TOP>活動記録>講演会>第387回 一覧 次回 前回 戻る  


Rev3 2021.7.1

第387回 邪馬台国の会
饒速日(にぎはやひ)の命の東遷と邪馬台国の東遷


 

1.邪馬台国は遠賀川流域から東遷した

-饒速日(にぎはやひ)の命伝承をさぐる-
■饒速日の命の東遷と関連文献
考古学者の森浩一は、その著『敗者の古代史』(中経出版、2013年刊)のなかでのべる。
「饒速日命(にぎはやひのみこと)と長髄彦(ながすねひこ)は、記紀の「神武東遷」の説話に河内平野や奈良県盆地の先住の支配者として登場する。神武軍に対して防戦の末、饒速日が舅(しゅうと)の長髄彦を殺して帰順するのが『日本書紀(にほんしょき)』の筋書きだが、金鵄(きんし)が神武軍に加勢するような戦いの記述は鵜呑(うの)みにしがたい。饒速日は物部(もののべ)氏の祖とされる。『先代旧事本紀(せんだいくじほんき)』の記事やゆかりの古社の存在からみて、饒速日こそ北部九州から東遷を実行した人物であり、その伝承を取り込んで神武東遷の逸話が成立したことがうかがえる。」

また、谷川健一(たにがわけんいち)氏は、その著『隠された物部王国「日本(ひのもと)」』(情報センター出版局、2008年刊)のなかでのべる。
「『日本書紀』によりますと、神武が東征した先には、『饒速日(にぎはやひ)』と『長髄彦(ながすねひこ)』に率いられた強力な連合軍が待ち受けていました。彼らは河内・大和の先住豪族でした。」
「私は、東遷と降臨は大いに関係があると考えています。それが『日本書紀』や『旧事本紀』の神武東征説話のなかに反映されている。すなわち、神武帝の東征に先立ってニギハヤヒが『天磐船(あまのいわふね)』に乗って国の中央に降臨したことを認めている。このニギハヤヒの東遷は、物部氏の東遷という史実を指しているものと私は受け取っております。物部氏の出身は、現在の福岡県直方市(のおがたし)、もしくは鞍手郡(くらてぐん)あたりのようです。
物部氏の(九州での)勢力の基盤と『邪馬台国』の領域とがほぼ重なりあっていることが、確認されるのです。」 

[谷川健一氏について人名辞典などから、(1921-2013)昭和後期-平成時代の民俗学者、評論家。大正lO年7月28日生まれ。谷川雁の兄。平凡社で雑誌「太陽」の初代編集長をつとめたのち退職。柳田国男、折口信夫らの影響をうけ、日本人の意識の古層の解明にとりくむ。昭和56年日本地名研究所初代所長、63年近畿大教授。平成4年「南島文学発生論」で芸術選奨。熊本県出身。東大卒。谷川健一全集 全24巻(冨山房インターナショナル)、『日本の神々』全13巻(白水社刊)]

古代史家の鳥越憲三郎氏(1914~2007、大阪教育大学教授など)も、その著『弥生の王国』(中公新書、中央公論社、1994年刊)のなかでのべる。
「物部一族はもと(福岡県の)鞍手郡を中心とした地域に居住し、そこから主力が河内・大和へ向けて移動したことが確かである。」

精緻な文献考証によって知られた東大の故坂本太郎教授(1901~1987、日本史学者、東京帝大教授、東大資料編纂所長)は、『古事記』『日本書紀』の「帝紀」は古来の伝承を筆録したものとする。
坂本太郎教授は、その根拠を明確に示したうえでのべている。
「古代の歴代の天皇の都の所在地は、後世の人が、頭の中で考えて定めたとしては、不自然である。古伝を伝えたものとみられる。第五代(の天皇)から見える外戚としての豪族が、尾張連(おわりのむらじ)穂積臣(ほづみのおみ)[注:いづれも饒速日の命の子孫]など、天武朝以後、とくに有力になった氏でもないことは、それらが後世的な作為によるものではないことを証する。天皇の姪とか庶母(ままはは)とかの近親を(天皇の)妃と記して平気なのは、近親との婚姻を不倫とする中国の習俗に無関心であることを示す。これも古伝に忠実であることを証する。帝紀の所伝が、古伝であることは動かない。」
「疑いは学問を進歩させるきっかけにはなるが、いつまでもそれにとりつかれているのは、救いがたい迷いだということも忘れてはなるまい。」(『季刊邪馬台国』26号、1985年)


■神武天皇は、実在したとすれば、いつごろの人か 387-01

400年ごとに天皇と中国の王の在位年数をまとめると右表のようになる。

400年ごとにまとめると統計のデータが安定するから、一定の傾向が見つけやすくなる。
古代に遡るほど天皇の在位年数は短くなる。

 

 

