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第402回 邪馬台国の会
邪馬台国の探究のための哲学と方法
-邪馬台国問題はなぜ解けないか-


 

1.邪馬台国の探究のための哲学と方法

■ゲーム・チェンジャーはどこに?
(1)津田左右吉主義
『古事記』『日本書紀』などは、後に大和朝廷の役人達が大和朝廷の権威を高めるために創ったものだとしている。その結果、日本側文献資料の無視・排除となり、情報が少なくなる。そして古代史の答は確定できなくなる。確実性を求めて、結局不確実な推論、判断の横行となる。その方法による失敗から学ばない。津田左右吉主義は基本的に前前世紀、十九世紀の方法であり、いつ、どこで、だれが、文献を「作った」のか、はっきりしないものは信じない。しかし、稲荷山古墳出土、鉄剣銘の「意冨比垝(大彦)」。出雲の銅剣・銅鐸の出土などはそれらの文献に従うものである。

(2)属人主義
具体的証拠、根拠を示している訳ではなく、権威ある人が発言してるから正しいとする。(例:旧石器捏造における「神の手期待主義」)

(3)肉眼観察主義
「百聞は一見にしかず」主義。「天動説」と「地動説」論争。考古学者が認めるがん造物の横行

(4)言語による「解釈」主義
「解釈」には、主観がはいりやすい。
「客観的推論」の方法(このデータをこのように統計的処理をすれば、このような結果ができます。というようなこと)がおこなわれていない。
「かすったら邪馬台国、風が吹けば畿内説。」

(5)目録作成、記述考古学主義
どこから何が出たかを調べ非常に正確に記録している。それは良いことだが、それ自体が目的となる。そのデータからの歴史再編成の論理の欠如。

 

「唯物論」と古代史研究
■マルクス主義的「唯物論」への疑問
私は、古代史研究において、つぎのような立場に立っている。
私は、「外部世界」は存在するという立場に立つ。この場合、「外部世界」というのは、物質、エネルギー、言語、情報、社会など、私を取り巻く外の世界である。マルクス主義は、「外部世界」のうちの「物質」に力点をおいたが、私は「外部世界」をもう少し広く考えたい。

ここで、言語や、情報や、社会といったものは、物質的なものを基盤にはしているものの、その働きの本質は、物質に還元できないものをもつ。

簡単な例をあげよう。
ジャンケンでは、手を開いた状態のパーは、手を握った状態のグーに勝つことになっている。これは社会的な、伝統的な「とりきめ」「約束ごと」としてそうなっているのである。
物質的にはまったく同じ、手を握った状態のグーが、手を開いた状態のパーに勝つ「約束」にしてもよいのである。それでもジャンケンは成立する。
人間社会での「約束ごと」は同じ物質的状態に、違う意味を与えることができる。
言語はまさに、その種の約束ごとの体系である。

「犬」という動物を、日本語では「イヌ」という。英語では「dog」という。社会的、伝統的な「約束ごと」としてそうなっている。その「約束ごと」を、私たちは、無意識のうちに、とりいれ、うけついでいる。まったく同じ「犬」を「イヌ」と呼んでも、「dog」といっても、あるいは、「ネコ」といってもよいのである。
社会全体が、「犬」という概念を、「ネコ」と呼ぶことにしているのなら、それはそれで通じるのである。
このような「約束ごと」の体系が、私たちの外部世界では、重要な役割をはたしている。

かつては、食へ物が手にはいるか否かなどの物質的な要因が、私たちにとっての、大きな関心事であった。しかし、現代日本では、最低限の食べ物は保障されるようになってきている。
大臣などが失言などで、窮地におちいることがある。物理的には空気の振動にすぎない言葉の使い方のちょっとした違いが、社会的な「約束ごと」によって、重大な結果をまねく。

人間社会において、このような「約束ごと」は、言語などをはじめとし、体系化され、「構造」をもつ。法律や、文法などは、そのような「約束ごと」の体系を示している。
このような「構造」の研究の必要から、「構造主義」が生まれる。「構造主義」は、はじめ、言語学の分野において、生まれた。
おそらく、私たちの「外部世界」は、「物質」や「エネルギー」などもふくめて、われわれ人間にとって、(あるいは、他の動物たちにとっても、)それなりの「構造」をもっているように認識され、そのため、それらを指示し、把握し、写しとるための「言語」なども、「構造」をもつようになったのであろう。

