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第372回 邪馬台国の会
『同笵(型)鏡論の向こうに』
三角縁神獣鏡は国産鏡である


 

1.『同笵(型)鏡論の向こうに』 工芸文化研究所 鈴木勉

■黒塚古墳の発掘から三次元計測機の導入
三角縁神獣鏡の表面を測定するためにレーザー発振器による三次元測定機を導入し、研究を進めた。当時はパソコンのWindows95でコントロールする三次元測定機であったので8時間もかかり、更にフリーズすることもあり苦労した。
そして、三角縁神獣鏡が作られた時、どのようなもの作りをしていたのかを調べることにした。
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・従来の形式学的分類
小林行雄は同范鏡説で、三角縁神獣鏡は中国で鋳型が作られて鋳造され、日本の大和に持ち込まれ。そうして配布されたとした。だから鏡を複数作るのに一つの鋳型から作ったとする。

樋口隆康は同径鏡説で、三角縁神獣鏡は中国で作られ、下賜された。それを日本の各地のものが入手し、大和朝廷に贈呈した。だから複数の鋳型が作られ、鏡がつくられたとする。

奥野正雄は踏み返し鏡説で、いろいろな鏡が踏み返して作られたとした。

三角縁神獣鏡について、これらの歴史観が事実に基づいているのか・・・
古代の手法でものを作るということを考えることが重要。
モノづくりから見て検証してみると、形式学的分類で示すような、そう単純なものではないのではないか。

 

■三角縁神獣鏡・同范鏡論の検証
・鏡の比較
黒塚12号鏡と31号鏡の断面を比較してみる。
三次元測定機で測定すると、31号鏡は12号鏡にくらべ、画像の神様の鼻が高くて首が低い。首が低いのは手すれでは説明できない。そしてこの鏡は同范鏡ではないと感じた。

「ひだ」に補修が入っていることが分かる。「ひだ」の太さが測定できることが重要で、これで工人が使っているヘラの違いが分かる。

黒塚16号鏡と18号鏡の表面を比較してみる。
表面の写真からは、分からないが、μ(ミュー)の大きさから違いが分かる。

ホケノ山の画文帯神獣鏡と三角縁神獣鏡と比較すると「ひだ」からの分析で、画文帯神獣鏡は山の間隔が約0.5ミリ、であるが、三角縁神獣鏡は約1.3ミリ程度である。当時の中国の技術だと0.5ミリ間隔といった細かい加工ができたようだ。中国製と思われる画文帯神獣鏡は山の間隔が細かいが、三角縁神獣鏡はそのような精細な加工がなされていない。当時の日本の技術を思わせる。

・オーバーハング
神像や獣像の壁の下に黒い影ができていることに気が付いた。これは実体顕微鏡の対物レンズを通して光を真上から照射して横のカメラから撮影している。つまり、壁の下の黒い分が垂直かオーバーハングしていることを示している。
現代の金型では僅かなオーバーハングがある場合もあるが、古代の真土製や石製の鋳型では素材に弾力性がないため、オーバーハングがあれば鋳型を壊して鏡を取り出すことになり、同范法は考えられない。

オーバーハングは、ヘラ押しによる鋳型修正の痕跡で、オーバーハングをつくる技法は、ヘラ押しを深くして文様を際立たせる技法だと考えられる。これは代表的な倭鏡である鼉竜鏡(だりゅうきょう)でも見つかっている。

・鏡背面の仕上げ加工痕の種類
鏡は鋳造して終わりではない。その後に研削加工などを施す必要がある。鏡背面の仕上げ加工痕の種類を下記に示す。
①やすり加工
②研削加工・・・硬い砥石(固定砥粒)で研削
③研磨カロ工・・・柔らかい布(?)と砥粒(遊離砥粒)で研磨
④鋳放372-02

これらの違いを鋸歯文(きょしもん)の部分に注目して、顕微鏡で観察する。

・同范鏡はいろいろな加工法が行われている
例:目録3の三角縁波文帯盤竜鏡
(右図はクリックすると大きくなります)
和泉黄金塚鏡は研磨(左図)
黒塚17号鏡は鋳放し(中図)
椿井M35鏡は研削 (右図)

これらの鏡を小林行雄たちは同じ工房で同じ鋳型から作ったというものとする。しかし鋳造後の加工方法が違う。


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例:目録16の陳是作四神二獣鏡
(右図はクリックすると大きくなります)
椿井M23鏡は切削後研磨(上左図)
湯迫37176鏡は研削  (上右図)
湯迫37175鏡は鋳放し (下左図)
真土大塚山鏡は研削  (下右図)

これも同じ例である。このように同范鏡は最後の仕上げが違う。

 

 

 

372-04・同じ古墳で出土した鏡ではどうだろうか
例:湯迫車塚 三角縁「研削」鏡
(右図はクリックすると大きくなります)
目録9 天王日月・獣文帯同向式神獣鏡(左図)
目録16 陳是作四神二獣鏡     (中図)
目録74 天王・日月・獣文帯四神四獣鏡(右図)

小林行雄たちは違った鏡だとしている。しかし鋸歯文の仕上げは見ると、鋳造後の仕上げは同じであった。

 

 

372-05例:湯迫車塚 三角縁「切削」鏡
(右図はクリックすると大きくなります)
目録1 画像文帯盤龍鏡(上左図)
目録13陳氏作神獣車馬鏡(上中図)
目録31吾作二神六獣鏡(上右図)
目録56画文帯五神四獣鏡(下左図)
目録63波文帯特進六神四獣鏡(下右図)

これも同じである。「研削」と「切削」の加工方法の違いがあっても、同じ古墳で出土した鏡は同じ加工跡があった。

このように、従来の形式学的分類である鏡の分類では異なるとしても、同じ古墳では仕上げ加工が共通であった。

・仕上げ加工痕で明らかになったこと
①同范(型)鏡群の鏡は、仕上げ加工がそれぞれ異なるものがある
②仕上げ加工の方法は同范(型)鏡群よりも、出土古墳によって規定されている
③一見似て見える「研削」鏡も、出土古墳が異なれば砥石の目が異なり、出土古墳が同じであれば砥石の目が一致する

何故仕上げ加工を行ったのだろうか。

仕上げ加工は鋳造で文様の出来が悪かった鏡にのみ施されている。
つまり、鋳造の最終工程で仕上げ加工された。
鋳物の出来が悪かったものを、それを見た工人の判断で仕上げ加工を行ったと考えられる。仕上げ加工は出土古墳毎に異なるので、「出吹き」の可能性が高い。
「出吹き」とは工人達が移動して、その地で鋳型を作りそして鏡を製作したことである。

 

■三角縁神獣鏡と古墳時代
・形式学的分類の問題
三角縁神獣鏡の原鏡と複製鏡について、
三角縁神獣鏡の分類には、小林行雄の配置分類や岸本直文の表現分類などがある。
複製鏡は、様々な「配置」や「表現」の鏡が一括して作られたとする。
製作時期と製作工房が同じ鏡の「型式学的分類」に意味があるのか、改めて問いたいと思う。

・中央集権的な技術史観が問題
従来の形式学的分類では、
中国で作られた鏡など金工品が、ヤマト王権に「下賜」され、ヤマト王権は各地の政権に「下賜」した、そして鏡など金工品の工人集団は大和王権の支配下にあったとしている。
森下章二は「大和政権によって各地に配布され、支配の拡大において重要な役割を果たしたという見方については意見が一致しつつある」としている。

「出吹き」があったとすれば、「支配」や「配布」を想定することはできない。中央集権的な技術史観は修正されるべきと考える。
梵鐘の例では、「出吹き」によらず工場生産になるのは室町末期以後である。

