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第319回 邪馬台国の会
天岩戸事件と日食
邪馬台国についての諸説
『魏志倭人伝』はいつどこでだれが書いたか
『魏志倭人伝』を徹底的に読む。


 

1.天岩戸事件と日食

『朝日新聞』の記事で「247年の日食は日本では日没後で、畿内、九州では皆既日食が見られなかった」とした。

『朝日新聞』2010年3月28日(日)朝刊の記事[参考]
日食ヒントか邪馬台国の地
神話もとに天文学挑戦
邪馬台国があったのは畿内か九州か、天文学の立場から論争に決着をつけられないかと、国立天文台の2人の学者が挑んでいる。
邪馬台国は3世紀ごろ、あったとされ、クニの始まりは1世紀ごろという説がある。
手がかりとして、国立天文台の谷川清隆特別客員研究員と相馬充助教が2年かけて調べたのは、その間の1~3世紀に日本付近であった皆既日食の通り道だ。
皆既日食が見られる皆既帯の場所は限られる。邪馬台国で皆既日食が見えたのではないかという推論をもとにした。
推論の根拠は日本書紀だ。天照大神が天の岩屋戸に隠れ、辺りが闇に包まれたという神話が描かれている。記述が具体的であることから、この描写は皆既日食を指しているという解釈がある。天照大神は卑弥呼だったのではないかとの説もあり、岩屋戸神話は邪馬台国など文明地で見られた皆既日食に基づいているのではないか、と推論した。
1~3世紀には53年、158年、247年年、248年の4回の皆既日食があったことが計算上わかっている。
問題となったのは、地球の自転だった。月の引力などの影響を受け、地球が1回転する時間は少しずつ長くなっている。このため、約2千年前に起きた日食の場所をシミュレーションするには、時刻の補正が必要だった。
2人は朝鮮の歴史書「三国遺事(さんごくいじ)」に出てくる「新羅地方で太陽が消えた」との記述に着目、これが新羅で見えた158年の日食と特定した。そこから導いた補正の幅から、248年の皆既帯は東北地方、247年の日食は日本では日没後で、畿内、九州いずれも皆既日食が見られなかったことがわかった。
158年の日食は朝鮮半島から山口、愛媛で日没直前の午後7時すぎに20秒ほど皆既になったが、これも畿内、九州は外れていた。
53年の皆既日食は西日本を通っていた。午前11時すぎに30秒ほど皆既になっていた。時代が古いぶん、補正の誤差を絞りきれなかったが、誤差の範囲に畿内も九州も含まれていた。谷川さんは「誤差を縮められれば、皆既帯を絞れる。それを導き出せるような、この時期の天文現象を記した文献が世界のどこかに残っていないか、探したい」と話している(東山正宜)

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■国立天文台の元の論文に対する疑問
『朝日新聞』の記事の元の論文を取り寄せ、下記の3つの疑問を感じた。

①日食補正の計算の出発点の元になっている『三国遺事』延烏郎・細烏女の記事問題
この記事の元になる、皆既日食の歴史的出来事として、朝鮮の『三国遺事』(『三国史記』1145年だが、『三国遺事』その後の1285年にできている)の延烏郎細烏女(えんうろうさいうじょ)の話があり、この話を皆既日食として採用している。

延烏郎細烏女の話[参考で一部記載]
第八代、阿逹羅王の即位四年丁酉(157年)に、東海のほとりで、延烏郎と細烏女という二人の夫婦が住んでいた。
ある日、延鳥が海へ行っで藻を採っていると、急に一つの岩が〔一匹の魚だともいう〕(彼をのせて)日本へ運んでいってしまった。そこの国の人びとが見て、これはただならぬ人物だとして、王にたてまつった[『日本帝紀』を見ると、(この出来事の)前後に、新羅人で(日本の)王になったものはいないから、これはあるいは辺鄙な地方の小王になったことであって、ほんとうの王ではないらしい]。
細烏は、夫が帰ってこないのを変に思い、(海辺へ)行ってさがしてみると、夫が脱いでおいた履物が岩の上にあった。それで彼女もその岩の上にあがると、岩がまた前と同じように動いて運んで行くのであった。そこの国の人たちが彼女を見て驚き、王に申しあげたので、(ようやく)夫婦が再会し、(彼女は)貴妃に定められた。
このとき新羅では、太陽と月の光が消えてしまった。日官(気象を司る役人)は、「太陽と月の精が、わが国にあったのに、日本にいってしまったため、このような異変がおこったのです」と言上した。(そこで)王は使者を日本にやって、二人をさがしたところ、延烏が、「私がこの国にきたのは、天がそうさせたからである。だから(今さら)もどれようか。だが、私の妃が織った細綃(さいしょう)[上等のきぎぬ]がある。これをもっていって天に祭ればよかろう」といって、その絹をくれた。使者が帰ってきて申しあげ、その言葉どおり祭ると いかにも太陽と月(の光)がもとにもどった。その絹を御庫にしまっておいて国宝とし、その倉庫を貴妃庫と呼び、祭天した場所を迎日県、または都祈(とき)野と名づけた。

この記事は何日間も太陽や月が消えている。これは皆既日食の話か?火山の可能性もある(朝鮮半島で白頭山の噴火なども考えられる)。

『三国史記』に阿達羅尼師今(アタルラニサコム)[アタルラ王]の時代4年(西暦157年)の記事に日食の記述がない。また、20年(西暦173年)5月倭国の女王、卑弥呼が使臣を遣わして修交したとあり、この年代は信頼性に乏しく資料として使われない。