外部世界を、どのようにすれば、より正確に、そして、より簡潔に把握できるか。
数学なども、そのような必要から生まれた「言語」の一種といえよう。いまや、「数学」は、それじたい、壮大な「構造」や「体系」をもつ。

また、マルクス主義と私とでは、基本的な考え方において、つぎのような点でも異なる。
マルクス主義は「物質」をアプリオリに実在していると考えているように見える。そしてその実在性などは、「実践」によって証明できると考えているように見える。しかし物質の実在はそれほど簡単に証明できるのであろうか。
仮にマルクス主義のように「物質」が実在するものと仮定してみよう。すると、当然字宙も実在することになる(エングルスの著書『自然弁証法』【大月書店、1970年刊】、『自然の弁証法』【岩波書店、1957年刊】など参照)。そして、宇宙が存在するとすれば、他の諸々の生物種が絶滅することがあったと同じように、人類もまた絶滅する日がくることになる。人類が1人もいない場合、誰が宇宙の存在することを認識し、証明することができるのであろうか。認識し、証明する主体がいないのになぜ宇宙が存在するといえるのか。
「実践」によって、「外部世界」の実在を、証明することはできない。
認識し、実践し、証明をする主体が存在しなくなる。その場合でも、宇宙や物質が実在するといえるとする。これは、信念的唯物論あるいは観念的唯物論と言わざるをえない。

・証明とは、なにか
「証明」とは、人間が行っていることである。「証」には、「ゴンベン」がつく。「証明」は、人間が、「ことば」で行なっていることである。人間がいなくなれば、「証明」も消える。

私は以下のように考える。
自然科学の発展とともに、科学方法論自体もしだいに深くたずねられてきた。そして、どのような論理が学問によって望ましい論理であるかということも、明らかになってきている。
そのような論理の基本的な基準は、すでに十七世紀に、フランスのパスカルが、その著『幾何学的精神』のなかでのべている。
パスカルの論理の基準については、埼玉大学の吉田洋一氏、立教大学の赤摂也(せきせつや)氏共著の『数学序説』(培風館刊)にきわめて要領よくまとめられている。以下、両氏の著書により、まずパスカルの基準を紹介しよう。パスカルは、定義について二つの規則をあげている。
(1)それよりもはっきりした用語がないくらい明らかなものは、それを定義しようとしないこと。

(2)いくぶんでも、不明もしくはあいまいなところのある用語は、定義しないままにしておかないこと。

(3)用語を定義するにさいしては、完全に知られているか、または、すでに説明されている言葉のみを用いること。

また公理(議論の出発点、前提)について、二つの規則をあげている。
(1)必要な原理は、それがいかに明晰で明証的(論証や検証によらなくても、それじたいが、直接的に明らかで疑えないもの)であっても、けっして承認されるか否かを、吟味しないままに残さないこと。

(2)それ自体で、完全に明証的なことがらのみを公理として要請すること。

さらに、論証について、三つの規則をあげている。
(1)それを証明するために、より明晰なものをさがしても無駄なほど、それだけで明証的なことがらは、これを論証しようとしないこと。

(2)すこしでも不明なところのある命題は、これを、ことごとく証明すること。そして、その証明にあたっては、きわめて明証的な公理、または、すでに承認されていたか、あるいは証明された命題のみを用いること。

(3)定義によって限定された用語のあいまいさによって誤らないために、つねに心の中に定義された名辞の代わりに、定義をおきかえてみること。

パスカルの方法をまとめれば、自明のものを除くすべての「言葉」を「定義」し、また、自明でないすべての「命題」を「証明」しつくすということになるであろう。

 

■現代の公理主義
パスカルの基準は、ギリシヤ人が幾何学を建設するのに用いた方法にほかならない。だからこそ、パスカルは、自分の書物を『幾何学的精神』と名づけたのである。
ところで、このような方法論は、自然科学のめざましい進展とともに、さらに洗練されてきている。
幾何学的精神の現代的な形式としては、「公理主義」がある。ある理論において、他の命題の前提となる基本命題の体系(公理系)を明らかにし、その公理系と、特定の推論規則とから、演繹的に理論をくみたてることを、公理的方法、または公理論という。ユークリッドの幾何学は、不完全ではあるにしても、その適例であると考えられる。またパスカルの方法は、公理主義の原初的な形といえよう。

