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第318回 邪馬台国の会
箸墓古墳の築造年代
邪馬台国の場所について
卑弥呼は「日御子」か、「姫命」か、「姫子」か
欠史八代などの実在性について


 

1.箸墓古墳の築造年代

■箸墓古墳の築造年代は四世紀であることを以前に講演した内容も含め、以下にまとめてみた。
(1)天皇一代在位年数は約10年で、この古墳は四世紀
何回か説明した、天皇在位10年説から計算すると、崇神天皇の時代は358年ごろと推定され、四世紀となる。
詳細は313回「文献的年代論」参照。

『日本古代遺跡辞典』には「箸墓古墳は倭迹迹日百襲姫命の大市墓に比定されており、宮内庁が管理している。同墓について『日本書紀』崇神天皇10年9月の条には(日は人が作り、夜は神が作った。大坂山から人々が並んで手送りで石を運んだ」という古墳築造説話が記録されている。箸墓古墳の葺石は黒雲毋花崗岩と斑糲岩(はんれいがん)で近くの初瀬川から採取されたらしいが、石室材はカンラン石輝石玄武岩で大阪府柏原市国分の芝山産と推定され、伝承と一致する。」とある。

(2)炭素14年代測定法で四世紀
炭素14年代測定法で四世紀
「考古学本来の基本的な常識では、その遺跡から出土した資料の中で、もっとも新しい時代相を示す特徴を以てその遺跡の年代を示すとするのです。」(大塚初重『古墳と被葬者の謎にせまる』[祥伝社、2012年刊]
詳細は317回「炭素年代法記事について」参照。

(3)庄内3式・布留0式の年代は4世紀が中心(炭素14年代測定法)
纏向古墳群のなかの、ホケノ山古墳の築造代は、箸墓古墳の築造年代よりも古いとみられている。考古学者の寺沢薫氏の年代論によれば、ホケノ山古墳は、庄内3式期のもので、箸墓古墳は、そのあとの、布留0式期のものである。
2008年に、『ホケノ山古墳の研究』(奈良県立橿原考古学研究所編集・発行)が、刊行されている。『ホケノ山古墳の研究』によれば、ホケノ山古墳出土の、「古木効果」がはいらないよう慎重にえらばれた十二年輪の小枝の、炭素14年代測定法による測定値は、四世紀を主とする年代を示している。

(4)ホケノ山古墳出土の試料によるばあい、歴博仮説は1%以下の危険率で棄却できる小枝の資料だと、ホケノ山の年代は320年~400年ごろとなる。箸墓古墳はそれよりも新しいと言われており、もっと新しくなる。詳細は317回「炭素年代法記事について」参照。

(5)『魏志倭人伝』の「棺あって槨なし」の記述にあわない
①箸墓古墳
②日葉酢媛(ひばすひめ)の命陵(奈良市山陵町)
③ホケノ山古墳(桜井市三輪檜原)
④黒塚古墳(天理市柳本町)
⑤神原(かんばら)神社古墳(島根県雲南市加茂町の「神原」)
⑥柳本天神山古墳(天理市柳本町)
⑦桜井茶臼山古墳[桜井市外山(とび)]
など、『魏志倭人伝』の「棺あって槨なし」の記述にあわないので、卑弥呼の墓とは言えないのではないか。詳細は316回「棺あって槨なし」参照。
追加:「浦間茶臼山(うらまちゃうすやま)古墳」(岡山市)

大吉備津彦命は倭迹迹日百襲姫命の弟であったと『日本書紀』に書かれている。
『陵墓要覧』に二人は並べて記載されている。
奈良県、岡山県と関係があり、両方の陵墓とも槨がある。


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(6)箸墓古墳環濠から木製輪鐙(わぶみ)の出土

箸墓古墳の周濠の上層から、布留1式期の土器とともに、木製の輪鐙が出土している。馬具が出土している。

馬具は、ふつう四世紀の終わりごろから五世紀のころから出土しはじめる。西暦400年前後以後に築造の古墳から出土する。
いっぽう、布留0式期、布留1式期の期間は、それぞれ、20年~30年ていどとみるのがふつうである。
西暦400年前後から、布留O式~布留1式はじめまでの40年~60年さかのぼれば、およそ、350年前後となる。卑弥呼の死亡の時期より、百年ほどあとである。