この年代について、那珂通世は、「上世年紀考」のなかで、つぎのようにのべている。
「韓史も、上代にさかのぼるにしたがい、年暦が延長されていると思われるところのあることは、ほとんどわが国の古史書と異ならない。」                 
「百済の古爾王(こじおう)は、その父、蓋婁王(がいろおう)の没後68年に立ち、在位53年に及んだので、古爾の年は、少くとも百二十余歳となる。比流王(ひるおう)は、その父仇首王(きゅうしゅおう)の没後71年に立ち、在位41年に及んだので、比流の寿命も、すくなくとも百十歳となる。
新羅の上代にも、寿命が九十九歳の脱解尼師今(だっかんにしきん)がいる。また逸聖尼師今(いっせいにしきん)は、儒理尼師今(じゅりにしきん)の長子であって、儒理の没後77年に立ち、在位21年に及んだので、寿命は百歳を過ぎるであろう。訖解尼師今(きっかいにしきん)は、その父干老角干の没後五十七年にあたって、『群臣議して日(い)う。訖解は幼くして老成の徳がある。すなわち、奉じてこれを立てた。』
とあるのは、すでに不都合である。さらに、その後在位47年となっているのは、また異常の長寿である。」としている。

このように西暦158年としている頃は日本も朝鮮も伝承の時代である。

 

②Stephenson(スティーブンソン)によるΔTについての取り扱い
地球の自転の速度はじつは変化している。数百年単位で見た場合、徐々に遅くなっている。さらに詳細に見ると、遅くなったり速くなったりしているのである。一様に流れる時刻をTT(地球時)と書く。一方、地球の自転を基にはかる時刻をUT(世界時)と書く。この2つの時刻の差をΔT=TT-UTと書く。過去において地球自転時計の進みが速ければ、ΔTは正である。

ΔTは重要なパラメータで、この計算で採用するデータはStephensonが注意を喚起している。
データをくわしく検討して下記に分類し、Aによって傾向線splineを描き、BによってΔTの幅を示す。
Aクラス:timed(信頼できる)
Bクラス:untimed(やや信頼できる)
Cクラス:others(rejectすべき)

その結果のグラフが、下図となり、そのグラフから、時代が古くなると、誤差がだんだん大きくなる。西暦300年頃[b]で4.14の幅。統計的に処理することが重要となる。

また、『朝日新聞』の記事の元の論文で、延烏郎細烏女の話は日時の記載がないので、Stephensonによる「untimed」扱いとなる。その他でもStephensonの注意に反しているようだ。

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③『三国志』、『晋書』に記されている「日食があった」ことを取り入れていないこと。
『三国志』、『晋書』については修正論文参照

 

■修正論文
この疑問から、相馬氏、谷川氏に申し出て、打ち合わせを行い、双方の譲歩により、下記の共同の論文を出した。

・西暦247年3月24日の日食について
相馬充、上田暁俊、谷川清隆、安本美典
国立天文学報 第14巻第3・4号(2012年4月)(主要部掲載)
西暦247年前後の地球時計遅れ△Tの値を見積もる。西暦247年3月24日(ユリウス暦)の日食に関する記事が三国志と晋書にあることを見つけた。その記述によると、当該日食は洛陽において皆既でなく、深食であった。このことから△T > 7750秒を得た。『朝日新聞』の記事の元の論文で谷川・相馬は,西暦247年前後に△T=8000秒は大きすぎて本当らしくないと述べたが、この結論は訂正すべきかもしれない。本論文の結果からすると、西暦247年3月24日の日食は北九州でも深食である。とくに北九州市や北九州沿岸の島では皆既であった可能性がある。△Tが単調に減少していない可能性がある。

『朝日新聞』の記事の元の論文において、谷川・相馬は「天の磐戸」日食の候補を探した。その際、『三国遺事』の「延烏郎細烏女」伝説が重要な役割を果たした。すなわち、伝説に「このとき新羅では、太陽と月の光が消えてしまった」とあるのを皆既日食と解釈し、『三国遺事』の作者が意図する時代を信用して紀元158年7月13日(ユリウス暦)の日食であるとした。当時の△Tを幅広く動かしても新羅の首都慶州(Gyeongju)において深い食であることは確かである。『朝日新聞』の記事の元の論文では、この日食の皆既帯が慶州を通るとして、 7692秒<△T<7933秒を得た。この値を信用するなら、 100年後の紀元247年前後に△T=8500秒に増えることは考えにくい。『朝日新聞』の記事の元の論文の記述を再録すると、「247年当時は△T=7300秒あたりなので、この日食も候補からはずれてしまう」これが谷川・相馬の結論であった。

朝鮮の古代史は過去に向かって引き伸ばされている可能性があると指摘する歴史学者がいる。すなわち、「韓史モ、上代ニ遡ルニ随ヒ、年歴ノ延長セリト覚シキ所アルコトハ、殆卜我ガ古史ニ異ナラズ」(那珂通世)。「延烏郎細烏女」伝説が日食について述べているにしても、紀元150年代ではなく、もっと現代に近いかもしれない。そうだとすると、『朝日新聞』の記事の元の論文の前提は崩れ、結論はあやしくなる。

