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第343回 邪馬台国の会
燕史倭伝
邪馬台国論の基礎データ-ビッグデータを考える
魏志倭人伝』を徹底的に読む


 

1.燕史倭伝【多鈕鏡の鋳型の出土】

■『毎日新聞』2015年5月28日(木)朝刊の「国内最古の青銅鏡型が福岡で出土」記事

(下図はクリックすると大きくなります)

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福岡県春日市須玖(すく)タカウタ遺跡で「多鈕(たちゅう)鏡」の鋳型が出土した。
文様の線が細かい「細文鏡(さいもんきょう)」であるという。
石材は朝鮮半島製とみられるが、「重弧文」は日本の弥生時代にほどこされている文様のため、渡来人ではなく倭人が鋳型を作った可能性があるという。

多鈕細文鏡は初期の銅鏡で、海外からの移入のみと、考えられていたが、今回鋳型が見つかったことから、日本でも作られていたと考えられる。

この記事について、『東京新聞』2015年5月28日(木)夕刊の鋳型図が分かり易い。

 

 

 

橋口達也著『甕棺と弥生時代年代論』(雄山閣、2005年刊)より、多鈕細文鏡は古い甕棺の中から出土することが分かる。前漢鏡の「清白」や「日光」や「日有喜」より古いことも分かる。

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多鈕細文鏡の鉛の同位体比は細形銅利器(銅剣、銅矛、銅戈など)と同じ鉛同位体比である。343-04


多鈕細文鏡は日本で12面出土している。そのデータを下記に示す。また鋳型の2例のデータも示す。
(下図はクリックすると大きくなります)
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多鈕細文鏡の例を3例ほどを下記に示す。
これは日本のものではなく、朝鮮、沿海州(現在のロシア)、遼東半島の朝陽(ちょうよう)からの出土品である。(下図はクリックすると大きくなります)
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■燧(すい)と鑑(かん)
古代の中国では、凹面鏡と凸面鏡とのちがいを、燧と鑑という文字を用いて区別していた。紀元前につくられたと信じられている『周礼(しゅらい)』という書物には、
「司恒(しこう)氏は夫遂(ふすい)を用いて日から明火をとり、鑑を用いて月から明水をとることを掌(つかさど)る。」
と書いてある。これだけでは意味がよくわからないかと思うので、すこし説明をくわえておこう。鑑というのは、本来は静止した水面に姿をうつす「水かがみ」の意味の文字であったが、しだいに金属製の鏡と混同され、一方では、水をいれる容器の名称として残された。もう一方の夫遂の方は、べつの書物では陽燧(ようすい)ともよんでいるもので、宋の馬縞(ばこう)という学者の説明によると、
「燧は銅でつくった一種の鏡であって、形は鏡と同じようであるが、物の影がさかさまにうつる点がちがう。これを日に向けると火を生じ、その火をモグサでうけて使用することができる。」
という。また、「陽燧は面がくぼんでいる」と明記した書物もある。したがって、燧が凹面鏡であったことには、まちがいはない。

凹面鏡ならば、太陽光線を焦点にあつめて、火をとることができるというのも不思議ではない。しかし、鑑を用いて「月から明水をとる」というのは、はたして、どういう方法によったものか、もう一つはっきりしない。それが、日と月と、火と水とを組みあわせた文飾でないとすれば、月の明るい晴夜に。銅鏡を屋外に放置して冷却し、空気中の水蒸気が水滴となって付着するのを集めるという可能性はあろう。水滴をにがさぬためには、あるいは凹面鏡の方が便利ではないかとも思われるが、そこが中国流の合理主義で、凹面鏡と凸面鏡との機能の相違を、こういうふうに区別して説明したのであろう。


■弥生時代の凹面鏡
さて、前口上が長くなったが、日本で使用してきた鏡のなかでは、弥生時代に輸入されて凹面鏡が、おそらく、もっとも古いものであったらしい。どうして、凸面鏡より凹面鏡の方がさきにはいってきたのであろうか、こういう重要な問題については。まだ、満足な説明はあたえられていない。まず、その謎から解いてみよう。

日本で弥生時代の遺物として発見される凹面鏡は、その裏面に、細線によって表現した幾何学的文様が鋳出してあり、円鏡の中心から一方にかたよった位置に、紐(ひも)をとおす孔(あな)をもった長方形平面の鈕(ちゅう)が、ふつうは二個つくりだしてある。この鏡にたいして、考古学上の用語として、多鈕細文鏡(たちゅうさいもんきょう)という名称があたえられることになったのは、鈕が一つでなく、文様は細線で表現しているという意味からである。この名称は、当然、このほかに一個の鈕をもった鏡があることを前提としているが、そのことは、もうしばらくあとまで、説明を保留しておきたい。

さて、多鈕細文鏡は弥生時代の遺物であるといったが、いままでに日本で発見された数は。わずかに四枚にすぎない。それを西の方からかぞえあげると、佐賀県唐津市宇木汲田(うきくんでん)の甕棺[かめかん](弥生式土器の甕を棺とした墓)から一枚、山口県下関市梶栗浜(かじくりはま)の箱式石棺(板石を長方形に組みあわせて、板石の蓋をした墓)から一枚、大阪府柏原(かしはら)市大県(あがた)の山中から一枚、奈良県御所(ごせ)市長柄(ながら)の山麓から一枚ということになる。