前方後円墳は時代が新しくなると、前方部の幅が大きくなる。古墳の前方部と後円部の寸法からの年代を考えると下図となる。下図において、四世紀型古墳から馬具が出土している唯一の例は、福岡県の老司(ろうじ)古墳(下図赤矢印)のばあいだけである。畿内の古墳で、四世紀型古墳から馬具が出土している例を、私はしらない。
その福岡県の老司古墳も、『日本古墳大辞典』(東京堂出版刊)は、築造の時期を、「四世紀末葉の年代が考えられよう」とする。
畿内の古墳のばあい、馬具が出土する古墳は、まずは、西暦400年以後ごろと考えられよう。


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■土器からみた箸墓古墳の時期
一つの土器の型式の存続期間は、20~30年ていどとみるのがふつうである。たとえば、奈良県の纒向学研究センターの考古学者、寺沢薫氏は、つぎのようにのべる。「それでは、この(箸墓古墳の)『布留O式』という時期は実年代上いつ頃と考えたらよいのだろうか。正直なところ、現在考古学の相対年代(土器の様式や型式)を実年代におきかえる作業は至難の技である。ほとんど正確な数値を期待することは現状では不可能といってもいい。
しかし、そうもいってはおれない。私は、製作年代のわかりやすい後漢式鏡などの中国製品の日本への流入時期などを参考に、弥生時代の終わり(弥生第4-2様式)を西暦三世紀の第1四半期のなかに、また、日本での最初期の須恵器生産の開始を朝鮮半島での状況や文献記事を参考にして西暦400年を前後する時期で考え、これを基点として、この間の時間を土器様式の数で機械的に按分する方法をとっている。つまり、それは180~200年を九つの小様式で割ることになり、一様式約20年、ほぼ一世代で土器様式が変わっていく計算になるわけだ。」(寺沢薫「箸中山古墳(箸墓)」[石野博信編『大和・纒向遺跡』〈学生社、2005年刊所収〉])

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2.邪馬台国の場所について

2.邪馬台国の場所について
『魏志倭人伝』に書かれている内容から、弥生時代の鉄の鏃や、鏡(長宜子孫銘内向花文鏡)の出土分布から、奈良県より、福岡県の方が圧倒的に多い。
邪馬台国の場所は近畿より北九州であると考えられるが、それでは北九州のどこであろうか?

『東洋史上より見たる日本上古史研究』(東洋文庫1956年刊)で、橋本増吉氏は山田孝雄(よしお)[東北大学教授、神宮皇学館大学学長]が狗奴国考を表したのに対し、下記のように批判した。
「まづ、当時の奴國が所謂(いわゆる)儺の大津にあらずして、更にその南方比惠・竹下の邊なるべき事は、曩(さき)に逑べた通りであるが、「博多は今日にても九州第一の大都なり」とは、果して何に基いて断定されしところであるか。もし人口の點より見れば、大正14年10月1日第二回國勢調査の統計にて、九州第一の都市は長崎市で人口十八萬九千餘、次ぎは熊本市で人口十四萬七千餘、第三位が愽多を抱括せる福岡市で人口十四萬六千餘となつてゐる。即ち博多は今日九州第一の大都にあらずして、福岡を加ふるもなほ九州第三の都市たるに過ぎないのである。尤も、かの論文は明治四十四年に作られたものださうであるから、試みにその当時の統計を見るに、明治三十六年度の現在数が、長崎市十五萬三千二百九十三人、福岡市七萬一千四十七人、佐世保市六萬八千三百四十四人、熊本市五萬九千七百十七人であり、明治四十一年度の現在数が、長崎市十七萬六千四百八十人、佐世保市九萬三千五十一人、福岡市八萬二千百六人、鹿児島市六萬三千六百四十人となってゐる。即ち、福岡市はその当時に於ても、第二位或は第三位を占むるのみで、而も、その人口数は長崎市の半にも上らないのである。 予が斯くの如き穿鑿(せんさく)を敢てする所以は、論者の論據(ろんきょ)が、如何に粗雑たる知識観念に基くものなるやを明らかにし、以て「古今の變ありといへども、人工的に地勢を改めざる以上は、地理上の便利は古今大差あるべくもあらず。この故に倭人國の首都邪馬臺國に次ぎ、九州貿易の中心たる奴國に倍する程の有勢地は、今日にありても、何等かの痕跡をとどむべきを豫想しうるなり」とか、「戸数だけ見ても邪馬臺の大きいことがわかる。もし此の大國が九州の内にあつたとすれぼ、今日其遺蹟が何處かにあるべきである」とか、「邪馬臺といふ地名の似よったものをさがせばあるけれども、戸数を考へて見れば話にならない。兎に角九州で一番開けた北部の儺が三萬餘戸で、その二倍以上の人口のあった所が、九州の内にあったとは信ぜられない」とかいふ類の粗雑放漫なる空論に封して、その注意を求めんが爲めである。」