現代の公理主義が、パスカルの説いた方法と異なる点は、主として「公理」についての考え方にある。パスカルにおいては、「公理」は「それ自身で完全に明証的なことがら」で、「万人に承認される明晰なことがら」でなければならないと考えられていた。ところが十九世紀のはじめに、「万人に承認される」とはいえない公理をもとにして、完全に無矛盾な非ユークリッド幾何学が建設されるにおよんで、この「公理」についての考え方は大きくゆらいだ。そしてドイツのヒルベルトは、「公理」はなんら自明の真理である必要はなく、たんに明確に定められた「仮定」で十分であるとしたのである。すなわら、いくつかの「仮定(公理)』をおき、そこから、「形式的に結論をみちびいて、そこに矛盾を生じなければよいとしたのである。」
ヒルベルトは、数学の基礎として、自分の考えをのべた。しかしその考え方は、やがて自然科学全体に、きわめて広汎な影響をおよぼすこととなった。

ドイツに生まれ、のちアメリカにわたったカルナップ(1891~1970)らは、この方法だけが科学的方法であり、すべての科学は公理論的に構成されるべきであるとして、「公理主義」をとなえた。
「公理主義」については、東京大学の教授であった数学者、小平邦彦氏が、『数学のすすめ』(筑摩書房刊)のなかで、おもしろい例をあげている。
「碁盤の上に碁石を並べて行なうゲームに、五目並べがある。四目並べを考えれば、先手必勝でたちまち勝負がついてしまうので全然つまらない。六目並べにすると、いくら続けても永久に勝負がつかないので、やはりつまらない。すなわち、四目並べも六目並べも、五目並べほど面白くない。」

仮説系は、ゲームの規則に相当する。仮説系の内容が、豊富さをもつということは、ゲームがおもしろいものであることを意味する。
ある仮説を設けたならば、非常にたくさんのことが説明できる、というようなことは、結局、新しい、おもしろいゲームを発見するのと同じことである。しかし、そのような新しい、おもしろいゲームを発見するのは容易ではない。仮説系は単なる仮説であって、矛盾を含まないかぎりなんでもよい、とされている。しかし、非常にたくさんのことを説明できるような仮説系を設定することは、きわめてむずかしい。仮説系の選択の自由は、実際上はそれほど多くはない。

私は、古代史の探究において、つぎのように考える。
私の外部世界は実在する。また、過去においても外部世界は実在したと考える。私が死んでも、外部世界は、存在しつづけると考える。しかし、この実在論は「仮説」であると考える立煬にたつ。
外部世界が実在すると考えると、そこから、多くの情報を汲み取ることができる。すなわち私の外部世界の実在論は、「仮説的外部世界実在論」である。私の立ち場から言えば、マルクス主義の唯物論は「信念的唯物論」といえようか。そこでは、外部世界が実在することを証明しないままで、物質をはじめとする外部世界が実在すると決めてかかっている。

私の場合は外部世界が実在するか実在しないか定めることはできないが、外部世界が実在すると仮定すると色々な物事がうまく説明できると考えられる。だから、外部世界が実在するという「仮説」をうけいれる。すなわち、外部世界実在論の仮説系は、内容が豊富であるといえる。いわば、ゲームであればおもしろいものであるといえる。それは、他の仮説、例えば宗教に基づいてこの世界を説明しようとする仮説よりも、科学などの検証に耐ええて、生産性も豊かであると思う。以上のようにマルクス主義に学ぶところが多いが、私の考え方とは基本において、微妙に異なるのである。

 

■実証主義哲学について
仮説とか公理とかということをいえば私の立場は論理実証主義に近いのでないかと思う方もおられるかもしれない。しかし、私の立場は論理実証主義ともまた微妙に異なるのである。
かつてソ連を風靡した唯物論とも、アメリカで盛んであった論理実証主義とも、私の立場はすこし異なる。その両方の立場から学ぶところは多かったのであるが。

実証主義哲学について私の立場をのべてみよう。
まず、戦後の我が国において盛んであった津田左右吉らの実証主義的文献批判学を取りあげよう。
現代のふつうの人は、「実証主義」ということばを、「たとえば、A・B二つの仮説があるばあいに、どちらの仮説が、観測事実や、調査結果や、実験結果によくあうかを、実際に検証して行く方法をとること」のような意味に、解釈しがちである。
しかし、「実証主義的文献批判学」の「実証主義」は、そういう意味ではない。津田左右吉氏らの「実証主義的文献批判学」はドイツなどで盛んであった「十九世紀の実証主義的な文献批判学(原典批判)」と軌を等しくするものであった。「十九世紀の実証主義的な文献批判学」の「実証主義」は、十九世紀に盛んであったオーストリアのマッハなどの説いた「実証主義哲学」の方法にもとづく。