弥生時代の日本には、青銅でつくった器物として有名なものに、銅剣・銅矛(どうぼこ)・銅戈(どうか)の類と銅鐸(どうたく)との二種があり、その分布も、銅剣・銅矛類は北九州地方を中心とした地域に、銅鐸は近畿地方を中心とした地域に集まっているということは、中学生でも知っている事実である。
そのうえ、瀬戸内海の中央部の諸所では、銅剣と銅鐸とが同じ場所から発見されたという遺跡が、すでに四ヵ所ほどわかっている。それは、同じ弥生時代といっても、北九州地方と近畿地方とでは、多少ちがった風習があったことを、また、瀬戸内海の中央部は、その両方からの影響をうけた地域であったことを想像させる原因になっている。

ところが、多鈕細文鏡だけは、その両方の地域から、二枚ずつ発見されていることになる。しかも、佐賀県宇木汲田と山口県梶栗浜とでは、海岸に近い場所につくった弥生時代の墓の中に、この鏡が銅剣銅矛類と一緒に埋めてあった。それにたいして、大阪府大県と奈良県長柄とでは、山腹あるいは山麓の、墓とは思えないところに鏡が埋まっていた。とくに奈良県長柄では、鏡と一緒に一個の銅鐸も埋めてあった。
そうなると、弥生時代の日本を、銅剣銅矛類と銅鐸とを代表として、二つの地域にわけたことは、そのどちらにも多鈕細文鏡があるという点からいえば、結局は、二つの地域の風習には共通性もある、という説明ができることになってくる。

そのばあいの共通性を、もうすこしくわしく考えてみようとすると、多紐細文鏡が凹面鏡であるという事実が重要になってくる。多鈕細文鏡は凹面鏡であるから、顔をうつせば倒立してうつったであろう。それでは、姿見としての役にはたつまい。ただし、凹面鏡とはいうものの、その曲率はかなり大きいから、太陽光線を焦点にあつめて火を採ることができたかどうかは疑わしい。しいていえば、太陽光線を反射させて、人を驚かすことができたていどではなかったかと思う。

多鈕細文鏡が尊重された弥生時代の中期は、日本人がまだ石器を使用していた時代であることを、まず思いだしていただきたい。青銅や鉄などの金属製品は、すこしは用いられていたが、ふつうの生活には縁のすくない貴重品であった。
したがって、現代の子供なら、だれでも経験をもっているような、ガラスの鏡で太陽光線を反射させて、人をまぶしがらせるという種類のいたずらは、弥生時代の日本人には想像もつかぬことであった。弥生時代にはガラスの鏡がなかったはずではないかと、あげ足をとってもらっては困るので、よく磨いた金属の表面でも、同じように太陽光線を反射できることを思いだしていただきたい。その金属製品が凹面鏡ならば、なおさら好都合だということになる。

太陽崇拝 こういうふうに考えてくると、私には、弥生時代の日本人が、多紐細文鏡をどのように使用したかということが、ほぼ想像できるように思われる。
すなわち、まず鈕が鏡の中心からかたよった位置に二個あるから、紐をとおしてさげると、鏡の表面は、だいたい垂直に近くなる。それを榊(さかき)の枝にとりつけて、一入の女性が人々の前に姿をあらわしたとしよう。
それは、よく晴れた日でなければならない。待ちかまえた人々は、おそるおそる巫女(みこ)の姿をあおぎ見、つぎに鏡に眼をうつしたことであろう。その時、巫女が榊の枝を静かに勣かすと、一瞬に、鏡の面に反射された太陽のまばゆい光輝が、人々の眼を射る。はっと驚いた人々は、眼をとじて平伏したであろう。しかし、眼をとじてみても、開いてみても、網膜に焼きつけられた太陽の残像は、あるいは緑に、あるいは紫に変化して、もう一度、いま見たものをたしかめようとしても、ただ不思議な色彩が見えるばかりであったろう。
ようやく時間がたって、あたりの光景を、ふつうの状態に見ることができるようになった時には、巫女の姿は鏡とともに消えている。

こうして人々は、巫女が太陽を自由にするほどの呪力をそなえていることを、確信したにちがいない。太陽を支配するとは考えなかったとしても、人々が太陽にたいして、稲の生育をすこやかにするように、十分な日照りをあたえてほしいと願う時には、その願いを太陽につたえてくれるだけの能力を、この巫女がもっていることは、信じえたと思うのである。

こう考えてくると、さらに想像をたくましくしたくなることがある。それは、近畿地方では多紐細文鏡を墓には埋めなかったのに、北九州地方ではそれを墓に埋めているという問題についてである。
鏡を墓に埋めてしまえば、鏡による呪術はおこなうことができなくなってしまう。北九州地方では、それほどまでに、鏡をつかって太陽を祭った巫女の呪力が強大であり、しかも、人々の信望をあつめうる適当な後継者がなかったからだとも考えられないわけではないが、私は、もうすこしちがった考え方をしてみたいと思う。

それは、北九州地方の人々は、凹面鏡をつかって太陽を祭るという風習をもっていなかったのではないか、という推論である。
どうして、そのような推論ができるかというと、じつは、これらの多紐細文鏡は、日本でつくったものではなく、朝鮮からの輸入品であるからである。その証拠に、朝鮮では、北の平壌付近からも、南の慶州付近からも、日本で発見されているよりも、はるかに多数の多紐細文鏡が出土しているからである。
したがって、日本の問題としては、北九州地方の人々は、銅剣銅矛類などと一緒に、この鏡を朝鮮から輸入はしたが、それを自分たちの生活のなかにとりいれて活用することを知らなかったのではないか。ただ、外国製の宝物として、所有することに誇りを感じたにすぎなかったのではなかろうか、と考えてみたいのである。

