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Rev.2 2020.2.5

第382回 邪馬台国の会
何度かの東遷


 

1.何度かの東遷

■国譲りののち「高天の原」からつかわされた二柱(ふたはしら)の神
かつて、東京大学の教授であった井上光貞の『日本の歴史Ⅰ 神話から歴史へ』(中央公論社、1965年刊)が、大ベストセラーになったことがあった。
この本がだされて、それほど年月がたたないころ、発行部数六〇万部といわれていた。この本は、その後、文庫本にもなっているから、総発行部数は、百万部近くになるのではないか。

井上光貞は、この本のなかで、出雲の国譲りの話を紹介したのち、つぎのように記す。
「この国譲りの物語の一つの問題点は、(中略)天照大御神が天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)を下界に下そうとしたとき、下界は『いたくさやぎてありけり』(ひじょうにさわがしい状態であった)と述べておきながら、将軍たちの平定は、下界一般ではなくて、出雲国という特定の地方であったことである。このことは、国譲り物語のあとにくる『天孫降臨』の物語で、いよいよ天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)の子[邇邇芸の命(ににぎのみこと)]を地上に降すとき、その地点が、出雲でなく日向(ひむか)であったとされていることとあいまって、神代史の構想それ自身として、大きな矛盾をおかしているといえる。」

しかし、『古事記』『日本書紀』をはじめとする日本の古典をよく読むと、神代史の構想は、井上光貞が述べるほど、「大きな矛盾」をおかしていることにはならない。 382-01
私は、大国主の神などのおさめる葦原の中つ国は、出雲から近畿にわたるかなり広い領域であったと思う。
それは、あとでややくわしくのべるように、銅鐸の分布領域に、ほぼ重なる。
そして、大国主の神が領有していた国、「銅鐸王国」のうち、出雲方面には、天照大御神の子の、天の穂日の命(あまのほひのみこと)が下っているのである。
また、近畿方面には、高天の原勢力の饒速日の命(にぎはやひのみこと)が下っているのである。『先代旧事本紀』は、饒速日の命を、天照大御神の孫とする

講談社から出ている『日本人名大辞典』では、天の穂日の命と饒速日の命とについて、つぎのように説明されている。比較的要領をえた説明といえよう。
「【天穂日命(あめのほひのみこと)】:記・紀にみえる神。天照大神と素戔鳴尊が誓約をした際に生まれた五男神の一神。葦原中国(あしはらのなかつくに)に高天原(たかまがはら)から派遣されたが復命せず、のちに大国主(おおくにぬし)の祭主を命じられたという。出雲(いずも)氏、土師(はじ)氏らの祖先神。『古事記』では天菩比命。」
「【饒速日命(にぎはやひのみこと)】:記・紀にみえる神。物部(もののべ)氏の祖先神。天磐船(あめのいわふね)にのって天くだり、長髄彦(ながすねひこ)の妹三炊屋媛(みかしきやひめ)を妻とした。神武(じんむ)天皇の東征の際、長髄彦は天皇に服従せず、饒速日命は長髄彦を殺して天皇にくだったという。『古事記』では邇芸速日命。」

なお、天の穂日の命の子孫は、出雲国造(いずものくにのみやつこ)を世襲した。国造は、地方官であるが、出雲の国を領していたわけである。
また、出雲国造は、熊野大社[島根県八束(やつか)郡]および杵築(きづき)大社(出雲大社。島根県出雲市)の祭祀権をもっていた。

邇邇芸の命(ににぎのみこと)の子孫が、現代の天皇家につながるので、『古事記』『日本書紀』では、邇邇芸の命の天孫降臨が、大きくとりあつかわれている。
しかし、大国主の命のかつての領有地には、高天の原から、それなりの二柱(ふたばしら)の神が、つかわされているのである。

 

■第1代神武天皇の「活躍年代」の推定値

下の右表を参照。 382-02
(1)下の右表の「第1代神武天皇の「活躍年代」の推定値」表のように、卑弥呼=天照大御神の活躍年代を、卑弥呼が魏に使をつかわした238年、または239年とする。