下図の小山修三氏が遺物の「弥生時代の九州地方の人工分布」でも、弥生時代の黒く塗られた人口密度が多いところは筑後川付近であり、博多付近ではない。

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愛媛大学の宮下氏の「九州北半部の平野分布」でも同じことがいえる。

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少し時代が前の甕棺時代なら、福岡付近に分布があるが、

その後の、中広形の銅剣・銅矛・銅戈の時代になると内陸部に後退する。

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このように、弥生時代後期になったとき、福岡付近が九州で一番人口が多いところとは言い切れない。北九州と言ったところで、福岡付近とは限らない。このことは注意を要する。
弥生時代後期に人口が多かったと考えられる筑後川流域の可能性は高い。


3.卑弥呼は「日御子」か、「姫命」か、「姫子」か

藤堂明保編『学研漢和大字典』(学習研究社刊)で、漢字の発音を発音記号で表記した。
この『字典』では、そこにのせられているすべての漢字について、中国での上古音(周・秦音)、中古音(隋・唐音)『中原音韻』(元音)、北京語(および北京式ローマ字)が、発音記号で示されている。

■三説の比較
(1)日御子(ひみこ)説
新井白石は、『古史通或問(こしつうわくもん)』のなかで、「卑弥呼」を、「日御子(ひみこ)」であるとする。「日御子」 にあたることばとしては、『古事記』に、「多迦比迦流(たかひかる)、比能美古(ひのみこ)[高光る、日の御子]という使用例が四例、「本牟多能(ほむだの)、比能御子(ひのみこ)」(品陀の、日の御子)という使用例が一例ある。
「日の御子」は、「ひ(甲)(の)み(甲)こ(甲)」であって、「卑弥呼」の音と一致する。ただ、「日(ひ)の御子(みこ)」は、つねに、この形で用いられており、「の」を省略して、「日御呼(ひみこ)」という形で用いられている例がない。また、「日(ひ)の御子(みこ)」は、直接的に、名前の一部として用いられているいるわけではなく、いわば、形容詞的に用いられている。ただ、「卑弥呼」が、天照大御神、つまり、「日の神」にあたるとすれば、「日(ひ)の御子(みこ)」という形容は、ほぼあてはまる。

(2)姫児(ひめご)説
本居宣長は、「卑弥呼」を、『古事記伝』や『馭戎慨言(ぎょじゅうがいげん)』のなかで、「火之戸幡姫児千千姫(ほのとはたひめごちぢひめ)の命」「万幡姫児玉依姫(よろづはたひめごたまよりひめ)の命」などとある「姫児(ひめこ)」であるとした。ただし、これらは、本居宣長の読み方である。現在の、たとえば、岩波書店刊の日本古典文学大系の『日本書紀』では、「火之戸幡姫(ほのとはたひめ)の児千千姫千姫(こちぢひめ)の命」「万幡姫(よろづはたひめ)の児玉依姫(こたまよりひめ)」のように、「姫(ひめ)の児(こ)」と読まれている。
『肥前国風土記』の松浦郡の条に、「弟日姫子(おとひひめこ)」の名がある。この名は、「弟日姫子(おとひひめこ)」(五回)、「弟日女子(おとひひめこ)」(一回)、「意登比売能古(おとひひめこ)」(一回)の、三通りの書き方で、七回あらわれる。
『旧事本紀』の「天孫本紀」に「市師(いちし)の宿禰(すくね)の祖(おや)穴太(あなほ)の足尼(すくね)の女(むすめ)、比咩古(ひめこ)の命(みこと)」とある「比咩古(ひめこ)も、「姫児」の意味であろう。「姫子」「比咩古」の音は、いずれも、「ひ(甲)め(甲)こ(甲)」であって、「卑弥呼」の音に一致する。「姫子(ひめこ)」は、古典にあらわれるひとつの熟語として、「卑弥呼」と完全に一致する。「卑弥呼」が、「姫子」であるとすれば、「姫」という語に、愛称または尊敬の「子」がついたものであろう。

