TOP>活動記録>講演会>第344回 一覧 次回 前回 戻る  


第344回 邪馬台国の会
燕史倭伝(続)
前漢史倭伝
縄文論争
『魏志倭人伝』を徹底的に読む


 

1.燕史倭伝(続)

前回は旅順から北京付近に広がって存在し、都が薊(けい)[北京西南]の「燕」という国について説明した。その続篇を説明する。

鏡の種類、銅鐸の種類と福岡、島根、奈良、静岡の各県での出土状況をまとめてみると下記表のようになる。

これらの県は西晋鏡以前の西暦300年以前の古い鏡は福岡県から出土し、菱環鈕式銅鐸~扁平鈕式銅鐸のような初期の銅鐸は島根県から出土し、近畿式や三遠式銅鐸のような後期の銅鐸は静岡県から出土する。そして、画文帯神獣鏡や三角縁神獣鏡のような西暦300年~400年の鏡は奈良県から出土する。
(下図はクリックすると大きくなります)
344-01


これらから次のことが考えられる。
(1)奈良県は西暦300年ごろ以前においては、鏡においても、銅鐸においても、ほとんど見るべきものはない。
(2)「鏡の世界」と「銅鐸の世界」は西暦300年前後に、「鏡の世界」に統一収斂していく。
(3)点線ワク内は「北中国」系銅原料、太線ワク内は「南中国」系銅原料。344-02

王建新氏は、わが国の茨城大学の助教授をへて、現在は中国の西安の西北大学の考古学の教授。わが国に留学当時、日本語の弁論大会で、阿倍仲麻呂を論じ、金賞を獲得した。
その王建新が『東北アジアの青銅器文化』(同成社、1999年刊)で次のように述べている。
九州地方と比べて、本州西部では銅鏡の出土数がはるかに少ない。それは、本州西部の青銅器文化と九州地方の青銅器文化との大きな違いと見なすことができる。本州西部の銅鏡が出土した遺構の時代も、九州より後れて弥生後期から古墳時代のものが多い。となると九州地方と本州西部地域の青銅器文化の特徴は、銅剣・銅矛文化圏という区別より、銅鏡文化と銅鐸文化圏として考えたほうが適切であろう。
古墳時代に入ると、本州西部の銅鐸を中心とする青銅器文化は消失し、古墳の中に大量の銅鏡を副葬する実例が急に増える。そして、日本全域の古墳文化を統一したのは本州の文化ではなく九州地方青銅器文化で、その伝統が主流となったと見られる。それは和辻哲郎の考えたとおり、日本の史書に載っている神武東征の故事が、このような文化の流れを裏付けているかもしれない。

殷王朝が滅亡し、周王朝が成立した。
滅亡した殷の遺民は、一部が黄河流域に残り、周人の監視のもとで生活していたが、一部の人は東北アジアの方に逃げていった。この先進的を青銅器文化をもつ殷遺民の出現が、東北アジア系青銅器文化の発生に関わったと見られている。 

紀元前3世紀すなわち中原地方の戦国晩期から、遼寧省と吉林省の東北アジア系青銅器文化に大きな変化が起こった。かつて東北アジア系青銅器文化が発達した遼西地域と遼河平野に、この系統の青銅器文化がほとんど見られなくなって、東北アジア大陸におけるこの段階の青銅器文化は、遼東半島の一部および長白山の周辺地域に集中した形になっている。

燕は秦の始皇帝によって、紀元前222年に滅亡している。

司馬遷の史記によれば、燕の国の初代の王である招公奭(しょうこうせき)は周の文王の子、武王の弟である。
辞書から「招公(しょうこう)は~前1053の存在で、姓は姫、名は奭(せき)、武王討殷の後北燕に封ぜられた。成王の時には三公となり陜(河岸省陜州)より以西は召公之を主り、以東は周公が之を主つた。〔史記燕召公世家〕」とある。

周の系図

344-03

燕の系図

344-04


甲元眞之(こうもとまさゆき)氏は1944年5月生で、東京大学大学院人文科学研究科博士課程退、熊本大学教授をへて熊本大学名誉教授、主要論文「遼寧省山湾子出土の一括青銅器群」(『熊本大学文学部論叢』29)、「東北アジアの石製農具」(『古代文化』41-4)、「朝鮮支石墓の編年」(『朝鮮学報』66)である。