(2)第二十一代雄略天皇の活躍年代を、倭王武が、宋へ使をつかわした478年とする。

(3)さきの(1)(2)を、二つの基準点とし、その間の年数を天皇等の代の数によって、比例配分する。
すると、神武天皇の「活躍年代」の推定値は、西暦287年、または、286年となる。

[註]卑弥呼の「活躍年代」を、239年とすれば、
(26-1):(6-1)=(478-239):(X-239)

ここから、
25:5=239:(X-239)

比については、外積(外がわを掛けあわせたもの)は、内積(内がわを掛けあわせたもの)に等しいから、
25×(X-239)=5×239
X=287(年)

このように、神武天皇の「活躍年代」の推定値は、三世紀の後半の287年または、286年となる。
(下図はクリックすると大きくなります)

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■第1代神武天皇の「没年」の推定値
同様にして、神武天皇の「没年」を推定してみよう。

上の左表の「第1代神武天皇の「没年」の推定値」表にもとづいて推定する。
(1)上の左表により、卑弥呼=天照大御神の没年を、『魏志倭人伝』により、247年または248年とする。

(2)第十六代仁徳天皇の「没年」を、『古事記』により、427年とする。

(3)さきの(1)(2)を、二つの基準点とし、その間の年数を、天皇などの代の数によって比例配分する。
すると、神武天皇の没年の推定値は、西暦292年、または西暦293年となる。   

 

■初期天皇実在性
下の歴代天皇の后妃を見れば分かるが、神武天皇のころは、大国主系の后妃であり、少し下ると物部氏系となり、第10代頃から皇族系となる。このことは津田左右吉氏が唱える初期天皇の存在を疑い、記紀の初期天皇の記述は欽明天皇のころに役人が机上でつくった架空のもだとする説に対し、もしそうならば、全て皇族系にすればよいようである。しかも物部氏は滅ぼされた氏族である。
その中で、綏靖天皇の后妃は物部氏系で、師木の県主の女(むすめ)である。
(下図はクリックすると大きくなります)382-04


また、古代の天皇の都の所在地の下表を見ると、初期のころは葛城(かづらき)に宮殿を置いたようである。
(下図はクリックすると大きくなります)
382-05


下図の右の地図を参考にすると、奈良市付近が栄えるのは奈良時代になってからで、それ以前は奈良の環状線(手書きの太い線)の南側で、南葛城あたりまでの広い範囲に、かなりの都があったようだ。若し後の時代に全て机上でつくられたなら、何故この辺にしたのか? このあたりはもともと、饒速日系の地盤があったところらしい。
(下図はクリックすると大きくなります)
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更に、古代の天皇の陵墓の所在地の下表を見ると、初期の天皇陵は葛城郡にあり、崇神天皇陵ごろから磯城郡に移っている。
また、下段に示した墳墓について、初期は円墳や山形とあり、前方後円墳になるのは孝元天皇からである。
(下図はクリックすると大きくなります)
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■磯城県主・春日県主・十市県主
・磯城県主
磯城県(しきのあがた)は上の地図の右の地図にあるように、環状線の右側で纏向付近である。
『日本書紀』「神武天皇紀」に、「弟磯城(おとしき)、名(な)は黒速(くろはや)を、磯城縣主(しきのあがたぬし)とす。」とある。

・十市県主
神名帳(注:延喜式)にみえる十市御県座神社の鎮座地付近が中心地。この県主は孝安紀二十六年条の一云にみえる十市県主五十坂彦(いさかひこ)が初見。十市県主系図の五十坂彦の尻付(しづけ)に「考昭天皇御世、春日県改名云十市県、五十坂彦為県主」とみえる。

注:つまり春日県は十市県に名を変えたようだ。この地は上の地図からも分かるように、現在の春日神社のあるところから離れている。

また、『先代旧事本紀』巻第三に「饒速日の尊(にぎはやひのみこと)とともに三十二人のボディガードの中に、「十市部首(といちべのおびと)たちの祖富々佀(ほほろ)」、巻第七、垂仁天皇の条に伊香色雄(いかがしこお)の命の子、十市根(といちね)の命に物部の連公(むらじきみ)の名を与え、大連(おおむらじ)にした。」とある。