「広辞苑」で、「マッハ」の項を引くと、つぎのように記されている。
「マッハ【Ernst Mach】オーストリアの物理学者・哲学者。近代実証主義哲学の代表者。超音速流の研究を行ない、ニュートン力学に対する批判はアインシュタインに大きな影響を与えた。一方で、実証主義の立場からボルツマンの原子説に反対しつづけた。主著「力学史」。(1838~1916)【マッハ主義】(Machism)マッハに始まる実証主義的な認識論の立場・傾向。物質や精神を実体とする考えに反対し、直接に経験される感覚要素だけが実在的であるとし、事物はすべて感覚の複合・連関であり、物と心の区別も要素の結びつけ方の相違にすぎないとする。」

『日本国語大辞典』(小学館刊)で、「マッハ主義」を引くと、つぎのようにある。
「マッハ主義〔名〕(マッハMach)エルンスト=マッハに始まる実証主義的認識論の立場をいう。物質や精神を実体とする考えに強く反対し、科学の目的は観察された事実を記述することのみにあるとし、仮想的原子などを考えることは全く非科学的であると主張した。」

「科学的」の意味が、マッハと、私たちとでは、違っている。ひいては、十九世紀的実証主義的文献批判学の立場の人々と、私たちとでは、「科学的」の意味が異なっている。 


■「過去は、実在したのか?」
要するに、マッハらは、目でみ、耳できき、手でさわることができるもの、直接経験できるもの、つまり感覚できるものだけを「実在的」であるとするのである。そして、「原子や分子のように、直接目でみることのできないものの存在を考えるのは、形而上学的(内容のないことばのもてあそび)である」として、原子論的な立場の人々と対立した。
そして、原子の考えを抜きにして、科学を進めようとした。

しかし、今日、原子論に、反対する科学者はいない。原子の存在を考えることなしに、さまざまな事実を包括的にとらえ、的確な学問的予想をたてることは、困難であるからである。

十九世紀の文献批判学も、実証主義哲学を背景としている。
実証主義の立場に立つ物理学者が、個々の実験事実や現象だけをみて、その奧にある原子をみなかったように、実証主義の立場にたつ文献学者は、目のまえの個々の文献だけをみて、それだけが実在であると考え、その背後にある史実をみない傾向がある。そこでは、文献そのものの批判研究に焦点がしぼられ、歴史を構築し、認識することは、二次的なものとされる傾向がつよい。
「文献によって史実をさぐるまえに、目のまえの文献そのものの、検討が必要である。」というようなことが、強く主張される。

しかし、個々の実験事実や現象は、原子などが、われわれの五感に認知されうる世界に落とした影であり、個々の文献や遺跡・遺物も、史的事実がまず存在して、それが落とした影であるともいいうる。

マッハのいうような「実証主義哲学」をおしすすめるならば、
「過去は、実在したのか。」
「歴史は、実在したのか。」
という重要な疑問に逢着する。
なぜならば、私たちは、過ぎ去った「過去」や、「歴史」的事実そのものを、直接目でみ、耳できき、手でさわることはできないからである。直接経験し、感覚することは、できないからである。私たちが感覚することができ、「実証」できるのは、目のまえにある遺物や、文献などのみである。
マッハらののべた「実証主義」は、目の前にあって、それを見ることなどによって生ずるような感覚の集まりだけを実在を考え、確かと考える素朴な実証主義なのである。
その本質は、視覚や、聴覚や、触覚によって確かめられるものだけを信じましょう、実在としましょうという素朴な発想なのである
この立場によれば、私たちが、いま、目でみ、耳できき、手でさわることができたもの、すなわち、「実在」としたものも、たとえば、一ヵ月のちには、「非実在」であるものに転化することになる。直接目でみたり、耳できいたり、手でさわることは、できなくなるからである。

