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第356回 邪馬台国の会
「画文帯神獣鏡」を考える
「三角縁神獣鏡」の「笠松文様」について


 

1.「画文帯神獣鏡」を考える

・「鏡の世界」と「銅鐸の世界」は「鏡の世界」に統一された。
弥生時代末期の300年を境にして、300年以前における福岡県と島根県と奈良県と静岡県の4県の出土状況をみると、多鈕細文鏡~西晋鏡の鏡は福岡県が多く、菱環式銅鐸~扁平式銅鐸は島年県に多く、近畿式銅鐸や三遠式銅鐸は静岡県が多い。それが、古墳時代初期である300年以後に、画文帯神獣鏡や三角縁神獣鏡は奈良県が多くなる。このように300年以降は「鏡の世界」に収斂されたことになる。

しかも、西晋鏡と画文帯神獣鏡や三角縁神獣鏡は「南中国」系の銅で、多鈕細文鏡~小形仿製鏡Ⅱ型と銅鐸は「北中国」系の銅である。
(下図はクリックすると大きくなります)

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ここにおける「画文帯神獣鏡」は古墳時代の鏡である。

画文帯神獣鏡とは、
たいらな縁(平縁)をもつ。外区(鏡の外がわの部分)の平縁の部分のなかに、車をひく竜や、飛ぶ鳥や、走る獣や、飛ぶ雲や、神仙などの文様を描いた「画文帯」とよばれる絵画的な文様をもつ。
内区(内がわの部分)と外区とのさかいに、一般に半円形と方形とを交互にならべた「半円方形帯」[「半円方格帯」ともいう。中国人研究者は、「半円方枚帯(はんえんほうばいたい)」と書くことが多い]をもつ。
内区の文様には、神仙思想をあらわす神仙(男の仙人の東王父、女の仙人の西王母など)や竜虎などの霊獣を、半肉彫り{浮彫(うきぼり)[レリーフ]の一種。ふくらかに、浅く、やや浮きあがらせる技法}で、描き出している。
神獣の配置には、一つの方向から見るように配置された「同向式」と、真ん中の鍛(つまみ)に向かって、放射状に配置される(つまり、神仙の頭部などが、いずれも、鈕のほうに向かう)「求心式」とがある。「求心式」は、さらに、「対置式」と「環状式」とにわかれる。
なお、画文帯の部分には、つぎのような絵が、描がかれている。すなわち、六匹の竜が雲車(神々が、天上を運行するときの乗りもの)をひく。その車には神人がすわっている。神仙が、日・月をささげている。羽人(仙人)が竜にのったり、鳥(鳳か)にのったり、獣にのったり、舟をあやつったりしている。
……などである。

356-02内区の方形のなかに、「天王日月」ということばを、くりかえし記しているもののあることから、外区の画文帯は、車にのった天王(天皇[天帝])と日・月を描いたものかもしれない。
三角縁神獣鏡にも、「天王日月」の語はよく記されている。

「三角縁神獸鏡」や「画文帯神獣鏡」の文様は、「南中国」の呉鏡系の文様であって、卑弥呼や台与が外交交渉をもった「北中国」の魏や、西晋の鏡系統の文様ではない。また、鉛同位体比による分析でも、「三角縁神獣鏡」や「画文帯神獣鏡」は、「南中国」の銅が用いられているという結果が出ている。[平尾良光「青銅器の鉛同位体比-分析データをどう読むか-」(『考古資料大観 第6巻』小学館、2003年刊、所収)参照]。

つまり、「三角縁神獣鏡」や「画文帯神獣鏡」は、文様も原料も「南中国」系のものが用いられているのである。王仲殊は、のべている。
「ここで注意すべきは、中国の平縁神獣鏡が、どの種類であれすべて南方の長江(揚子江)流域の製品であって、北方の黄河流域のものでなかったことである。最盛期である三国時代のさまざま平縁神獣鏡を例にとると、それらは長江流域の呉鏡であって、黄河流域の魏鏡ではない。」(「日本の三角縁神獣鏡について」『三角縁神獣鏡の謎』全日空、1984年刊)

 

西晋鏡(位至三公鏡、双頭竜鳳文鏡、蝙蝠鈕座「長宜子孫」銘系内行花文鏡、夔鳳鏡)は三角縁神獣鏡の分布に近いが、その領域からはみ出るものがある。これはもとの原料は西晋鏡であったものを溶かしてまとめて、三角縁神獣鏡を作ったことからおこったものと考えられる。下図の西晋鏡と画文帯神獣鏡の鉛同位体比の分布比較参照。
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西晋鏡は福岡県を中心に分布するが、画文帯神獣鏡は奈良県を中心に分布する。