この甲元真之氏は「燕の成立と東北アジア」[田村晃一編『東北アジアの考古学』(六典出版、1990年刊)所収]で次のように述べている。
「北京市内には墓の他に殷末周初の青銅器を出土する埋納遺跡がある。
いずれの器種も殷の伝統を強く残すもので、・・・

殷の余民を率いて北方に進出した燕は、埋納遺跡の分布にみられるように大凌河の下流域まで到達した(成王の頃)。ところが、河北の北部、内蒙古南部、遼寧省西部の各地で数多く発見される有柄式銅剣にみるように、やがて燕山山脈より撤退を余儀なくされた。
そこで燕侯の支配下にあった殷の余民は、白浮村墓にみられるように、自らを武装化して再度北方に進出し、大凌河の上流域に達した(康王期)。埋納遺跡に二時期あり、康王期の燕の墓の副葬品に武器の多くなることは、こうした状況を反映しているものと思われる。
大凌河の上流域が燕と北方民の接点であったことは、西周の後期頃になり、南山根遺跡に代表される北方的要素を備えた新しい青銅器文化がこの地で開花したことでも知ることができよう。

1975年の『考古』第五期に掲載され晏琬(あんえん)氏の「北京、遼寧省出土銅器与周初的燕」と題する論文は、北京市琉璃河遺跡で発見された銅器の銘文から、周初における燕の実在や論証した画期的なものである。
晏氏はこの中で、琉璃河の年代を成王・康王の時期のものとし、匽侯の銘文に示すものは初代の燕侯である召公奭(せき)の子の召公旨であり、旨が北京地方に赴いて、銅器の銘文にみられる「攸(しゅう)」や「萁?」、復と主従関係にあったことを示した。
さらに遼寧省喀左(かくさ)県北洞村や馬廠溝出土の銅器の銘文より、燕の支配地域が彼の地にまでおよんだこと、伝説にいう孤竹国の実在などにも言及したのである。」

また、新井宏氏は次の仮説を提出している。
「鉛同位体比について、きわめて多くの測定を実施された馬渕久夫氏らは、「直線L」の上にほぼのるものを、「朝鮮半島産」とされた。これに対し、数理考古学者の新井宏氏は「直線L」の上にのるものは、殷・周などの、中国古代青銅器につながるもので、中国の雲南省産のものであろう。」とする。
しかし、雲南省は、日本からはるかに遠くはなれている。なぜ、こんな現象がおきているのであろうか。
新井宏氏は、この現象について、その著『理系の視点からみた「考古学」の論争点』(大和書房、2007年刊)のなかで、有力な仮説を提出している。
すなわち、新井宏氏は、つぎのようにのべる。
「燕国将軍・楽毅(がくき)が斉から奪った宝物類が原料(このような現象が起きたのは、)おそらく中国の中原地方などで宝物類として伝世された青銅器が、なんらかの理由で再溶解された状況を想定するのが、最も理解しやすい。
貴重な青銅器なら五百年以上伝世された可能性が十分にあるのは、奈良時代の青銅器が多数残っているのをみればよくわかる。そのように考えると、その入手時期として最も可能性の高いのは、『史記』が伝える燕の昭王二十八年(前284年)の斉・臨澑(りんし)(蕾)の攻撃である。
これは燕が楚と三晋(晋の後継国とみられる戦国時代の趙、魏、韓の国)と秦と連衡し、一時的に都臨澑を陥落させた事件であるが、その際に伝世の宝物類を戦利品等として入手している。
『史記』はその『楽毅列伝』において、燕国の将軍・楽毅が斉の首都臨溜を陥(お)とし、斉の宝物類を根こそぎ奪って昭王のもとに送り届けたことを『楽毅攻人臨蓄、尽取斉宝財物祭器輸之燕(楽毅は臨澑に攻めいり、斉の宝財物をことごとく取って、これを燕にはこんだ)』と伝えている。
また同じく『史記』の『田敬仲完世家』も、莒(きょ)に逃れた斉の湣王(びんおう)を救援にきた楚の淖歯(とうし)が、逆に湣王を殺した際に、燕の将(楽毅)と宝物を山分けしたことも伝えている。おそらく、その前々年(前286年)に斉は安徽省・河南省にあった宋を滅ぼし併合しているので、そのときの戦利品もそこには含まれていたに違いない。
このような理解は、全体的にみて、整合的であり、無理がない。
すなわち、貴重な伝世の青銅器の入手であるなら、この昭王の時以外を想定することは困難である。逆にいえば、商周期の鉛同位体比をもつ青銅器が、五百年以上もたってから燕や朝鮮半島、日本に現れた現象を説明できる仮説は、現在のところ右記の想定以外には全く見出すことが困難なのである。」