この傾向は中国の王についても言える。

384-02

 

邪馬台国と同じころの魏や晋の時代の各王について調べて見る。387-03

魏の時代について言えば、曹操は皇帝にならなかったが、息子の曹丕から5代の年代を見ると右表である。

 

 

 

晋の皇帝については、西晋と東晋を合わせて20代、200年である。
それを表にすると右下の表のようになる。387-04

 

478年に倭王武が宋に上表を送った。
倭王武が第21代雄略天皇と考えられる

20代200年で遡れば、第1代神武天皇は278年となる。
このことから、大和朝廷の成立は邪馬台国の卑弥呼の存在より後の時代となることになる。

その結果、邪馬台国東遷説が考えられるのである。
邪馬台国東遷説は東大の和辻哲郎氏が述べたが、年代からも証明できる。

 

 

 

 

そのような王1代10年説は統計から、世界の王でもいえる。
下記グラフ参照

387-05

また、これは奈良時代でもいえる。
(a)「奈良七代七十年」奈良時代は第四十三代元明天皇から、第四十九代の光仁天皇までの七代、すなわち、元明・元正・聖武・孝謙・淳仁・称徳・光仁の七代で、74年(710~784)。この間、一代平均10.57年。桓武天皇は、はじめ784年に長岡京[京都府向日市(むこうし)のあたりが中心]に都をうつしている。

(b)「君、十帝を経(へ)て、年(とし)ほとほと(ほとんど)百」 この文は、奈良時代史の基本文献である『続日本紀(しょくにほんぎ)』の、淳仁天皇の天平宝字二年(758)八月二十五日の条に記されている。これは、第三十六代の孝徳天皇から、第四十六代の孝謙天皇までが、十代で、104年ほどであることをのべているのである。
すなわち、天皇一代の平均在位年数が、およそ10年ていどであることは、奈良時代の人たちが大略認識していたことであった。

■天皇の代と没年または退位年
天皇一代十年説から歴代の天皇の没年または退位年をプロットすると下記のグラフとなる。
387-06

天皇の没年についてのくわしいデータは、『倭王卑弥呼と天照大御神伝承』(2003年刊、勉誠出版 安本美典著)参照 

■白鳥庫吉の高天(たかま)の原は邪馬台国の反映
白鳥庫吉(1865~1942、東洋史学者、東京帝大教授)は、すでに『古事記』『日本書紀』の神話を伝える天照大神は、『魏志倭人伝』の記す卑弥呼の反映なのではないか、天照大御神がいたと伝えられる高天(たかま)の原は、邪馬台国の反映なのではないかとする考えを示している。

原文は、文語体であるが、口語体になおして、白鳥庫吉ののべているところを紹介する。
「すべて、神話伝説は、国民の理想をのべたものであって、当時の社会の精神風俗などは、ことごとくそのなかに包含されるものである。したがって、皇祖発祥の地である九州において、上古、卑弥呼をはじめとして、女子で君長であったものが多数いたとすれば、天照大御神が女王として天上に照覧するのも、また、なんの怪しむべきことがあろうか。」

「つらつら神典(『古事記』『日本書紀』)の文を考えると、天照大御神は、素戔嗚(すさのお)の尊(みこと)の乱暴な振るまいを怒って、天の岩戸に隠れた。このとき、天地は、暗黒となって、万神の声は狭蝿(さばえ)のごとく鳴りさやぎ、万妖がことごとく発した。ここにおいて、八百万(やおよろず)の神たちは、天の安の河原に神集(かんつど)って、大御神を岩戸から引きだし、ついで素戔嗚(すさのお)の尊(みこと)を逐(お)いやったので、天地はふたたび明るくなった。ひるがって『魏志』の文を考えると、倭女王卑弥呼は狗奴国男王の無体を怒って、長くこれと争ったが、その暴力に堪えず、ついに戦中に死んだ。ここにおいて、国中大乱となり、一時男子を立てて王としたが、国中これに服せず、たがいに争闘して数千人を殺した。しかるに、その後、女王の宗女壱(台)与を奉戴するにおよんで。国中の混乱は一時に治った。これは地上に起きた歴史上の事実で、かれは、天上に起きた神典上の事跡である。けれども、その状態の酷似すること、何人もこれを否認することはできないであろう。もしも神話が太古の事実を伝えたものとすれば、神典の中に記された天の安の河の物語は、卑弥呼時代におけるような社会状態の反映とみることができようか。」

