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第342回 邪馬台国の会
「卑弥呼の墓」を考える
『魏志倭人伝』を徹底的に読む徇葬


 

1.「卑弥呼の墓」を考える

■「卑弥呼の墓」について、森浩一氏の的確なる意見
検討資料 『古墳』森浩一著(保育社、1970年刊)から
箸墓と卑弥呼の家
『書紀』における箸墓の説話
奈良盆地の南東部、大神(おおみわ)神社の神域として守り伝えられてきた秀麗な三輪山の麓から、平地に少し離れて箸墓古墳がある。墳丘の長さが278メートルもある巨大な造山(つくりやま)で、全国の前方後円墳の中でも十番目の大きさだが、平地に立地しているためか、あるいは背景の三輪山が青一色であるためか、力量感だけでなく神秘さのただよう古墳である。『古事記』や『日本書紀』では意外と古墳についての説話は乏しいのだが崇神紀にまずでているのが箸墓の説話である。

その大筋をたどっておこう。
「倭迹々日百襲姫(やまとととひももそひめ)が、大物主神の妻になった。ところが夫の神は、夜にしかあらわれず、どんな姿かを見せない。姫が懇願すると、明朝おまえの櫛箱に入っているから、自分を見ても驚かないようにと答えた。姫が明るくなってから櫛箱を見ると、そこに美麗しい小蛇(おろち)がいる。あまりのことに姫が驚いて声をあげたので、蛇神である大物主神がいかって三輪山へ登ってしまった。嘆き悲しんだ姫は、箸で陰(ほと)をついて死んだので大市に葬り、時の人たちは箸墓となづけた。」という。これは難解な説話であるが、私たちにとって興味深いのは説話の後半の部分である。
「この墓は、日(ひる)は人作り、夜は神作る。大坂山の石を運んで造る。大坂山から墓までは人民が並んで、たごし、つまり手送り式で運んだ。それを時の人が、歌った。
大坂に踵(つ)ぎ登れる石群(むら)を手遞伝(たごし)に越(こ)さば越し難(かて)むかも」

箸墓は、畿内地方にある雄大な高塚古墳の中でも古式に属している。箸墓と前後を決めにくいこの時期の大型古墳としては桜井茶臼山、大阪府摩湯山(まゆやま)、京都府椿井大塚山(つばいおおつかやま)などがあるが、いずれも自然地形を利用して墳丘を整えている。
それにたいして、箸墓は、多少は自然地形を利用しているにしても、平野に築きあげられた墳丘である。もともと丘陵や尾根があったところを修築して古墳に利用した場合にくらべると、眼をさえぎるもののなかった平地に造りだされた大古墳は、それがいかに人間の知恵と労働によって営造されたものであっても。神の協力のたまものと信じたのは自然の理ではなかったか。

箸墓は卑弥呼の墓か?
箸墓を、『魏志』倭人伝に記載する女王卑弥呼の墓に想定した人がいる。それは種々の古代学の労作をのこした笠井新也氏である。笠井氏は文献のうえから、卑弥呼が倭迹々日百襲姫であるという仮説を発表したのち、さらに「卑弥呼の冢墓と箸墓」なる論文を『考古学雑誌』三十二巻七号に掲載した。それは太平洋戦争がたけなわの昭和17年のことであった。

倭人伝では卑弥呼の墓に関しては、「卑弥呼以って死す。大いに冢を作る。径百余歩、徇葬する者、奴婢百余人」
と書かれており、卑弥呼が君臨した邪馬台国が大和地方か、あるいは、北九州にあったかは別にしても、三世紀の中葉に卑弥呼の墓が日本のどこかの地域に造られたのは事実としなければならない。笠井氏は箸墓の後円部の直径が150メートルであるとして、それは魏の百余歩に近いと考証した。この場合、後円部よりずっと大きい墳丘の長さをすてて、後円部の規模で古墳を代表させたのだが、笠井氏は江戸時代の学者河村秀根(ひでね)が箸墓を「円形之丘」と表現していることで説明しようと試みている。