この説に対して、燕国に、殷の遺民がもたらした銅が、もともとあった可能性も考えられる。

日本で出土する青銅器の鉛同位体比は下記のように分類されている。
そこで、直線Lの領域が中国古代の青銅器ではないかとの説がある。 344-05



殷の国の銅原料が直線Lの上に分布しており、弥生時代の細形銅剣、細形銅矛、細形銅戈の領域と重なる。

344-06

 

多鈕細文鏡や菱環鈕式銅鐸も殷の国の青銅器の分布の範囲に入る。

344-07


2.前漢史倭伝

『漢書』は、前漢の歴史を記した本である。後漢の班固の撰。西暦八二年ごろに成立した。
『漢書』の「地理志」の下の巻の燕地の条に、つぎのような文章がある。
「楽浪の海のかなたに、倭人がおり、百余国に分かれ、歳時(季節)ごとに来て、物を献上し見えた[見(まみ)える]、という。(楽浪海中有倭人分為百余国、以歳侍来献見云)」
この文章の問題点は、二つある。一つ目は「燕地」の条に記されていること、二つ目は、おしまいが「云う」と伝聞になっていることである。
したがって、「献上し見えた」対象が、「燕」であるとも「漢」であるとも読めることである。
すなわち、つぎの二とおりの読み方が成立しうる。
(1)かつて、倭は燕に属していた。そのころ倭人は、百余国に分かれていた。季節ごとにやって来て、物を献上し、燕に見(まみ)えたという話だ。
(2)かつて燕のあった地の楽浪の海のかなたに倭人がいる。百余国に分かれ、季節ごとに、(漢の武帝が、紀元前108年に今の平壌ふきんにおいた楽浪郡の官庁に、)やって来て、漢に対して物を献上し、見(まみ)えると聞いている。
ただ、『後漢書』の「倭伝」の最初のところに、つぎのように記されている。
「倭は、韓の東南大海の中にある。(倭人は、)山島により居(すまい)を為(つく)る。およそ、百余国である(あるいは、百余国であった)。(前)漢の武帝が[衛氏(えいし)]朝鮮を、滅ぼしたのち、漢に通訳と使者を派遣してきたのは、三十ヵ国ほどである。」
また、『魏志倭人伝』の冒頭には、つぎのように記されている。
「倭人は、(魏の)帯方郡の東南、大海のなかにある。山島(しま)のなかに国ができている。旧(もと)百余国(むかしは、百以上の国があった)。漢のとき、来朝するものがいた。今、使者と通訳とが往来しているのは、三十ヵ国である。」
これらの記事をまとめると、「漢以後には、使者と通訳とを派遣しているのは三十力国ほどで、それよりもむかしには百余国あった。」ということであるようにみえる。

寺沢薫著『弥生時代の年代と交流』(吉川弘文館、2014年刊) 弥生~古墳時代初頭における中国鏡の出土状況を参照。
樋口達也氏の年代論より、紀元前30年ごろの甕棺形式KⅢbから「草」、「星」の鏡が出てくる。
(下図はクリックすると大きくなります)344-08


「草」は草葉文鏡、「星」は星雲鏡である。これらの鏡は多鈕細文鏡の次に出てくる。そして、日光鏡、昭明鏡はその次に出てくる。日光鏡、昭明鏡、清白鏡は異体字銘帯鏡と呼ばれる。これらの鏡は前漢鏡である。