・新井宏の「出吹き」論
新井宏は、城の山古墳出土の三角縁神獣鏡(他の鏡も含む)は鉛同位体比分析から同一の鉛を使っており同一鋳込みであると言っている。
そして鶴山丸山古墳出土の鏡も同じであるとし、更にカミオカンデで有名な神岡鉱山鉛とその周辺古墳出土鏡の鉛同位体比がほぼ同じであると言っている。これらの結果から、鏡は、古墳周辺で「出吹き」によって製作されたことを物語るものであるとしている。

・本貫地候補の一つは大和盆地内
[天理市の]黒塚古墳から20面もの「鋳放し」鏡が出土した。これは珍しい。
「鋳放し」鏡は「原鏡」または「原鏡に近い」鏡である。
「原鏡」と「複製鏡」が同一工人集団によって作られ、「原鏡」と「技術」を持った工人集団が各地へ移動し製作したものである。
工人達の本貫地は大和盆地内と考えられるが、兵庫県にあってもいいし、九州にあってもいい。

・系譜論と製作地論、そして技術移転論
王仲殊の呉の工人渡来製作説については、画文帯神獣鏡と三角縁神獣鏡との間の技術的連関の近さが想定されるものの、その「基準精度」に大きな隔たりがあるので、日本に来たとは思えない。一方、福永伸哉の「長方形鈕孔」も北の工人との関係の近さを想定できる要素である。どちらも捨てきらない重要な指摘だと言えよう。しかし系譜論から製作地を導き出すことはできない。技術移転論の立場からは、双方の相違点を論ずる必要はないと言える。双方ともに系譜論であり、その製作の根源の一つを示すものである。技術移転により、列島内の三角縁神獣鏡製作集団に双方の技術と、さらに銅鐸の二層式鋳型の技術も生き続けているものと考えられるのである。

・前方後円墳体制論を見直す
1993年、岸本直文は「三角縁神獣鏡研究の現状」で「中国製あるいは日本製説の、それぞれの論拠は出そろっているが、議論は平行線をたどっている。」と述べている。その2年前、都出比呂志は「日本古代の国家形成論序説-前方後円墳体制の提唱-」を著して、いわゆる「前方後円墳体制論」を展開したのである。都出は、三角縁神獣鏡下賜説と鉄の大和王権下賜説を基に「前方後円墳体制」を考えた。

そうした中、鉄の実証的な研究で知られる村上恭通は、鉄器の生産と流通が前方後円墳体制論が前提とした大和王権による配布という中央集権的な理解とは異なり、前期古墳時代には鉄器の出土状況の中心が北九州や瀬戸内沿岸地域にあることを指摘していた。

三角縁神獣鏡が国産であることが提唱され、都出の前方後円墳体制論は、その最も重要な根拠である鉄と三角縁神獣鏡の魏鏡説と配布説をいずれも失うこととなった。多くの考古学者が依拠している前方後円墳体制論を見直さなければならない。

・三角縁神獣鏡研究者と非三角縁神獣鏡研究者とのGAP
近藤喬一、岡村秀典、岸本直文、車崎正彦、森下章司、辻田淳一郎らの三角縁神獣鏡研究者は三角縁神獣鏡の製作地の結論は出ていないと明言している。
一方、各地の埋蔵文化財機関などは、ホームページで三角縁神獣鏡魏鏡説を明言している。
非三角縁神獣鏡研究者の無責任さが現れている。
埋蔵文化財機関を厳しく指摘しなければいけない。

最後に考古学者の「網干善教(あぼし よしのり)の苦言」で締めくくりたい。
「ある一つの仮説的な前提を想定し、さらにその前提の上に仮説を組み重ねて、一つの結論を導き出している。 そして、その結論が事実のように理解される。
若しその前提が、例えば最初の「そうであるとすれば」という前提が「そうでない」となればこの屋上屋を重ねた広遠な論理の結論は何も意味しないことになる場合もある。」

2.三角縁神獣鏡は国産鏡である:安本美典

■岡山県と関東地方とで、同じ形、同じ文様の鏡が、系統的に出土する
『日本書紀』によれば、景行天皇の皇子の日本武の尊が、東夷を討ちに行くときに、吉備(岡山県)の豪族の若日子建吉備聿日子の命(わかひこたけきびつひこのみこと)の子の吉備(きび)の武彦(たけひこ)が景行天331-03皇によって随従を命じられた。

考古学者小林行雄は京都大学教授であった。
小林行雄によれば、三角縁神獣鏡の同じ鋳型でつくった鏡(同型鏡)は、「関東に達しているものは、また、吉備にも分布するものが多い」という。岡山県の湯迫(ゆば)の備前車塚古墳から発見された13枚の鏡のなかには、三角縁神獣鏡の同型鏡が、8種9枚もあり、そのうち4面の同笵鏡は、関東地方に分散して、発見されているものである。

 


岡山県と関東地方出土の鏡の例を下記に示す。372-07_1

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小林行雄は、その著、『古墳の話』(岩波新書、岩波書店、1959年刊)のなかで、のべている。「こういう事実がある以上、吉備の豪族が東国の経営に参画したという伝承をもっていることも、もっともなことだと思われる。」

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■大阪府の紫金山古墳(しきんざんこふん)の例
大阪府茨城市にある前方後円墳、紫金山古墳は、「四世紀中ごろから後半ごろの築造」(『日本古墳大辞典』)と考えられている。
ここからは、直径35.7センチの、右下の写真のような大鏡が出土している。この鏡は、まわりに、わが国の勾玉がずらりと並べられて刻まれている。だれがみても、日本で作られた「倭鏡」である。372-09

この紫金山古墳からは、三角縁神獣鏡が10面出土している。
「邪馬台国=畿内説」の立場の福永伸哉氏は、その10面の三角縁神獣鏡のあるものを、舶載鏡、すなわち、中国でつくられ輸入されたものであるとする。また、あるものを、倣製鏡、すなわち、わが国でつくられたものであるとする。(福永伸哉著『三角縁神獣鏡の研究』[大阪大学出版会、2005年刊])

ところが、考古学者の森浩一氏によれば、紫金山古墳出土の三角縁神獣鏡は、鈕(ちゅう)の孔が、「全て鋳放(いはなし)し(鋳たままで、仕上げをしていないもの)」で、「鈕の孔が全く塞っているのが」あったという(森浩一「魏鏡と『倭人伝』への認識をぼくが深めていった遍歴」[『季刊邪馬台国』110号、梓書院、2011年刊])。

つまり、鈕(ちゅう)[まんなかの、ひもを通すつまみ]が、鋳造したままで、中には、鋳物の土が詰ったものがあったというのである。
また、いっしょにでた大型の鏡も、「鈕の孔が鋳放し」であったという。
森浩一氏は、そこで、のべている。
「中国の皇帝などが周辺の国の人、王などに鏡を与えるときは、必ず鈕のところにその王の身分を示す色の組紐を通してあります。だから『倭人伝』ところにも、卑弥呼に与えた印は、『金印紫綬』と書いてあるでしょう。金印も同じように紐をつけます。紫色の組紐。紐は腐ってくるから、よく鏡だけ発掘品に並べてあるけれど、組紐というものとセットで、ある意味では組紐のほうがものすごく重要だったですね。紫綬。
だから、もしも本当に三角縁神獣鏡というものが魏の皇帝が大量生産で卑弥呼の使いにやった鏡とすれば、紫綬を通すところの、鈕の孔はきれいに造りあげて、そこには何色かの組紐がつけてあってしかるべきなのです。」