そのように考えるよりも、「現在」が「実在する」のと同じように「過去」は、かつて「実在した」ものであり、その遺物や遺跡、あるいは、過去についての記録を、私たちが観察しているのだと考えるほうが、はるかに生産的ではないか?
奇妙な「実証主義」にあまりまきこまれては、いけないのではないか?
目のまえにある物質などをとりあっかう物理学の研究などならともかく、「過去」をあつかう歴史学の基本的な哲学として、マッハらのとく[実証主義的哲学]が、ふさわしいものとは、とても思えない。
残された証拠をもとに、事件の解決をはかる刑事と同じ姿勢をとるべきである。

 

■文献から歴史を構成する理論をふくまない
一九世紀の諸科学では、まだ、「仮説概念」が明確化されていない。みずからの説が、仮説の一つであることを承知しない。その理論は、絶対的な真理か、絶対的な誤りかの、信念と信念とのぶつかりあいとなる。二十世紀に、仮説の観念が明確となり、それまでの、独断的、絶対的、信念的な考え方から、仮説的、相対的、検証的な考え方へと転換した。

実証主義哲学が、確実な事実から出発しようとしたことはよい。
平凡社刊の『世界大百科事典』も、「実証主義」の項目で、つぎのように記す。
「実証主義 経験の背後に、または経験をこえて、何かがあるということを認めようとしない哲学、または思想上の一つの立場をいう。いいかえれば、われわれが経験によって確かめることのできないような原理をあらかじめ想定し、それによって、われわれの経験を説明しようというのではなく、われわれが実際に確かめられること以外はすべて疑っていこうという考え方である。したがって、実証主義の立場から断言できることはわずかではあるが、確実なことばかりである。」

インターネットの「ウィキペディア」で、「エルンスト・マッハ」を検索すれば、つぎのように記されている。
「マッハは、感覚に直接立ち現れないことを先験的に認めて命題に織り込むようなことは認めない、としたわけで、いわば、実証主義の中でも極端なそれの立場をとったということになる。」
「そして当時、ニュートン流の粒子論(原子論)的世界観を応用して理論を構築しつつあり世界を実在論的な見方で見ていたルートヴィッヒ・ボルツマンやマックス・ブランクらと論争を繰り広げた。」

しかし、マッハ流の実証主義では、「過去」が実在したことを、「仮定」することが、できなくなってしまう。

以上、のべてきたように「実証主義哲学」によるばあいは、古代の天皇の実在性などばかりでなく、「過去そのもの」「歴史そのもの」の実在性を否定できる論理を、そのうちにふくんでいるのである。原子や分子の「実在性」を否定することができたのと同じように。

『広辞苑』は、「実証主義」の項で記している。
「実証主義(positivismeフランス)所与の事実だけから出発し、それらの間の恒常的な関係・法則性を明らかにする厳密な記述を目的とし、一切の超越的・形而上学的思弁を排する立場。これを初めて体系的に説いたコントらは現象の根底にある実在を(不可知としながらも)認めたが、マッハ・ウィトゲンシュタインらの論理実証主義者はこのような実存を認めない。」

かくて、実証主義的文献批判学では、目のまえにあり、経験できる文献の相互比較などが、主要な関心事となる。その文献に書かれている内容から、妥当な歴史を構成、構築するというような作業は、二の次、三の次になってしまうのである。
したがって、文献から歴史を構成、構築するための論理や方法を発展させることもない。
過去の事件などについて、「仮説」をたて、それを、諸資料によって検証するという形をとることをしない。「仮説」概念が、明確化されるまえの科学方法論であるからである。


■唯物論とマッハ主義
レーニンは、『唯物論と経験批判論』(寺沢垣信訳、大月書店、国民文庫など)を書き、マッハの実証主義哲学を、「感覚の複合としての物、というマッハの学説は、主観的観念であり、バークリー主義のたんなる焼きなおし」ときびしく批判している。
[注:バークリー【George Berkeley】イギリスの経験論哲学者。主観的観念論の代表。一切の物は感覚の結合にほかならず、物が存在するとは知覚されることにすぎないと主張。著「人知原理論」など。(1685~1753)『広辞苑』から]

しかし、マッハの実証主義哲学は、生きのこる。論理実証主義という形で発展する。『広辞苑』も、「論理実証主義」について、マッハの名にもふれ、つぎのようにのべている。
「【論理実証主義】(logical positivism)1930年頃にウィーンの学者シュリックらから始まった実証主義哲学。ラッセル・ウィトゲンシュタインの科学基礎論や言語分析を介し英国や北欧諸国(エイヤー・フオン=リクト)に、カルナップの統一科学を介し第二次大戦中にアメリカ(クワイン)に広まり、主要な哲学潮流となる。ヒューム・マッハの流れを汲む実証主義を復活、経験的に検証不可能な命題は無意味であるとして形而上学を排し、哲学の仕事を科学の言語の論理的分析にありとし、記号論理学の研究を発展させた。