正始8年春2月朔(西暦247年3月24日)の日食に関する直接の記録が三國志と晋書にある。とくに三國志巻十四と晋書巻十二の情報は、実際に日食を観察したことが読み取れて有用である。本論文は、この情報を考慮に入れて△Tの範囲、および当該日食が日本で皆既または皆既に近い日食であったかどうかを調べることを目的とする。三國志および晋書の記事をここに載録しておく。(注:三國志巻十四と晋書巻十二の原文表記省略)

『三国史』の記述要約:
この時代、曹爽が権力を一手に握り、丁謐・鄧颺(とうよう)らが法律・制度を軽視し改変した。たまたま日食という大変があり、群臣に詔勅が下ってその意味について質問があった。蒋濟は上奏して述べた、「昔、大舜は[尭の]統治を助けていたとき、徒党ができることを警戒し、周公は[成王の]政治を輔佐していたとき、[成王に]朋友関係を慎むようさとしました。[春秋時代に]齊侯が天変について質問したとき、[宰相]晏嬰は恩恵を施すようにと答え、魯の君が災異について質問したとき、臧文仲は役務を緩和するようにと答えました。天の意志にこたえて変異を止めることは、実に人間のなすべき事柄です.・・・」(正史三国志)

晋書の記述もほぼ同様なので省略する。ただ、蒋濟(しょうせい)の上奏文の直後に以下の文章が続く。それによると、不吉な日食に正しく対処しないと国が亡びることもあり得ると歴史家は考えていたようだ。

『晋書』巻十二の一部訳:
蒋濟(しょうせい)のことばにははなはだ切なるものがあった。君臣がそれを悟らなかったので、(魏は)終には亡びてしまった。

『朝日新聞』の記事の元の論文と違って、紀元247年には△T>7750秒が得られた。上の限界は求めることができなかった247年3月24日の日食が北九州で皆既になるかどうかは興味深い。△T=8500秒,8900秒,9700秒の3つの場合に皆既帯および食分0.99帯を計算してみる。結果は下図に示した図に見られるように北九州市周辺は皆既になるが、福岡市や佐賀市は皆既帯からはずれ、いずれの場合も食分0.99ないし0.98となる。

天照大御神は卑弥呼のことが神話化・伝承化したものであり、天照大御神の天の磐戸伝承は卑弥呼の死と関係する、との見解がある。卑弥呼の死の前後と見られる紀元247年に北九州で、皆既または皆既に近い日食があったことは、注目に値する。下図参照

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朝日新聞』の記事の元の論文の以前に発表されていた斉藤国治説の西暦247年日食は下図となる。
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■天岩戸事件と日食
・白鳥庫吉説
東洋史学者の白鳥庫吉は、明治43年(1910)に発表した論文「倭女王卑弥呼考」のなかで、『魏志倭人伝』の「卑弥呼」に関する記事の内容と、『古事記』、『日本書紀』の「天照大御神」に関する記事内容とを比較している。そして、この2つについて、次のように述べた。
「その状態の酷似すること、何人も之を否認する能わざるべし」 また、明晰な思考によって知られる哲学者の和辻哲郎は、大正9年(1920)初版の『日本古代文化』(岩波書店刊)のなかで、白鳥庫吉の説を発展させ、いわゆる「邪馬台国東遷説」を説いた。

・ 和辻哲郎は、次のように考えた。
①邪馬台国は、九州にあった。
②『古事記』、『日本書紀』が伝える天照大御神の事績は、『魏志倭人伝』が記す卑弥呼の事績と一致する。
③『古事記』、『日本書紀』の神話が伝える「高天原」時代は、『魏志倭人伝』が伝える邪馬台国の記憶であろう。
④大和朝廷は、邪馬台国の後継者である。
⑤『古事記』、『日本書紀』が伝える神武東征の物語の、「国家を統一する力が九州から来た」という中核は、否定しがたい伝説にもとづくものであろう。

・天岩屋戸事件後、激変する 彼女の行動が意味すること
『古事記』神話などによれば、天照大御神が活躍していたのは、おもに九州となる(九州の地名が、もっともよく出てくる)。したがって、天照大御神が活躍していた場所、高天原は、九州方面をさすことになる。
古代を照らす光は、やはり、天照大御神からくるようである。
ところで、『魏志倭人伝』や、中国の史書『北史』によれば、卑弥呼の没年は、247年か、248年のことである。
卑弥呼が没した前後の、247年3月24日に、中国で日食のあったことが、『三国志』と『晋書』に記されている。
そこには、不吉な日食に正しく対処しないと、国が亡びることがありうるという趣旨の文がみえる。
  この西暦247年3月24日の日食は、日本では、北九州において、皆既または皆既に近い日食であった。一方奈良県では、皆既または皆既に近い日食であった可能性は、ほぼない。(参考/相馬充・上田暁悛・谷川清隆・安本美典「247年3月24日の日食について」[『国立天文台報』第14巻、第3・4号、2012年4月刊])

天照大御神が、須佐男之命の乱暴に怒って、天岩屋戸にこもったという神話は、太陽の神とされていた天照大御神(卑弥呼)の死の前後に、深い日食があったので、古代人にとっては、衝撃が大きく、それが、神話化したものであろうとする説がある。
『万葉集』に、人の死を、「岩戸に隠れる」と表現している歌がある。