箸墓をめぐる問題点
笠井氏の論文以来、すでに約30年が過ぎたが、箸墓が御陵墓であることも関係して、その研究はまったく進んでいない。今日の学界でも卑弥呼の墓についての倭人伝の記載を絶対視して、これをわが国における高塚築造の開始とみなし、この時点からを古墳時代にしてもよいという大胆な意見もあるようだが、私は反対である。というのは中国の王陵の記事と卑弥呼の墓の記事を比較してみると明らかに相違がある。

『後漢書』の註(ちゅう)にひかれている古今註によると、
光武原陵 山方三百二十三歩、高六丈六尺(以下略)
安帝恭陵 山周二百六十歩、高十五丈(以下略)
などとある。光武原陵は方とあるので方墳、安帝恭陵は周とあるので円墳と考えられるが、いずれもそのあとに高さを明記しているのである。ところが、すでに引用した古代の中国人による卑弥呼の墓の記録では、径百余歩と平面の空間は示すものの、そのあとに高さを示す記載がない。これはどうしたことか。すでに最初の章において古墳を三類型に分かって、そのA型を無盛土の古墳とした(後に注あり)。倭人伝を忠実に読み、しかもできるだけその時代に近い同種の記載例を中国の史料に求めて比較すると、卑弥呼の墓をB型、つまり高塚古墳と推定する根拠はないのである。現在の段階では、卑弥呼の墓は、顕著な墳丘のないA型古墳、しかしその墓域は広大であったと、私は考えている。もしその墓域の周囲、または墓域内の聖域だけを溝で区画してあれば、方形か円形の周溝墓になろう。

昭和40年(1965)2月、福岡県糸島市前原町の平原(ひらばる)で重要な古墓が原田大六氏らによって発掘された。
このあたりは、倭人伝にでている伊都国のあった地で、平原に近い三雲や井原からは弥生中期の支配者たちの墳墓がすでに江戸時代に発見されている。三雲や井原の墳墓は、遺骸を甕棺にいれてあり、三雲では前漢時代の銅鏡30数面、井原には王莽や後漢前半の銅鏡20数面が副葬されていた。要するに、三雲、井原、平原の地は伊都国の政治的中心であり、代々の国王の墓のいくつかが偶然に発掘されたのであろう。さて、平原の古墓は、長大な木棺を埋葬施設にし、銅鏡だけでも42面を副葬した方形周溝墓である。原田氏は、平原古墓の東に接した別の古墓も調査した。その際、周溝を丁寧に調べると、水を流す溝ではなく、殉(徇)葬用の墓穴を連続させた可能性がつよく、溝内に16人の殉葬があったことが推定できるとした。
これは重要な指摘であって、それまでも各地の方形周溝墓の溝内では、ある間隔をおいて土器だけが点々と置かれていたことはあったが、平原での観察を適用すると、人骨は腐朽し去り、遺骸のそばにおかれた土器だけがのこったことになるのである。このような溝内での殉葬の例は中国の山西省俟馬鎮の古墓でも知られている。卑弥呼の墓を倭人伝の記事に即して解釈すれば、殉葬の点でも、A型の古墳であったとするほうが妥当であり、典型的な古式の高塚古墳である箸墓をそれに想定することは今日知られている資料だけでは賛成できない。
最近、箸墓の後円部頂上に埋っていた円筒埴輪の破片が新聞紙上で紹介されたことがある。私も実物を見る機会があったが、奈良県の古式古墳に使われている埴輪のなかでは古拙の手法をとどめている。箸墓の被葬者と築造の時代についての究明はまだまだ時間がかかりそうだ。