それにたいして、近畿地方の人々は、北九州地方にはない大型の銅鐸をつくって、かれらの農耕生活に欠くことのできない宝器としたように、輸入した多鈕細文鏡にたいしても、その鏡の特徴を生かした用法を体得していたと想像するわけである。
それがあまりに想像にすぎるといわれるならば、しいてこだわる必要はない。日本でも朝鮮でも、多鈕細文鏡という凹面鏡を使用する太陽崇拝の風習が、ひろく古代に存在したというていどにまで、話を簡単にしても、いっこうにさしつかえはない。しかも、それならば、文様は日本や朝鮮のものとはちがっているが、同種の凹面鏡の分布範囲は、鴨緑江を北にこえて、中国東北部にも、沿海州にもひろがっているという事実を紹介することによって、問題を展開する方法があるからである。

天照大神が扉をすこしあけてのぞき見をした時に、「私が天岩戸の中にかくれたのに、神々はどうして楽しそうに笑っているのか」と尋ねられたら、「貴女よりも、すぐれた神があらわれたので、一同で喜んでいるのです」と答える計画になっていた。天照大神はこの返事を聞いて、どのような神が出現したのかと、さらに扉をあけて顔をのぞかせた。その顔の前に、かねて用意の鏡をさしだしたのである。天照大神は、鏡にうつった自分の顔を、新しい神の姿と思いこんで、まんまと天岩戸からつれだされたという説明もつけくわえてある。
ただし、この神話をそのままに生かそうとすれば、この時につくった鏡は、人の姿がそのままにうつる鏡であったことになり、もはや多紐細文鏡のような凹面鏡では理屈がとおらない。ところが、日本の古代には、姿をうつすための凸面鏡もまた弥生時代にすでに、中国から輸入されていたのである。この中国鏡は凸面鏡であると同時に、背面の中央に一個の紐をもつことを特徴としていた。

■青銅材料は燕から来た
以前話した淡路島から出土の菱環鈕式銅鐸と多鈕細文鏡とは同じ鉛の同位体比で、燕の国から来た銅を使っていたと考えられる。
・『山海経』のなかの倭
中国に『山海経』という文献がある。
『山海経』は、古代中国の神話と地理のことを書いた本である。山や海の動植物のことや、金石のこと、また、怪談などを記す。十八巻からなる。
著者は不明である。古代中国の伝説上の聖王であった禹(う)が書いたともいい、また、禹の治水を助けた伯益(はくえき)が書いたともいう。もともと、ひとりの人が、ある特定の時代に書いたものではないとみられる。
『史記』を書いた司馬遷が読んでいる。前漢時代の学者の劉款[りゅうきん](紀元前53~紀元後21)が校定し、叙録(じょろく)(大まかな内容を記したもの。解説文)を書いている。
したがって、漢代にはすでに存在していた。戦国時代~秦・漢代の著述とみられる。
その『山海経』の第十二の「海内北経」のなかに、「倭」についての、つぎの文がある。
「蓋国(がいこく)は鉅燕(きょえん)の南、倭の北にあり。倭は燕に属す。」 343-07

・『漢書』「地理志」のなかの「倭」
『漢書』は、前漢の歴史を記した本である。後漢の班固の撰。西暦82年ごろに成立した。
『漢書』の「地理志」の下の巻の燕地の条に、つぎのような文章がある。
「楽浪の海のかなたに、倭人がおり、百余国に分かれ、歳時(季節)ごとに来て、物を献上し見(まみ)えた[見(まみ)える]、という。(楽浪海中有倭人分為百余国、以歳時来献見云)」
この文章の問題点は、二つある。一つ目は「燕地」の条に記されていること、二つ目は、おしまいが「云う」と伝聞になっていることである。
したがって、「献上し見(まみ)えた」対象が、「燕」であるとも「漢」であるとも読めることである。
すなわち、つぎの二とおりの読み方が成立しうる。
①かつて、倭は燕に属していた。そのころ倭人は、百余国に分かれていた。季節ごとにやって来て、物を献上し、燕に見(まみ)えたという話だ。

②かつて燕のあった地の楽浪の海のかなたに倭人がいる。百余国に分かれ、季節ごとに、(漢の武帝が、紀元前108年に今の平壌ふきんにおいた楽浪郡の官庁に、)やって来て、漢に対して物を献上し、見(まみ)えると聞いている。

ただ、『後漢書』の「倭伝」の最初のところに、つぎのように記されている。
「倭は、韓の東南大海の中にある。(倭人は、)山島により居(すまい)を為(つく)する。およそ、百余国である(あるいは、百余国であった)。(前)漢の武帝が[衛氏(えいし)]朝鮮を滅ぼしたのち、漢に通訳と使者を派遣してきたのは、三十力国ほどである。」

また、『魏志倭人伝』の冒頭には、つぎのように記されている。
「倭人は、(魏の)帯方郡の東南、大海のなかにある。山島(しま)のなかに国ができている。旧(もと)百余国(むかしは、百以上の国があった)。漢のとき、来朝するものがいた。今、使者と通訳とが往来しているのは、三十力国である。」

これらの記事をまとめると、「漢以後には、使者と通訳とを派遣しているのは三十力国ほどで、それよりもむかしには百余国あった。」ということであるようにみえる。
つまり、さきの『漢書』「地理志」の倭についての記事は、燕の時代のことの伝聞のようにみえる。
もともと、『漢書』の「地理志」の燕地の条の記載は、各地の伝統的風俗を述べている部分の一つとして、がっての燕の地で行なわれていたことを述べている部分に記されているものである。