・ところで、『古事記』『日本書紀』に記されている日本の神話を、ていねいに読むと、次のようなことに気がつく。
それは、「天岩屋戸事件」以前と、そのあとで、神話の中心人物、天照大御神の取り扱い方が、かなりはっきりと異なっているという事実である。
天岩屋戸の事件以前においては、天照大御神は、どんな場合でも、一人で行動している。須佐之男命との争いにおいても、忌服屋(いみはたや)で衣を織るときも、天岩屋戸にこもるときも、最高の主権的位置をしめる女神として、いわば一人で行動している。このことは、『古事記』でも、『日本書紀』でも変わりがない。ところが、天岩屋戸から出てきた後においては、次のようになっている(下記の表とグラフ参照)。
①『古事記』では、天照大御神は、大半の場合、高御産巣日神(たかみむすびのかみ)[高木神(たかぎのかみ)ともいう]と連名で、他の神々に命令などを下している。天照大御神は、高御産巣日神とペアで行動し、高天原を主宰している。ときには、高御産巣日神だけが、天照大神をさしおいた形で、最高主権者的な行動をとっている。

②『日本書紀』の本文では、天岩屋戸以前と後で、さらにはっきりと、一線を画しているようである。天岩屋戸の後、すべての命令などは、高御産巣日神(『日本書紀』では、「高皇産霊尊」と記している)ただ一人の名によって行われている。あたかも、天岩屋戸の事件以前においては、天照大御神が高天原の主権者であり、天岩屋戸から後においては、高御産巣日神が高天原の主権者であるかのような取り扱いである。
和辻哲郎は、天岩屋戸に隠れる以前の天照大御神を卑弥呼になぞらえ、天岩屋戸から出てきたのちの天照大御神を、『魏志倭人伝』にみえる台与(卑弥呼の一族の女性で、卑弥呼のあとで女王となった)に、なぞらえている。
天岩屋戸から出てきた後の天照大御神は、やはり卑弥呼ではなく、台与であり、それは日本神話では、天照大神のあとをついた天忍穂耳命の妻となった万幡豊秋津師比売命(よろずはたとよあきつしひひめのみこと)のことであろう(「台与(とよ)」と「豊」の一致に注目)。万幡豊秋津師比売命は、高御産巣日神の娘である。
『魏志倭人伝』は、台与は13歳で王になった、と記す。そのさいの後見人が、父の高御産巣神で、台与は成人して天忍穂耳命の妻となり、その間に生まれた邇邇芸命が、皇室の祖先となったのだ。
すなわち、「天岩屋戸事件」は卑弥呼の死を暗示しており、その卑弥呼が神話化した存在が天照大御神、つまり「卑弥呼=天照大御神」と考えるのがもっとも自然と言えるだろう。

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2.邪馬台国についての諸説

卑弥呼のことを神話化したものが天照大神とする。21代雄略天皇(倭王武)が478年に宋へ使いを出したことから天皇1代平均9.56あるいは9.6年で25代さかのぼると、天照大神の活躍時期は239または238年となる。そして『古事記』、『日本書紀』の記述から、250年~260年に出雲の国譲り、270年~280年に神武天皇の東遷の前に邇芸速日命などが大和に入り、280年代になって神武東遷となる。
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このように考えると歴史のつじつまがあうだろう。
しかし、これに対し邪馬台国について、いろいろな説がある。

■邪馬台国と大和朝廷成立の関係の学説
邪馬台国と大和朝廷成立の関係から10種類に分類して説明する。

①邪馬台国、大和朝廷独立並行説
この説を最初にとなえたのは、国学者、本居宣長である。
[『馭戎概言(ぎょじゅうがいげん)』1778年]
本居宣長はいう。
   「(『魏志倭人伝』のなかで)中国へ使をつかわしたことを記しているのは、みな、ほんとうのわが国の朝廷の使ではない。筑紫の南のほうで勢力のある熊襲などの類であったものが、女王の名前が諸外国にまでなりひびいているので、その使であるといつわって、私的につかわした使である。」(原文は文語文)
  いわゆる「襲国偽僭説」である。
本居宣長は『日本書紀』の紀年にしたがって、大和朝廷は、邪馬台国時代よりも、ずっとまえに成立していたと考えていた。
日本古代史家、井上光貞は、つぎのように述べ、本居宣長の所説と古田氏の説との類似性を指摘している。
「古田氏は、倭王武の上表文は大和政権のではなくて九州王朝のそれだとして、宣長ばりの所論を展開し、・・・。」(「鉄剣の銘文~五世紀の日本を読む~」『諸君』1978年12月号所載)
本居宣長の所論には、大和朝廷が中国に使を出し、「親魏倭王」の印をもらうなど、みずからを卑下するはずがないという名分論が働いているようである。
①の、邪馬台国と大和朝廷が、九州と大和とに、独立並行的に存在したとする説は、その独立性を強調しすぎると、ほとんど同じ名前の国が、同時期に、九州にも大和にも存在することになる。
そこで、本居宣長のように、熊襲のたぐいが、大和朝廷の名をかたったとするか、卑弥呼の国は邪馬台国ではなく、邪馬壱国であったとすることになる。この立場では、一般に、『日本書紀』の紀年にひかれて、大和朝廷の起源を古くみる傾向があるようである。

②邪馬台国、大和朝廷同一起源説
この説では、一世紀か二世紀のころに、北九州の邪馬台国の住民の一部族が畿内にうつり、大和朝廷をたてたと考える。そして、この説では、北九州から畿内への部族の移動を、神武東遷伝承と結びつけることが多い。
この説によるばあいも、ほぼ同じ時期に、同じ名前の国が九州にも大和にもあったことになる。また、この立場も、大和朝廷の起源を古くみる傾向があり、神武東遷を古く考えるようである。