森浩一氏がのべておられることと、ほぼ同じ趣旨のことを、奈良県立橿原考古学研究所の菅谷文則(すがやふみのり)氏ものべている。
「鏡そのものを見てみますと、三角縁神獣鏡と、いま言われております長宜子孫銘の内行花文鏡でありますとか、それより後の画文帯神獣鏡---三国時代の画文帯神獣鏡でありますが---を見ましても、最大の違いはどこにあるかと申しますと、三角縁神獣鏡の鈕の鋳浚(いさらえ)が非常に不十分であるということであります。鈕と申しますのは、円形の鏡の裏、普通われわれ博物館ではそれを表として見ておるわけですが、鏡の裏に穴があるわけです。そこに紐なり、リボンなりを通して使用に便利なようにしているわけであります。有名な椿井大塚山からでました多数の三角縁神獣鏡のうちの一面は、鈕の穴がつぶれております。そのつぶれておるのは錆でつぶれたという見方もできるようなつぶれ方なんでありますが、ともかくつぶれております。
それから鋳張(いばり)ができるわけですが、私か実見しました三角縁神獣鏡のうち七、八割ほどが鋳浚が完全にされていないわけです。だから、ぎざぎざがあるわけです。非常に極端に申しますと、そこにリボン状の房を通しますとほどなく破れてしまいます。その点、画文帯神獣鏡等々はその鋳浚が非常に丁寧にされておりまして、長期間の使用に耐えるように、言い換えれば日常使用に耐えるようにつくられていると考えてよいわけであります。

その点、三角縁神獣鏡は長期間の使用に耐えることを目的にしているのではないと考えてはどうだろうかと、さきの論文で提言しています。だから、これはお墓に入れるために日本で独自にでき上がった鏡の一つのジャンルなんではないだろうかと。その点、中国で長く伝わっております鏡の系譜とは、その鈕の鋳浚という一点だけでもって違うんではないだろうかと。」(『三世紀の九州と近畿』[河出書房新社、1986年刊]) 
     

■三角縁神獣鏡の生産構造
このような点などからみても、三角縁神獣鏡は、古墳がつくられたさいに、その近くで、鏡作り氏によって鋳造され、埋納されたとみるべきである。

そもそも、時代のさかのぼる平原遺跡のばあいでさえ、ほとんどの鏡を、日本で製作している。時代の下った墓で、その墓にうずめるためのほとんどの鏡を、そのたびに輸入品にたよるということが、あるであろうか。
あらかじめ輸入しておいて、死者がでるたびに遺族にくばったのであろうか。とすれば、大量の鏡を、どこかで保管していたことになるが、……?

やはり、死者がでるたびに、土師氏(はじし)のつくる埴輪などと同じように、鏡作り氏のつくる鏡も、葬具として、その地の近くで手工業的につくられたとみるべきである。
すなわち、生産構造として、つぎのようになっていた、と考えるべきである。
『魏志倭人伝』に、「(倭人は)租賦[そふ](租税とかみつぎもの)を収む」と記されている。

倭人は、邪馬台国時代から、租税制度をもっていたのである。
そして、図のような構造で、鏡作り氏が、鏡を製作していたと考えられる。

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図のいちばん下の鏡作り部民(べみん)はふだんは農民として自営するが、特産物、として、鏡作リの造(みやつこ)の指導のもとに、鏡をつくる。そして、それを現物租税としておさめる。
リーダー氏族の鏡作り氏は、中央(朝廷)の伴造[とものみやつこ](職業集団のリーダー氏族)である忌部氏(いんべし)の指図(さしず)をうける形で、中央とつながっていた。
鏡作り氏は、各地に住んでいた。現在も、各地に、各務郡[かがみぐん](岐阜県)、香美郡[かがみぐん](高知県)、鏡作郷[かがみつくりのごう][奈良県田原本町(たわらもとちょう)]などの地名があり、「鏡」「各牟(かがみ)」「各務(かがみ)」などというファミリーネーム(姓)があるのは、そのゆえである。

鏡作り氏は、もちろん、租税におさめる以外の鏡もつくった。
その土地の豪族がなくなれば、鏡作り氏は、租税としての鏡も収めたし、なくなった豪族の親族や、土地の他の豪族の注文をうけて現在の花輪にあたるものとしての鏡をつくったとみられる。
三角縁神獣鏡は、大きくて立派である。そのわりには、文様が形式化しており、銘文なども、意味が通らなかったり、不自然なものがあったりするのも、花輪的なものであったためとみられる。
また、鈕が鋳放しなのも、一つの墓にたくさん埋納されたりするのも、そのためとみられる。

さらに、つぎのような点も、このような考えを支持する。
同一の古墳から、三角縁神獣鏡の同型鏡が出土することがよくある。ある形式の鏡の同型鏡においては、同一の古墳から出土したものは、面径の一致するものが多い。異なる古墳から出土したものは、面径の異なるものが多い。
これは、ある特定の古墳のばあいは、同じ毋鏡または原型[げんけい](鏡のもとになる型)をもとにして、同型鏡が製作されているからである。異なる古墳から出土したものは踏み返し鏡(製作された鏡を母鏡としてつくった孫コピー鏡、曽孫コピー鏡など)をつくるため、つまり、製作の時期が異なるため、鏡の大きさが(同型鏡でも)異なってくるのである。
前に説明したような生産構造は、玉作りなどでも、同じであったと考えられる(図参照)。各地に玉作という地名がある。出雲、大阪の例

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以前、海部俊樹(かいふとしき)氏という方が、総理大臣であったことがある。この海部という姓は、古代の海部氏(あまべうじ)と関係しているのであろう。
海部氏の部民は、ふだんは、農民として自営し、海産物をとり、製塩などを行ない、海部氏は、海産物や塩を、税として貢納していたとみられる。各地に、海部郡[あまぐん](愛知県、和歌山県、島根県)、海部郡[あまべぐん](大分県)、海部郡[かいふぐん](徳島県)などかあるのは、海部氏の活動と関係があるとみられる。

「土師(はじ)」という地名が、仁徳天皇陵古墳や、応神天皇陵古墳の近くにのこっている。土師氏が大量の埴輪をつくったためとみられる。
大阪府は、もちろんのこと、徳島県、鳥取県、岡山県、栃木県、福岡県などの各地に、「土師郷」があるのも、鏡作りのばあいと、同じような事情によるとみられる。
鏡も、埴輪などと同じく、死者にささげるべくつくられた。葬儀のためにつくられた。死者の生前の使用物ではない。

このような生産構造は、わが国の古代においては、一般的なものであった。
奈良県の纒向遺跡やオオヤマト古墳集団の近くには、田原本町(たわらもとちょう)に、鏡作郷(かがみつくりのごう)があり、鏡作神社がある。
職業部である鏡作部に由来する地名である。
また、滋賀県野州郡の大岩山古墳からは、三角縁神獣鏡3面のほか、2面の鏡が出土している。大岩山古墳の近くの天王山古墳からも、三角縁神獣鏡1面と画像鏡類の鏡が1面出土している、そして、この近くに、「鏡村」があったことは、『日本書紀』の垂仁天皇の条にみえる。この地には、現在も、「鏡」「鏡山」「鏡口」などの地名があり、「鏡神社」かある。

 

■鏡作り氏の役目
大化前代の、四世紀を中心とする時代において、各地にいた鏡作り氏の役目には、つぎの三つが考えられる。
(1)各地で、鏡作り部という部民をひきい、鏡を製作し、作った鏡を、各地の大和朝廷関係の豪族、あるいは、大和朝廷そのものに貢納した(生産品の貢上。貢納型の仕事)。

(2)各地の鏡作り部の工人などが、交代で故郷をはなれて畿内に上番[じょうばん](勤務につき)、中央で、大和朝廷の必要とする鏡を製作した。そのばあい、工人などの生活費などは、出身地の鏡作り氏が負担する(労働力の貢上。上番型の仕事)。