■この森浩一氏の意見の補足事項
・下記に森浩一氏、笠井新也氏、原田大六氏の写真を示す。

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・笠井新也氏の崇神天皇没年が258年説についての補足
『古事記』による天皇の「没年干支」から崇神天皇は戊寅(ぼいん)である。この年は西暦318年か258年だと推定される。 331-03
笠井氏は258年とした。(注:安本説では318年でもまだ古く見積もっているとする)
そうすると卑弥呼が魏に使いを出した頃の三世紀中頃に近くなる。
しかし、右図のように、崇神天皇から仁徳天皇までの天皇在位年数が約28年と長くなり、平均10年程度から極端に長くなる。
この『古事記』の「没年干支」について、東京大学の教授であった古代史家の井上光貞は『神話から歴史へ』(『日本の歴史1』中央公論社、1965年刊)のなかで、つぎのようにのべている。
「この崩年干支(没年干支のこと)は、あまり信用できない。古事記のできたころにはすでに、何らかの記録によってできあがっていたものと考えられるが、その書かれた内容をすべて信用することには賛成しかねるからである。崩年干支によってあまりはっきりした数字をだすことは、しばらくあきらめるほうが無難であろう。」

このように『古事記』の「没年干支」から崇神天皇の時代を推定することは無理があるように見える。

・方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)についての補足
①弥生時代・古墳時代の墓の一形式に対していう。中央に遺骸を納める土壙を掘り、そのまわりを方形にして溝をめぐらすもの。一辺6~7メートルあるいは10メートル前後で、溝に内部と接続して狭い上堤が通じている。陸橋とかブリッジともいわれている。また方形区画内は方形台状をなし1メートルぐらい高く土盛りされているものもある。ほぼ中央に長方形の坑をなす上端がある。各地で発見されており、弥生時代から古墳時代へとつづくが、古墳時代にあっては前方後円墳等の壮大な高塚が発展しているとき、なお前代からの伝統をもつこの種の墓制が行われていたのであり、しかもこれらは群をなして存することも普通であり弥生時代、古墳成立への過渡期さらに古墳時代へとながい時代にわたって築かれ、その被葬者群の地位などをめぐって研究の課題が多い。

②方形周溝墓という墓制の一形式の確認されたのは日が浅く、昭和39年(1964)、大場磐雄が東京都八王子市宇津木遺跡で幅約50~80センチをなす溝を方形にかこみ一辺6~9メートルぐらいの内部の中央に土坑があり、ガラス小玉なども発見されて墓と確認しこれを方形周溝墓と命名したことによる。なお、方形のほかに円形のものもあり、この場合、円形周溝墓といわれる。

森浩一氏の『古墳』は1971年頃の見解で、最近では方形周溝墓は数十センチから1メートル余りの盛り土があったが長い年月で平らにされたとの説が主流となっている。

・笠井新也氏の箸墓の後円部の直径が150メートルによる卑弥呼の墓説についての補足
『魏志倭人伝』では下記のように記されている。
卑弥呼(ひみこ)以(すで)に死し、大いに冢(つか)を作る、径百余歩なり。徇葬する者奴婢(ぬひ)百余人なり。更(あらた)めて男王を立つれども、国中服せず。更(さら)に相誅殺(あいちゅうさつ)す。[倭人(わじん)]当時千余人を殺す。復(ま)た卑弥呼の宗女(そじょ)壱与(とよ)年十三なるものを立てて王と為(な)す。国中遂(つい)に定まる。

現代語訳
使者の張政(ちょうせい)らが到着した時は、卑弥呼はもう死んでいて、大規模に、直径百余歩の塚を作っていた。殉葬した男女の奴隷は、百余人であった。かわって男王を立てたが、国中それに従わず、殺しあいをして、当時千余人が死んだ。そこでまた、卑弥呼の一族の娘で台与という十三歳の少女を立てて王とすると、国がようやく治まった。
注:径百余歩・・一歩は六尺。魏代の一尺は24センチ、とすると直径約150メートルか。