西晋鏡と画文帯神獣鏡の県別出土数比較参照。
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三角縁神獣鏡も画文帯神獣鏡と同様に奈良県を中心に分布する。
三角縁神獣鏡の鉛同位体比の分布と出土地を下記に示す。
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また、数は少ないが、斜縁の二神二獣鏡も鉛同位体比分析では三角縁神獣鏡の分布に近い。しかし三角縁神獣鏡の領域からはみ出る。これは、西晋鏡や画文帯神獣鏡に似ている。斜縁の二神二獣鏡は福岡県、奈良県、愛知県などから出ている。
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愛知県の東之宮(ひがしのみや)古墳(愛知県犬山市丸山町)出土の斜縁神獣鏡の写真(樋口隆康著『三角縁神獣鏡綜鑑』新潮社刊)がある。鈕の左右に東王父(三つの山の冠)、西王母の図がある。
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東之宮(ひがしのみや)古墳について、
愛知県犬山市大字丸山字白山平にある。標高142mの丘陵、白山平山の山頂に位置する。主軸全長約78m、後方部一辺約47m、高さ8m、前方部幅43m、高さ6mある前方後方墳で、部分的に葺石を設けている。1973年(昭和48)に犬山市教育委員会が調査し、後方部の主軸線上に東西に築かれた竪穴式石室を発見した。石室は凝灰岩板石をもって構築しており、内法長4.8m、幅96cm前後、深さ1.2mある。石室を覆う7枚の天井石は、さらに白色粘土で被覆されていた。石室下床面は拳大の礫を敷きつめその上面に粘土床を設けており、両端が長楕円形に造られていた。副葬品はすべて石室内から発見された三角縁神獣鏡5・変形四神鏡・変形三獣鏡・変形四獣鏡4のほか、石製盒子・石釧・鍬形石・車輪石・勾玉・管玉・鉄剣・鉄刀・鉄槍・鉄斧・針・鉄鏃などが知られている。4世紀後半の築造と考えられる。[文献]杉崎彰ほか「愛知県白山平東之宮古墳」日本考古学年報26、1975(『日本古墳大辞典』東京堂出版刊)

斜縁神獣鏡(しゃえんしんじゅうきょう)については下記に示す。
縁が三角縁と呼べるけどはっきりとした断面三角形でなく、内側から斜めに厚くなった形態の神獣鏡。三角縁神獣鏡に比べて、面径も小さく、12~16cm程度のものである。
舶載鏡では4乳で東王父・西王母の2神と2獣で内区主文様を構成するものが多くみられるが、6乳で二神四獣の構成をとるものもある。(『最新日本考古学用語辞典』[柏書房刊])

 

前に示した鉛同位体比分布グラフにおいて、中国・長江下流域浙江省の海側の黄岩五部鉱山鉛鉱石(白い三角)と中国・長江中流域湖南省桃林鉱山鉛鉱石(黒い三角)の分布に注目すると、西晋鏡は白い三角とかさなり、画文帯神獣鏡や三角縁神獣鏡になると黒い三角とも重なるようになる。
下図で黄岩五部鉱山と桃林鉱山を確認すれば、西晋鏡、画文帯神獣鏡、三角縁神獣鏡が南の銅であることが分かる。

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三国時代は魏、呉、蜀に分かれていた。しかし、同の産地は呉の領域である。 356-09

これは、呉が滅んだ280年以降(西晋の時代)に中国全体に広がったと考えられるのである。
つまり魏の時代には南の銅は北では使われなかった。

・画文帯神獣鏡と三角縁神獣鏡の直径の分布について
日本出土の画文帯神獣鏡はピークが二つある。直径が大きな画文帯神獣鏡は日本で造られ、小さなものは中国で造られたのではないか。

三角縁神獣鏡は画文帯神獣鏡より、直径は大きくなる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


西晋の時代に北では五胡十六国時代となり、西晋が滅ぼされたため、南に移り晋の国を建国した。これが東晋(317~420年)である。この東晋の時代が画文帯神獣鏡や三角縁神獣鏡が日本で大流行した。東晋は中国の南にあり、この画文帯神獣鏡や三角縁神獣鏡は南のデザインであり、南の銅が使われた。

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413年に梁書には「東晋の安帝のころ倭王賛有り」と書かれており、東晋の時代は日本とつながりがあったことが示されている。