(3)中央の鏡作り氏が、渡来系の工人をかかえ、それらの工人の生活費などを各地の鏡作り氏が負担する(資養型の仕事)。

各地の鏡作り氏は、おそらく、この三つの役目を、ともにはたしていたのであろう。

各地の鏡作り氏に属する人々[部民(べみん)]は、平生は、農民としての生活をし、製作した鏡の貢上、または労働力の負担をするかわりに、租税の一部が免除されたとみられる。部民は、戸をなし、自営的な生活を営んでいたとみられる。

鏡作り氏の管理者[リーダー氏族、伴造(とものみやつこ)]の姓(かばね)は、造(みやつこ)であったが、683年(天武12)に連(むらじ)を与えられている。伴造のうち、有力な氏族であったことがうかがわれる。鏡作り氏の内部には、リーダー氏族(伴造氏族)と、血縁関係のない人々(部民)もふくまれていた。部民(べみん)にとって、伴造は、君であり、伴造は、世襲であった。伴造は、各地で、土地と人民とを分有していた。
全国各地から上番した鏡作り氏の工人や、渡来系の工人などを、中央でグループにし、組織化し、編成したものが、大化前代の「品部(しなべ)」といわれるものとみられる。
品部としての鏡作り部という部民は、鏡作りと言う世襲的な職業を通じて、大和朝廷に隷属していた。伴造(とものみやつこ)にひきいられ、「鏡作り」という職業名をもった部民であった。

鏡作り氏は、「鏡作り」という職業の名を負い、これを世襲する氏を中心として、天皇に従属し、国家のなかでの一定の身分を、「造(みやつこ)」という「姓(かばね)」の形でもち、天皇家の臣としての集団をなしていた。
各地で、皇族などの古墳が作られるさいには、鏡作り氏は、鏡を製作して納めたものであろう。中央にも、納めたであろう。中央でも鏡は、多量につくられた。また、中央や各地の鏡作り氏のあいだで、情報や技術、製作物の流通・交換があったとみられる。

 

■フォードーシステムを想像してはならない
三角縁神獣鏡のほとんどは、墳墓から出土し、明器[めいき](墳墓のなかに埋めるための、非実用的な器物)とみられる。

では、その三角縁神獣鏡は、人が死ぬたびに、中央(たとえば中国や大和朝廷)からもたらされたものであろうか。それとも各地で、見本鏡(原鏡)をもとに鋳造されたものなのであろうか。
これは、見本鏡(原鏡)だけが運ばれ、あるいは手に入れられ、現地(各地)で鏡作り氏によって鋳造されたケースがきわめて多かったとみられる。現在のような、トヨタの自動車工場で自動車をつくるような、大量生産の時代を想定してはならない。全国の村ごとに鍛冶屋(かじや)があって、手工業的に物が作られていた昭和のはじめごろまでの状況を想起すべきである。

むかしは、各家で、和服を作っていた。各家で、手工業的に和服を縫っていても、同じような「形式」の和服はできた。「和裁」の技術は、伝授可能である。鍛冶屋は、広い地域で、同じような「型式」の鎌(かま)をつくった。それと同じように、鏡を鋳造する技術は、伝授可能である。最近の若い方は、大量生産の結果ばかりをみているので、手工業的方法で、同じ「型式」のものが作られる時代のことが、想像できなくなっているのではないか。一つの工場での大量生産方式が可能になるのは、日本では、第二次世界大戦後に、アメリカのフォードーシステムが導入されて以後といってよい。

 

■石原秀晃(いしはらひであき)氏の「三角縁神獣鏡など=花輪説」
三角縁神獣鏡が、今日の葬儀における花輪のようなものであったとする説は石原秀晃氏が、かなりな根拠をあげてのべている。
石原秀晃氏は、およそ、つぎのようにのべる。
「古墳に多くの鏡を副葬したのは、つぎのような理由による。
鏡は、肉親・友人・部下などが霊を宿らせたものだった。それらの人々の霊(たましい)の代りとなる霊代(たましろ)であった。
いわば殉死に代わるものとして、霊が死者につきそってあの世までお供するものだった。
---友よ。いよいよ悲しい別れのときが来た。だが、われわれはけっしてあなたのことを忘れはしない。私の霊はいつまでもあなたのそばにおり、あの世に行ってもいっしょだよ。さあ、友よ、安んじてあの世にゆきたまえ。
こんな願いをこめて、人びとは鏡にわが霊をのりうつらせて遺体のかたわれにそっと添わせたのだ。これまでの研究は暗黙のうちに、鏡は被葬者が生前にたくわえた財産だ、とみていた。だが、そうではない。葬送のおりに生者が手向けるものなのだ。こんにちでいえば、葬議会場に縁者・知己が贈る花輪のようなものだと思えばよい。」

たしかにこれをうらづけるような事例が存在する。
たとえば、天孫邇邇芸(ににぎ)の命(みこと)が、南九州に天降るさいに、天照大御神は、八尺(やた)の鏡を与えている。そしてのべる。

「この鏡を、私の魂だとして、祭りなさい。」
この鏡は、現在、伊勢神宮に、天照大御神の「御霊代(みたましろ)」として祭られている。
天照大御神は、お別れのさいに、みずからに代るものとして鏡を与えているのである。

「破鏡」についても、石原秀晃氏は、およそつぎのようにのべる。
「弥生時代の末から古墳時代の初めにかけて、鏡をうち割ったうえで、破片をまとめて埋納している例が各地にみられる。
その最たる例は、前原市の平原周溝墓で、四〇面前後の鏡のことごとくが破砕されていた。
私は単純に理解する。鏡を副葬することが流行(はや)ってきたが、とても高価だから誰もがおいそれとは入手できない。だが、信望のある首長なら徳をしたう住民も多かっただろうし、長年仕えてきた召使も大勢いただろう。彼らは裕福ではなかったが、故人を慕う気持には切なるものがあった。そこで皆で資本をだしあって鏡を共同購入したとしよう。が、霊代というのは、ひとつにこめられる霊はひとり分だけと決まっていて、大勢が相乗りすることはできない。では、どうするか。古代びとは頭がいい。大きな鏡を砕いて人数分だけに分割し、そのかけらの一つひとつに霊をこめることにしたのだ。
破砕鏡とはたくさんの霊代をつくるための工夫だった。」(以上、引用文は、石原秀晃「倭人にとって鏡とは何だったのか」[『季刊邪馬台国』102号、梓書院、2009年刊])

 

■「同デザイン同型鏡」と「同デザイン踏み返し鏡」とは区別すべきである
三角縁神獣鏡には、同じ形式、同じ文様[もんよう](模様・デザイン)の鏡がかなり多い。以下、これを「同デザイン鏡」と呼ぶことにしよう。
京都大学の教授であった梅原末治は、「同デザイン鏡」は、同じ鋳型で作った鏡と考えた[同范鏡(どうはんきょう)説]。
ところが、三角縁神獣鏡の製作にあたっては、石の鋳型ではなく、砂をませた土で鋳型を作ったとみられている[砂型(すながた)あるいは真土(まね)型]。        
青銅は、冷えて固まるとき、鋳型にくいこむ。そのため、砂型范では、原則的に、1面の鏡の鋳造のたびに、鋳型を壊してしまう。同じ鋳型で、2面以上の鏡を作ることをしない。(討論、三角縁神獣鏡のばあい、鋳型の遺物が出土しない。)森浩一氏