『魏志倭人伝』で卑弥呼の墓は直径150メートルとしており、笠井氏は箸墓古墳の前方後円墳の後円部の径が150メートルで、この記事と合っているとしている。
しかし、寺沢薫氏の箸墓古墳に関する調査報告書から、前方部と後円部は連なっているとある。このことからも後円部だけを抜き出して論じることに無理があるように思われる。
そして、延喜式に天皇の陵墓について書いてあり、第15代応神天皇の兆域(お墓の大きさ)は東西五町南北五町と書いてある。1町(=360尺)=109メートルとすると、五町は545メートルとなる。墳丘全長425メートルで、後円部径は250メートルである。兆域はそれらより大きくなる。

第十代崇神天皇の兆域は東西二町南北二町と書いてある。1町(=360尺)=109メートルとすると、二町は218メートルとなる。崇神天皇陵は墳丘全長242メートルで、後円部径は160メートルである。兆域が全長より小さいが、1町=400尺=121メートル説をとれば、二町は242メートルとなり兆域は全長をカバーできる。
森氏が述べるように、『魏志倭人伝』の卑弥呼の墓の大きさは兆域であるとすれば、墓の大きさからも平原遺跡は卑弥呼の墓である可能性が出てくる。

・平原遺跡出土の鏡
平原遺跡の平原1号墓から出土した鏡について、森氏は42面と記述しているが、その後の調査で、40面となった。

・直径46.5センチの日本最大の大鏡の内行花文鏡八葉鏡----5面
・他の内行花文鏡(「大宜子孫」「□宜子孫」銘)------------2面
・方格規矩鏡四神鏡--------------------------------32面
・虺竜文(きりゅうもん)鏡--------------------------1面


平原遺跡で出土した5面の大型鏡の内行花文鏡の例と32面の方格規矩鏡の例を下図に示す。

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・平原遺跡の埋葬者についての補足
原田大六氏は平原遺跡に埋葬者された人物を天照大神としていた。そして天照大神は卑弥呼より以前の存在であるとしていた。
しかし、奥野正男氏は平原遺跡に埋葬されたのが卑弥呼としている。そして、安本は卑弥呼=天照大神としている。

そうすると、もしかしたら原田大六氏は「卑弥呼=天照大御神」の墓を、発掘したのかもしれない。342-04

藤田中(あたる)著『面会謝絶だあー孤高の考古学者・原田大六』(西日本新聞社2010年刊)
私が大六と結婚したのは昭和三十一年のことでした。
もともと大六は旧制糸島中学校で私の兄の原田新八郎(のちの彫刻家・日展理事、福岡教育大学名誉教授)と同級生でした。
ご存じの方もいらっしゃいましょうが、伊都国歴史博物館の庭に大六の銅像が建っています。私の兄の原田新八郎が造ったものです。

大きな転機は、昭和三十一(1956)年の小学校教諭・原田イトノさんとの結婚だった。このとき大六は39歳、イトノさんとはたまたま同姓だった。
この結婚を機に原田は、考古学、古代史研究に邁進(まいしん)するようになる。
生計の不安も一掃された。イトノさんは言う。
「大六は″妻食主義″でした。教師の私か食わしたからではなく、妻の私を食って生きていた。私はよく大六夫人と言われましたが、本当は第六夫人。あの人にとって、考古学が第一夫人、私は六番目たった」