そして、前漢鏡は福岡県が一番多く出土する。

344-10


3.縄文論争

■炭素14年代法
藤尾慎一郎(ふじおしんいちろう)氏は1959年福岡県生まれで、広島大学文学部史学科卒業、九州大学大学院文学研究科博士課程単位取得退学。博士(文学)。現在、国立歴史民俗博物館副館長・総合研究・大学院大学教授である。
専門は日本考古学。著書に『縄文論争』(講談社選書メチエ)、『弥生変革期の考古学』(同成社)、『(新〉弥生時代五〇〇年早かった水田稲作)『弥生文化像の新構築』(ともに吉川弘文館)が、共著書に『弥生文化の輪郭』『弥生文化誕生』(ともに同成社)がある。AMS炭素1年代測定に基づいて弥生時代の開始を500年遡らせて大きな話題となった国立歴史民俗博物館の研究において、主導的な役割を担った。

この藤尾慎一郎氏が書いた『縄文論争』(講談社、2002年刊)で、インターネットにみえる見解がある。
「オビに書かれた『新書初の「弥生時代」の通史』というフレーズに興味を惹かれ購入したが、最初の数ページを読んだところで科学的に不正確な記述が複数あることが分かりがっかりした。
具体的には、6ページで炭素の同位体について説明するところで、「化学的な性質を異にする三つの炭素」とあるが同位体は電子状態が同じなので化学的性質は同等である。
また三つの同位体は「電子の数が異なっており順に六・七・八個の電子をもっている。」とあるがいうまでもなく同位体で数がことなるのは中性子である。
また、8ページで炭素年と通常の年数の違いを説明するところで、「太陽が地球の周りを~まわった時間」とあり単純な記述ミスではあると思うがあまりにレベルが低く問題が大きい。
というのは、これらはいずれも著者のグループが主張している弥生時代の年代観の基礎となる炭素14年代測定法を説明するところで書かれており、測定法の科学的妥当性等にも大きな疑問を与えてしまうためである。
更に、著者らの提唱する年代観を批判する人は「日本考古学や朝鮮考古学を専門とする研究者に多く、支持しているのは「一部の中国考古学を専門とする研究者」である(15~16ページ)と書かれると、彼らの主張する年代観を信じるのはかなり難しくなってしまう。
本文の内容については、最近の考古学的な成果も取り入れ、弥生時代の代表的な遺跡の説明が分かりやすく書かれているし、ところどころに挟んであるコラムも興味深いものが多かった。従って(年代についての疑問を一先ず置けば)中々面白く読めただけに、いきなりの間違いは残念であった。」

藤尾慎一郎氏は、文章力はある人であるが、電子と中性子を、ゴッチャにしている。
中性子と陽子の質量は、ほぼ等しい。中性子や陽子の質量は電子の質量の約1840倍。
中性子は陽子とともに、原子核を構成する。電荷をもたないから、「中性子」である。電子とは、イメージが異なる。ふつうは電子と中性子とは混同しない。

344-11



宮田佳樹氏の示しているデータ
国立歴史民俗博物館研究員の宮田佳樹氏は、『弥生農耕のはじまりとその年代』(「新弥生時代のはじまり」第4巻。雄山閣、2009年刊)のなかに、「遺物にみられる海洋リサーバー効果」という文章を発表している。
そのなかで、表、図のようなデータを示している。
この表と図とを、よくみてみよう。すると、つぎのようなことがわかる。
(1)クルミは、「土器付着炭化物」コゲよりも、年代が、数百年の単位で新しくでている。
(2)イノシシは、クルミと、はとんどかわらない。海洋リサーバー効果をうけていないとみるべきであろう。
(3)土器付着炭化物は、シジミ、アサリなどの貝や、スズキなどの魚などよりも、さらに古い年代を示している。魚や貝を煮た?
海洋リサーバー効果だけでは、説明しにくいようにもみえる。
(4)宮田氏は、オニグルミを、海洋リサーバー効果をはかるための基準として用いている。つまり、オニグルミが、海洋リサーバー効果をうけにくい試料であることをみとめていることになる。
宮田佳樹氏のさきの文章には、表のようなデータも示されている。
表 をみると、土器付着炭化物は、総体的に、貝よりも古い年代を示している。やはり、海洋リサーバー効果によっては、説明しにくいようにみえる。
海洋リサーバー効果がみとめられなければ、土器付着炭化物の年代は信用できるということにはならない。

344-12

 

イノシシやオニグルミは新しくでるが、ヤマトシジミやアサリなどは古くでる。

334-13

 