・公孫氏との倭
公孫氏について、『東洋史辞典』(東京創元社刊)の記述に下記がある。後漢末から三国時代に活躍した遼東の豪族。はじめ公孫度(字は升済)が郡吏に任じられ、のち遼東の太守となった。
彼は東は高句麗、西は烏桓、南は東莱の諸島を討って大いに領土をひろげ、 190年(初平元)自立して遼東侯・平州牧となり、強力な地方政権を樹立した。度の死後子の公孫康が位を嗣ぎ、207年袁紹を斬って魏の曹操に献じ、襄平侯に封じられ、左将軍を拝した。康の死後、弟の恭が衆に押されて嗣立したが、康の子の公孫淵が成長すると恭を脅かして位を奪った。その後、魏は淵に来朝を命じたが、淵はこれに応ぜず、自立に燕王と称し、百官を設けた。238年、魏は司馬懿を遣わして公孫氏を攻め、淵父子を斬ってその政権を倒した。

つまり、後漢の末ごろ、公孫氏という豪族が昔の燕の国の地域に起こり、卑弥呼が魏に使いを出す前の年に魏によって滅ぼされた。年表参照。

このように、倭に関して、燕に属していた。次に前漢、次に新、次に後漢、次に公孫氏、次に魏、次に西晋に属していた。そして、次に東晋へと使いを出した。と考えられる。

また、新にも属していたと考えられるのは新の方格規矩鏡が出土していることによる。

倭と中国の国々との関係について、全て歴史書がある訳ではないが、下記の倭伝が考えられる。
①燕史倭伝
②前漢史倭伝
③新史倭伝
④後漢史倭伝
⑤公孫史倭伝
⑥魏志倭人伝

今日は『燕史倭伝』の話をしたが、今後順を追って、各倭伝としての話をしていく。


2.邪馬台国論の基礎(第1回)【ビッグデータを考える】

ビッグデータについて、海部美知著『ビッグデータの覇者たち』(講談社現代新書、講談社、2013年刊)とか、ビクター・マイヤー・ショーンベルガー著『ビッグデータの正体』(講談社、2013年刊)、など参考になる本がいろいろ出ている。

■『朝日新聞』2015年10月18日(日)「科学の扉」欄にビッグデータについて分かり易く書いてあるので紹介する。
ビッグデータを生かす。 多様な感性で分析 新発見。
インターネットが登場してから蓄積される世界中のデジタルデータは爆発的に増え続けている。「ビッグデータ」だ。電車の遅れなどの身近な予測や、未知の物質の探索など、研究にとっても様々な可能性を秘めている。活用には、データの公開や人材育成が鍵になる。

どんな気象条件だと、鉄道路線に運休や遅れが生じるのか。その予測を競うコンぺが昨年開かれた。
もとになるのは、NTTドコモが電波基地局などで計測している気象データで、首都圏約200地点分の提供を受けた。1年分をJR東日本10路線の運行データと突き合わせて計算モデルを作成、その後の半年分を使って予測する。1位には賞金20万円が出る。
社会人や学生ら48人が参加し、683件が集まった。1位の的中率は75%で、工事などの要因を除くと9割超。気象条件だけではなく、電車の本数なども遅れに影響する。計算式にあてはめる要素のうち、時間帯と、休日か平日かを重視したのが特徴だ。

開発した会社員の男性(25)は、これまでもデータ分析のコンペに参加し腕を磨いてきた。
「普段触れることのできないデータに触れられるのが魅力。成果が得られた時には大きな満足感がある」という。
主催したデータ分析会社「オプト・データサイエンスラボ」の齊藤秀代表は「専門家だけでなく、開放されたデータを多種多様な人材の感性を入れながら分析する『オープンサイエンス』がビッグデータを生かす上で重要だ」と語る。

こうしたコンペは研究や実社会に生かされようとしている。
米国ではデータ分析会社「カグル」が。企業や公共機関から請け負ったデータを様々な人材に分析させている。米航空宇宙局(NASA)の依頼で宇宙画像から暗黒物質の中心位置を推定、医師らの団体の依頼で入院や通院の履歴から将来の医療費を予測するなどしている。

立証の時間節約
今年のノーベル医学生理学賞に決まった大村智・北里大特別栄誉教授は、抗寄生虫薬の元になる物質をゴルフ場の近くの土からみつけた。世の中に存在する膨大な物質から有用な物質を探し出すには、大きな労力が必要だった。
いまはコンピューターで化学反応を再現する研究も発達した。情報・システム研究機構は、理論的に成り立つ未知の「埋蔵分子」を大量にデータベース化して公開している。広く研究に利用してもらい、創薬や新材料の発見につながることを期待している。
東北大の大野公一名誉教授と北海道大の前田理准教授が開発した手法を利用。化学反応の過程をシミュレーションし、得られた原子同士の結びつき方(分子構造)を蓄積している。
(下図はクリックすると大きくなります)343-08

例えば、炭素6個と水素6個の「C6H6」」を入力すると、6千種類以上の分子構造が瞬時に表示される。これまで分かっていたのは217種類。実用化には実験などでの立証が必要だが、そこへたどり着くまでの時間は飛躍的に節約できる。分子構造を立体的に示せるのも強みだ。
同機構の佐藤寛子特任准教授は「画面上でひと目で分かることが大切。『この形、おもしろい。見たことがないぞ』というひらめきが発見につながります」と話す。
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足りない専門家
ビッグデータは今後も増え続ける。そこで問題になるのがデータを扱う「データサイエンティスト」の不足だ。文部科学省は、2020年のデジタルデータ量は00年比で1500倍に膨らみ、25万人が不足すると予想する。データサイエンティストには、統計学に精通しデータの解析や可視化ができる、データを用いて解決する課題を設定できる、異分野の研究や業種と連携できる、といった能力が求められる。文科省は「見習い」「独り立ち」卜「棟梁(とうりょう)」 「業界代表」にレベルを分け、人材を養成したい考えだ。