原田大六氏の一番の理解者で、小学校の教師をしながら大六氏を支え、大六氏亡き後は、退職金をはたいて報告書『平原弥生古墳』を自費出版し、平原遺跡出土品の国宝指定にも奔走した妻の原田イトノさん。
さて、主人が亡くなってから、私は主人が生前にやり残した平原遺跡の調査報告書の出版に奔走しました。そして平成5(1993)年に葦書房から刊行されたのが、『平原弥生古墳(大日孁貴の墓)』です。大六が「八咫の鏡」と考えていた大鏡の原寸写真は、恐れ多くて折り目を入れるわけにはいかないので、みなさんからこげん太か本は初めて」といわれるほどの大きさになりました。重さは8.5キロあります。出版には五千万円近くかかりましたが、半分は生前の大六の原稿料、残りの半分は私の退職金や貯金をはたきました。報告書の価格は1セット八万円となりましたが、私は大六の学問、大六の仕事を見てもらいたいと、全国の大学や主な研究者に贈呈いたしました。主人の魅力ですが、大六には、こう思ったら一途の美しさがあったとしみじみ思います。平原遺跡に生き、平原に死んだと言っていいと思います。

そして、報告書刊行後、平成18(2006)年、平原遺跡出土の鏡などは一括して国宝になりました。
あのときは、やっと大六の思いが実ったと涙が止まりませんでした。


■関東方面から出土した神獣鏡
『森浩一著作集 第Ⅰ巻 古墳時代を考える』(新泉社、2015年刊)
「わが国での最古の年号鏡である呉(くれ)の赤烏元年鏡の出土古墳は重要な問題を含んでいる。この鏡の発見された山梨県鳥居原は、後藤守一先生が指摘されたように構造上後期古墳に属し、6世紀を遡るものではない。また古代の日本には、死穢を忌む風習が強く、稀有の例のほかには伝世は考えられない。従って鳥居原の赤烏元年鏡は、わが国と呉、つまり南朝との交渉が開始されるようになって、中国で伝世されていた鏡が日本へ送輸されたのであろうと説いておられる。先述のように中国での鏡の伝世が明らかにされつつある今日では後藤先生の意見が最も妥当性をもっている。」

年号鏡を出土した古墳の年代は、古墳編年でも格別古く位置するのでないことは、群馬県柴崎古墳、兵庫県安倉高塚(あくらたかつか)、兵庫県森尾古墳でも共通して認められる。邪馬台国体制下での鏡の配布を示すと推定された魏や呉の年号鏡は、むしろ大和政権によって配布されたのであり、・・・・。
(下図はクリックすると大きくなります)
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この表の④と⑨が3関東方面から出土した神獣鏡である。

関東方面で、出土した地域を地図に示すと下記となる。
山梨県西八代郡市川三郷町(いちかわみさきちょう)と群馬県高崎市は日本武の尊の伝承があるところである。
(下図はクリックすると大きくなります)
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このように、市川三郷町、高崎市に加え木更津市の吾妻(あずま)神社、香取がある。

■倭迹々日百襲姫(やまとととひももそひめ)は、卑弥呼などではありえない
・『魏志倭人伝』などでは卑弥呼の時代に男王がいなかった
倭迹迹日百襲姫と卑弥呼とは、時代が重ならないばかりではない。
『日本書紀』の伝える倭迹迹日百襲姫についての記述は、『魂志倭人伝』や『後漢書』などの伝える卑弥呼についての記述と、基本的な点で合致していないところが多い。
たとえば、『魏志倭人伝』と『後漢書』とは、卑弥呼が王になった事情を、つぎのように記している。
「その国は、もと男子をもって王としていた。倭国が乱れ、たがいに攻伐しあって年をへた。そこで、一女子を共立として王とした。名づけて卑弥呼という」(『魏志倭人伝』)
「(卑弥呼の死後、)更めて男王を立てたが、国中がそれに従わなかった。」(『魏志倭人伝』)
「倭国は大いに乱れ、たがいに攻伐しあった。歴年、主がいなかった。」女子があった。名を卑弥呼という。ともに立てて王とした。」(『後漢書』「東夷伝」)

これらの文章によれば、もとは男子の王がいたが、卑弥呼の時代には男王がいなかったということになる。
倭迹迹日百襲姫が卑弥呼であるとすれば、当時は、男王崇神天皇がいたことになり、「更めて男王を立てた」「歴年、主がいなかった」という『魂志倭人伝』や『後漢書』「東夷伝」の記事と、はっきり矛盾することとなる。