356-11中国出土の位至三公鏡は墓誌から時代が分かる。その結果から位至三公鏡は西晋時代で280年以後である。中国の南の銅が中国全体に広がる時代である。

位至三公鏡は主に北九州から出土する。そして、画文帯神獣鏡の出現は位至三公鏡(「西晋鏡」)の後の時代の鏡である。

 

 

 

・ホケノ山古墳出土の「画文帯神獣鏡」の年代

ホケノ山古墳出土の「画文帯神獣鏡」図

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『ホケノ山古墳の研究』(奈良県立橿原考古学研究編集発行.2008年刊)
奥山誠義「ホケノ山古墳中心埋葬施設から出土した木材の炭素14年代測定」
最外年輪を含むおよそ12年輪の小枝。

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このグラフから確立を計算すると、炭素14年代法の分析結果として、ホケノ山古墳は3世紀とするより、68%、84%と確立的に高いデータが出ている4世紀とする方が妥当である。

『魏志倭人伝』に「棺有れども槨無し」とある。
「ホケノ山古墳」には、「木槨」があるので、邪馬台国時代ではない。4世紀の方が妥当であると裏づけられる。

ホケノ山古墳出土と江田船山古墳[熊本県玉名郡和水町(なごみまち)]とは同タイプの画文帯神獣鏡が出土している。そのため、江田船山古墳とホケノ山古墳とは同時代ではないかと考えられている。
江田船山古墳から出土した鉄剣銘文から、江田船山古墳は雄略天皇の時代ではないかとされている。また、天皇一代10年説の在位年数から推定すると雄略天皇は478年ごろになるので、ホケノ山古墳を3世紀まで古くもって行くことはできない。

また、前方後円墳の前方部幅/墳丘全長を縦軸、前方部幅/後円部径を横軸にして、求める古墳の年代推定から、黒丸の画文帯神獣鏡の出土古墳は4世紀型であることが分かる。二重丸の三角縁神獣鏡と画文帯神獣鏡がともに出た古墳は4世紀型と5世紀型の古墳であることが分かる。
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・箸墓古墳の年代から推定される「画文帯神獣鏡」の年代
土器付着炭化物の炭素14年代法で箸墓古墳の推定年代が3世紀中であると推定している。
しかし、クルミ・桃核などによると多ければ90年くらい新しくなる。
桃核からの炭素14年代法推定すれば、300年以後84%である。
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・280年以降に中国の南の銅が中国全体で使われた
中国の考古学者、徐苹芳氏は、「三国・両晋・南北朝の銅鏡」(王仲殊他著『三角縁神獣鏡の謎』角川書店、1985年刊所収)という文章のなかで、つぎのようにのべている。
「漢代以降、中国の主な銅鉱はすべて南方の長江流域にありました。三国時代、中国は南北に分裂していたので、魏の領域内では鋼材が不足し、銅鏡の鋳造はその影響を受けざるを得ませんでした。魏の銅鏡鋳造があまり振るわなかったことによって、新たに鉄鏡の鋳造がうながされたのです。数多くの出土例から見ますと、鉄鏡は、後漢の後期に初めて出現し、後漢末から魏の時代にかけてさらに流行しました。ただしそれば、地域的には北方に限られておりました。これらの鉄鏡はすべて夔鳳鏡(きほうきょう)に属し、金や銀で文様を象嵌(ぞうがん)しているものもあり、極めて華麗なものでした。
『太平御覧』〔巻七一七〕所引の『魏武帝の雑物を上(のぼ)すの疏(そ)』[安本註。ここは「上(たてまつ)る疏(そ)」と訳すべきか]によると、曹操が後漢の献帝に贈った品物の中に。”金銀を象嵌した鉄鏡”が見えています。西晋時代にも鉄鏡は引き続き流行しました。洛陽の西晋墓出土の鉄鏡のその出土数は、位至三公鏡と内行花文鏡に次いで、三番目に位置しております。北京市順義、遼寧省の瀋陽、甘粛省の嘉峪関などの魏晋墓にも、すべて鉄鏡が副葬されていました。銅材の欠乏によって、鉄鏡が西晋時代の一時期に北方に極めて流行したということは、きわめて注目に値する事実です。」
西暦280年に、華北の洛陽に都する西晋の国は、華中・華南の長江流域に存在した呉の国を滅ぼす。呉の都は、建業(南京)にあった。
その結果、華中・華南の銅が、華北に流れこみ、華北で、華中・華南の銅原料を用い、華北の文様をもつ青銅鏡がつくられるようになったとみられる。

・神獣鏡の出土状況
位至三公鏡は文様は中国の北の方だが、中国の南の銅を使っている。西晋時代の鏡である。中国では洛陽から多く出土し、日本では北九州から多く出土している。