・磯城県主・春日県主・十市県主
岩波書店刊(日本古典体系本)『日本書紀』214ページに下記がある。
綏靖-孝安の諸紀、特に分注一云、及び綏靖-安寧紀には、これら諸天皇の皇后・妃として磯城県主葉江(はゑ)(記に波延)、弟猪手・太真稚彦(ふとまわかひこ)・大目らの女が数多くみえる。磯城(志紀・志幾・志貴)県主には別に河内のそれがあるが、大和のは天武十二年(683)に連となり、姓氏録(注:『新撰姓氏録』のこと)に大和神別の志貴連は神鏡速日命の孫日子湯支命の後とする。

磯城県主など三県主の祖は綏靖天皇以下六代の皇妃となったという伝承をもち、古くこれらの県主の祖が朝廷と密接な関係をもっていたことがうかがわれる。

磯城県主は延喜神名式に見える奈良県磯城郡三輪町金屋にあった城上郡志貴御県坐神社(しきのみあがたにますじんじゃ)の鎮座地付近を中心として、後の城上郡・城下郡(現在の磯城郡)に勢力を誇った古代の豪族。孝元紀の本文では磯城県主大目とあるのに対し、記には十市県主の祖大目とあり、磯城県主とは同族とも考えられている。

十市県主は延喜神名式に見える奈良県十市郡耳梨村十市の十市御県坐神社(とおちのみあがたにますじんじゃ)の鎮座地付近を中心に十市郡(現在の磯城郡西南部)に勢力をもっていた豪族で磯城県主より分れたものともいわれている。和州五郡神社神名帳大略注解所引の十市県主系図によると、孝安紀に見える十市県主五十坂彦(いさかひこ)の譜に、孝昭天皇の時代、春日県が十市県に改められたとあり、同注解に引く久安五年(1149)の多神宮注進状にも春日県は後に十市県に改められたとある。
したがって十市県系図では、十市県主の系を春日県主につなげ、綏靖紀の一書に見える春日県主大日諸(おおひろも)や糸織媛などの家系も記してある。

春日県主については綏靖紀に見えるだけであり、太田亮は孝霊紀に見える春日の千千速真若比売、開化紀に見える春日の建国勝戸売(たけくにかつとめ)の女沙本之大闇見戸売(さほのおおくらみとめ)を春日県主の一族ではないかと考え、沙本之大闇見戸売の子沙本毘古の謀反の際、春日県主はその外戚として滅亡したのではないかと臆測している。

普通、春日県主の本拠は大和国添上郡春日郷と考えられているが、春日県が磯城(志貴)・十市の県のように、後に大和の六の御県に加わっていないところから見ると、沙本毘古の謀反の際の滅亡は如何かと思うが、十市県主系図や多神宮注進状に記されているように春日県が十市県に改められたか、あるいは春日県主氏が磯城県主または十市県主氏に併呑されたかいずれかによって、春目県がかなり早く消滅したことは事実であったろう。
十市県主系図などの記載をそのまま信ずるわけにはいかないが、なんらかの古い伝承が系図に残されていると思われる。太田亮のように同系図を「後世の偽書、採るに足らず」「笑ふべし」と捨て去ってよいかどうか、なお慎重な検討を要しよう。たとえば、この系図の建𤭖槌命の譜に「大依長柄首、鰐児臣、和泉長公等遠祖」とあるが、大依長柄首は大倭長柄首の誤記に違いなく、姓氏録、大和神別の長柄首、和泉神別の長公が事代主命の後裔としているのは、この系図と符合し、また鰐児臣は大和神別の和仁古と関係があろう。和仁古は大国主命の裔とするが、系図の倭絙彦の譜に見える「中原連、山代石辺君等祖」の山代石辺君も、姓氏録の左京・山城神別の石辺公などが大国主命の裔とし、ともに磯城県主か三輪氏と関係あるかとされているのに通じるものがあり、古い伝承の存在が垣間見られる。