■和辻哲郎の「邪馬台国東遷説」387-09
初版の『日本古代文化』は、和辻哲郎(1889~1960、哲学者、東京帝大教授)が、弱冠二十六歳のときの著作である。和辻哲郎の「邪馬台国東遷説」は、初版において、もっともくわしい。
和辻哲郎は、そのなかで『古事記』『日本書紀』の伝えの天照大御神の事績は、『魏志倭人伝』の記す卑弥呼の事績と一致するとし、『古事記』『日本書紀』の神話の伝える高天の原時代は、『魏志倭人伝』の伝える邪馬台国の記憶ではないかとする。それは、白鳥庫吉の論旨にほぼ近い。
「君主の性質については、記紀の伝説は、完全に『魏志』の記述と一致する。たとえば、天照大御神は、高天の原において、みずから神に祈った。天上の君主が、神を祈る地位にあって、万神を統治するありさまは、あたかも、地上の倭女王が、神につかえる地位にあって人民を統治するありさまのごとくである。また天照大御神の岩戸隠れのさいには天地暗黒となり、万神の声さばえのごとく鳴りさやいだ。倭女王が没した後にも国内は大乱となった。天照大御神が岩戸より出ると、天下はもとの平和に帰った。
倭王壱(台)与の出現も、また国内の大乱をしずめた。天の安河原においては八百万神が集合して、大御神の出現のために努力し、大御神を怒らせたスサノオの放逐に力をつくした。倭女王もまた武力をもって衆を服したのではなく、神秘の力を有するゆえに衆におされて王とせられた。この一致は、暗示の多いものである。」

「我々は国民の大きい統一が三世紀以後の機運であることを知っている。また、女王卑弥呼が、倭人の間においても、新しい現象として起ったという形跡を、『魏志』の記述から発見する。明らかに国家統一後の所産である神代史が、右のごとき一致を示すとすれば、たとえ伝説化せられていたにもしろ、邪馬台国時代の記憶が、全然国民の心から、消失していたとは思えない。」
「さらにまた、神代史の諸伝説が、筑紫を背景とするという見解も、ここには暗示深いものとして役立つであろう。潮満瓊(しおみつたま)潮涸瓊(しおひるたま)の伝説が九州西海岸の潮の干満と関係し、天照大御神の天の安河原の諸伝説が、(白鳥庫吉ののべるように)『卑弥呼時代におけるが如き社会状態』を反映するとすれば、これらの諸伝説の原形がいかなるものであったにしろ、筑紫の生活のほのかなる記憶が、統治者の階級に残っていたとみることは許されねばならぬ。」

■島谷良吉(しまやりょうきち)の『魏志倭人伝』と記紀の神代の時代との共通性指摘
1956年に『魏志倭人伝』の現代語訳を出した島谷良吉(1899~1980、高千穂商科大学教授などであった)は、その『国訳魏志倭人伝』の「前がき」の中でのべている。
「陳寿編纂『魏志巻三十』所載の東夷の一たる『倭人』の記述を見ると、まったく記紀神代の巻の謎を解くかのように思える。」

・記紀の神話から神武天皇、綏靖天皇まで系図は下記

387-07


・『魏志倭人伝』と記紀の記述
『魏志倭人伝』
「台与(とよ)」(卑弥呼の宗女[一族の娘])
『古事記』『日本書紀』
「万幡豊秋津師比売(よろづはたとよあきづひめ)」
「豊吾田津姫(とよあたつひめ)」
「豊玉姫(とよたまひめ)」「豊御毛沼の命(とよけぬまのみこと)」

『魏志倭人伝』
「弥弥(みみ)」(官名)
『古事記』『日本書紀』
「忍穂耳の尊(おしほみみのみこと)」
「八箇耳(やつみみ)」「溝橛耳の神(みぞくひみみのかみ)」
「手研耳の命(たぎしみみのみこと)」「神八井耳の命(かむやゐみみのみこと)」
「神渟名川耳の尊(かむぬなかはみみのみこと)」

『魏志倭人伝』
「爾支(にき)」(官名)
『古事記』『日本書紀』
「天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸の命(あめにきしくににきしあまつひこひこほのににぎのみこと)[『古事記』]
「天津彦彦火の瓊瓊杵の尊(あまつひこひこほのににぎのみこと)」[『日本書紀』]
「櫛玉饒速日の命(くしたまにぎはやひのみこと)」
387-08
『魏志倭人伝』
「多模(たま)」(官名)
注:「多模」は中国語上古音では「tar-mag」
『古事記』『日本書紀』
「豊玉彦(とよたまびこ)」「豊玉姫(とよたまびめ)」
これらは尊称あるいは原始的な姓(かばね)か。

・『古事記』の「とよ」「みみ」「にき」「たま」の記述
「とよ」「みみ」「にき」「たま」は『古事記』の上巻に多い。古い時代の方が多く使っている。邪馬台国時代を引き継いでいるのではないか。(右上の表参照)

 