それに対し、画文帯神獣鏡は文様は中国の南の方になり、中国の南の銅を使っている。東晋時代の鏡である。中国では揚子江領域から多く出土し、日本では近畿から多く出土している。これからも画文帯神獣鏡が後の鏡であることが分かる。
(下図はクリックすると大きくなります)

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神獣鏡の考古学的に認められた出土数を示すと、中国では3111面だが、日本は4774面と日本の方が多い。
その内数の画文帯神獣鏡は中国で159面、日本で155面となり両国でほぼ同じくらいの数となる。しかし三角縁神獣鏡となると、中国で0面、日本で425面となり、日本でしか出土していない。

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このように、データを基にして、桃核の炭素14年代法や画文帯神獣鏡など神獣鏡の出土状況を見ていけば、おのずから事実が見えてくる。しかしマスコミなど新聞はこれらの事実を示していない。


2.「三角縁神獣鏡」の「笠松文様」について

2016年9月30日の朝日新聞の記事から
「旗ざお用の穴七つ藤原宮跡から発見」がある。

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総力特集 真説・これが卑弥呼の鏡だ!!
三角縁神獣鏡と「黄幢」と「笠松」文様[季刊邪馬台国の71号(2000年冬号)]
で、「日像幢」「月像幢」「烏形幢」について、下記のように記している。

「幢」の日本文献での使用例
『魏志倭人伝』によれば、正始六年(245年)、魏の皇帝は、倭の難升米(なしめ)に、帯方郡の大守を通じて、「黄憧(こうどう)」を与えたという。
正始八年(247年)に、帯方郡の塞(さい)の曹掾史(そうえんし)[国境守備の属官]の張政(ちょうせい)は、皇帝の詔書と黄憧を倭の地にもたらし、難升米にうけとらせた。
ここで、「憧」の字は、『古事記』『日本書紀』には使用例がない。しかし、『続日本紀(しょくにほんぎ)』や、律令の施行細則である『延喜式』、さらに、『文安御即位調度図(ぶんあんごそくいちょうどず)』などに使用例がある。
『続日本紀』では、「烏形(うけい)の憧(はた)」[巻第二、文武天皇、大宝元年(701年)春正月]のように、「憧(はた)」と訓(よ)んでいる。
岩波書店刊の新日本古典文学大系本の『続日本紀一』には、この「烏形の憧」などについて、つぎのように説明している。

烏形幢
金盤の上に蓮花の台をとりつけ、その上に翼をひろげ頭をのばした金銅製の三本足の烏の像をすえる。その高さは三尺五寸。台の四か所から纓絡(ようらく)を飾りさげる。竿の長さは三丈。烏を北に向けてたてる。

日像幢
径三尺の銅の鋳物の円板に金薄を貼り、これに朱色で二本足(注:原文は二本足としているが三本足であることも考えられる)の烏をえがき、長さ三丈の旗竿の先端にとりつける。竿には九輪を配する。

月像幢
径三尺の銅の鋳物の円板に金薄を貼り、これに月桂樹・蟾蜍(ひきがえる)・菟(うさぎ)等をえがき、長さ三丈の旗竿の先端にとりつける。竿には九輪を配する。月形の中にはひきがえるをえがくのが本来のもの。
(下図はクリックすると大きくなります)

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この説明のなかに、「三本足の烏」や、「ひきがえる」のことがでてくる。

考古学者原田大六氏の考察
ここで思い出されるのは、考古学者原田大六氏(1917~1985)の、つぎのような発言である。
「『天王日月』の銘をもつ三角縁神獣鏡の背面にレリーフされている神像が、天帝である日月をあらわしているということは、東京国立博物館の原田淑人(よしと)[1885~1974]が早く説いているところである(「漢画象石に見ゆる怪物の意義に就いて」『考古学雑誌』五ノ一二、1915)。
福岡県沖ノ島祭祀遺跡や、山口県都濃(つの)郡宮州から出土している三角縁神獣鏡は、いうところの同笵鏡である。この鏡にも『天王日月』の銘があるが、原田淑人の説をみごとに裏付けする構図からなっている。