『古事記』は、大国主の神[八千矛(やちほこ)の神]が地方に行くことを、「幸行」(天子がでかけることをいう敬語)と記し、大国主の神の正妻の須勢理眦売(すせりひめ)[須佐之男の命(すさのうのみこと)の娘]のことを、「后(きさき)」と記している。天皇なみのあつかいがされている。 382-08
注:ここで、十市県主と磯城県主とは同族と考えられているが、右の十市県主の系図にあるように、十市県主の祖先は事代主であるとしている。磯城県主は饒速日が祖先としている。祖先が違う氏族が同族としているのは矛盾しているように見える。

しかし、下記のコラムを参照すると、これが両系相続パターンであるとするとその矛盾が解ける。つまり、はじめは九州方面から饒速日が天下って来て、大国主系(十市県主系)の女(むすめ)を娶ったことによる。磯城県主系が十市県主系が一体になったと考えられる。

古代においては、やたらに戦争はせず「やわす」ことが行われた。この「やわす」はその地域を平定するということで、婚姻関係で領土を広げて行った。

大国主系の地域であったのが、饒速日系の人が来て、婚姻関係で勢力を拡げていったと考えれば、うまく説明できる。

これらが、后妃や都やお墓のことからも説明できる。

------------------------------コラム-----------------------------------------

・コラム  両系相続パターン -女性中つぎによる支配権の継承、貴種への帰属パターン-
ある貴種の人が、出身地以外の土地にはいる。そして、その土地の豪族・主権者の娘と結婚する。そのあいたに生まれた男子が、その土地と人民の主権者になる。
このパターンを通じて、その土地の勢力は、貴種がわの勢力に、くみいれられていく。
古代においては、神話時代以来、このパターンが、じつにしばしばみえる。

たとえば、つぎのようなものである。
①『古事記』によるとき、九州出身らしい伊邪那岐の命(いざなぎのみこと)が、出雲出身らしい伊邪那美の命(いざなぎのみこと)と結婚する。[古代の女性は、しばしば出身地に墓がつくられる。伊邪那美の命は、出雲(いずも)の国と伯岐(ほうき)の国とのさかいの比婆の山にほうむられている。]
そして、伊邪那岐の命と伊邪那美の命とのあいだに生まれた須佐の男の命(すさのうのみこと)は、出雲方面の主権者となっている。

②大国主の神は、須佐の男の命の娘の須勢理毘売(すせりひめ)と結ばれる。そして、須佐の男の命の政治的支配権のシンボルである太刀(たち)と弓矢と琴とをうばって、二人でかけおちをする。このようにして、大国主の神は、出雲の国の主権者となる。

③滋賀県のばあい、開化天皇の皇子の日子坐の王(ひこいますのおおきみ)は、天の御影(あめのみかげ)の神の娘の息長(おきなが)の水依比売(みずよりひめ)と結婚する。そのあいだに生まれた水穂の真若の王(みずほのまわかのおおきみ)が、近つ淡海(ちかつおうみ)の安の国造の祖となっている。

なお、大正~昭和時代の女性史研究家の高群逸枝(たかむれいつえ)は、『母系制の研究』(理論社、1966年刊など)をあらわした。高群逸枝は、一対の夫婦のあいだに生まれた子どもは、父方親族の一員であるとともに、母方親族の一員である資格をもっていたとのべる。この考え方によれば、ある人物や氏族の「祖先」は、ある特定の男性に収斂(しゅうれん)するのではなく、父系と母系の複数の祖先に拡散していくことになる。高群逸枝は、多くの事例をあげて論じている。

たとえば、『新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)』の「山城国神別(やましろのくにしんべつ)」に、つぎのような記事がある。
「秦忌寸(はたのいみき)は、神饒速日の命(かむにぎはやひのみこと)の後裔である。」
秦忌寸は、伝承によれば、秦の始皇帝の子孫で、本来、渡来系の氏族である。その渡来系の氏族が、饒速日の命の子孫で、「神別」氏族(神々の子孫と称した氏族)とされているのは、一見矛盾である。
これは、たとえば、神饒速日の命の子孫の男性が、秦忌寸出身の女性と結ばれ、(当時は、一般に男性の通い婚であった)その子が、その女性のもとで育てられ、秦忌寸氏の土地、人民の支配権をうけついたような種類の、両系相続があったとすれば、説明がつく。
『新撰姓氏録』をみれば、このような事例は、かなりあげることができる。