数理考古学者の新井宏氏によれば、「(土器付着炭化物は、年代が、)古く出ているか否か」の問題は卒業して「なぜ古く出るのか」の問題に、関心が集中する段階であるという。
新井宏氏は、・・・土器付着炭化物の年代が古くでる理由として、炭化物が、活性炭のような性質をもち、土壌に含まれるフミン酸やフルボ酸などの腐植酸を吸着しやすい傾向をもつことをのべておられる。

新井宏氏は、さきの『季刊邪馬台国』105号掲載の論文のなかでのべている。
「振り返ってみれば、歴愽が炭素14年を利用して、弥生時代遡上論を展開し始めたころには、すでに、本川遺跡や朝日・八王子遺跡で土器付着物が著しく古く出ている現象が報告されていた。それなのに学会での十分な討論も経ずに、新聞発表を行ない、さらには西田氏の貴重な指摘があったにもかかわらずそれを無視して今日を迎えてしまった。」

客観的に確実な年代によるチェックのないまま、日本国内の炭素14年代測定値だけによって、年代を定めるのには、限界があるのではないか。
中国やエジプトなど、古い文献資料などをもつ国もある。

新井宏氏はその著『理系の視点からみた「考古学」の論争点』(大和書房、2007年刊)のなかで、遺跡推定年のほぼわかる中国の墳墓出土土器について、炭素14年代値がどのていど古くでるかを、まとめておられる。
次の図のとおりである。
(下図はクリックすると大きくなります)

344-14

 

これは、安本が集めた現在公開されている全てと思われる土器付着物炭化物とクルミ・桃核が一緒に出土した遺跡7箇所の49データの例からも分かる。

344-16


■縄文時代のはじまりの計算
『縄文はいつから』(小林謙一、工藤雄一郎編、新潮社 2011年刊)でも、「大平山元Ⅰ遺跡(おおだいやまもといちいせき)から出土した土器から微量ですが炭化したものが付着していました。この炭化物の炭素14年代測定が1998年に行われました。344-17

・・・ここで結論じみたことを言うと、現時点でもっとも妥当性がある土器の出現年代は、16500年前~15000年前の間とするのがよいだろう」と言って、「さらに改定された最新の較正曲線を用いると、大平山元Ⅰ遺跡の無文土器は15500年前よりは古く、17000年前の間の一時点と考えられるになった。(工藤2012)」と言っている

これもまた、土器付着炭化物を資料とした年代である。土器付着炭化物は年代が古くでる。

大平山元Ⅰ遺跡(おおだいやまもといちいせき)の較正年代と「1万3000年問題」
IntCal09の較正曲線を使うと、大平山元Ⅰ遺跡の年代はどうなるか見てみよう。

大平山元I遺跡の較正年代と較正曲線との関係を示したのが右図である。1万6500~1万5000年前の間はIntCal09の較正曲線が平らになっておりIntCal04で較正するよりも、IntCal09の較正年代の確率分布が全体的に古いほうヘシフトしている。
大平山元I遺跡の場合には、一個体と推定される土器の複数の破片に付着した炭化物の測定結果であり、五点の土器付着炭化物のうち、どれがもっとも確からしい年代測定値と考えるかによって、年代観も変わってくる。
中村俊夫と辻誠一郎は平均値である13,100 14CBPからもっとも古い13,780 14CBPの間の可能性を考えた〔中村・辻1999〕。
小林謙一は平均値を採用して、それの較正年代を1万5500年前より古いと推定し、1万5700年前頃と推定した〔小林2006〕。

[安本]:グラフに「六点」のデータがしめされているのに、文章中に「五点」とある。これは最初、「五点」のデータであったためである。グラフの上から二番目の「1380±70」が、あとからの測定値の追加である。ここに示されている平均値「13100」は五点のデータの「単純平均値(正確には13084)」と合致する。私は六点すべてのデータを用い、カウント数による「加重平均値」を求めれば「13263」となる。計算のプロセスは以下に示す。
以下、私が妥当と思う方法で、「縄文時代のはじまり」の年代を計算してみる。

いま、かりに、炭素14年代測定法により、同じような二つの試料を同じような条件で測定した結果、炭素14年代BPとして、1710±20(年)と、1730±30(年)との、二つの値が得られたものとしよう。
この二つをまとめて表現したいときにはどうしたらよいであろうか。
単純に考えれば、1710と←1730との平均をとって1720そして20と30との平均をとって、25よって、1720±25
としたいところである。