ただ、年間で米国は2万5千人、中国は1万7千人、インドは1万3千人を養成しているとみられるのに対し、日本は3400人ほどという。文科省研究振興局の榎本剛参事官は「現場を仕切って後輩に技術を伝授できる棟梁レベルの人材が特に少ない」と話す。
13年に人材の養成を目指して発足したデータサイエンティスト協会の草野隆史代表理事は「課題の設定、統計処理、データの運用というように全てを一人でできる人材はなかなかいない。それぞれの得意分野を持った人をどう集め、いかにバランスの良いチームを組むかが大切だ」と話す。(渡辺周)

プライバシーは
ビッグデータの活用を進めるため、改正個人情報保護法が9月に成立した。企業などが持つ個人情報を個人が特定できないように加工し、復元できないようにすれば、本人の同意なしに外部に提供できる。ただ、国会審議などでプライバシー侵害の懸念も指摘された。どこまで加工するかの基準は、第三者機関の「個人情報保護委員会」がこれから作る。

大学に専門学部
滋賀大はビッグデータの分析を学ぶ全国初の「データサイエンス学部」の2017年度の開設を目指している。1学年100人程度。交通系カードや電子マネーのデータによる渋滞緩和の研究や流行予測などを想定している。

国の補助も
文科省などは、ビッグデータの集積や人工知能での分析を目的としたプロジェクトに来年度から10年間で1千億円を投じる方針。まずは独創的なアイデアを100件採択し、研究者に計10億円の補助をする。


■ビッグデータから邪馬台国を考えると
ビッグデータを使ってものごとを分析すると、大きい問題ほど結果を出しやすい。日本語の起源はどこか?とか、邪馬台国はどこにあるか?などである。一つ一つの個々の問題の分析に、ビックデータは向かない。

・言語分析の例
手と歯とかの基礎語彙200語を使って、一致が偶然によってえられる確率を計算する。この方法により、異なる言語の関連性が分かる。
同じゲルマン系言語のドイツ語とスェーデン語は1180年前ごろに分裂したと考えられ、同じラテン系の言語であるフランス語とスペイン語は1430前ごろ分裂したと考えられる。そして現代英語とフランス語は4700年前ごろ分裂したと考えられる。このように分析すると、現代日本語と現代朝鮮語は同じ祖語から分裂したのは6200年前と推定でき、奈良時代に日本語と朝鮮語が通訳なしに通じたなどと考えることは出来ない。

言語年代学グラフにすると下記になる。(下図はクリックすると大きくなります)
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日本語はいろいろな言語が流れ込んで、出来あがったと考えられ、日本語の成立論のモデルは下記となる。

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ラテン語はいろいろな言語に分裂していったと考えられ、ラテン語の系統論のモデルは、下記となる。343-12


・邪馬台国問題
『魏志倭人伝』に卑弥呼は魏から鏡をもらったとある。魏の時代の鏡が出土するのは庄内式土器の時代にあたる。庄内式土器は福岡県からの出土が多い。また、、『魏志倭人伝』には鉄の鏃を使ったとある。そして鉄の鏃の出土は福岡県が多い。このように邪馬台国問題は数量化が出来る。数量化ができれば、確率論から結果が出せる。このように邪馬台国問題は統計分析で解ける。

いま、べイズ統計学が、統計学の分野に、革命をもたらしている。
べイズ統計学は、情報処理の分野をはじめ、広い分野で応用され、黄金期をむかえつつある。
べイズ統計学は、膨大なデータをまとめ、ただ一つの数字に帰着させるところに、その切れ昧がある。凄みがある。
日本全国の全都道府県の『魏志倭人伝』記載関係の全考古学的データを総合して、ただひとつの数字、「確率」にまとめれば、つぎのようになる。

邪馬台国が、福岡県にあった確率 99.8%
邪馬台国が、佐賀県にあった確率  0.2%
邪馬台国が、奈良県にあった確率  0.0%

「明日、雨のふる確率は、99.8%」といえば、ほとんどかならず雨がふるというに等しい。
さらに、福岡県と奈良県とのみを対比させれば、邪馬台国が、福岡県にあった確率は、ほぼ1となり、奈良県にあった確率は、ほぼ0(1万回に1回以下)となる。
邪馬台国論争への、強い警鐘が、ここからきこえてくる。
奈良県説は、個々の遺跡・遺物に注意を集め、それをなんとか邪馬台国に結びつけて、マスコミ報道にもちこむことをくりかえしている。それは、証明にならない。遺跡・遺物の、全体的状況をみなければならない。

現代を代表する統計学者・松原望氏(東京大学名誉教授、聖学院大学教授)は述べている。
「統計学者が『鉄の鏃』の各県別出土数データを見ると、もう邪馬台国についての結論はでています」

このように、ビッグデータ的考え方が必要かと思う。


3.『魏志倭人伝』を徹底的に読む【「みかん」と「橘(たちばな)」】

「みかん」と「橘(たちばな)」は『季刊邪馬台国』84号、2004年刊参照

わが国の柑橘(かんきつ)類の主流をなすのもは、次の三つに分けてみるのが、妥当なようである。
①『魏志倭人伝』にみえる「橘」の類。これは、野生種の「やまと(にほん)たちばな」(植物分類学者・牧野富太郎の命名)とみるべきである。