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■大和の国のばあい         
大和や伊勢、そして播磨の国は、神武天皇の「第2次邪馬台国東遷」以前においては、「邪馬台国文化」よりも出雲系文化・大国主の命系文化の影響が、かなり強かった地域のようにみえる。
まず、大和の国のばあいをとりあげる。
(1)奈良県の桜井市三輪に、大神神社(おおみわじんじゃ)がある。この神社は、大物主(おおものぬし)の大神(おおかみ)を主神としてまつる。大物主の神は、大国主の神の和魂(にぎみたま)[柔和な徳をそなえた神霊]である。『古事記』『日本書紀』では、この神社が神武天皇以前に創建をみたように描かれている。そのため、「日本最古の神社の一つ」(『日本国語大辞典』[小学館刊]とされている。

(2)『日本書紀』の「崇神天皇紀」に、「倭(やまと)成(な)す大物主(おおものぬし)」(倭の国を造成された大物主の神)という表現がみえる。「倭(やまと)」(大和)すなわち奈良県の地は、大物主の神(大国主の神)がつくった国である、とされている。

(3)『古事記』によれば、第一代の神武天皇は、「美和(みわ)の大物主の神の女(むすめ)富登多多良伊須須岐比売(ほとたたらいすすきひめ)[またの名は、比売多多良伊須気余理比売(ひめたたらいすけよりひめ)]と結婚して、第二代の天皇、綏靖(すいぜい)天皇を生んでいる。

『日本書紀』では、神武天皇は、事代主の命(ことしろぬしのみこと)の娘の媛蹈鞴五十鈴媛の命(ひめたたらいすずひめのみこと)を皇后として、綏靖天皇を生んでいる。事代主の命は、大国主の神の子である。

いずれにしろ、神武天皇は、出雲系の神の娘と結婚している。
古代においては、ある貴種の人が、ある土地にはいり、その土地の主権者の娘と結婚し、そのあいだに生まれた子が、その土地の主権をうけつぐというパターンが、きわめてしばしばくりかえされている。
以後、このようなパターンを「両系相続パターン」(コラム参照)と呼ぶことにする。
結果的に、このような「両系相続」「女性中つぎによる支配権の継承、貴種への帰属パターン」を通じて、その貴種の系統が、勢力をひろげていくのである。ここから考えると、大和の国、奈良県の地域の主権者は、もともと、大国主の命関係の神であったようにみえる。

(4)『出雲国風土記』には、大国主の神のことを表現するのに、「天(あめ)の下(した)造(つく)らしし大神(おおかみ)」が十例、「天(あめ)の下(した)造(つく)らしし大神(おおかみ)の命(みこと)」が九例、「天(あめ)の下(した)造(つく)らしし大神(おおかみ)、大穴持の命(おおなもちのみこと)」が七例、「天(あめ)の下(した)造(つく)らしし大穴持の命(おおなもちのみこと)」が一例で、「天(あめ)の下(した)造(つく)らしし」という語をかぶせた表現が、合計二十七例みえる。いっぽう、『古事記』によれば、古代の諸天皇は、「天(あめ)下(した)治(しらしめ)しき」と記されている。
つまり、大国主の神がつくった天下を、諸天皇が治めたという形になる。
これはつぎのようなストーリーで理解できる。
「大国の主の神が造った天下を、国譲りの結果、高天の原勢力にゆずった。その結果、出雲へは天の穂日の命(あめのほひのみこと)が下り、畿内方面へは、饒速日の命が下った。のちに、神武天皇が東征し、奈良県の地に都した。
その結果、諸天皇が天下を治めることになった。」