■鳥越憲三郎の考察
鐃速日の命は、北九州から天降ったとみられる。
このことについては、大阪教育大学の名誉教授の日本史家・鳥越憲三郎(とりごえけんざぶろう)氏が、『弥生の王国』(中公新書、1994年刊)、『女王卑弥呼の国』(中公叢書、2002年刊)などのなかで、すでに、くわしく考察し、つぎのようにのべている。
「物部氏の降臨伝承には、重要なことが秘められている。それは降臨に供奉した多くの氏族のことである。後に船長など船を操る六氏族を紹介するが、実はその記事の前に左のごとく三十四氏族の名が列記されている。それら各氏族名の下に彼らの住地を付記しておくが、計らずも九州との関係が濃く認められるのである。

・五部人(いつのともびと)を副(そ)え従(とも)として天降り供奉(ぐぶ)す。
物部造(もののべのみやつこ)らの祖、天津麻良(あまつまら)
笠縫部(かさぬいべ)らの祖、天勇蘇(曾)[(摂津)東生(ひがしなり)郡笠縫・(大和)城下(しきのしも)郡笠縫・(大和)十市部郡飯富郷笠縫村]
為奈部(いなべ)らの祖、天津赤占(あかうら)[(摂津)河辺(かわべ)郡為奈郷・(伊勢)員弁(いなべ)郡]
十市部首(とおちべのおびと)らの祖、富富侶(ほほろ)[(筑前)鞍手郡十市郷・(筑後)三宅郡十市郷・(大和)十市郡
筑後弦田(つるた)物部らの祖、天津赤星[筑前)鞍手郡鶴田郷・(大和)平群郡鶴田

・五部造は伴領として、天物部を率いて天降り供奉す。
二田(ふただ)造[(筑前)鞍手郡二田郷・(和泉)和泉郡上泉郷二田
勇蘇(曾)造
大庭(おおば)造[(筑前)上座郡把伎郷大庭村・(和泉)大島郡大庭]
坂戸(さかと)造[(大和)平群郡坂門郷・(河内)古市郡尺度郷]
舎人(とねり)造

・天物部ら二十五人、同じく兵杖を帯びて天降り供奉す。
二田物部[(筑前)鞍手郡二田郷・(筑後)竹野郡二田郷・(和泉)和泉郡上泉郷二田
疋田(ひきた)物部[(筑前)鞍手郡疋田・(讃岐)大内郡引田郷・(大和)城山郡曳田
当麻(たいま)物部[(肥後)益城郡当麻郷・(大和)葛下郡当麻郷]
酒人(さかと)物部[(摂津)東生郡酒人郷]
芹田(せりた)物部[(筑前)鞍手郡生見郷芹田村・(大和)城上・城下・平群各郡芹田
田尻物部[(筑前)上座郡田尻村・(大和)葛下郡田尻村・(和泉)和泉郡田尻]
馬見(うまみ)物部[(筑前)嘉麻郡馬見郷・(大和)葛下郡馬見
赤間物部[(筑前)宗像郡赤間]
横田物部[(筑前)嘉麻郡横田村・(大和)添上郡横田村]
久米物部[(伊予)久米郡、喜田郡久米郷・(摂津)住吉郡榎津郷来目村]
狭竹(さたけ)物部[(筑前)鞍手郡粥田(かつた)郷小竹・(大和)城下郡狹竹村]
布都留(ふつる)物部
大豆(まめ)物部[(筑前)穂波郡大豆村・(大和)広瀬郡大豆村]
住道(すんじ)物部[(摂津)住吉郡住道郷]
肩野物部[(河内)交野郡]
讃岐三野物部[(讃岐)三野郡・(河内)若江郡三野]387-10
羽束(はつかし)物部[(山城)乙訓郡羽束郷・(摂津)有馬郡羽束郷]
相槻(なみつき)物部[(大和)十市郡両槻村]
尋津(ひろきつ)物部[(大和)城上郡尋津・(河内)丹比郡広来津村]
筑紫聞(きく)物部[(豊前)企救郡]
嶋戸物部[(筑前)遠賀郡島戸]
播磨物部[(播磨)明石郡]
浮田物部[(大和)葛下郡浮田村]
筑紫贄田(にえた)物部[(筑前)鞍手郡新分郷]
菴宜(あんぎ)物部[(伊勢)奄芸郡奄芸郷]

なお、上に注記した郡・郷は『和名抄』の地名で示したが、そのほか文献などで補った。」

・神武天皇の宮殿の場所と物部一族の分布
「遠賀川流域の物部一族の分布」は、鳥越憲三郎著『大いなる邪馬台国』[講談社、1975年刊]による。岡田宮・岡水門・岡県は、吉田東伍著『大日本読史地図』[冨山房、1992年刊]による。(右上図参照)

 

・饒速日の尊とともに天降った氏族の比較
(下図はクリックすると大きくなります)
387-11

 