このことは、坂本太郎が、論文「『魏志』『倭人伝』雑考」(古代史談話会編『邪馬台国』 1954年9月刊)のなかで説いている。

「卑弥呼」の「弥」の字は、   
①等已弥居加斯夜比弥乃弥己等(とよみけかしやひめのみこと)(元興寺塔露盤銘、元興寺縁起)
②止与弥挙奇斯岐移比弥天皇(とよみけかしきやひめ)(元興寺丈六光銘、元興寺縁起)
③吉多斯比弥乃弥己等(きたしひめのみこと)(法隆寺蔵「天寿国繍帳記」『上宮聖徳法王帝説』
④等已弥居加斯支移比弥乃弥己等(とよみけかしきやひめのみこと)(「天寿国繍帳」)
⑤践坂大中比弥(ほむさかおおなかつひめ)王「上宮記」『釈日本紀』十三述義九)
⑥田宮中比弥(たみやなかひめ)(「上宮記」)
⑦阿那爾比弥(あなにひめ)(「上宮記」)
⑧布利比弥命(ふりひめのみこと)(「上宮記」)
⑨阿波国美馬郡波爾移麻比弥(はにやまひめ)神社(『延喜式』神名帳)
などのように、『古事記』以前の表記法を伝えるとみられるもののなかに、「甲類のメ」をあらわすために用いられている例がある(文例は、坂本太郎の列挙による)。このような事例をみると、「姫」は、むかしは、「ひ(甲)み(甲)」といっていたのではないかと疑われるが、そうではないことは、「上宮記」において、「布利比弥命(ふりひめのみこと)」を「布利比売命(ふりひめのみこと)」とも記していることからわかる。「弥」は、あきらかに、「甲類のメ」に読まれているのである。
ただ、ふしぎなことに、「弥」を「甲類のメ」と読むのは、わが国の古文献においては、「比弥[ひ(甲)め(甲)](姫)」という熟語にかぎられている。さきの①の「比弥乃弥己等(ひめのみこと)」のように、「弥己等(みこと)」(命)のばあいは、「弥」を「甲類のミ」に読んでいる。そして、「卑弥呼」の「弥」は、まさに、「卑[ひ(甲)]=比[ひ(甲)]」の字のあとに用いられており、「卑弥[ひ(甲)め(甲)]」と読みうるケースである。
『万葉集』の167番の歌で、「天照(あまて)らす日女(ひるめ)の尊(みこと)(天照日女之命)」という語のすぐあとに、「高照(たかて)らす日(ひ)の皇子(みこ)(高照日之皇子)」という語がでてくる。「日女」は、「ひめ」とも読める。「卑弥呼」は「日女皇子(ひめこ)」のような語をうつしたものであろうか。

(3)姫(ひめ)の命(みこと)説
江戸中期の国学者、松下見林は、『異称日本伝』のなかで、「卑弥呼」を、「姫(ひめ)の命(みこと)」の省略形とする。東大教授であった東洋史学者、白鳥庫吉も、論文「倭女王卑弥呼考」のなかで、「姫の命説」をとる。しかし、「み(甲)こ(乙)と(乙)」の「こ(乙)」は、「卑弥呼(ひみこ)」の(甲)」とやや異なる。この説は、おそらくあたらないであろう。

 

■「卑弥呼」の意味
以上から、「卑弥呼」は、坂本太郎の説くように、「姫子(ひめこ)」の意昧にとるのが、もっとも穏当である。
『日本書紀』では、「女王」は、
  「飯豊女王(いいどよのひめみこ)」(「顕宗天皇即位前紀」)
  「忍海部女王(おしぬみべのひめみこ)」(「顕宗天皇即位前紀」)
  「栗下女王(くるもとのひめみこ)」((舒明天皇即位前紀)」
などのように、「女王(ひめみこ)」(姫御子の意味)と読まれている。

 『続日本紀(しょくにほんぎ)』では「女王」は単独で用いられるばあいは、「女王(じょうおう)」と読み「伊福部女王(いほきべのひめみこ)」のように人名として用いられるばあいは「女王(ひめみこ)」と読んでいる(岩波書店刊、新日本古典文学大系『続日本紀』など)。