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吉備の武彦の叔母が倭迹々日百襲姫であり、崇神天皇の時代である。


■平原遺跡が卑弥呼の墓ということの可能性
・卑弥呼の時代は内行花文鏡の時代である
卑弥呼の時代は庄内式土器の時代であると寺沢薫氏は述べており、その時代の鏡は下記の表となる

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表から見て、内行花文鏡や方格規矩鏡が多い。
そして、その内行花文鏡方格規矩鏡が多く出土するのは、北九州が圧倒的に多い。
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柳田氏は、その著『伊都国を掘る』(大和書房、2000年刊)のなかで、平原王墓の被葬者を、「三世紀初頭に埋葬された倭国最高権威にある巫女」とする。

さらに、福岡大学の考古学者、小田富士雄氏らは、『倭人伝の国々』(学生社、2000年刊)のなかで、つぎのようにのべておられる。
「平原(王墓)になると、これはもう邪馬台国の段階に入っています。」

奥野正男著「邪馬台国はここだ」(奥野正男著著作集Ⅰ(梓書院、20109年刊)
平原出土の方格規矩四神鏡が後漢晩期のものであるとすれば、共伴の大形国産鏡の製作年代の上限もまた三世紀代におくことが可能である。この三世紀代はまさに卑弥呼の時代に相当し、一墳墓で副葬された鏡の数においても、日本最大の大形国産鏡という点でも、平原遺跡は日本の古代史上さいしょの女王である卑弥呼の墓にふさわしい」


・筑後川流域に邪馬台国の都があったと考えられる331-09
北九州地方で、古代に人口が多いと考えられるところは、及川氏の地図などから筑後川流域と考えられる。もし、北九州に邪馬台国があるとすると、一番可能性がるのは筑後川流域となる。

・古代では宮殿と陵墓とは距離的離れている
そこで、考えられるのが、古代において、都と陵の位置が離れているという場合がある事実も考えなければならない。

天皇の宮殿は下記である。
崇神天皇宮[磯城(しき)の瑞(みつかき)の宮]この宮の近くに海石榴市(つばいち)がある。
垂仁天皇宮[纒向(まきむく)の珠城(たまき)の宮]
仲哀天皇宮[穴門(あなと)の豊浦(とゆら)の宮、筑紫(つくし)の日(かもひ)の宮]
神功皇后宮[磐余(いわれ)の若桜(わかさくら)の宮]
応神天皇宮[軽島(かるしま)の明宮(あきらのみや)、豊明(とよあきら)宮]この宮は軽市(かるいち)で陵は餌香市(えがのいち)である。
仁徳天皇宮[難波(なにわ)の高津(たかつ)の宮]この宮は難波市である。

これらの天皇の陵墓はみやこから離れている。

陵や墓や宮殿は威信財(いしんざい)である。つまり”みせばらかす”ものであった。古代は新聞やテレビがないので、大きな構造物が”みせばらかす”には効果的があった。

つまり、
箸墓の近くに大市(おおいち)がある。
崇神天皇宮の近くに海石榴市(つばいち)がある。
応神天皇の宮の近くに軽市(かるいち)があり、陵の近く餌香市(えがのいち)がある。
仁徳天皇の宮の近くに難波市がある。
このように宮殿や墓の近くに市場があり”みせばらかす”の都合がよい環境を求めたのではないか。
(下図はクリックすると大きくなります)342-10


これらの結果から、卑弥呼の墓が平原遺跡にあるとすると、都があると考えられる筑後川流域から離れた糸島半島に、何故、墓があるのかという疑問にぶつかる。しかし古代では宮殿と墓とが離れている場合があるという事実から、この問題に対する解がでてきて、平原遺跡が卑弥呼の墓である可能性は十分考えられることになる。