■饒速日の命(にぎはやひのみこと)の降臨
金子武雄(国文学者、東大教授)は、その著『古事記神話の構成』(桜楓社刊)の中で、『古事記』の内容をくわしく分析した上で述べる。
「やや比喩的に言えば、高天原(たかまのはら)はほかならぬ筑紫の上にあったのである。こうして、いわゆる高天原系神話も、いわゆる筑紫系神話と同じく筑紫の地に成育したものと思われる。」
第三回目の使者、建御雷(たけみかずち)の神をつかわしたときの状況を、『古事記』は、つぎのように記す。
「建御雷(たけみかずち)の神と天(あめ)の鳥船(とりふね)の神の二はしらの神は、出雲(いずも)の国の伊那佐(いなさ)の小浜(おはま)にくだり到着して、十掬(とつか)の剣を抜いて、さかさまに浪(なみ)のさきに剌(さ)したて、その剣のまえに足をくんですわって、大国主の神にたずねてのべた……。[此(こ)の二(ふた)はしらの神、出雲の国の伊那の小浜に降り到りて、十掬剣(とつかのつるぎ)を抜きて、逆(さかしま)に浪の穂に刺し立て、その剣(つるぎ)の前(さき)に趺(あぐ)み坐(ま)して、その大国主神(おおくにぬしのかみ)に問(と)ひて言(の)りたまひしく……。]」
『古事記』のほかの個所に、「天(あめ)の鳥船(とりふね)の神」は、別の名を、「鳥の石楠船(いわくすぶべ)の神(鳥のようにはやい楠製の丈夫な船の神)」ともいうと記されている。したがって、この記事は、建御雷の神が、海路を船によって、高天の原から出雲の海岸へ下ったことをしめしている。
ここから、「高天の原」は、出雲の国へ、陸路によって使または兵を派遣するよりも、海路によって使または兵を派遣したほうがよい場所ということになる。
「高天の原」は、畿内大和をモデルにしているという説がある。しかし、大和から出雲へ船で行くはずがない。「高天の原」は、北九州方面と考えたほうが自然である。

皇學館大學長だった田中卓(たかし)氏[1923~2018][著書・『住吉大社神代記』『出雲国風土記の研究』・『神宮の創祀と発展』『愛国心の目覚め』『住吉大社史』(上巻)『概説日本史』『祖国を見直そう』『祖国は呼びかける』『日本古典の研究』『日本国家成立の研究』『海に書かれた邪馬台国』『古代天皇の秘密』『皇国史観の対決』ほか]は田中卓著作集1『神話と史学』(国書刊行会、1987年刊)で次のように述べている。
「題して”第一次天孫降臨”といふを見れば、読者、恐らくは奇異の感を抱かれるであらう。すなわち、先づ、”天孫降臨”などといふ神話は、今日の学界および一般において黙殺せられてゐる筈であるのに、それを史学の立場より、問題にしようとすることの非常識さである。次に、”天孫降臨”は造作せられた神話として、一応、之を認めるにしても、”第一次”といふのは、少くとも”第二次”を予想しての表現であるのに対し、日本紀・古事記では、天孫降臨はニニギの尊の一回限りであるから、”第一次”の語の不穏当と思へる点である。
しかし、私は、これまで幾つかの論文で述べてきたやうに、日本の神話の主流を、むしろ史実を投映した”史的神話”とみるのであって、”天孫降臨”も、単に神話学で取り扱ふやうな”神々の天降り”といふものでなく、一つの”史実”を背景とした神話化であらうと推定してゐる。従って、”天孫降臨”といふ形で物語られてゐる。”神話”の中より、”史実”としての”何物か”を復原せしめることが、今後に残された古代史解明の重要な鍵であらうと考へるのであって、小論もその一つの試みに他ならない。また”第一次”といふのは、紀・記に見えるニニギの尊の天孫降臨を”第二次”と考へ、それ以前といふ意味であって、実は、他ならぬニギハヤヒの命の天孫降臨を指してゐる。
ニギハヤヒの命が高天原の天神系であり、しかも神武天皇の御東征以前に畿内の河内・大和に降臨されてゐたことは、日本紀の明記するところである。そして、ニギハヤヒの命による畿内支配が、大己貴神系氏族を帰伏せしめることによって成功し、その結果、第一次の畿内勢力が成立するが、これが高天原(北九州と推定)勢力より離脱する傾向があったため〔新注〕、神武天皇による第二次の御東征が行はれたらしいこと、またヒルコ[蛯児、実は日子(ひるこ)]を船に乗せて流したといふ紀・記の所伝は、ニギハヤヒの命の第一次東征の神話化と推定しうること等については、別に拙論「神武天皇の御東征と大倭国造」(『瀧川博士還暦記念論文集』に所収。本著作集第二巻にも所収。)において詳しく述べたところである。これらの推考の上に立って、ニギハヤヒの命の東征を、更に、”第二次の天孫降臨″(ニニギの尊)に対する”第一次の天孫降臨”として把握し、その視点より、史実と神話との関連を更に追求しようとするのが、小論の目的である。