「卑弥呼」は、「ひめこ」と読み、「姫子」あるいは「姫御子」の意昧とみられる。
『古事記』の「孝霊天皇紀」に、「男王五、女王三」という記事があり、これは、ふつう、「男王五(ひこみこいつはしら)、女王三(ひめみこみはしら)」
のように読まれている。
また、『日本書紀』では、「七(ななはしら)の男(ひこみこ)と六(むはしら)の女(ひめみこ)とを生めり。」(「景行天皇紀」)
のように、「男」の字を、「ひこみこ(彦御子の意味)」と読んでいる例がある。
狗奴(くな)国の男王「卑弥弓呼(ひみここ)」は、「卑弓弥呼」の書き誤りと考えて、「彦御子(ひこみこ)」のこととする説がある。「卑弓弥呼」と記すべきところを、すぐ上に、「卑弥呼」の名があらわれるので、それにひかれて、「卑弥弓呼」と記したのであると考える。
もし、そうであるとすれば、『魏志倭人伝』の、
「倭の女王卑弥呼、狗奴国の男王卑弥弓呼と素より和せず。」
は、『日本書紀』流に読めば、つぎのようになる。
「倭(やまと)の女王(ひめみこ)、卑弥呼(ひめこ)、狗奴国(くなこく)の男王(ひこみこ)、卑弓弥呼(ひこみこ)と素(もと)より和(あまな)はず。」
  すなわち、「卑弥呼(ひめこ)」「卑弓弥呼(ひこみこ)」は、そのまえの、「女王」「男王」という漢語の「大和(やまと)ことば」を、万葉仮名風に表記しただけのこととなる。
この可能性は、かなり大きいように思える。
魏の人から、「女王」「男王」のことを、なんと言うかとたずねられて、倭人は、「ひめみこ」「ひこみこ」と答え、それを魏人が漢字の音で、表記したものであろうか。
あるいは、邪馬台国朝廷がわの官人が記したことも考えられる。

『魏志倭人伝』には、「文書、賜遺(しい)の物[賜(たまわ)り物]を伝送して女王(のもと)に詣(いた)らしめ」「倭王使いによりて上表す」などとある。
「上表」という句は、『日本書紀』にしばしば用いられており、そこでは、「上表(ふみたてまつ)る(文たてまつる)」と読まれている。
これらから、邪馬台国の卑弥呼の朝廷には、文字を読み書きできる人のいたことがわかる。
卑弥呼が、上表したとすれば、そこには、署名もあったであろう。署名では、「ひめみこ(姫御子)」の「御」は、尊敬語なのでいれず、「ひめこ(姫子)」のように記したのであろう。


4.欠史八代などの実在性について

■古代の諸天皇実在説を述べた古代史研究者
第二次大戦後も、具体的な史料分析の立場から、日本古代史の実証的研究をおしすすめた東京大学教授の坂本太郎氏(1901~1987)は、『季刊邪馬台国』26号に寄せられた論文「古代の帝紀は後世の造作ではない」のなかで、およそ、つぎのようにのべている。
「古代の歴代の天皇の都の所在地は、後世の人が頭のなかで考えて定めたとしては、不自然である。古伝を伝えたものとみられる。第五代から見える外戚としての豪族が、尾張の連(むらじ)、穂積臣(ほづみのおみ)など、天武朝以後、とくに有力になった氏でもないことは、それらが後世的な作為によるものでないことを証する。天皇の姪(めい)とか庶母(ままはは)とかの近親を妃(みめ)と記して平気なのは、近親との婚姻を不倫とする中国の習俗に無関心であることを示す。これも、古伝に忠実であることを証する。婚姻関係から見て、帝紀の所伝はいろいろ問題はあるにしても、古伝であることは動かしがたく、後世の七世紀あたりの造作だという疑いは、まったく斥(しりぞ)けることができる。」
「疑いは学問を進歩させるきっかけにはなるが、いつまでもそれにとりつかれているのは、救いがたい迷いだということも忘れてはなるまい。」

この文において、坂本氏が、たとえば、「天皇の姪とか庶母(ままはは)(父帝の皇后など)とかの近親を妃として平気なのは、・・・・・」と記す。これは、具体的には、つぎのような事例をさす。