「論理実証主義」が、論証の質を高めたことは高く評価すべきである。
ただ、この立場では、どのような前提から、どのような結果がみちびきだされるかについての、論理記号や数学を使っての推論の整合性のみに、焦点があてられているようにみえる。外部世界の実在性については、不問とされるか、あるいは否定的である
しかし、外部世界の実在を否定したのでは、歴史の研究はできなくなってしまう。

私は、外部世界は仮説的なものであることを認めながらも、実在したと考える。過去の世界も、かつて実在したものと考える。
たとえば、邪馬台国問題を考えてみよう。女王がおさめたわが国の邪馬台国は実在したと考える。西暦238年ごろに存在していた。すなわち、時間がわかっていて、場所を求める問題である。

ある意味できわめて物理学的な問題である。
残された証拠物件をもとにして、刑事が犯人像を推理するのと同じ種類の構造の問題である。

 

■邪馬台国はどこにあったかを、確率計算する
昭和時代の経済学者の宇野弘蔵(うのこうぞう)氏(1897~1922)は、マルクスの『資本論』について、資本主義社会の内在的論理を解明しようとする科学的体系知的な理論面と、革命をおこし資本主義体制を打破しなくてはならないとする政治的イデオロギー的な面とを区別する。

この宇野弘蔵氏の説については、最近刊行された佐藤優氏の『「資本論」の核心』(角川新書、2016年刊)にくわしく、かつ要領よく紹介されている。

邪馬台国問題にも例えば、邪馬台国はどこかということを解明しようとする問題と、えられた結果を人々に認めさせようとするやや政治的な問題とは別けて考えたほうがよいと、私は思う。将棋や碁のようなゲームでも、コンピュータが一流の棋士逹に対抗できる時代である。データを集積し、ビッグデータを分析する方法で処理すれば、邪馬台国問題は全く機械的に解決できる見こみがある。そのようなこころみを、私たちは、行なってみた。
広島大学の教授であった川越哲志(かわごえてつし)氏のまとめた本に、『弥生時代鉄器総覧』(広島大学文学部考古学研究室、2000年刊)がある。
弥生時代の鉄器の出土地名表をまとめたものである。鉄器についての、厖大なデータが整理されている。

『魏志倭人伝』には、倭人は、「鉄鏃」を用いる、などとある。
『弥生時代鉄器総覧』の鉄器出土地名表をみると、福岡県には、49ページさかれている。これに対し、奈良県には1ページしかさかれていない。

「邪馬台国=奈良県存在説」を説く人々には、この愕然とするほどの圧倒的な違いが、目にはいらないのだろうか。
いま、たとえば、弥生時代の鉄族の出土数の県別の出土数をみれば、下図のようになる。 402-01

『魏志倭人伝』に記されている事物(鏡・絹・勾玉など)で、遺跡・遺物を残しうるものは、すべて、出土数において、福岡県が、奈良県を圧倒している。

右図のような分布を示すいくつかのデータから、邪馬台国が福岡県にあった確率や、奈良県にあった確率を計算によって求めることができる。

県ごとの確率は、つぎのようになる。
邪馬台国が、福岡県にあった確率 99.9%
邪馬台国が、佐賀県にあった確率 0.1%(千回に1回ていど)
邪馬台国が、奈良県にあった確率 0.0%

これについて、くわしくは、拙著『邪馬台国は99.9%福岡県にあった』(勉誠出版、2015年刊)をご参照いただきたい。

この確率計算にあたってご指導、ご協力をいただいた現代を代表する統計学者、松原望(まつばらのぞむ)氏(東京大学名誉教授、聖学院大学教授)はのべている。
「統計学者が『鉄の鏃』の各県別出土データを見ると、もう邪馬台国についての結論はでています。」

統計学や、作戦計画(オペレーションズ・リサーチ[OR])の分野に、「探索問題」とか、「索敵問題」とかいわれる問題がある。これらは、そのまま、邪馬台国の探索問題につながりうる。