そこで、一つの原型となる鏡(または、堅い木材あるいは蝋(ろう)に彫刻して作った鏡の原型)をもとにし、その鏡(原型)で型押しをして、いくつもの鋳型を同時に作り、同型の同デザイン鏡を作る。これをとくに、「同デザイン鏡」と呼ぶことにしよう。
ところが、原型となる鏡をもとにして作った鏡、つまり、コピー鏡、あるいは、毋鏡をもとにして作った子供の鏡を、新たな原型として、もとの毋鏡の孫コピー鏡を作ることができる。
このようにして作った同デザイン鏡を、「同デザイン踏み返し鏡」と呼ぶことにしよう。「同デザイン鏡」のなかには、同時に作られた「同デザイン同型鏡」もあるが、「同デザイン踏み返し鏡」もある。この二つは、区別すべきである。「同デザイン同型鏡」は兄弟鏡で、同時期に作られているが、「同デザイン踏み返し鏡」の母子関係鏡などは、異なる時期に作られている。
三角縁神獣鏡は、「同デザイン鏡」でも、直径がかなりまちまちである。なかには、兵庫県の水堂古墳出土鏡(22.9センチ)と京都府の芝ヶ原11号古墳出土鏡(22.1センチ)のように、直径が8ミリ違っているものもある。
明らかに、「同デザイン踏み返し鏡」が存在しているようにみえる。
三角縁神獣鏡では、子コピー鏡、孫コピー鏡、曾孫コピー鏡が作られている。したがって、兄弟関係、いとこ関係、おじ・おい関係などになる鏡が、多数存在しているとみるべきである。

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用語の説明
・踏み返し
鋳造技術の一つである。すでにできあがっている元となる鏡(原鏡)に、粘土などを押しつけて型や文様を写しとり、砂型鋳型すなわち雌型(めがた)を作る。表からとった鋳型と裏からとった鋳型とをあわせ、中間の湯をそそぐ口から溶けた銅を流しこんで鋳造する。原鏡と同じ鏡を作るわけであるが、原鏡と異なり、文様などに、鮮明を欠くところがある。踏み返しを行うと、原鏡と後鏡のものとが、大きさが、すこし異なることがある。
・復古鏡
過去に作られた鏡の文様やデザインを見て、まねて作った鏡のこと。三角縁神獣鏡が、日本で作られたとすれば、過去に作られた呉鏡や東晋鏡などの文様やデザインをまねてくみあわせて作ったこことになる。
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なお、私は同型鏡や踏み返し鏡は、つぎのような手つづきによって製作されたのであろうと考える。
(1)木や蝋(ろう)などで原型をつくる。または、すでに存在している鏡を原型とする。
(2)これらの原型を真土(まね)に型押しをして、いくつもの鋳型(范)をつくる。
(3)おそらくは、そのような鋳型によって、一度は蝋による原型をつくり、その蝋原型に加工をほどこす。大阪府教育委員会の考古学者、西川寿勝氏は、その著『三角縁神獣鏡と卑弥呼の鏡』(学生社、2000年刊)で、「ピザに具を並べるように」という表現をしておられるが、「単位文様」をどこかから、とってきて、はめこむのは蝋による原型によるならば、比較的簡単にできるであろう。

 

■王仲殊氏のお手紙
「北中国」から出土した鏡、1801面、「南中国」から出土した鏡は、1310面、合計3111面。このなかに、「三角縁神獣鏡」は、一面もふくまれていない。いっぽう、日本から出土した鏡は4774面。このなかに、「三角縁神獣鏡」が、425面ある。
このことが、いかに異常なことか、おわかりいただけるであろうか。
2015年になくなった中国の王仲殊は、かつて、私に、つぎのようなお手紙をくださった。
「安本美典先生[中国語の「先生」は、日本語の「様」に近いニュアンス]、您好(ニイハオ)[您好(ニイハオ)は「今日は」の丁重表現]372-12


(2013年の)8月21日にお手紙いただきました。
三角縁神獣鏡=魏鏡説破滅をテーマとする大著を恵贈していただき、ありがとうございます。
二〇世紀の初期に富岡謙蔵が提出した魏鏡説は、これはこれで理解できるものです。
ただし、二〇世紀の八〇年代以降になると、中国本土および朝鮮半島の地域内に、三角縁神獣鏡の出土例が完全に存在しないことが、確認されたのち、魏鏡説は、成立がむずかしくなりました。

とくに、1986年10月に、二面の景初四年銘の三角縁盤竜鏡が発見され、いわゆる『特鋳説』もまた、立足の余地を完全に失いました。これは鉄のようの固い事実です。
何人も、否認することができないことです。
森浩一先生か逝去され、悲しい思いにたえません。なつかしく思うことです。
              2013年11月10日 王仲殊 拝」

 

 

■大型鏡のほとんどは仿製鏡(ぼうせいきょう)である。
日本で出土した大型径のベスト10を見ても、これらの鏡は日本製である。

画文帯神獣鏡の直径の大きいものは日本製である。
日本で出土した画文帯神獣鏡は二つの山がある。その大きな山の方は日本製であると考えられる。

372-13

 

■鏡は、各地で鋳造されたことが多かった
鏡が現地で鋳造されたことを示すのが、以下にのべるような事実である。
全国で、3面以上の三角縁神獣鏡の同型鏡が出土し、そのうちの2面以上が同じ古墳から出土しているケースをとりあげる。
すると、同じ古墳から出土している同型鏡は、面径が一致するという強い法則的傾向がみとめられる。このことは、葬儀にあたって、同じ古墳に埋納される同型鏡は、同時に鋳造されたことを強くさし示している。

つぎに、三つほど典型的な事例を示す。
[Ⅰ]奈良県の佐味田宝塚古墳や京都府の椿井大塚山古墳その他から出土している「天王日月」銘唐草文帯四神四獣鏡。
この鏡の全国での出土地と面径とは、つぎのようになっている。
  ①滋賀県雪野山古墳(4号鏡)  24.1センチ
  ②奈良県佐味田宝塚古墳(9号鏡)23.9センチ
  ③奈良県黒塚古墳(24号鏡)   23.7センチ
  ④京都府椿井大塚山古墳(M3) 23.7センチ
  ⑤静岡県赤門上古墳       23.7センチ
  ⑥兵庫県吉島(よしま)古墳   23.4センチ
  ⑦兵庫県吉島(よしま)古墳   23.4センチ
最大のものと、最小のものとでは、7ミリ違う。
鏡は、「踏み返し鏡」を作ると、面径が変化する。
上の①~⑦を観察すれば、つぎのようなことがわかる。
(1)兵庫県の吉島古墳から出た二面の同型鏡は、同じ面径をしている(下線)。これは、吉島古墳築造のさいに、見本鏡(原鏡)をもとに、同時に作られたことを強く示唆する。
(2)福永伸哉氏は、その著『三角縁神獣鏡の研究』(大阪大学出版会、2005年刊)において、これらの鏡を舶載鏡(輸入鏡)とする。しかし、中国大陸で製作されて、日本に運ばれ、時間を経てから各地で埋納されたものであれば、途中でばらばらになり、完全な同型鏡のみがたまたま同じ古墳に埋められることが根くりかえしおきることは、ありそうにないことである。

[Ⅱ]奈良県黒塚古墳出土の「王氏作徐州」銘四神四獣鏡
  ①福岡県老司(ろうじ)古墳   22.4センチ
  ②奈良県黒塚古墳(20号鏡) 22.3センチ
  ③奈良県黒塚古墳(32号鏡) 22.3センチ
  ④滋賀県古富波山古墳    21.9センチ
最大のものと、最小のものとで、5ミリ異なる。
福永伸哉氏は、これらの鏡も舶載鏡とするが、疑問がある。