②『続日本紀』にみえ、「菓子(くだもの)の長上(もともすぐれたもの)」とされた「橘」の類。これは『古事記』『日本書紀』の垂仁天皇の条にみえる「ときじくのかくの実」とつながると考えられ、「紀州みかん(こみかん)」の類とみられる。

③現代のわれわれが、もっともふつうに食べている「みかん」。これは、明治中期よりものちに普及したもので、「温州(うんしゅう)みかん」とよばれるものである。

魏志倭人伝』の橘と、『続日本紀(しょくにほんぎ)』の橘
『魏志倭人伝』に、つぎのような文がある。
「倭の地は温暖、冬夏生菜(生野菜)を食す。……薑[きょう](しょうが)・橘[きつ](たちばな)・椒[しょう](さんしょう)・襄荷[じょうが](みようが)あるも、もって滋味とするを知らず。」
いっぽう、797年に撰進された『続日本紀』の、天平八年(736)十一月十一日の条に、和銅元年(708)十一月二十五日の宴で、元明天皇がのべた言葉として、つぎのような文が記されている。
「橘(たちばな)は、菓子(くだもの)の長上(最上のもの)にして、人の好むところなり。」
三世紀の段階で、「滋味(じみ)とすることを知らず」。すなわち、食べていなかったようにみえるものが、八世紀のはじめには、「菓子(くだもの)の長上」、つまり、おいしく食べられるものになっている。
このおよそ500年のあいだに、なにがあったのか。
その間の事情をうかがわせるような記事が、『古事記』『日本書紀』の垂仁天皇の条に記されている。
すなわち、やや伝説化しているが、つぎのような記事である。
「垂仁天皇は、多遅摩毛理(たじまもり)[『日本書紀』の表記は、田道間守。新羅(しらぎ)の王子で日本に来た天の日矛(あめのひほこ)の子孫]を、常世(とこよ)の国につかわして、ときじくのかくの木の実(四季変らない香りをもつ実)を求めさせた。多遅摩毛理は、その木の実をとり、縵八縵(かげやかげ)・矛八矛(ほこやほこ)(乾し柿のように縄にとりつけた形のもの八つ。団子のように串にさした形のもの八つ)を、もって帰った。このときじくのかくの木の実は、今の(『古事記』『日本書紀』が編纂されたころの)橘である。」

この記事によれば、多遅摩毛理がもって帰った「ときじくのかくの木の実」は、『古事記』の編纂されたころ、つまり奈良時代の橘であると認識されていたことがわかる。そして、『古事記』が成立した712年に近い和銅元年(708)には、「橘は、菓子の長上」とされていたのである。
天皇の在位一代平均約十年説によれば、第十代垂仁天皇が没したのは、西暦370年前後となる。ちょうど、三角縁神獣鏡がうずめられている古墳の多くが、きずかれていたころである。
『魏志倭人伝』に記されている「橘」と、奈良時代の橘(多遅摩毛理かもってきたとみられるもの)とは、種類が、ちがうようにみえる。

現代の「みかん」
現代のわれわれが、もっともよく食べているふつうの「みかん」は、「温州(うんしゅう)[雲州]みかん」といわれるものである。
「温州みかん」については、小学館刊の『日本国語大辞典』にのっている説明が、要領がよい。

「うんしゅうみかん【紀州蜜柑・雲州蜜柑】〔名〕ミカン科の常緑低木。日本の中部および南部で広く栽培される。日本で創製した品種。高さ約3メートル。葉は長さ7~10センチメートルの楕円形で先はとがる。初夏白い五弁の花が咲く。実は直径5~8センチメートルで、やや扁球形。外皮が薄く、熟すると橙黄色となり、ふつう9~13個の胞(ほう)をもち、種子はなく汁が多くて食用に適する。原種とみられる在来(筑後)温州をはじめ、早生(わせ)温州、尾張温州、池田温州などの品種がある。『うんしゅう』は『温州』または『雲州』と書くが、中国の地名『温州』(浙江省)や日本の『出雲国』(島根県)とは無関係。」この温州(雲州)みかんは、明治の中期よりもあとになって普及したみかんである。それまでは、「紀州みかん(小みかん)」が、日本の代表的品種であった そのことは、『日本国語大辞典』に、つぎのように記されているとおりである。

「きしゅうみかん【紀州蜜柑】〔名〕ミカン科の常緑小低木。中国原産で、古く渡来し、ウンシュウミカンの普及する明治中期までの日本の代表的品種。幹は五メートルぐらいになり、枝は細く、よく分岐する。枝にはとげはなく、葉は長卵形で互生する。果実は、径4センチメートルほどの平らな球形で、冬に熟し黄赤色となり、甘味に富むが種子が多い。こみかん。」
江尸時代に、紀国屋文左衛門が、紀伊の国(和歌山県)から江戸へはこんだといわれる「みかん」も、「紀州みかん(小みかん)」とみられる。
「紀州みかん」は、種子は多いが、味はよい。味は、現代の「温州みかん」と、それほど変らないように思える。

以上からみると、つぎのように考えるのが、穏当なようである。
『魏志倭人伝』の橘……やまと(にほん)たちばな
『続日本紀』の橘(ときじくのかくの木の実)……紀州みかん(小みかん)
現代の「みかん」……温州(雲州)みかん