2.『魏志倭人伝』を徹底的に読む 「徇葬(じゅんそう)」

『魏志倭人伝』に「徇葬者奴婢百余人」とある。
これを読み下し文にすると下記となる。
徇(しぬるにしたが)ひ葬(はぶ)る者(ひと)、奴婢百余人(をとこやっこめのこやっこももたりあまり)

「徇(じゅん)」は、「殉(じゅん)」と同じで、「したがう」という意味をもつ。
「徇死(じゅんし)」といえば、「殉死(じゅんし)」と同じで、「主人のあとにしたがって死ぬこと」を意味する。

『日本書紀』の「垂仁天皇紀」『日本書紀(上)』に、つぎのような話がのっている。
第11代の天皇の垂仁天皇の弟の、倭彦(やまとひこ)の命(みこと)がなくなった。倭彦の命を、身狭(むさ)[今、奈良県橿原市見瀬(みせ)町)の桃花鳥坂(つきさか)にほうむった。

近習のものを集めて、生きたまま、ことごとく陵のまわりに埋め立てた。
数日をへても、殉葬のものは死なず、昼も夜も泣きうめいた。
ついに死んで、ただれ腐った。犬と鳥がむらかって、死体を食べた。
垂仁天皇は、この泣きうめく声を聞かれて悲しまれた。
群臣にみことのりをする。
『生きていたときに寵愛したものを、死んだ人に殉(したが)わせるのは、まことに心の痛むことである。古くからの風習であろうと、良くないことに、どうして従う必要があろうか。今後は、協議して、殉わせることは、止めるように。』

ここの文では、「殉」の字を、「亡者(しぬるひと)に殉(したが)はしむるは……」
「 殉(しぬるにしたが)はしむることを止(や)めよ。」
のように読んでいる。

したがって、『魏志倭人伝』の「徇葬者」は、『日本書紀』流に読めば、「徇(しぬるにしたが)ひ葬(はぶ)る者(ひと)」と読める。
「葬(はぶる)る」は、「放(はぶ)る」と同じ動詞の意味分化とみられ、『古事記』『日本書紀』『万葉集』などに、多くの使用例がある。
さて、『日本書紀』は、「垂仁天皇紀」に、さらに、つぎのような話を記している。

「皇后の日葉酢媛(ひばすひめ)の命(みこと)がなくなった。垂仁天皇は、群臣たちにたずねた。
『死んだ人に従わせるのは、よくないことをさきに知った。このたびの葬礼は、どうしたらよいであろうか。』

このとき、野見(のみ)の宿禰(すくね)が進みでてのべた。
『君主の陵墓に、生きている人を埋めて立てるのは、よくありません。後世に伝えられるような風習ではありません。方法を考えて奏上いたしましょう。』
野見の宿禰は、使者をつかわして、出身地の出雲の国から、土部(はじべ)を、百人よんで、みずから土部たちをつかって、埴(はにつち)(赤い粘古)をとり、人や馬やさまざまな物の形をつくって、天皇にたてまつってのべた。
『今後は、この土物(はに)を生きている人にかえて、陵墓にたてて、後世に伝えることにいたしましょう。』
垂仁天皇は大いに喜んで、野見の宿禰に詔(みことのり)をした。
『お前が考えた方法は、大変私の心を満足させるものだ。』
その土物(はに)を、日葉酢媛の命の墓にたてた。
この土物(はに)を、なづけて埴輪(はにわ)という。
天皇は、命令を下してのべた。
『今後は、陵墓には、かならずこの土物(はに)をたてて、人をそこなうことのないように。』

天皇は、野見の宿禰の功績を大いにほめて、土師(はじ)の管掌者に任命した。
そこで、もとの姓(かばね)をあらためて、土部(はじ)の臣(おみ)という。土部(はじ)の連(むらじ)らが、天皇の喪葬(そうそう)のことをつかさどるのは、ここからはじまる。
野見の宿禰は、土部の連らの始祖である。」