 

しかし、じつは二つをまとめれば、計測数が多くなったことになり±α(アルファ)などの誤差は、もとの±20と±30のいずれよりも小さくなる。
また、1710と1730も、測定を行なったときの計測数(計数、カウント数。測定装置を一定時間稼動させて、炭素14の原子の数を計った値)が異なっており、そのカウント数を考慮したうえで、カウント数による重みをつけて、加重平均を求めたほうがよい。
そしてカウント数がどれだけであったかは±α(アルファ)の誤差の大きさにより、求めることができる。
誤差の絶対値のαは、カウント数が大きくなれば小さくなり、カウント数が小さくなれば、大きくなる。
たとえば、名古屋大学年代測定資料研究センターの中村俊夫氏の文章「放射線炭素法」(長友恒人編『考古学のための年代測定法入門』〔古今書院刊〕、所収)のなかにつぎのような表がのっている。
表 の下の[安本註]に記したように誤差の絶対値をα、カウント数をnとすれば、つぎの式がなりたつ。

n=(11367/α)↑2

α=11367/√n

次のようなモデルケースのばあい、カウント数を考慮すれば全体の平均値1710年につく誤差は、プラスマイナス22年となる。

344-18

kを求めると、kの値は11367でコンスタトとなり、定数であることが分かる。344-19

この結果を表にすると、下記となる。

加重平均の結果のBP年代は
クルミ・桃核補正=13263×0.906
=12016(±50)年である。何と誤差は50年である。
注:0.906は最小二乗法で補正された値(y=0.906x)344-20

これらをまとめると下記となる。
基本BP年代値(測定値加重平均)=13263年
これは歴博の結果の平均値のBP年代値13100年より古くなる。
ここで、補正をかけたBP年代はクルミ・桃核補正年代(13263年×0.906)=12016年となる。

推定西暦年代のための較正は次のグラフの読みとり、
縄文時代のはじまりの年代(推定西暦年代)
13900年+700年-400年前となり、
期間で表すと、13500年~14600年前となる。

古い年代をうちだすほど、騒がれやすいが、あぶない。
16000年前には、とどかないとみられるが、従来の12000年前よりは年代が古くなるとみられる。
可能性がとくに大きいのは、14000年まえ前後(13900)年ごろが、中心か)。

344-21


同じように歴博は弥生時代のはじまりの年代も古くしている。
弥生時代のはじまりの年代(推定西暦年代)
水田稲作をともなう最古の土器による年代
2501年±200年前
2300年~2700年前
基本BP年代値(測定値)=2760年
クルミ・桃核補正年代(2760×0.906)=2501年
推定西暦年代のための較正はグラフでの読みとり。
最古の土器以前の水田稲作の期間をどのていどに見積もる

344-22


・年代がふるくなることは確かである。しかし歴博研究グループの主張ほどは、古くならない。(将来あらたなデータの出現によって、年代が、古くなることはありうる)
年代は古きがゆえに貴っとからず。妥当な推定であるゆえに、貴っとしとす。

考えられるもっとも古い年代を発表するのではなく、もっとも可能性が大きい年代を求めるようにすべき。

4.『魏志倭人伝』を徹底的に読む 「市」について

『魏志倭人伝』に租税と市について、下記がある。
租賦(そふ)[租税とかみつぎもの]をおさめる。(それらをおさめるための)邸閣(倉庫)がある。国々に市(いち)がある(中華書局版『三国志』の句点にしたがえば、「邸閣の国があり、国に市がある」となる)。(たがいの)有無を交易し、大倭(身分の高い倭人」にこれを監(督)させしむ。

「市」の役目
①売買をする
②刑罰を行う
③歌垣を行う
④人をむかえる
⑤会議をする
⑥宴をひらく
⑦祭祀を行う

夏侯玄は魏の国の政治家。司馬氏を打倒しようとして失敗し、捕えられ殺された。
陳寿編『三国史』「諸夏侯曹伝」は伝えている。
夏侯玄(かこうげん)は度量大きく世を救う志をもった人物であったが、東の市場での斬刑に臨んでも、顔色一つ変えず、立居ふるまいは泰然自若としていた。時に四十六歳で
あった。」