[Ⅲ]大阪府紫金山古墳などから出土している獣文帯三神三獣鏡。
  ①大阪府紫金山古墳     24.4セン
  ②大阪府紫金山古墳     24.4センチ
  ③福岡県沖ノ島17号遺跡   24.3センチ
  ④京都府百々池古墳     24.2センチ
  ⑤大阪府壺井御旅山古墳   24.0センチ
最大のものと、最小のものとで、4ミリ異なる。
やはり同一古墳から出土した同型鏡は、同じ面径をもち、異なる古墳から出土したものとは違う面径をもつ。
このような事例は、数多くあげることができる。

その例をあげる。
[A]福岡県原口古墳などで出土している「天王日月」銘獣帯三神三獣鏡。
①福岡県原口古墳       22.6センチ
②福岡県天神森古墳     22.6センチ
③大分県赤塚古墳       22.6センチ
④京都府椿井大塚山古墳  22.5センチ
福岡県石塚山古墳     22.4センチ
福岡県石塚山古墳     22.4センチ
この鏡も、つぎのようなことがいえる。
(1)福岡県の石塚山古墳から出た2面の同型鏡は、同じ面径をしている。
石塚山古墳がつくられたさい、同時に鋳造されたものであろう。
(2)この同型鏡は、九州で出土していることが多い。

[B]山口県長光寺山古墳その他から出土している獣文帯三神三獣鏡。
  ①大阪府紫金山古墳      21.7センチ
  ②大分県免ヶ平古墳      21.7センチ
  ③山口県長光寺山古墳    21.6センチ
  ④山口県長光寺山古墳    21.6センチ
  ⑤岡山県鶴山丸山古墳    21.6センチ
  ⑥滋賀県亀塚古墳       21.6センチ
  ⑦岐阜県野中古墳南石室   21.5センチ

[C]京都府椿井大塚山古墳などから出土している「天王日月」銘獣文帯四神四獣鏡。
  ①神奈川県白山古墳      22.4センチ
  ②京都府椿井大塚山古墳   22.3センチ
  ③京都府椿井大塚山古墳   22.3センチ
  ④京都府椿井大塚山古墳   22.3センチ
  ⑤山口県竹島御家老屋敷古墳 22.3センチ
  ⑥福岡県神蔵古墳        22.3センチ

[D]岡山県の湯迫(ゆば)車塚古墳などから出土している「陳是作」銘四神四獣鏡。
  ①神奈川県真土大塚山古墳  22.1センチ
  ② 岡山県湯迫車塚古墳     22.0センチ
  ③ 岡山県湯迫車塚古墳     22.0センチ
  ④京都府椿井大塚山古墳    22.0センチ
  ⑤兵庫県権現山51号墳     21.9センチ
この鏡について考える。
(1)このばあいも、遠くはなれた神奈川県から、先行鏡ともいえるものが出土している。①~⑤全体に、さらに先行する鏡のあったことをうかがわせる。
(2)福永氏は、権現山51号墳出土鏡を、総体的に非常に早い時期に位置づけるが疑問である。

[E]愛知県出川大塚古墳などから出土している獣文帯三神三獣鏡。
  ①京都府稲荷山古墳     22.3センチ
  ②鳥取県大将塚古墳     22.3センチ
  ③奈良県観音寺町       22.2センチ
  ④愛知県出川大塚古墳    22.1センチ
  ⑤愛知県出川大塚古墳    22.1センチ

[F]大阪府紫金山古墳などから出土している獣文帯三神三獣鏡
  ①奈良県新山古墳       21.7センチ
  ②大阪府紫金山古墳     21.7センチ
  ③大阪府紫金山古墳     21.6センチ
  ④兵庫県親王塚古墳     21.5センチ
  ⑤山口県長光寺山古墳   21.5センチ
これのみは、②を元鏡にして、③が作られたようにもみえる。

[G]福岡県一貴銚子塚古墳などから出土している「吾作」銘三神三獣鏡。
  ①福岡県一貴銚子塚古墳   21.2ヤンチ
  ②福岡県一貴銚子塚古墳   21.2センチ
  ③大阪府ヌク谷北塚古墳   21.2センチ
  ④大阪府ヌク谷北塚古墳   21.2センチ
  ⑤佐賀県谷口古墳東石室  21.0センチ

[H]佐賀県谷口古墳西石室などから出土している獣文帯三神三獣鏡。
  ①大阪府阿武山古墳      21.8センチ
  ②滋賀県天王山古墳      21.8センチ
  ③佐賀県谷口古墳西石室   21.6センチ
  ④佐賀県谷口古墳西石室   21.6センチ

[I]京都府椿井大塚山古墳などから出土している「吾作」銘三神三獣鏡。
  ①京都府椿井大塚山古墳   21.5センチ
  ②京都府椿井大塚山古墳   21.5センチ
  ③愛知県百々町         21.5センチ
  ④兵庫県権現山51号墳    21.45センチ

 

■統計的検定について
統計学的な法則性や結論は、そこにみられるさまざまな誤差や変異をあるていど前提とし、それをこえて、なおかつ成立しうるものを求めているところがある。

下垣氏の『三角縁神獣鏡事典』に示されているデータにもとづき、計算をしてみると、「同じ古墳から出土した同デザイン鏡の面径の一致率」は、80.0パーセントである。これに対し、「異なる古墳から出土した同デザイン鏡の面径の一致率」は、23.4パーセントである。この二つの比率のあいだには、統計学的に、とうてい偶然とはいえない差が認められる(1パーセント水準で有意)。「同じ古墳から出土した同デザイン鏡の面径の一致率」のほうがはるかに大きい。つまり、同じ古墳から出土した同デザイン鏡は、「同デザイン同型鏡」がほとんどであり、異なる古墳から出土した同デザイン鏡は、「同デザイン踏み返し鏡」がほとんどであるとみられる。

測定誤差などを考慮し、1ミリ以内の面径の差は、誤差範囲とみなすとどうなるか。つまり、1ミリ以内の面径差は、「一致」の範囲に入れて同様の計算をすると、つぎのようになる。
「同じ古墳から出土した同デザイン鏡の面径の一致率」は、92.0パーセントである。これに対し、異なる古墳から出土した同型鏡の面径の一致率」は55.5パーセントである。
一致率は、測定誤差などを認めないばあいにくらべ、ともに上がる。
しかし、二つの比率のあいだには、統計学的に、とうてい偶然といえない差が認められるという結論には、変わりがない(1パーセント水準で有意)。

同じ形式のものが、あるていどの期間のなかで(私、安本は、350年ごろから400年ごろまでの50年間ぐらいと考えるが)、くりかえし踏み返されているとみられる。『以上のような議論について、くわしく『季刊邪馬台国』68号所載の拙稿参照)。

統計的な調査を行なったならば、統計学的な検定(有意差が認められるかどうかなど)が必要である。統計学者の増山元三郎氏は、検定のない調査は、「随筆と大差はない」とのべている。
大阪府教育委員会の考古学者、西川寿勝氏は、「三角縁神獣鏡=楽浪郡での製作鏡説」の立場にたつ方であるが、その著『三角縁神獣鏡と卑弥呼の鏡』(学生社、2000年刊)のなかでのべる。
「(糸島市の)平原(ひらばる)遺跡の弥生時代終末期の周溝墓は大量の鏡がことごとく破砕されて納められており、(中略)踏み返された鏡が12面も発見されているからである。」

「舶載鏡が登場して以来、連綿と踏み返し鏡が利用された可能性を示した。」
「(三角縁神獣鏡は、)蝋原型や踏み返し技法なら何面でも製作可能である。」
踏み返し技法を考えたほうが、三角縁神獣鏡の面数の多さや、多様徃をうまく説明できるのではないか。
実際には、三角縁神獣鏡は現在の出土率を10パーセントていどと、みても何千面も製作された可能性があるのである。
このように、川西宏幸氏も、西川寿勝氏も、踏み返しを、当然の前提として、話をすすめておられる。
踏み返し技法による製作を過小評価する議論には、かなりな無理がある。