(5)『出雲国造(いずものくにのみやつこ)の神賀詞(かむよごと)』[出雲の神から天皇への祝(いわ)いのことば]のなかに、つぎのような部分がある。
「大穴持の命(おおあなもちのみこと)が、倭(やまと)の大物主櫛𤭖玉の命(おおものぬしくしみかたまのみこと){みずからの和魂(にぎみたま)[柔和な神霊]}を大御和(おおみわ)の神奈備(かむなび)[大神神社(おおみわじんじや)]に、阿遅須伎高孫根の命(あじすきたかひこねのみこと)[大国主の神の子]を葛木鴨(かずらぎかも)の神奈備[高鴨(たかがも)神社]に、事代主の神(ことしろぬしのかみ)[大国主の神の子]を宇奈堤(うなて)[雲梯(うなで)神社]に、賀夜奈留美の命(かやなるみのみこと)[大国主の神の娘]を飛鳥(あすか)の神奈備[賀夜奈留美の命(かやなるみのみこと)神社]に坐(ま)せて、皇御孫(すめみま)[天皇]の近くの守り神にした。」

(6)天理市に大己貴(おおなむち)の神の荒魂(あらみたま)[荒い神霊]をまつる大和(おおやまと)神社がある。

(7)『古事記』の「崇神天皇記に、「意富多多泥古の命(おおたたねこのみこと)は、神君(みわのきみ)、鴨君(かもきみ)の祖(おや)」とある。

大和の国の葛上郡(かつじょうぐん)上鳧(かみかも)郷[奈良県御所市櫛羅(ごせしくじら)・小林・三室(みむろ)・竹田一帯の地]は、大国主の命の後裔氏族のいた場所であった。

御所市(ごせし)の宮前町掖上(わきがみ)には、鴨都波(かもつわ)神社があり、大国主の命の子の、八重事代主の命(やえことしろぬしのみこと)をまつる。

(8)御所市(ごせし)に、大穴持(おおあなもち)神社があり、吉野郡に大名持(おおなもち)神社がある。いずれも『延喜式』に名がみえる。

 

■十市御県坐(とおちのみあがたにます)神社 橿原市十市町
(『日本の神々4 大和』白水社刊)
御県とは、四~五世紀のころ、大和政権がその王領ないし服属地に対して設定した行政上の単位といわれ、とくに大和の六御県が有名で、十市御県はその一つに数えられる。後世、県からは甘菜・辛菜のほか、酒・水・氷・薪などを朝廷に貢納したが、十市県も、これらのうち特定のものを貢献した。また、記紀には畿内の県主家から皇妃などを出した伝承が多くみられるが、十市県主についても、『日本書紀』孝安紀に天皇が十市県主五十坂彦の女五十坂媛を后にしたことがみえ、『古事記』孝霊段にも、天皇が十市県主大目の女細比売(くわしひめ)命[『日本書紀』孝元紀は細媛命を磯城県主大目の女としている]を皇后としたことが記されている。

十市県主は当社の付近を中心に十市郡に勢力をもっていた豪族で、磯城県主より分かれたものといわれている。『和州五郡神社神名帳大略注解』に引用された十市県主系図のなかの、十市県主五十坂彦(孝安紀にみえる)の注に、孝昭天皇の時代、春日県が十市県に改められたとあり、同注解に引く久安五年(1149)の『多神宮注進状』にも、春日県は十市県に改められたとある。

 

■饒速日の命後裔氏族の畿内における繁栄
『新撰姓氏録』は、古代の氏族の系譜を集成した本である。平安前期の815年に成立した。
京・畿内に本籍をもつ1182氏を、その出自や家系によって、皇別・神別・諸蕃・未定雑姓に分類し、記述している(下の表参照)。
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このうち「皇別」は、天皇家から分かれて、臣籍に降下した氏族である。したがって、これは、大和朝廷成立以後にあらわれた氏族である。
また、「諸蕃」は、帰化した人々の子孫であると称した氏族である。
「神別」は、神々の子孫と称した氏族である。

「神別」のうち、「左京神別」「右京神別」などは、平安京ができてから、都に本籍を移した氏族がほとんどとみられる。
これらに対し、つぎの五つは、土着氏族の分布状況をあるていど伝えている可能性がある。