〔新注〕旧稿で高天原勢力よりの”離脱”といふ表現をしたのは、ヤマト朝廷の立場から、紀・記の所伝に従ったのであるが、実情は、離脱といふより、北九州から畿内への度重なる東進が、諸氏族によって自発的に繰返されたのであり、それらが統一的な計画でなされたものではあるまい。本著作集第二巻所収「日本国家の成立」、第三巻所収「邪馬台国新論」を参照されたい。尚、近年、谷川健一氏は、「物部氏族と邪馬台国の東遷」(『東アジアの古代文化』40号、昭和59年7月刊)の中で、「日本書紀に記された神武帝の東遷とそれに先行するニギハヤヒの東遷」を歴史的事実の反映とみとめる見解を発表されてゐる。

谷川健一氏は「物部氏族と邪馬台国の東遷」(『東アジアの古代文化』40号1984年)で次のように述べている。
「私は日本書紀に記された神武帝の東遷とそれに先行するニギハヤヒの東遷という日本国内の大移動の伝承を物部氏と邪馬台国の東遷という歴史的事実の反映とみとめそれを朝鮮半島における中国の支配が緩んだ時期にあわせようとするものである。このような仮説がこれまで提唱されたという例を私は知らない。

田中卓著作集1『神話と史実』(図書刊行会 1987年刊)(『丹後国風土記』などを参照して)で田中卓氏は次のように述べていいる。
「天火明命をニギハヤヒの命の異名とする天孫本紀の説は、これを積極的に疑ふべき理由に乏しく、しかも逆に、消極的には之を支持するに足る論拠の存することが明らかにせられたであらう。」

『古事記』では天火明の命(あめのおほあかりのみこと)と邇邇芸の命(ににぎのみこと)は兄弟であるとしている。(下記系図参照)
そして、先代旧事本紀は天火明の命と饒速日の命(にぎはやひのみこと)[櫛玉饒速日の尊]は同一人物であるとしている。
このことは邇邇芸の命と饒速日の命が兄弟でとして、その名前の音に共通性がある。

387-12


『古事記』『日本書紀』で、系譜上、兄弟とされている天皇の和風謚号には、しばしば、類似性のあることに気づく。たとえば、つぎのとおりである。

第二三代 顕宗天皇 ヲ
第二四代 仁賢天皇 オ

第二七代 安閑天皇 ヒロクニオシタケカナヒ
第二八代 宣化天皇 タケオヒロクニオシタテ
第二九代 欽明天皇 アメクニオシハルキヒロニワ

第三五代 皇極天皇 アメトヨタカライカシタラシヒメ
第三六代 孝徳天皇 アメヨロズトヨヒ

第三八代 天智天皇 アメミコトヒラカスワケ
第四〇代 天武天皇 アマノヌナハラオキノマヒト

第四一代 持統天皇 オオヤマトネコアメノヒロノヒメ
第四三代 元明天皇 ヤマトネコアマツミシロトヨクニナリヒメ

第四二代 文武天皇 ヤマトネコトヨオオジ
第四四代 元正天皇 ヤマトネコタカミズキョタラシヒメ

他に、
沙本毘古 サホビコ
沙本毘売 サホビメ

大俣の王 おおまたのみこ
小俣の王 おまたのみこ

倭迹迹日百襲姫 やまとととひももそひめ
倭迹迹稚屋姫  やまとととわかやひめ
など
387-13

このことから、邪馬台国が北九州にあり、卑弥呼にあたる天照大御神の子供の子供である饒速日の命と邇邇芸の命は兄弟であった。饒速日の命は長男で、邇邇芸の命は弟であるが、邇邇芸の命は傍流で本家筋ではなかった。本家筋の饒速日の命が大和に天降っていたが、傍系であった邇邇芸の命が九州に天降ってその子孫の神武天皇が大和に攻め上り支配者となった。そのことを正当化するために、本家筋の饒速日の命の子孫から傍系の邇邇芸の命の子孫が主流となるように表現する必要があった。
そしてそのように『日本書紀』がまとめられたのではないか。

古代において、氏族がどのような神様の子孫であったを書いたもが『新撰姓氏録』である。
『新撰姓氏録』の「神別」を表にすると右表となる。

この中で、饒速日の命が多い、天火明命も加えれば、圧倒的に多くなる。

饒速日の命の子孫の物部守屋が蘇我馬子と争い負けて、587年に滅んだ。ところが、それから200年以上後の時代につくられた『新撰姓氏録』でも物部氏の祖先である饒速日の命を祖先としている氏族が多い。それに比べれば藤原氏の祖先の天の児屋の命の子孫は少ない。