「同じ古墳から出土している同型鏡は、面径が一致するという法則的傾向が強くみとめられる。つまり、葬儀にあたって同時に鋳造されたことを強く示している。これらが、中国大陸で鋳送されたものであるならば、わが国の各地に運ばれる過程や、伝世の過程でばらばらになり、同時鋳造のものが同じ古墳に規則的に埋納されるというようなことはおきそうにない。」

踏み返し鏡の製作年代差を定めることはむずかしい。ある鏡は、鋳造されてすぐ、踏み返し鏡が作られたかもしれない。ある鏡は、十年あるいはそれ以上たって踏み返し鏡が作られたかもしれない。
全国で行なわれた踏み返しは、錯綜している。
鏡の形式だけによって、鋳造年代の編年ができるなどとは、とうてい考えられない。

 

■鈴木勉氏著『三角縁神獣鏡・同范(型)鏡論の向こうに』(雄山閣、2016年刊)
(1)三角縁神獣鏡の生産体制について
「 筆者は、2015年5月、「三角縁神獣鏡の仕上げ加工痕と製作体制」を著し、三角縁神獣鏡の最終仕上げ加工痕の分析から、各地の三角縁神獣鏡が出土古墳近くの地域で一括生産されたことを突きとめた。さらにその工人らの「出吹き」によって生産が行われ、彼らの本貫の地を大和盆地内と推定した。

「出吹きと移動型工人集団
鋳造製品については奈良時代には製品の使用地へ工人集団が赴いて鋳造する「出吹き」の伝統があった。京都妙心寺鐘(698年銘)は「糟屋評造春米連廣國鋳鐘」の鋳物師の名と思われる銘を持つ。これは、九州糟屋の鋳物師の出吹きによる製作であろう。また、天智天皇の御代の建立と推定されている川原寺から大型鉄釜の鋳型が出土し、使用者である寺院などへの「出吹き」によって製作したことが明らかになっている。律令以前、鋳造は出吹きで行われていたのである。」

(2)計測について
「古鏡の研究に拓本が使われていた時代、必要な計測の水準はものさしで十分であった。しかし、観察が細密化した20世紀後半の古物の調査において、ものさしではその結果を検証出来なくなった。そうして、研究者たちは、計測器として最小目盛が0.05mmであるバーニヤキャリパ(通称ノギス)を使い始めた。
バーニヤキャリパやその上の精度のマイクロメータ(最小目盛り0.01m)を正しく使うことができれば、細密化した観察に見合う計測精度を確保することが可能である。しかし、両計測器は被計測物を挟んで計測するように作られており、一定の測定圧をかけた時に初めて上記の最小目盛りが意味を持ちその精度が確保できる。バーニヤキャリパを使う計測はかなりの熟練が必要な作業である。
例えば古鏡の研究では、鋳造時の収縮率を元に製作技法を考え、それに基づいてその周辺の歴史を論ずる手法がある。古鏡の外側は鋳造後「せん」などによって削り取られることが多いため、鋳造時の収縮を論ずるためには、外径の計測値は意味をなさない。それゆえに、古鏡背面のある2点を決めてその距離を計測することになるのだが、文様の頂点の2点間の距離を測るため、バーニヤキャリパでは挟むことができず、必要な測定圧をかけることができない。
従って所要の精度を得ることができないのだ。バーニヤキヤリパで文様の頂点の2点問の距離を測ることは誤った使い方と言える。計測器の誤った使い方で得られる計測値の信頼性の低さと、最小目盛りの細かさ故に高い信頼性かのように思ってしまう考古学研究者の錯覚、誤りの重層構造がそこにある。

「また、学術論文における計測の重要性はよく知られるところであるが、何故か考古学の論文ではその計測にいかなる計測器を使ったのかさえ明記されない。
計測で得られる数値は、その数値がいかなる計測器によって得られたかによって意味が異なる。例えば、正しい計測方法で計測されたとしても、ものさしであれば信頼できる計測精度はmm単位であり、小数点以下の数値は意味を持たない。最小目盛りが0.05 mm のバーニヤキャリパであれば、0.05mm未満の数値は意味を持たないし、マイクロメータであれば、0.01mm未満の数値は意味を持たない。つまり使用した計測器を明記しなければその数値は意味を失うのだ。」

「以上のことを考えると。『集古十種』の時代から、20世紀末まで、古鏡など古物の計測に最も適した計測器は「ものさし」であったというしかない。つまり同范(型)鏡論に挑んだ考古学者は細密な観察結果を検証するには足る計測器(機)を持つことが出来なかったのである。
  
三角縁外側直径は、鋳バリが出ることが多く、測定点を定めることが難しい。 その上、鋳放しのままでは取り扱い時に怪我する恐れがあるために除去せざるを得ない。従って、鋳造時の収縮を検証するのには不適当である。出土鏡の計測でも三角縁外側は加工が施されているので、やはり収縮などの検証には役立たない。

一方、復元鏡の三角縁頂部直径の計測は、断面形状が三角形になるという三角縁神獣鏡の特徴を利用し、その頂部を測定点とすることで比較的安定した測定をすることができる。三角縁の頂部は湯流れが悪いと丸みを帯びてしまうのであるが、その場合も比較的仮想頂点を設定しすいので、他の部位よりも安定した測定点とすることが可能である。なお、出土鏡は鋳造後三角縁外側が削られているため三角縁頂部も削られるのでこの方法は使えない。」

(3)鋳型の破壊について 
「古代の工人がオーバーハング(逆勾配)鏡を作ったということは「鋳型が壊れるのは仕方がない」などと思ったのでは決してなく。「鋳型を壊して鏡を取り出す」という強い「意図」を持っていたことにほかならない。また、出来上がったオーバーハング鏡を原鏡として使って複製鏡を作ろうとすることはなかったとも解釈すべきである。原鏡がオーバーハングしていたら複製鏡の鋳型は必ず変形してしまうからだ。つまり、オーバーハング鏡、原鏡にはオーバーハングのない鏡(?)を使い、それを踏み返して出来た鋳型にヘラ押しで修正をして鋳造されたと考えられるのである。」
「硬い木や金属で凸型を作って鋳型に押し込む「型押し」で顔や胴体を作り、凹の状態で目や口の部分をへら押しする方法がとられたと考えられる。神像や獣像の全体を一つの型でつくるのではなく、顔だけの型、膝だけの型などを作り、各部位ごとに生乾きの鋳型に押し込む方法であろう。

「以上の結果から、次のことが言える。
(a)粘土の割合が多い鋳型は、粘土の割合が少ない鋳型より乾燥工程での収縮が大きい。
(b)真土の粒土が粗い鋳型は、粒度が細かい鋳型より乾燥と焼成の工程での収縮が小さい
(C)二層式鋳型では、乾燥と焼成の工程での収縮は極めて小さい。
(d)銅72.2%、錫22.8%、鉛5%という配合割合の銅・錫・鉛合金では、鋳造時の凝固収縮があるとは言えない。拡大することもある。
(e)二層式鋳型で鋳造した鏡は、原型との比較で収縮するとは言えない。拡大する傾向にあると言える。
(f)銅72.2%、錫22.8%、鉛5%という配合割合に近い銅・錫・鉛合金による鋳造時の凝固収縮、すなわち古代鏡の鋳造時の収縮を論じるときに、工学的な青銅鋳物の収縮率を用いることはできない。

