱暴な振るまいを怒って、天の岩戸に隠れた。このとき、天地は、暗黒となって、万神の声は狭蠅(さばえ)のごとく鳴りさやぎ、万妖がことごとく発した。ここにおいて、八百万(やおよろず)の神たちは、天の安の河原に神集(かんつど)いに集って、大御神を岩戸から引きだし、ついで素戔嗚の尊を逐いやったので、天地はふたたび明るくなった。ひるがえって『魏志』の文を考えると、倭女王卑弥呼は狗奴国男王の無体を怒って、長くこれと争ったが、その暴力に堪えず、ついに戦中に死んだ。ここにおいて、国中大乱となり、一時男子を立てて王としたが、国中これに服せず、たがいに争闘して数千人を殺した。しかるに、その後、女王の宗女壱(台)与を奉戴するにおよんで、国中の混乱は一時に治った。これは地上に起きた歴史上の事実で、かれは、天上に起きた神典上の事跡であるけれども、その状態の酷似すること、何人もこれを否認することはできないであろう。もしも神話が太古の事実を伝えたものとすれば、神典の中に記された天の安の河の物語は、卑弥呼時代におけるような社会状態の反映とみることができようか。」

和辻哲郎『日本古代文化』(岩波書店.1920年刊)
「君主の性質については、記紀の伝説は完全に魏人の記述と一致する。たとえば、天照大御神は、高天の原において、みすがら神に祈った。天上の君主が、神を祈る地位にあって、万神を統治するありさまは、あたかも、地上の倭女王が、神につかえる地位にあって人民を統治するありさまのごとくである。また天照大御神の岩戸隠れのさいには天地暗黒となり、万神の声さばえのごとく鳴りさやいだ。倭女王が没した後にも国内は大乱となった。天照大御神が岩戸より出ると、天下はもとの平和に帰った。倭王壱(台)与の出現も、また国内の大乱をしずめた。天の安河原においては八百万神が集合して、大御神の出現のために努力し、大御神を怒らせたスサノオの放逐に力をつくした。倭女王もまた武力をもって衆を服したのではなく、神秘の力を有するゆえに衆におされて王とせられた。この一致は、暗示の多いものである。」
「我々は国民の大きい統一が三世紀以後の機運であることを知っている。また、女王卑弥呼が、倭人の間においても、新しい現象として起ったという形跡を、魏志の記述。から発見する。明らかに国家統一後の所産である神代史が、右のごとき一致を示すとすれば、たとえ伝説化せられていたにもしろ、邪馬台国時代の記憶が、全然国民の心から、消失していたとは思えない。」大和に都する皇室のためには、皇祖が、大和に降臨したとする方が、はるかに意味深い。物語りとしても、かえって、その方が、出雲国譲りの事件を活かせることになる。これらの好都合をすべて無視して、天孫を九州に降臨せられたと、国家統一のために神武東征を必要とするのは、作者の作為とは思われない。統一の力が九州から動いた。このことは、恐らく否定しがたい伝説であったろう。」

「大和朝廷の国家統一については、まず、神武東征の物語が関係をもつ。・・・神代と人代とを結がつける物語が、とくに作者のいちじるしい潤色をうけたのは当然である。しかし、人名や地名や個個の事件などを別として、『国家を統一する力が九州から来た』という物語の中核は、はたして作者の作為であろうか。



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