ここでは、「人や馬やさまざまな物の形」[つまり、埴輪(はにわ)]をつくって、陵墓にたてた、とある。従来、垂仁天皇の時代に、馬の埴輪は、まだあるはずがなく、『日本書紀』の記事は、造作か、あるいは、単なる伝承と考えられてきた。
しかし、最近、崇神天皇の時代に築造されたと『日本書紀』の伝える奈良県の箸墓古墳の周濠から、乗馬のさいに足にかける馬具の、木製の縦型ダ出土している(2001年12月1日朝刊の諸新聞)。崇神天皇のつぎの垂仁天皇の時代に、馬の埴輪がつくられたというのもたんなる伝承ではないのかもしれない。
わが国の古代に殉死の風習があったことは、垂仁天皇よりもずっとのちの、第36代孝徳天皇(在位645~654年)が、大化二年(646年)の、薄葬の詔のなかで、つぎのようにのべていることから、あきらかである(『日本書紀(下)』)。

「人死亡(し)ぬる時に、若(も)しは自(おのれ)を経(わな)きて殉(したが)ひ、或(ある)いは人を絞(くび)りて殉(したが)はしめ、強(あなが)ちに亡人(しにたるひと)の馬を殉(したが)はしめ、或(ある)いは亡人(しにたるひと)の為(ため)に、宝(たから)を墓に蔵(をさ)め、或(ある)いは亡人(しにたるひと)の為に、髪(かみ)を断(き)り股(もも)を剌(さ)して誄(しのびごと)す。此(かく)の如き旧俗(ふるきしわざ)、一(もはら)に皆悉(みなことごく)に断(や)めよ。
{人がなくなったときに、自分で首をくくって殉死したり、人の首をくくって殉死させたり、死者の馬をむりやりに殉死させたり、死者のために財宝を墓におさめたり、死者のために髪を切り、股を剌して 誄(しのびごと)[死をいたみ、生前の徳などを追憶して言葉をのべること]をする。このような旧来の風習は、いっさい禁止する。}」

このような薄葬令(はくそうれい)を出したことは、それまで、旧来の風習が行なわれてきたことを意味する。
しかも、「孝徳天皇紀」の、薄葬令の出た三年あとの、大化五年(649年)の記事にも、蘇我の倉山田(くらやまだ)の石川麻呂[大臣(おおおみ)]が、謀反(むほん)のうたがいがかけられ、首をくくって死んだとき、妻子八人が殉死したことが記されている。

『日本書紀』では、「孝徳天皇紀」のまえにもあとにも、殉死のことは記されている。
第20代の安康天皇の元年の条には、安康天皇が、大草香(おおくさか)の皇子を殺したとき、大草香の皇子につかえていた難波(なにわ)の吉師日香蚊(きしひかか)父子ら三人が、みずから首をはねて殉死したことが記されている。
第41代の持統天皇(在位690~697年)の「持統天皇紀」には、天武天皇の皇子の大津(おおつ)の皇子(みこ)の謀反が発覚し、皇子に死が与えられたとき、大津の皇子の妻で、天智天皇皇女の山辺(やまのへ)の皇女(ひめみこ)は「髪被(かみくだしみだ)して徒跣(そあし)にして、奔(はし)りゆきて殉(ともにし)ぬ。」とあり、やはり殉死している。

「奴婢」という語は、『日本書紀』では、つぎのように読まれている。
「奴婢(つかひびと)」(『日本書紀(上)』)
「奴婢(をとこやっこめのこやっこ)」(『日本書紀(下)』)
「奴婢(やっこ)」(『日本書紀(下)』)
「をとこやっこめのこやっこ」と読まれている例が、もっとも多い。卑弥呼は、「婢千人をもって、みずからに侍(はべ)らしていた」。
近くで使っていたものたちを殉死させたという意味では、 「奴婢(つかひびと)」 と読ませるのが、よいかもしれない。

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