①大和国(やまとのくに)神別
②摂津国(せっつの国)神別
③河内国(かわちのくに)神別
④和泉国(いずみのくに)神別
⑤山城国(やましろのくに)神別
この五つの「神別」に属する257氏が、どの神の子孫の氏族と称しているのかを、国別に分類して示せば、下の表のようになる。
この表をみれば、つぎのようなことがわかる。

382-10

(1)饒速日の命の子孫系が、もっとも多い。饒速日の命は、『古事記』『日本書紀』の神話世界では、ストーリーの中心となっている神ではない。
『古事記』『日本書紀』の神話世界で中心になっているのは、天照大御神や、大国主の命である。 382-11
饒速日の命系氏族が、上の表のように、畿内諸国において、中心となっているようにみえるのは、饒速日の命の子孫系の諸氏族が早くから、畿内で地盤をもっていたからであろう。
饒速日の命が、歴史書のストーリー上、中心人物のようにとりあつかわれているのは、『先代旧事本紀』である。『先代旧事本紀』は、『新撰姓氏録』が成立してからしばらくのちの、830年ごろ成立したとみられる。

『新撰姓氏録』は、物部氏を、「神別」のなかの「天神(古代の神々の子孫と称した氏)」のなかにいれ、「神別」の「天孫(天照大御神の子孫とされる氏)」のなかにいれなかった。
そのため、『先代旧事本紀』の編者が憤慨し、抗議のために『先代旧事本紀』を編集したのだという説がある。たしかに、『先代旧事本紀』の編者は、人名の表記法その他において、『新撰姓氏録』に、ことさらに異をたてるような書き方をしている(これらについてくわしくは、このシリーズの拙著『古代物部氏と「先代旧事本紀」の謎』[勉誠出版、2003年刊]参照)。

しかし、『先代旧事本紀』の伝える内容は、『新撰姓氏録』の畿内諸国の「神別」の諸氏族についての記述内容に、呼応しているといえる。
たとえば、『新撰姓氏録』は、「二田物部(ふたたもののべ)。神饒速日の命(かみにぎはやひのみこと)、天降りましし時の従人(ともびと)、二田天物部(ふたたのあめのもののべ)の後(すえ)なり。」のような形で、神饒速日の命の天降り伝承をのせている。そして、その内容は、『新撰姓氏録』よりものちにできた『先代旧事本紀』のほうが、ストーリーとしては、より詳しい。
多くの子孫氏族が、平安時代の前期に、饒速日の命を祖先とする伝承をもっていた。饒速日の命にあたる人物は実在し、その東遷伝承は、かなり史実を伝えているのではないか。

(2)上の『新撰姓氏録』の「神別」氏族の分類(河内・摂津・和泉・山城・大和の諸国)の表の「天の火明の命(あめのほあかりのみこと)」については、『古事記』は、邇邇芸の命(ににぎのみこと)の兄であるとしている。『日本書紀』は、瓊瓊杵の尊(ににぎのみこと)の子であるとする伝承と、瓊瓊杵の尊の兄であるとする異伝との両方を伝えている。
上の表と下の系図を見ながら考えるならば、一度、南九州に天下った瓊瓊杵の尊の子が、饒速日の命といっしょに畿内に天下るのは、やや不自然である。

その意味では、瓊瓊杵の尊の兄弟とみたほうが無理がない。
『先代旧事本紀』は、饒速日の命と天の火明の命とを、同一神とみなす。同一神とみなすのが妥当であるか否かは検討を必要とするが、時代的には大略あうことになる。
『日本書紀』は、天の火明の命の子の天の香山が、尾張の連らの遠祖であることを伝えている。『新撰姓氏録』も、『先代旧事本紀』も、「火明の命(ほあかりのみこと)の男(こ)、天の賀吾山の命(あめのかごやまのみこと)」を、尾張の連の祖と記している(『先代旧事本紀』の表記は、「天の香語山の命」)。