①『古事記』は、神武天皇の死後、長子の多芸志美美命(たぎしみみのみこと)[母は、南九州出身の、阿比良比売(あひらひめ)]は、父帝神武天皇の大后(おおきさき)(皇后にあたる)の伊須気余理比売(いすけよりひめ)と結婚している。
②『古事記』『日本書紀』によれば、第九代開化天皇は、父帝である第八代孝元天皇の死後、父帝の皇后であった伊迦賀色許売命(いかがしこめのみこと)と結婚している。そしてのちの第十代崇神天皇を生んでいる。
③『古事記』によれば、第六代の孝安天皇は、姪の忍鹿比売(おしかひめのみこと)と結婚して、第七代の孝霊天皇を生んでいる。
④『古事記』『日本書紀』によれば、第十六代の仁徳天皇は、第十五代応神天皇の皇女で、庶妹(ままいも)(母の違う妹)である八田若郎女(やたのわかいらつめ)と結婚している。

坂本太郎氏は、このような傾向は、中国の「同姓娶(めと)らず」の文化風習が、まだ、わが国に強く影響を与えていない時期の、わが国での古代の習俗であろうことをのべている。つまり、古来の伝承を記したものであろうとのべているのである。なお、『古事記』『日本書紀』が編纂されたころの中国の王朝は、唐であった。唐の法律の『唐律』には 「同姓にして婚をなすものは、おのおの徒(ず)(懲役刑)二年」とある。      

新潟大学などの教授であった植村清二(1901~1987)は、すぐれた東洋史学者であった。また、植村は、直木賞でよく知られている作家、直木三十五の弟でもあった。(「直木」は、本名のなかの「植」の字を分解したもの)。
植村は、その著『神武天皇』(中公文庫、1990年刊)において、『古事記』『日本書紀』のなかの神武天皇についての記述を、くわしく分析したうえで以下のようにのべている(以下、カッコ( )内は、安本がおぎなった)。
「初期の(天皇)の系譜的記事の一切が、机上で制作されたという(抹殺博士主義的な)説は、古人の構想力をあまりに高く評価し過ぎるものである。」
「帝紀は本来系譜的記載だけであって、これに旧事の物語がそれぞれ付加されて、記紀の原型ができ上ったのであるから、綏靖天皇から開化天皇までの八代に何の物語も伝えていないのは旧事にそれが欠けていただけに過ぎないのであって、そのために帝紀の記事を疑う理由とはなり得ないのである。」
「もし更に十数代の世代を増せば、年紀との矛盾はよほど避け易くなったに違いない。然るに書紀の編者がこれを試みず、智恵もなく八代の天皇の事績をブランクのまゝに放置したと共(とも)に、百数十歳の長寿を記して後人を怪しませるに至ったのは、全く彼等が帝紀そのものの所伝を尊重したからに外ならないからであろう。そしてこの点からも帝紀の記事が少なくとも権威あるものと信ぜられたことがわかる。
著者は素朴に崇神天皇以前の天皇は、最初から帝紀に記載されていたことを認め、しかもそれは古い伝承であったと考えるものである。」

■井上光貞氏の古代の諸天皇非実在説
日本古代史学者で、東京大学の教授であった井上光貞氏は、その著『日本の歴史1 神話から歴史へ』(中央公論社、1965年刊)のなかで、古代の諸天皇非実在説の根拠を、要領よくまとめている。すなわち、その根拠は、おもに、つぎの四つにまとめられる。
①第二代の綏靖天皇から第九代の開化天皇にいたる八代については、『古事記』『日本書紀』には、皇室の系図的な記事があるにとどまる。その事績については、記されていない。
②第二代の綏靖天皇から第九代の開化天皇までの天皇の名前が後世的である。
③神武天皇から開化天皇にいたる九代の天皇は、みな父子の関係にある。皇室の系譜としてはほぽ確かな第十五代応神天皇以後では、七世紀にいたるまで、皇位の継承は複雑で、父子継承というような単純なものではなかった。これは、皇位継承法が、中国の相続法の影響を受けて変化してきた七世紀に設定したものではなかろうか。
④那珂通世などの年代論によれば、神武天皇は、西暦紀元前後の人となるが、西暦紀元前後とすれば、『古事記』『日本書紀』の成立まで、七百年の長い年月が経過している。文字も暦も知らなかった日本人が、そのように昔のことを、どのていど記憶していたか疑わしい。

①について
(a)神武天皇のばあいは、くわしく事績が記されていても、その実在は、否定できる。
(b)綏靖天皇以下八代のばあいは、事績記事を欠いていてその実在を否定できる。
(c)崇神天皇や、仁徳天皇のばあいは、事績が記されていて、その実在は、肯定できる。
(d)用明、崇俊、推古などの諸天皇のばあいは、事績記事を欠いていて、その実在を肯定できる。
このように、事績記事があってもなくても、肯定も否定もできる。これでは事績記事の有無は論理的な説明に使えない。