③邪馬台国と大和朝廷との不連続説
神武東遷を信じない考えで、邪馬台国は九州にありました。大和朝廷はのちの時代にありました。邪馬台国時代が存在した時代に畿内に別の勢力があっただろうがそれは分からない。大和朝廷ができたのは3世紀末ごろとする。
この説によるばあいは、邪馬台国と大和朝廷とが、同じ「ヤマト」という名をもっていることが、うまく説明できない。

④投馬国東遷説、狗奴国東遷説
大和朝廷は南九州の投馬国または狗奴国が東遷してつくったもの。それとは別に邪馬台国があったが亡んだとする。

⑤騎馬民族征服説
邪馬台国は、北九州にあった。邪馬台国の勢力をうけつぐものが、古墳時代前期に畿内にうつり、神権的政権をたてた。そののち、古墳時代前期末(5世紀のころ)、南朝觧から騎馬民族(夫余民族の一派)がはいり、九州をへて、大和に進出した。この騎馬民族は、大和の神権的政権の地方豪族と合作して、統一国家政権としての大和朝廷を創め、応神、仁徳などの大王の時代となった。

⑥邪馬台国東遷説
この説を、最初にとなえたのは、東京大学の哲学者、和辻哲郎である。
井上光貞は、『日本の歴史1神話から歴史へ』(中央公論社、1965)で、つぎのように述べる。
「・・・もっとも自然なのは、邪馬台国東遷説なのである。 もちろん邪馬台国東遷説も、可能性のある一つの仮説にすぎないが、『北九州の弥生文化と大和の古墳文化の連続性』、また『大和の弥生式文化を代表する銅鐸と古墳文化の非連続性』という中山(平次郎)氏や和辻氏の提出した問題は、依然として説得力をもつと考えられる。また、邪馬台国は、その女王を壱与(いよ)が266年に晋に遣使した後、歴史の上から姿を消してしまった。 いっぽう畿内の銅鐸も、二、三世紀の弥生後期にもっとも盛大となり、しかも突如としてその伝統を絶った。そして三世紀末、おそくとも四世紀のはじめごろから古墳文化が畿内に発達して全国をおおっていくのである。邪馬台国東遷説は、この時間的な関係からみても、きわめて有力であるといってよいであろう。」
井上がここにあげた理由のほかに、「邪馬台(やまと)」と「大和(やまと)」の国名の共通性、連続性も、邪馬台国東遷説にとって有利である。
邪馬台国東遷説にも、さまざまなバリエーションがある。
邪馬台国の東遷を、神武東征伝承と結びつけるか否か、北九州の邪馬台国の後継勢力が畿内に直接移ったと考えるか、一度南九州に移ったのち畿内に移ったと考えるか、などによって、説がわかれる。

⑦邪馬台国、大和朝廷同一説
邪馬台国のある時期は大和朝廷のある時代であるとする。笠井新也などは卑弥呼は崇神天皇の時代の倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)とする説がある。卑弥呼の比定は他にもいろいろある。

⑧大和朝廷九州発生、邪馬台国大和朝廷同一説
大和朝廷は九州に発生した。それが古い時代に神武東遷で畿内に移った。移った後の畿内の時代が邪馬台国の時代とする。これも神武東遷を古い時代と考える。

⑨邪馬台国、大和朝廷断絶説
邪馬台国は畿内にあった。邪馬台国とは断絶して大和朝廷が成立した。

⑩九州勢力による邪馬台国打倒説
邪馬台国は畿内にあった。九州にあった勢力が東遷し、邪馬台国を打倒して大和朝廷をうちたてた。邪馬台国は、『古事記』『日本書紀』などの伝える長髄彦(ながすねひこ)などの勢力で、この勢力は神武天皇の東征により打倒されたと考える。
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3.『魏志倭人伝』はいつ、どこで、誰が書いたか

『魏志倭人伝』とふつういわれているものは、晋の陳寿(233~297)の編纂した『三国志』のなかの、魏の国の歴史を書いた『魏志』(正確には『魏書』。『三国志』のテキストそのものでは、『魏書』『蜀書』『呉書』などと記されている)のなかの、「烏丸鮮卑東夷伝(うがんせんぴとういでん)」のなかの、「倭人の条」のことである。私たち日本人の祖先の1700年以上まえの姿が、そこに描かれている。

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■『魏志倭人伝』は、いつ書かれたのであろうか。
この答えは、設問じたいの受けとりかたによって変ってくる。
「いつ書かれたか?」の受けとりかたには、おもに、つぎの3つがある。
(1)『三国志』の成立した時期が、『魏志倭人伝』の成立した時期、つまり、書かれたときと考える。

(2)『三国志』のなかの、『魏志(魏書)』の成立した時期を、『魏志倭人伝』の成立した時期と考える。『魏書』『蜀書』『呉書』は、もともと、別々に書かれたものであり、『魏書』の成立は、『三国志』全体の成立よりも早かったことが考えられる。

(3)魚豢(ぎょかん)の書いた『魏略』のなかに、『魏志倭人伝』と、共通する記事がある。『魏略』は、『魏志倭人伝』の先行文献であったとする説がある。また、王沈(おうしん)の『魏書』が先行文献で、『魏志倭人伝』も、魚豢の『魏略』も、先行文献である王沈の『魏書』の記事をうけついだものである、とする説がある。