尾張など、東へより遠く進出するためには、一度、南九州方面へ下ることなく、より早く、はじめから東の方へ下ったとみるほうがよいようにみえる。

(3)『新撰姓氏録』の、「山城国神別」に、「今木連(いまきのむらじ)は、神魂の命(かみむすびのみこと)の五世の孫、阿麻乃西乎の命(あまのせおのみこと)の末裔である。」という記事がみえる。
この「阿麻乃西乎の命(あまのせおのみこと)」は、『新撰姓氏録』の別のところでは、「天の背男の命(あめのせおのみこと)」とも表記されている。
そして、『先代旧事本紀』では、饒速日の命とともに天降った神のなかに、「天の背男の命 山背の久我の直(くがのあたい)たちの祖」がいる。
『新撰姓氏録』の「山城国神別」にみえる記述、『先代旧事本紀』の「山背(やましろ)の久我(くが)の直(あたい)」についての記述など、京都府の南部で活動した神魂の命(かみむすびのみこと)の子孫と称する氏族のいたことがわかる。 382-12
「天の背男の命」の名は、『古事記』にも、『日本書紀』にもみえない。しかし、『新撰姓氏録』と『先代旧事本紀』とを照らしあわせれば、諸氏族の近畿諸地域での活動状況はうかがえる。
587年に、物部氏の本宗家が滅ぼされたのち、240年ほどたったのちに、物部氏の祖先の饒速日の命に関する系譜を作為的に作って、それを、勅をうけて撰進された『新撰姓氏録』にのせても、天皇家の権威が高まるとも思えない。

なお、私は、歴史上の人物などの「実在性」「非実在性」などを考えるにあたって、歴史の流れや、文献上、考古学上の諸根拠からみて、「実在の可能性」と「非実在の可能性」のどちらが大きいかを比較(ばあいによっては計量)する立場である。
「実在の確実な証拠がなければ非実在とする」といった津田左右吉流の十九世紀的文献批判学の方法はとらない。津田左右吉流の議論は、歴史の把握において、くりかえし失敗してきた方法である。

■左京・右京の「神別」氏族
つぎに、『先代旧事本紀』の左京・右京の「神別」氏族147氏を分類してみる。
すると、下の表のようになる。

下の表の全体的傾向は、すでに示した『新撰姓氏録』の「神別」氏族の分類(河内・摂津・和泉・山城・大和の諸国)の表とあまり変わらないようにみえる。
やはり、もっとも多いのは、饒速日の命の後裔と称する氏族である。平安京においても、「皇別」氏族をのぞけば、饒速日の命系氏族が、もっとも闊歩(かっぽ)していたようにみえる。

物部氏の本宗家の物部守屋(もののべのもりや)が討滅されてから二百年以上たって成立した『新撰姓氏録』でさえ、平安時代初期ごろの饒速日の命系氏族の繁茂を記しているのである。

「八十物部(やそもののべ)」といわれるように、同系氏族・隷属民はすこぶる多い。饒速日の命についての伝承は、諸氏族にとって、消しがたい記憶であったとみられる。

『新撰姓氏録』の「神別」氏族の分類(河内・摂津・和泉・山城・大和の諸国)表と『新撰姓氏録』の「神別」氏族の分類(左京神別・右京神別)表とをあわせると、下の『新撰姓氏録』の「神別」氏族の分類(総計)の表のようになる。また、それをグラフに描けば、更に下にある近畿諸氏族の祖先神と後裔氏族数のグラフになる。
382-13

382-14

『先代旧事本紀』は、饒速日の命を、天の火明の命と、同一神とするので、図においては、饒速日の命系と天の火明の命系とを重ねて描いた。

畿内の地域、都に居る氏族で一番多いのが饒速日系の氏族である。この饒速日系の氏族とは物部氏である。586年に物部氏は蘇我氏と対立して滅ぼされた。

しかし、平安時代でも饒速日系の氏族が一番多い。これは津田左右吉流の記紀は机上でつくったものとは言えないようだ。

以上をまとめてみる。「北九州勢力が邪馬台国であったとすると、そこから繰り返し、植民地政策によって。あちこちに皇族の一族が派遣された。畿内方面ははじめ饒速日の命が下って行き、その後神武天皇が下っていった。そこはもともと大国主の命系統の国であった。そこに入っていって、完全に武力で制圧したのではなく、結婚という手段を通じて、大和朝廷勢力に組み入れて行った。」と考えるいろいろなことがうまく説明できるのではないか。

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