ここで、「やまとたちばな」は、牧野富太郎氏の命名による野生種で、酸味が強く食べられない。食べられる「たちばな」とは区別される。
平凡社刊の『世界大百科事典』に、つぎのように記されている。
「たちばな〔橘〕 Citrus tachibana
直径2.5~3センチほどの小さな果実ができるミカン科の常緑小高木。日本列島におけるミカンの仲間のただ一つの野生種で、近畿地方から西の海に近い山林中に生じ、枝にとげがある。高さ4メートルに達し、葉は互生する楕円形の披針形で、長さ4~6センチ、柄が短く翼がなく葉身との間に関節がある。六月ころ、ふつう短枝の頂に白い小さな五弁花が咲く。果実は平たい球形で黄色、ユズに似たかおりがある。果嚢は6~8個、1~2個の大きな種子が入っていて、酸味が強く食べられない。牧野富太郎は古代名のタチバナはキシュウミカンに似た食用ミカンであるとの理由から、野生のものにヤマトタチバナの名を与えた。
また有名な京都の紫宸殿(ししんでん)の〈右近(うこん)の橘〉は、野生のタチバナの改良種であるといわれている。(奥山春季)」

「やまと(にほん)たちばな」は、「酸味が強く食べられない」ものであること、「日本列島におけるミカンの仲間のただ一つの野生種」であることなどにおいて、『魏志倭人伝』の記述にあてはまるとみられる。
他の柑橘類は、あてはまらない。
たとえば、「からたち」は、「唐(から)たちばな」の略で、中国の原産である。
「だいだい」も、中国からはいった。そのことは、「だいだい」の「だい」は、「橙」の中国音の転訛(『広辞苑』)であることからもうかがわれる。

また、奈良時代の人は、『古事記』『日本書紀』の記す「ときじくのかくの実」を、奈良時代に「菓子(くだもの)の長上」とみた「橘」と、同じものと考えている。
国文学者の西宮一民(にしみやかずたみ)氏は、奈良時代の「橘」を、「橙(だいだい)の類」としている(新潮社刊『古事記』新潮日本古典集成)。しかし、「橙の類」では、「菓子の長上」とはいえないであろう。

かつ、『三国志』を編纂した陳寿と同時代に生きた左太沖は、あとで紹介する『文選(もんぜん)』におさめられた「蜀都の賦」のなかで、つぎのように記し、「橘」と「橙」とを書きわけ、区別しているのである。
「戸に橘(きつ)・柚(いう)の園あり。その園には、すなわち、林檎(りんご)・枇杷(びわ)・橙[とう](だいだい)・柿[し」(かき)・?[えい](さるがき)・?[てい](やまなし)あり。」
そして、小尾郊一著『文選(文章編一)』(集英社刊)は、「橘(きつ)・柚(いう)」に注をして、「みかん。大を柚といい、小を橘という」と記す。

「橘」は、小形の「柑橘類」をさすようである。
奈良時代の「橘」は、牧野富太郎の説くように、小形の「紀州みかん」の類とみるべきであろう。
「くだもの」の語源は、「木(く)の物(もの)」で(「けだもの」の語源が、「毛(け)の物(もの)」であるのと同じ語構成)、果実の食用となるものをさしている。
現代のわれわれが食べる「みかん(温州みかん)」は、日本で創製した品種で、「紀州みかん」の改良種であろうと考えられるが、中国南部原産のみかんとする説もある。中国南部原産ならば、中国南部の温州産のみかんとのつながりが考えられることとなる。
今後、植物遺伝学的な研究がまたれよう。

・多遅摩毛理(たじまもり)は、「ときじくのかくの実」をどこにとりに行ったのか
『古事記』『日本書紀』は、多遅間守は「常世(とこよ)の国」に行って、ときじくのかくの木の実」をもって帰ったという。
『広辞苑』で、「常世(とこよ)の国」を引くと、「古代日本民族が、遙か海の彼方にあると想定した国」「不老不死の国」「仙郷」「死者の国」などの意味がのっている。
多遅摩毛理は、遠い海外の国に行ったことを思わせる。その国は、どこの国であろう。

国文学者の次田潤(つぎたうるう)は、その著『古事記新講』(明治書院刊)のなかで、つぎのようにのべる。
「田道間守が江南の橘を得て帰ったことがよしや伝説であっても、その伝説を生ずるに至った背後には、外来の珍宝が続々渡来した事実があったことであろう。」
次田潤は、田道間守が、「江南の橘」を得て帰ったように記している。
岩波書店刊の『古事記』(日本思想大系)にも、垂仁天皇記の橘について、
「中国(の江南の)浙江省原産の温州蜜柑の原種かとする説がある。」
とのべられている。
日本の食べられる「橘」の源を江南の地に求めるのは、あるていどの根拠をあげることができるように思える。
まず、江南の地は、むかしから食べられる柑橘類の産出地としてしられる。

梁の昭明太子[しょうめいたいし](501~531)の編した『文選(もんぜん)』のなかに、左太沖[さたいちゅう](左思、?~308年ごろ)の「三都の賦(ふ)」がおさめられている。
三国時代の蜀の都(成都)、呉の都(建業、現在の南京)、魏都[魏の都は、はじめ、曹操の時代に鄴(ぎょう)にあり、のち、西暦220年、文帝曹丕(そうひ)の時代に洛陽にうつった]の三つの都のありさまを比較し、絢爛(けんたん)たる文体で活写したものである。