いずれにしても、『魏志倭人伝』には、先行文献があったのである。先行文献の記事と、『魏志倭人伝』の記事とが、ほとんど同一であるとすれば(つまり、陳寿が、いろいろな資料を編纂して、『魏志倭人伝』を書いたのではなく、先行文献にすでにまとめられていた記事を、ほとんどそのまま写したのであるとすれば)、その先行文献の成立した時期が、「倭人伝」の成立の時期と考えられる。

■『三国志』全体は、いつ成立したのか?
『華陽国志』に、つぎのようにある。
「呉の国が平定されてのち(呉の滅亡は、280年)、陳寿は、三国の史を鳩合(あつ)め、魏・呉・蜀の三書・六十五篇をあらわし、『三国志』となづけた。」
じじつ、『三国志』の『呉志』は、280年の呉の滅亡記事をのせている。よって、『三国志』の成立は280年以後である。さらに、『三国志』の『呉志』は、284年の孫皓(そんこう)[孫権の孫で、呉の第四代皇帝で、呉朝の最後の皇帝]の死(ただし、裴松之の注に引用されている文献は、孫皓の死亡年を、283年12月とする)を記している。また、282年の薛瑩(えつえい)[官吏で、『新議』と名づけられる書八篇をあらわした]の死を記している。よって、『三国志』全体の成立は、284年以後(孫皓の死が、裴松之の注に引く文献に記されているように、283年12月であるとしても、その死が、他の文献に記されるようになるのは、284年以降とみられる)と考えられる。
陳寿は、283年の孫皓の死を、284年と誤った可能性はあるものの、『呉志』を完成したさい、孫皓の洛陽での死を知っていたとみられる。

いっぽう、陳寿は、297年になくなっている。
以上から、『三国志』の成立の時期は、284年~297年の十数年間におさまる、とまずいえる。
そして、陳寿の『三国志』をみて、みずからがあらわした『魏書』を破りすてたと伝えられる夏侯湛は、291年になくなっている。夏侯湛は、陳寿の『三国志』をみているわけであるから、陳寿の『三国志』の成立は、291年以前でなければならない。さらに、『華陽国志』と『晋書』などによれば、陳寿の『三国志』の成立後に、鎮南将軍の杜預(とよ)は、陳寿を、散騎侍郎にすべく推挙している。杜預は、武将としては、呉を降した功績があり、学者としては、『春秋左氏伝』の注釈を完成している。そして、杜預は、284年の閏12月になくなっている(『晋書』巻三、「武帝紀」太康五年[284]閏12月条)。
したがって、『三国志』の成立は、284年12月以前であることになる。

以上から、『三国志』の成立は、284年にほぼ確定できることになる。

■『三国志』の『魏志』は、いつ成立したか?
つぎに、『三国志』のなかの、『魏志(魏書)』が成立した時期を考えてみよう。
『魏志』は、『三国志』全体の成立よりも早く成立していた可能性がある。『三国志』は、『魏書』『蜀書』『呉書』の順にならんでいる。最後の『呉書』は、284年のころのことまで記している。『蜀書』は、271年の蜀の二世皇帝劉禅(りゅぜん)の死を記し、274年に、陳寿が平陽侯の相であったときのことを記し、さらに、278年の郤正(げきせい)(劉禅について洛陽に行き、晋の国で登用されて巴西郡の太守となった)の死について記している。

これに対し、『魏志』は、265年に魏が滅亡し、晋の国が成立したことまでしか記していない。
『華陽国志』に、「呉の国が平定(280年)されてのち、陳寿は、三国の史を鳩合(あつ)め、魏・呉・蜀の三書・六十五篇をあらわし、『三国志』となづけた」とあるが、朝鮮古代史の専門家・井上幹夫氏は、論文「『三国志』の成立とそのテキストについて」(『季刊邪馬台国』18号)のなかで、つぎのようにのべる。
「『魏志』の成立は呉の平定以前、すなわち、280年以前に求めてもよいのではないか。」
『魏志倭人伝』の記述などをみれば、陳寿は、晋の都洛陽の宮廷の図書を、閲覧できる立場にいたようにみえる。
陳寿が、著作郎であった時期が、そのような立場として、もっともふさわしい。
井上幹夫氏は、陳寿が著作郎の地位にあったのは、「270年代後半から280年代前半まで」のころと推定する。
かれこれ考えあわせると、『魏志』は、『三国志』全体の完成よりは、3、4年は早く、280年のころには、ほぼ成立していた可能性があるようにみえる。

■『魏略』は、『魏志』の先行文献である
魚豢(ぎょかん)の書いた『魏略』は、『魏志』の先行文献とみられる。
立命館大学の山尾幸久氏により、『魏略』と『魏志』とは、ともに、晋の武帝の太康年間(280~289)の成立で、ほぼ同時期の成立であり、ともに泰始二年(266)に没した王沈(おうしん)撰の『魏書』を参照文献にして編纂されたという説の発表されたことがあった(山尾幸久「魏志倭人伝の史料批判」[『立命館文学』260号、1967年]。『魏志倭人伝-東洋史上の古代日本-』〔講談社現代新書、1972年刊〕)。
  しかし、この山尾幸久氏の説は、その後、阪南大学の江畑武氏、下司和男氏、北海道大学の津田資久氏、中華人民共和国の何遠景氏らなどからの多くの批判をうけており、ほぼ誤りとみられている。『魏略』が、『魏志』の先行文献であることは、まず確かとみられる。
すなわち、つぎのような理由により、『魏略』は、『魏志』の先行文献とみられる。