②について
井上氏は「ヤマトネコ」は後世の名前を引用して、欠史八代の天皇の名前として付けたとするが、「ヤマトネコ」は第45代~第54代の天皇の名でも使われており、『古事記』編纂後でも使われている。このように後世でも使われている例もある。前の時代のものを後世で使っている例があるのに対し、井上氏の述べるように前の時代のものは後世で作ったした場合。これはどちらの説が正しいか?他に事例を示せない前の時代のものは後世に作ったいう考えが有利だとは説明できない。
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③について
もともと、天皇が、父子継承を行なったという記述が、信じられるかどうかということと、天皇そのものの存在が信じられるかどうかということとは、別個の問題のはずである。
継承の仕方が信じられなければ、天皇の存在が信じられないということにはならない。この二つは、因果関係の糸で、論理的に、直接つながっているわけではない。

『古事記』『日本書紀』においては、開化天皇以前の天皇では、末子相続が多い(下記表参照。開化天皇以前のほうが、崇神天皇~推古天皇のころよりも、末子相続が多いということは、統計学的にはっきりと主張できる。
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これは、モンゴルなど、遊牧民族に例がみられるものであるが、中国流の儒教精神による長子相続法とは、はっきりと対立するものである。
わが国の氏族制度の研究家、太田亮(あきら)の大著『日本古代史研究』(磯部甲陽堂刊)によれば、上代においては、物部氏でも、巨勢(こせ)氏でも、吉備氏でも、末子相続による継承がおこなわれているという。
『古事記』『日本書紀』の天皇の継承関係の記事は、末子相続が、現実に行なわれていたか、または、その記憶がつよく残っている時代に、整備されたものとみられる。
七世紀という新しい時代ではないであろう。

④について
那珂通世の年代論では神武天皇の時代は相当古くなる。これは誤りである。
井上氏が根拠にする理由にならない。

■古代の天皇の実在を示す四つの積極的根拠
①后妃についての記事
初期の天皇はその土地の豪族の娘と結婚する例が多い。これは古い伝承であると考えられる。

②都の所在地についての記事
初期の天皇は葛城地方に都をおいてあったとされ、比較的狭い範囲であった。もし、後世に作られたものなら、もっと広い範囲でもよいはずだが、伝承があったと考えられる。

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③陵墓の所在地についての記事
初期の天皇は都と同じように、葛城地方に陵墓が存在した。


④陵墓の築かれた地形についての記事
初期の天皇は自然の地形を利用していた。後ちの天皇は平地が多くなる。

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『日本書紀』は、神武天皇以前の三代の陵墓の所在地を、つぎのように記している。
(a)瓊瓊杵(ににぎ)の尊・・・筑紫の日向の可愛之山陵。
(b)彦火火出見(ひこほほでみ)の尊・・・日向の高屋山上陵。
(c)鸕鶿草葺不合(うがやふきあえず)の尊・・・日向の吾平山上陵。
神武天皇以前は山の地形を使っており、初代天皇より更に自然の地形を利用している。

明治大学の考古学者、大塚初重教授は、その編著『古墳辞典』(東京出版刊)のなかで次のようにのべている。
「古墳時代を前・中・後期の三期に区分したばあいの前期古墳は、三世紀代の終末ごろから四世紀代の古墳を指す。(中略)(前期古墳は)丘陵尾根上・台地縁辺など低地を見おろすような地形に立地し、前方後円墳・前方後方墳、双方中円墳、円墳・方墳などの種類がみとめられる。墳形をととのえるのに自然地形をよく利用しているのも前期古墳の特色である。」
第一代神武天皇から第九代開化天皇までのすべての天皇の陵墓は、「畝火山(うねびやま)の北の方の白檮(かし)の尾の上(うえ)」「掖上(わきがみ)の博多山(はたたやま)の上(うえ)」「玉手(たまて)の岡の上(うえ)」など、山や、山の尾根、岡や坂など、自然の丘陵などの一部を利用して築かれたような記述になっている。
これにたいし、第十代崇神天皇~第四十三代元明天皇においては「菅原(すがはら)の御立野(みたちの)」とか、「毛図(もず)の耳原(みみはら)」とか「丹比(たじひ)高鷲(たかわし)の原」とか、平地部に築かれたとする例が多くなっている。


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