更に、古代の大臣、大連の下の表がある。
これを見ても、饒速日の命の子孫の物部氏が多い。

387-14

 

歴代天皇の后妃の出自を見ても、9代までの古い天皇の后妃は饒速日の命系が多い。
(下図はクリックすると大きくなります)387-15

 

まとめると右下の表となる。387-16

なぜこのようになるかというと、両家相続パターン[女性中継(なかつ)ぎによる支配権の継承、貴種への帰属パターン]が考えられる。

身分の高い、ある貴種の人(皇子など)が、出身地以外の土地にはいる。そして、その土地の豪族・主権者の娘と結婚する。そのあいだに生まれた男子が、やがて、その土地と人民の主権者になる。
このパターンを通じて、その土地の勢力は、貴種がわの勢力に、くみいれられていく。 貴種の一族は、支配権のおよぶ範囲をひろげていく。古代においては、神話時代以来、このパターンが、じつにしばしばみえる。
たとえば、次のようなものである。
(1)『古事記』によるとき、九州出身らしい伊邪那岐(いざなぎ)の命(みこと)が、出雲出身らしい伊邪那美(いざなぎ)の命(みこと)と結婚する。[古代の女性は、しばしば出身地に墓がつくられる。伊邪那美の命は、出雲(いずも)の国と伯岐(ほうき)の国とのさかいの比婆の山にほうむられている。]
そして、伊邪那岐の命と伊邪那美の命とのあいだに生まれた須佐の男の命は、出雲方面の主権者となっている。
(2)大国主の神は、須佐の男の命の娘の須勢理毘売(すせりびめ)と結ばれる。そして、須佐の男の命の政治的支配権のシンボルである太刀(たち)と弓矢と琴とをうばって二人でかけおちをする。このようにして、大国主の神は、出雲の国の主権者となる。
大国主の神は、多くの地の女性と結ばれることによって、支配権をひろげていったとみられる節(ふし)がある。
(3)天皇家も、しばしばこの方法をとって支配権をひろげていった。
第9代開化天皇の皇子の日子坐(ひこいます)の王(おおきみ)は、天の御影(みかげ)の神の娘の息長(おきなが)の水依比売(みずよりひめ)と結婚する。そのあいだに生まれた水穂(みずほ)の真若(まわか)の王(おおきみ)が、近(ちか)つ淡海(おうみ)の安の国造の祖となっている。
なお、大正~昭和時代の女性史研究家の高群逸枝(たかむれいつえ)は、『母系制の研究』(全集第1巻、理論社、1966年刊など)をあらわした。高群逸枝は、一対の夫婦のあいだに生まれた子どもは、父方親族の一員であるとともに、母方親族の一員である資格をもっていたとのべる。この考え方によれば、ある人物や氏族の「祖先」は、ある特定の男性に収斂するのではなく、父系と母系の複数の祖先に拡散していくことになる。高群逸枝は、多くの事例をあげて論じている。

たとえば、『新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)』の「山城国神別(やましろのくにしんべつ)」に、次のような記事がある。
「秦忌寸(はたのいみき)は、神饒速日(かむにぎはやひ)の命(みこと)の後裔である。」
秦忌寸は、秦の始皇帝の子孫で、本来、渡来系の氏族とされている。その渡来系の氏族が、饒速日の命の子孫で、「神別」氏族(神々の子孫と称した氏族)とされているのは、一見矛盾である。
これは、父系相続のみを考えるから、奇異な印象を与えるのである。
たとえば、神饒速日の命の子孫の男性が、秦忌寸出身の女性と結ばれ、(当時は、一般に男性の通い婚であった)その子が、その女性のもとで育てられ、秦忌寸氏の土地、人民の支配権をうけついだような種類の、両系相続があったとすれば、説明がつく。饒速日の命の子孫でありながら、渡来系の氏族の長であるということがおきるのである。
『新撰姓氏録』をみれば、このような事例は、かなりあげることができる。
ふつう私たちは、ある祖先からはじまって、子孫の数がふえて行く図式を考える。
しかし、父系、母系の両方を考える両系相続では、むしろ、さかのぼるにつれて、先祖の数がふえて行く図式が考えられる。

小説家の陳舜臣の『中国の歴史』(平凡社刊)に、次のような文章がある。
「春秋時代もけっこう戦争は多かったのですが、完全亡国はあんがいすくなかったようです。完全に国をほろぼすと、祭祀をうけない祖神が祟(たた)るとおそれられました。だから、周は殷(いん)をほろぼしても、殷の後裔(こうえい)を宋(そう)に封じて、祭祀をつづけさせたのです。春秋時代、虢(かく)という国が晋にほろぼされましたが、これも完全亡国ではなく、小虢と呼ばれる小国が存在を許されています。」
『古事記』『日本書紀』によれば、崇神天皇の時代に、流行病がはやり、大国主の神の子孫の意富多多泥古(おおたたねこ)をさがしだして祖神を祭らせたという話がみえる。
これは、周が殷をほろぼしても、殷王朝の子孫に、祖神を祭らせたのと同じような考え方によるのであろう。
かつての大和の国の地もふくめた土地の支配者、大国主の神のたたりをおそれたものであろう。