(1)唐の歴史家の劉知幾(りゅうちき)は、その著『史通』の「正史篇」で、つぎのようにのべている。
「魏の年代に、京兆(けいちょう)郡[前漢の旧都長安を郡治とする君。陜西省(せんせいしょう)西安]の人、魚豢は、『魏略』を私撰した。帝紀は、明帝で終っている(魏時、京兆魚豢私撰魏略。事止明帝)。」
劉知幾は、また『史通』巻十一の「史官建置」でつぎのようにのべる。
「劉氏の漢代の歴史、曹氏の魏代の歴史は、ともにその時代に撰述された。よくその事業を行なったものは、まさに、劉珍、蔡邕(さいよう)、王沈、魚豢などの人たちだけである(劉曹二史、皆当代所撰。能成其事者、蓋劉珍〔『東観漢記』の撰者〕・蔡邕〔『後漢記・十意』の撰者]・王沈[『魏書』の撰者]魚豢之従耳)。」
これらの文章からみて、魚豢は、晋の時代ではなく、魏の時代に魏の歴史書『魏略』を撰述したとみられていた。
劉知幾は、鋭い批評家で、すくなくとも、史実に関する部分は、かなりな根拠をもって記しているとみられる。
そして、劉知幾の記述をうらづけるつぎのような事実がある。

(2)信頼できる『魏略』の逸文(いつぶん)(他の文献に引用される形で、一部分だけ残存している文章。『魏略』の全体は、伝わっておらず、逸文の形でのみ存在する)のもっとも時代のあとのものは、高貴郷公(254~260)の甘露二年(257)のものである(江畑武「再び『魏略』の成立年代について」〔『阪南論集』人文・自然科学編、第26巻第1号、1990年6月。阪南大学刊〕参照)。『魏略』の成立は、この257年を、それほど大きくは降らないとみられる。

(3)『魏略』は、『魏志』にくらべ、司馬氏に対して厳しく、司馬氏の敵対者に対しては寛容な傾向がみられる。これは、『魏略』が、司馬氏のたてた国である晋になるまえの魏の時代(265年以前)に編纂されたためであろう。

(4)以上から、『魏略』の成立年代は、257年~265年の10年たらずのあいだのどこかと判断される。つまり、卑弥呼が死亡してから、10年ないし20年たらずのちには、『魏略』が成立していたことになる。

私は、魚豢の『魏略』のおよその成立年代(260年前後)と、陳寿の『魏志』のおよその成立年代(280年)ごろとの差からみて、魚豢と陳寿との年齢差は、15歳~25歳ていどとみる。陳寿は233年の生まれ、魚豢は、『魏略』を50歳前後で書いたとみれば、210年前後の生まれとなる。
成立年代に、20年ていどの差があれば、陳寿は『魏略』について見聞する機会も多く、『魏志』をまとめるにあたって参考とすることは十分に可能であったはずである。
いずれにせよ、『魏略』が、『魏志』の先行文献であるとする下司氏や江畑武氏の判断、そしてさらには、『魏志』の「東夷伝」は、多くを『魏略』に依拠して記述されたとする東洋史学者、内藤湖南の論文「卑弥呼考」や、白鳥庫吉の論文「倭女王卑弥呼考」の判断は、正しいものとみられる。

なお、先に紹介した劉知幾の『史通』の文は、「これより先、魏の時代に、京兆の人、魚豢は、『魏略』を私撰した。帝紀は、明帝で終っている(先是、魏時、京兆魚豢私撰魏略、事止明帝)。」
というもので、この文の「これより先(先是)」は、「『三国志』撰述前」の意味であると判断される。

■『魏志倭人伝』の『魏略』によらない部分は?
下司(げし)和男氏は、その著『理系が覗いた邪馬台国』(新生出版刊)のなかで、『魏志』「東夷伝」の地理像、とくに、韓と倭の地理像に関連する記事を中心として、『魏志』と『魏略』逸文の記事とを、下記の表1の形で対比させておられる。表1のなかで、「×印」は、その記事が現存の史料に存在しないこと、「○印」は、存在することを示す(誤字であることが通説となっているものは、あらためられている)。
表1をみれば、『魏志』には、『魏略』の文をかなり引きついでいることは、あきらかであるようにみえる。
しかし、『魏志倭人伝』の全文が、『魏略』情報によっているわけではない。
すでに紹介したように、劉知幾の『史通』に、「魏の時代に、京兆の魚豢が、『魏略』を私撰した。事は、明帝に止(や)む」とある。
『魏略』は、主として、魏の明帝(205?~239)期までのことを記したものとみられる。これは、魚豢が、明帝のあとの魏の皇帝の時代は、魏のつぎの晋の国の歴史の範囲と考えたからである。
『魏略』に対し、現存の『魏志倭人伝』は、魏の明帝以後の、斉王芳の時代の、正始元年(240年)以後の壱与(台与)のことなどを記している。
『魏志倭人伝』が、先行文献の『魏略』をかなり参考にしているにしても、『魏略』になかったとみられる情報をおぎなっているようにみえる。
『魏志倭人伝』は、『魏略』の記事以外の記事をとりいれて編集作業を行なっているのである。