そのうち、江南の呉の都のことを描写した「呉都の賦」において、
「その果は、すなわち丹橘[たんきつ](赤い橘)、余甘[よかん]、茘枝[れいし]の林あり。」[丹橘は、日本の紀州みかんが、よく熟すると黄赤になるのと、あるいは関係があるか。『万葉集』には、「赤(あか)る橘(たちばな)」という語で、熟して赤く色づいた橘を詠(よ)んだ歌がある。] と、橘の類があることに触れている。左太沖は「三都の賦」の序文で、「鳥獣や草木は、地方誌で確かめた」と記している。

また、『日本国語大辞典』で、浙江省の「温州(おんしゅう)」の項を引くと、次のようにある。
「温州(おんしゅう)中国、浙江省南部の都市。甌江(おうこう)の下流に位置し、茶、柑橘類の集散地として知られる。」
同様の記事は、他の辞書類にも記されている。
「今は甌江(おうこう)流域に産する茶、竹材、木材、ミカン類や、本市で製造する陶磁器、紙、織布などが主要な移出品である。」
(『世界大百科事典』平凡社刊、「温州(おんしゅう)」の項)
「農業は茶・煙草・柑橘・木材等。」(『東洋歴史大辞典』臨川書店刊、「温州」の項)
「浙江省」という項目で引いても、つぎのようにある。
「浙江(せっこう) 中国の省の一つ。中国東部の東シナ海岸に位置する。温暖多雨で米、綿、茶、柑橘類などを産出。寧波(にんぽー)・温州(おんしゅう)・紹興(しょうこう)などの都市がある。古代の越の地。」(『日本国語大辞典』)

「温州、西湖、紹興は製茶の中心地である。温州ミカンの原産地であるのみでなく、奉化の水蜜桃(すいみつとう)その他全国的に知られたくだものの産地が多い。」(『世界大百科事典』)
(下図はクリックすると大きくなります)

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多遅摩毛理は、中国の江南・東晋の地へ行つたとみられる
垂仁天皇の時代は、四世紀の後半ごろにあたるとみられる。
四世紀前後、わが国と東晋が、直接関係があったのではないかと思わせる資料も、いくつか存在する。
①西晋の266年に、西晋に、倭の女王が、使をつかわし貢献した。東晋は、西晋をつぐものであるから、倭が、東晋とも交渉をもったことは、十分考えられる。

②『晋書』の帝紀には、「倭」とは記されていないが、「東夷」と関係をもっていたことは、しばしば記されている。たとえば、つぎのように。
「(武帝紀の太康)十年(289)東夷絶遠三十余国、来献。」
「(武帝紀の)太熙元年(290)東夷七国朝貢。」
「(恵帝紀の)永平元年(291)東夷十七国内付。」
「(孝武帝紀の)太元七年(382)九月、東夷五国が使を遣わして来方物を貢した。」

③『晋書』の安帝紀に、つぎのようにある。
「義熙九年(413)十二月、この歳(とし)、高句麗、倭夷、および、西南夷、銅頭大帥が、ともに方物を献じた。」
413年には、倭は、あきらかに、江南の東晋と直接交渉をもっているのである。

④江南には、東晋のあと、東晋から禅譲をうけて、劉裕(武帝)が、宋王朝(420~479)をひらく。いわゆる倭の五王の時代、わが国は、しばしば、宋と交渉をもつ。これは、西晋、東晋以来の国交の流れを、うけつぐものではないか。

⑤永寧二年(302)の骨尺にもとづけば、晋の1尺は、24センチである。このものさしではかれば、崇神天皇陵古墳の全長240メートルは、ちょうど1000尺である。垂仁天皇陵古墳の全長は、950尺、景行天皇陵古墳の全長は1300尺である。晋のものさしを用いて、古墳の設計が行なわれているようにみえる。

『日本書紀』は、「垂仁天皇紀」の田道間守伝承のなかで、つぎのようにのべている。
「田道間守は、万里浪(とおく)を踏(ふ)み、弱水(よわみず)を渡り、絶域(はるかなるくに)に行った。その常世の国は、神仙(ひじり)の秘区(かくれたくに)で、ふつうの人の行けるところではない。峻(たか)い瀾(なみ)をしのいで、非常(ときじく)の香(かく)の実をもって帰った。」

「常世の国は、神仙の秘区」などの表現は、「常世の国」が、神仙思想の行なわれていた地域であることを思わせる。

中国の南部では、神仙思想をえがいた鏡がつくられていた。
三角縁神獣鏡には、神仙と獣形がえがかれている。神仙として、東王父、西王母、伯牙、黄帝などがえがかれていると判断される。
三角縁神獣鏡は、中国では、見いだされないが、中国で見いだされる三角縁画像鏡と平縁の神獣鏡とを、ミックスしたようなデザインになっている。そして、中国の三角縁画像鏡と平縁の神獣鏡とは、おもに、中国の長江(揚子江流域)で出土するものである。
神話化し、伝説化しているけれども、田道間守のおもむいた先は、中国の南部の地、東晋の地だったようにみえる。

なお、『古事記』『日本書紀』のストーリィの流れからいえば、垂仁天皇の条よりもまえの、神話の巻にあらわれる
「竺紫(つくし)の日向(ひむか)の橘(たちばな)の小門(おど)の阿波岐原(あはぎはら)」(『古事記』)、「日向(ひむか)の小戸(おど)の橘(たちばな)の檍原(あわぎはら)」(『日本書紀』)の「橘」は、野生の「やまとたちばな」とみるべきであることになる。

このように、、『魏志倭人伝』に記載された「橘」は日本原産の「橘」があり、その「橘」は食べられないのである。

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