その鏡の銘文『日月』の『日』は玄武(げんぶ)[北]の方向に彫られた有翼の神獣に近く、『月』は朱雀(すじゃく)[南]の方向に彫られた。これも有翼の神像側に近く書かれているだけでなく。
両神像と脇侍(きょうじ)との中間に描かれている笠松の下には、『日』の方向に烏、『月』の方向に『ひきがえる』を配している。
出土地は不明であるが、呉の天紀二年(278)の銘のある重列式神獣鏡の上方に三本脚の烏と『ひきがえる』がそれぞれ円環の中に描かれているのがある。また、これは高句麗の壁画古墳にも見られるものであって、三本脚の烏が『日』を、『ひきがえる』が『月』をあらわしているのは御存知であろう。また、『日月』という場合には、『日』は『月』の上位に立つものであるから、『日』は天子の御坐の方向である北に、『月』は南に坐しているのも争われない。
もちろん、烏側が日神、ひきがえる側が月神をあらわしている。天王といい日神月神といい、日本神話との関係を考えて、三角縁神獣鏡をすべて日本製でないかと考える人が出ただけに、どうも日本古代史とは切り離して考えられない問題を抱えている。」(『邪馬台国論争 上』三一晝房、1975年刊)

ここで、安本注:
原田大六氏は「天王」は日本の天皇と、「日」は天照大神と、「月」は月読み命と関係があるのではないかとしている。日本の神話と関係しているのではないか、つまり三角縁神獣鏡は全部日本で造ったとすることも、考えられなくもないと思われる。

・・・・・『季刊邪馬台国』の71号は続く・・・・・・・

「笠松」文様は、「幢(はた)」
原田大六氏は、沖ノ島などから出土した三角縁神獣鏡について、「笠松の下には、『日』の方向に烏、『月』の方向に『ひきがえる』を配している。」と記す。
ここで、「笠松」というのは、「日像幢」や「月像幢」の竿についている九輪に、きわめてよく似た形をした文様である。

笠松文様は、三角縁神獣鏡にみられる文様であるが、中国出土の鏡には、その例がない。宮崎公立大学の奥野正男氏はのべている。
「幢幡紋は、日本の考古学界では『傘松形図形』とよばれてきたものである。また、人によっては『松笠文様』などともよんでいる。この種の図形が三角縁神獣鏡のように内区主紋の神像や獣形の間に一個から五個にわたって配置されている例は、中国出土鏡のどの鏡式にも見ることができない。」
「日本にのみ出土する三角縁神獣鏡という鏡式にだけ狂い咲きのように盛行する事実の社会的契機もまた考えなければならない。」(『邪馬台国の鏡』新人物往来社刊)

奥野正男氏は、笠松文様が、中国鏡にみられないことを、「三角縁神獣鏡国産説」の一つの根拠にしておられる。三角縁神獣鏡の笠松の下に烏や、ひきがえるを配しているものがあることや、形がよく似ていることは、日像憧や月像幢が、三角縁神獣鏡に描かれている「笠松」の伝統を引くことを示しているようである。
逆にいえば、三角縁神獣鏡の「笠松」は、日像幢や月像幢を描いたものであることを示しているのではないか。
奥野正男氏は、「笠松」文様は、卑弥呼に与えられた「黄幢」を描いたものであろうとする。
「対馬」は、『魏志倭人伝』も現代も、文字が一致する。
「幢」の文字が、「黄幢」と「日像幢」「月像幢」とで一致するのは、古くからの伝統を伝えているのではないか。
邪馬台国の女王卑弥呼は、魏の「黄瞳」によって権威づけられた。私は、大和朝廷の祖先は、北九州におり、のちに東遷して邪馬台国になったとする説を支持する。
おそらく、元日や即位のさいに、宝憧を建てる伝統が、古くからあったのであろう。
「黄幢」による権威づけは、記念し強調すべきこととして、三角縁神獣鏡の文様にもとりいれられ、また、伝統として、日像幢、月像幢の形で残ったのであろう。儀式などの伝統は、案外古くからのものである。

・・・・・

安本注:
三角縁神獣鏡にはいっている独特の文様「笠松形」は、元日や天皇即位のときに建てた「日像(ひがた)の幢(はた)」などを表しているのではないか。そして、「笠松形文様」や「日像(ひがた)の幢(はた)」は『魏志倭人伝』に記されている「黄幢(こうどう)」と結びつくのではないか。

奥野さんが言っていることを解釈すると、崇神天皇の時代(350年ごろ)は卑弥呼の時代(250年ごろ)から100年程度しかたっていない。崇神天皇の時代は卑弥呼が「黄幢」をもらったことがおぼろげに分かっていたのではないか、そして、西晋か東晋から鏡を造るために来た職人は『魏志倭人伝』を読んでおり、そのことを記念して鏡を造れば、三角縁神獣鏡のように笠松模様があるものができたのではないか。

なお、「オーストラリア原住民の言語」の話もありましたが、省略します。

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