したがって、『魏志倭人伝』の全文の成立の時期に、さかのぼらせることはできない。よって、『魏志倭人伝』の成立は、早くみて280年ごろ(『魏志』の成立の時期)、遅くみて、284年(『三国志』の成立の時期)ということになる。
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『魏志倭人伝』関連文献の成立の時期を表にまとめれば、表2のようになる。

 北海道大学の津田資久氏は、論文「『魏略』の基礎的研究」(『史朋』第三一号。北海道大学東洋史談話会編集・発行)において、つぎのようにのべ、山尾幸久氏らの議論が、成立しがたいことをのべている。
  「張氏(『魏略輯本』などの編者、中華民国の張鵬一氏)による『魏略』の成立と魚豢の没年を太康年間(280~289)以後に置く説を継承・発展させた伊藤徳男・山尾幸久両氏の主張には積極的論拠が一切存在しないことが総合的な佚文(いつぶん)分析によって明らかになった。」
『魏略』は、はやく魏の時代に成立しているのである。

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■『三国志』は、どこで書かれたか?
『晋書』の「陳寿伝」に、陳寿がなくなったときに、天子の詔(みことのり)が、河南省の長官にくだり、その命により、河南省に属する洛陽の県令は、陳寿の家に行って、その書(『三国志』など)を写した、とある。
『三国志』は、陳寿の洛陽の家にあったのである。 陳寿は、『三国志』を、洛陽で完成させたとみられる。 なお、陳寿(233~297)は、文学者の左思(250?~308?)と、ほぼ同時代の人で、すこしだけはやく生まれた人である(少し前に示した「新から唐」の図参照)。
左思が、魏・呉・蜀の都の様子を活写した文学作品『三都の賦』を作ったとき、洛陽の人が、争って『三都の賦』を写したため、洛陽の紙の値段が高くなったという。ここから、ベストセラーを意味する「洛陽の紙価を高める」という表現か生まれた。
当時、洛陽では、紙がかなり出まわっていたようであり、陳寿も、『三国志』を、竹簡や木簡ではなく、紙に書いた可能性が、かなりある。



4.『魏志倭人伝』を徹底的に読む

■末盧国
『魏志倭人伝』は記す。
「また、一海をわたる。千余里で、末盧(まつら)国にいたる。四千余戸がある。山が海にせまり、沿岸にそって居住している。草や木が茂りさかえ、道を行く前の人が見えないほどである。好んで、魚や鰒(あわび)をとらえる。海の深い浅いを問わず、人びとはみなもぐってこれをとっている。」

まず、一支国から末盧国への道程は、里程記事だけがあって、方向記事がぬけている。
方向記事がぬけているので、下図のように末盧国は五島列島から宗像あたりまでのどこでも比定できる。
しかし、博多湾は近代の大きな船では問題がないが、小さな船では風が強く良港ではなかったと思われ、使われてはいなかたのではないか。

壱岐の対岸で、壱岐からもっとも近い松浦(まつうら)の地(肥前の国松浦郡)を、『万葉集』では、「麻都良(まつら)」「末都良(まつら)」「麻通良(まつら)」「麻通羅(まつら)」などと記している。『古事記』の「仲哀天皇記」では、「末羅県(まつらのあがた)」と記しており、『日本書紀』の「松浦県」も、「まつらのあがた」と訓むのがふつうである。『和名抄』の郡名では、「松浦(万豆良)」と記されている。

『魏志倭人伝』は、「末盧国」の条で、「好んで、魚や鰒(あわび)をとらえる。海の深い浅いを問わず、人びとはみなもぐってこれをとっている。」と記している。これに対応する記事が、『肥前の国風土記』の「松浦郡」の条にみえる。

すなわち、つぎのとおりである。
(1)「[登望(とも)の]駅(うまや)の東(ひむがし)と西の海に、蚫(あはび)・螺(にし)・鯛(たひ)・雑(くさぐさ)の魚(うを)、海藻(め)・海松等(みるども)あり。」[登望(とも)の駅(うまや)の条。登望の駅は、呼子町大友・小友の地。]

(2)「白水郎等(あまども)、此の島に就(つ)きて宅(いえ)を造りて居(す)めり。因(よ)りて大家郷(おおやのさと)といふ。廻縁(めぐり)の海に、蚫・螺・鯛・雑の魚、及(また)、海藻・海松多し。」[大家島(おおやしま)の条。大家島の所在は、明らかでない。平戸島、その北の大島、あるいは、呼子町、登望(とも)駅西北海上の馬渡島などが擬されている。]

(3)「[値喜(ちか)の郷(さと)の土蜘蛛(つちぐも)の大耳(おおみみ)、垂耳(たりみみ)らが、景行天皇に]長蚫(ながあはび)・鞭蚫(むちあはび)・短蚫(みじかあはび)・陰蚫(かげあはび)・羽割蚫(はわりあはび)等(ども)の様(ためし)をつくりて、御所に献(たてまつ)りき。」(値嘉の郷は、五島列島の総称。長蚫・鞭蚫・・・は、あわびの肉を薄く長くのばして、さまざまな形につくり、乾燥した加工食品。『延喜式〔主計式〕』の、諸国からの貢物の名に、短鰒・長鰒・羽割鰒〔肥前の国〕、蔭鰒・鞭鰒〔筑前の国〕がみえる。)

(4)「[値嘉の郷の]海には則(すなわ)ち、蚫・螺・鯛・鯖・雑の魚、海藻・海松・雑の海菜(もは)あり。彼(そ)の白水郎(あま)は、馬・牛に富めり。」

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