大阪は古代に河内湖があった。その近くに日下(くさか)があり、神武天皇が上陸した。そしてその近くの哮峰(いかるがのたけ)に饒速日の命が天降り、饒速日の命の墓が哮峰(いかるがのたけ)の近くにある。

384-17

 

古天皇家の権威を高めるため、血筋を濃くする必要性があった。
継体天皇の例で、継体天皇は応神天皇の五世の孫で、天皇家から離れている。
そこで、継体天皇の地方での子の安閑天皇、宣化天皇は仁賢天皇の血筋の娘を妃としている。継体天皇も仁賢天皇の娘の手白香皇女(てしらかのひめみこ)を皇后として、欽明天皇にした。欽明天皇は血筋が良いとして、安閑天皇、宣化天皇より権威が高まった。

387-18

 

■台与の時代の都
邪馬台国の卑弥呼の時代は朝倉市付近ではないかと考えている。そして、次の台与(とよ)の時代は北九州市か行橋市あたりではないかと考えている。
北九州市から鉇(やりがんな)が多く出土する。船を造ったのではないか。

387-19


いわゆる西晋鏡(位至三公鏡、双頭竜鳳文鏡、夔鳳鏡など)の分布は、少し時代が下ると朝倉市から出てこなくなり、遠賀川流域から出てくる。そして、豊前から出てくる。豊前は遠賀川流域を含んでいた。387-20

豊前の国は豊の国から分かれたもので、地図上に点線で示した。
豊前の国の昔の都は遠賀川流域にあった。

・豊前風土記日の逸文に下記がある。
『風土記』[日本古典文学大系2]岩波書店刊から
宮處(みやこ)郡
豊前(ぶぜん)風土記に曰(い)はく、宮處(みやこ)の郡(こほり)。古(いにしへ)、天孫(あめみま)、此(ここ)より發(た)ちて、日向(ひむか)の舊都(きうと)に天降(あまくだ)りましき。蓋(けだ)し、大照(あまてらす)大神の神京(みやこ)なり。云々

原文:豊前風土記曰 宮處郡 古 天孫發於此 天降日向之舊都 蓋天照大紳之神京 云々

注:福岡県京都(みやこ)郡及び行橋市の地。和名抄の郡名に京都(美夜古)とある。
天孫が天降る以前の都であるから天照大神の都と推論したものである。
宮處(みやこ)郡について武田祐吉採択で古代の風土記記事と認められないとしている

このように豊前風土記の逸文から、天照大神が天岩戸から出てきた後に、都は行橋市付近になったとしている。
中臣祓氣吹抄(なかとみのはらへいぶきしょう)の文献の中にこの逸文が出てくるが、これは多田義俊によるものである。

多田義俊[(多田南嶺1698~1750)江戸中期の神道家]は、同時代にはやく亡失していた『神別本紀(しんべつほんぎ)』という本を、偽作した疑いをかけられた人である。また、江戸期の文献にはじめて見える風土記記事が、古代の官撰風土記の逸文としては、一般に、信用しがたいものであることは、考慮する必要がある[秋本吉郎氏は、日本古典文学体系2『風土記』(岩波書店刊)の解説で、「現伝風土記において、現伝本に存しない逸文記事の引用が永仁五年(1297)以前に限られている」ことや「風土記原典よりの直接引用とすべき ものが南北朝以前に限る」ことをのべられ、『中臣祓気吹鈔』の『豊前風土記』逸文を、「古代の風土記記事とは認められない」としておられる。]

伊勢貞丈(安斎、1717~1784)は、その著『安斎随筆』で、多田義俊を評して、「彼は勝れし豪傑なれど、偽りを好む癖あれば、彼の著書に引用する古書の名には、信じがたきものあり。とのべている。伊勢貞丈『旧事本紀剥偽』「とりわけ秋斎(義俊の号)の著す諸書は妄説を加える癖があるがゆえ。むやみに信ずることはできない。」
つまり多田義俊は信用しがたいとしている。
しかし、行橋市の「宮処(みやこ)」について、『日本書紀』には景行天皇の時代に「宮処」とされたが、昔から「宮処」と言いっていたようにも思われる。
多田義俊の話はつくり話としても、もっともらしい話である。

  TOP>活動記録>講演会>第387回 一覧 上へ 次回 前回 戻る