夏侯玄(かこうげん)は洛陽の東の市場で殺された。地図では東は小市となっており、西の市場は大市となっている。

これは北魏洛陽の地図から分かる。
(下図はクリックすると大きくなります) 344-23


『日本書紀』「敏達天皇紀」14年(583)3月条に市場で鞭打ちの刑をしたことが書かれている。

三月の丁巳(ていし)朔(一日)に、物部弓削守屋大連(ものべのゆげのもりやのおおむらじ)と中臣勝海大夫(なかとみのかつみのまえつきみ)とが奏上して、「どうして私どもの意見を用いようとされないのですか。
亡き父上の天皇から陛下の御世に至るまで、疫病が流行して、国民は絶え果てようとしています。
これはひとえに、蘇我臣(そがのおみ)が仏法を起して信仰しているからに違いありません」と申しあげた。天皇は詔して、「もっともなことだ。仏法を止めよ」と仰せられた。

丙戌(へいしゅつ)(三十日)に、物部弓削守屋大連は自分で寺に行き、胡床(こしょう)に腰かけて坐(すわ)り、寺の塔を切り倒して火を放って焼き、仏像も仏殿も一緒に焼いた。そうして焼け残った仏像を取って、難波(なにわ)堀江(ほりえ)に棄(す)てさせた。この日、雲がないのに風が吹き雨が降った。
大連(おおむらじ)は雨衣を着て、馬子宿禰(うまこのすくね)とこれに従って仏道を行う法侶(ほうりょ)とを責めて、謗(そし)り辱めようとする心を持った。また佐伯造御室(さえきのみやつこみむろ)を遣わして、馬子宿禰が世話をしていた善信(ぜんしん)らの尼を召した。このため、馬子宿禰は命令に背くことができず、悲しんで泣きながら尼らを呼び出して、御室(みむろ)に引き渡した。
役人は尼らの法衣を奪ったうえで監禁して、海石榴市(つばいち)の駅舎で鞭打ちの刑に処した。

市司(いちのつかさ)は律令制で、都の市(市場)を監督した役所。平城京・平安京で、左京(東)・右京(西)のそれぞれ。に東市(ひがしのいち)・西市(にしのいち)が公設され、東市司・西市司がこれを管理した。


佐藤武敏著『長安』(講談社学術文庫2004年刊)
前漢の長安の市場

東市は創設年代が明らかでないが、漢代の記録にしばしば見える。『漢書』巻四九晁錯(ちょうそ)伝に朝服して東市で斬られたというのは景帝時代のこと、『漢書』巻六六劉屈氂(りゅうくつぼう)伝に東市で腰斬されたとあるのは武帝時代のこと、『漢書』巻七一雋不疑(せんふぎ)伝に東市で腰斬されたとあるのは昭帝時代のこと。

東市も文帝時代から文献に見え、しばしば処刑の場所にも使用されたことがわかる。

市場の運営
長安の市場の運営はすべて国家の監督の下に運営される。監督のために市場内に役所が設けられる。官吏の職掌は『三輔黄図』では「商賈貨財買売貿易のことを察す」となっているが、具体的なことは明らかでない。そこで『周礼(しゅうらい)』地官司市の記載によってそれを考えてみよう。司市は市の治教、政刑、量度、禁令の一切をつかさどる。すなわち、
①物ごとに肆を異にし乱雑にならないようにし、そして価格も騰貴しないようにする。
②政令をもって侈靡なものを禁じ、市を均(ひと)しうする。
③商賈(こ)を招致して貨をして内に聚まり、布(貨幣)をして外に流れしめ、市政を通ずるようにする
④量度をもって物価を一定にし、たがいにいつわることがないようにし、買うものが楽
しんで至るようにする。
⑤売買にあたっては券書をつくって信あらしめ、そして訟を止ましめる。
⑥賈民(こみん)[胥師(しょうし)、賈師、司暴、司稽、肆長などの官吏]をもって物の偽りを禁じ、人の詐虚を除去する。
⑦刑罰(市刑)をもって暴を禁じ、市の盗賊を去る。
⑧泉府という官を設け、市の貨物が売れないときはこれを斂(おさ)め、民が急に求める場合はこれに貸し与える。
市税の徴収も重要な職掌であった。市税は関市の税と呼ばれ、すでに戦国時代から徴収されていたようである。

  TOP>活動記録>講演会>第344回 一覧 上へ 次回 前回 戻る