以上を整理すると、古代鏡の鋳造では、一層式鋳型を使用した場合は必ず収縮があると考えて良いが、二層式鋳型では収縮することも拡大することもあると考えるべきであろう。
収縮のほとんどは鋳型の乾燥工程で起きるのであるが、一層式鋳型は、全体が収縮してしまうので「ひび」が発生しにくい。一方、二層式鋳型(堅牢な型枠(煉瓦状板)を使った鋳型)では、型枠(煉瓦状板)は原則的に収縮せず、そこに貼られた「土」が乾燥時と焼成時に収縮しようとするのであるが、型枠(煉瓦状板)に阻止され、その結果、「ひび」が発生する。」

・鋳型の収縮とひび
鋳型の構造は図のように、砂粒と砂粒を粘土で繋ぎ、あちこちに気孔が存在するようになっている。図の左は粘土が多いもの、右は粘土が少ないものである。

372-14

粘土は粒子がごく小さい砂なので、水分を多く含んでいる。従って乾燥すると水分であった部分が消失するのでその分体積が減少し、鋳型は収縮する。砂粒の部分はほとんど水分を持っていないので、乾燥しても体積が減らない。つまり収縮しないのだ。
だから粘土が少なく砂粒が多い鋳型は収縮しにくく、粘土が多く砂粒が少ない鋳型は収縮しやすい。
砂と粘土を混合した真土製鋳型は、乾燥すると必ず収縮する。鋳型全体を同じ成分で作ることを一層式鋳型といい、全体的に収縮する。しかし、真土を使った鋳型では型枠を使うことが多く、これを二層式鋳型という。古代の型枠は土で出来ていて一度焼き固めている。土は一度焼き固めてあるとそれ以上膨張もしないし収縮もしない。二層式鋳型では型枠に真土型を貼り付けて鋳型を作るのだが、まったく収縮しない型伜に貼り付けられた真土型は乾燥によって収縮しようとする。
その収縮は型枠に拘束されているので全体の寸法は収縮しない。部分部分に収縮するのでそれはひびとなって現れる。」

・原鏡と複製鏡
「同型法や踏み返し法であれば、「原鏡」と「複製鏡」、同范法であれば、「第一号鏡」と「第二号鏡など」と呼称されるであろうが、ここではそれを限定しない。あえて「原鏡」(=「第一号鏡」)として述べる。但し、本研究の成果では各地で製作したことが明らかになっており、同范法であれば鋳型を各地へ移動することになるが、それは極めて難しいと言わざるを得ない。また筆者はオーバーハング鏡の存在を指摘しているが、それらの鏡では同范法は成立しない。
原鏡製作技術と複製鏡製作技術では求められる技術と文化が大きく異なる。原鏡製の場面では文様に対する理解、文字・文章への理解、それらの宗教的理解などが求められるのに対し、複製鏡製作技術では技術の精緻さが求められるが、文様や文字に対する宗教的な理解などは必要としない。」

 

■「踏み返し」による生産批判を、反批判する
下垣仁志(しもがきひとし)氏の『三角縁神獣鏡事典』(吉川弘文館、2010年刊)は、三角縁神獣鏡についての、多くの基礎的なデータをおさめた労作である。
ただ、下垣仁志氏が、京都大学で考古学をおさめられたためか、この本は、かなり「邪馬台国=畿内説」よりの姿勢でまとめられている。

下垣氏は、「同范(型)鏡群内で、面径が一致しないことをとりあげ、踏み返し」による生産が行なわれたとする議論を批判して、つぎのようにのべる。
「(このような議論は、)報告書や図録類に記載された法量データに依拠しているが、面径の計測値は、破損や銹化(しゅうか)の状態、さらには計測者の計測法や計測精度により変異することを看過した議論である。実際には同范(型)鏡群内の面径にほとんど差がないことが、三角縁神獣鏡を数多く実見した研究者によって指摘されていること〔八賀1990;車崎2000b;福永他2003等〕を、重くみなければならない。車崎正彦は、『私が調べたかぎり、三角縁神獣鏡の同型鏡の大きさは1mm以上違わない』とまで述べている〔車崎2000b、P22〕。報告書類の二次的データを鵜呑みにした立論は信頼性がはなはだ低いため、面径から踏み返しの存在を想定するのであれば、まずは実物の厳密な実見観察に立脚した検討が不可欠である。一方、踏み返し鏡が原鏡よりも縮小するという、伝統的鋳鏡者に端を発した説〔勝部 1997;樋口 1979a・1992等〕にたいし、踏み返しによる収縮は確認できず、拡大することもあるという鋳造実験の結果も提示されている〔清水康他 1998;三船 2002;鈴木勉 2003〕。そうであれば、同范(型)鏡群内で面径が同一であっても、踏み返しがなされているという主張もありうるかもしれないが、現状のデータからみるかぎり、論理的には『どちらともいえない』とするのが正しい。」

しかし、下垣氏のこのような見解は妥当なのであろうか。
(1)下垣氏は、「私か調べたかぎり、三角縁神獣鏡の同型鏡の大きさは1mm以上違わない」という車崎正彦氏の見解を引用する。しかし、じっさいは下垣氏の『三角縁神獣鏡事典』に示されている例によっても、すでに示したように、滋賀県雪野山古墳出土鏡と兵庫県吉島(よしま)古墳出土鏡との面径の差のように、7ミリも違うものがみられるのである。これは、「破損や銹化(しゅうか)の状態、さらには計測者の計測法や計測精度」にもとづくものなのか。そうであれば、そのいずれの理由により、7ミリもの面径の差を生じたものか、下垣氏は、具体的に示していただきたい。鏡が、破損のばあいは、報告書には、そのむね記されているのがふつうである。

(2)下垣仁志氏の『三角縁神獣鏡事典』に示されているデータによっても、面径が5ミリ以上違っているものに、表のような例がある。8ミリ違っているものがある。4ミリ~2ミリ異なっているものは、相当数に達する。

372-15

下垣氏は、「面径から踏み返しの存在を想定するのであれば、まず実物の厳密な実見観察に立脚した検討が不可欠である。」
とのべる。
しかし、挙証責任は、こちらにばかり求められるものであろうか。
逆に、踏み返しの存在を否定するのであれば、せめて上の表の範囲だけでも、一般論ではなく、これらの面径は信頼性が低いことを、具体的に示していただきたい。たとえば、私(安本)が、「実物の厳密な実見観察に立脚した検討」を行なったとしても、専門の報告書類に記されているもの以上の信頼性を獲得しうるものであろうか。ほんとうに、「実際には同范(型)鏡群内の面径にほとんど差がないこと」が事実であるならば、そのこと自体が重要である。下垣氏が、『三角縁神獣鏡事典』で示されている同范(型)群内の面径の数多くの差は、それらをたんに「実見した研究者」によってもたらされたものではなく、「実見し測定した研究者」によってもたらされたものなのである。

熊本県の江田船山古墳から、二十六面の「画文帯神獣鏡」の、いわゆる「同型鏡」(私のいう「同デザイン同型鏡」と「同デザイン踏み返し鏡」をあわせたもの)が出土している。
その面径については、川西宏幸氏がきわめて厳密な測定をし、その結果を『同型鏡とワカタケル』(同成社、2004年刊)のなかで示しておられる。
そのうち最大のものは、奈良県新沢古墳出土のもので、21.08~21.15センチである。
最小のものは、三重県鳥羽市神島八代神社所蔵の20.57~20.70センチで、面径の測定値は重ならず確実に差がある。
神社所蔵品は発掘品ではないからという理由で、八代神社所蔵品をのぞくとしても、そのつぎに小さいのは、宮崎県持田24号噴出土のもので、20.63~20.83のものである。
これを新沢古噴出土のものとをくらべてみても碓実に面径に差がある。
実物をどれほど「厳密な実見観察」したとしても、面径の差は、みとめられるようにみえる。

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