「探索問題」や「索敵問題」というのは、つぎのような問題である。
(1)探索問題
2014年3月8日、マレーシア航空機が行方不明になるという事件があった。この種の事件はこれまでにもたびたび起きている。
1966年1月16日に、アメリカのノースカロライナ州のセイモア空軍基地から四つの水爆を積んだジェット爆撃機が、とび立った。ところが、その爆撃機は給油機と接触し、燃料が爆発し、七名の乗務員が命をおとした。乗務員と、水爆と、飛行機の残骸が、空から降りそそいだ。しかし。幸いにして、核爆発はおきなかった。四つの水爆のうち、三つは、事故後に、二十四時間以内に発見された。ただ、最後の一つの水爆がみつからなかった。
大ざっぱにいえば、このようなばあい、爆弾の沈んでいそうな場所をふくむ地域についての確率地図をつくる。海面または海底の地図の上に、メッシュ(網の目)をかぶせる。小さい正方形のグリッド(格子)に分ける。そして、その一つ一つの正方形(セル、網の目)についての残留物などの情報をデータとしていれる。そして、爆弾がそのセルに存在する確率を計算する。このようにして、爆弾が沈んでいそうな場所を示す確率地図をつくる。
1968年にも、ソ連とアメリカの潜水艦が、乗組員もろとも、行方不明になっている。

(2)索敵問題
基本的には、探索問題と同じである。ただ逃げまわるターゲットや、人間の操縦で動いている目標物の位置をとらえたり、追跡したりする。

私たちは、基本的に、探索問題を解く方法によって、邪馬台国の場所を求めた。確率の計算には、ベイズの統計学を用いた。
邪馬台国問題は、統計学や確率論の問題としては、ふつうの「探索問題」や「索敵問題」にくらべ、はるかに簡単な問題である。
それは、つぎのような理由による。
(1)「探索問題」では、セル(正方形の網の目)の数は、ふつう一万ヵ所ていどにはなる。
セルの数がふえると、確率計算は、急速に面倒なものとなる。邪馬台国問題のばあい、「どの県に邪馬台国はあったか」という形で、「県」を、セルとして用いれば、対象となるセルの数は、五十たらずである。電卓によってでも、根気よく計算すれば、計算できるていどの問題である。

(2)「鉄の鏃」「鏡」など、『魏志倭人伝』に記されている事物などの、各県ごとの出土数などを、データとして入れていく。このばあい、「索敵問題」などと違って、遺跡・遺物などは、動かない。逃げまわらない。

 

■「認識」についての、「反映論」と「地図論」
私たちは、この世の中のさまざまな事象について、「認識」をするが、この「認識」とは、何であるかについて、おもに二つの立湯をあげることができよう。
一つは、「反映論」、一つは、「地図論」である。
「反映論」は、おもに、唯物論の学者たちによってとなえられている。唯物論の学者たちは、私たちの認識、すなわち、感覚とか、概念などは、客観的な存在の反映、あるいは、模写であるとする。
そして、感覚から概念、判断、推理への移行を、反映過程の深化発展であると考える。すなわち、感性から知性への移行を、反映の深化とみなす。とくに、科学的な研究などでは、反映は、実験、調査、分析など、研究対象に対する人間の能動的な働きかけ、実践によってのみ得られるとする。

たえまない実践によって、対象についての反映は、たえず是正されていく。表面的な現象の記述から、対象がどのようなものでできあがっているかという実体的な知識へ、さらに、それらが、相互にどのように働きあって発展し、運動しているかという本質的な知識へと、しだいに内面に向かってすすんでいく。このようにして、対象への接近は、たえまなく進み、より深く、より近似的に、より全体的に、対象の本質にせまっていくことになるとする。

認識についての今一つの考え方である「地図論」は、おもに、コージプスキー(A.Korzybsk 1879~1950)など、アメリカの、一般意味論の学者たちによってとなえられている。一般意味論学者たちは、私たちの認識は、いわば、「地図」のようなものであると説く。「地図」によって、私たちは、A地点からB地点まで行くことができる。それと同じように、「地球は、まるい」という、外界についての認識(一種の地図)にしたがって、行動し、コロンブスは、アメリカを発見した。

はじめ、人びとは、「地球は平らである」と考えていた。これも、一つの素朴な地図である。人間の活動の範囲がせまいばあいは、そのような素朴な地図でも、とくに支障はもたらされなかった。
人間の知的、実際的な活動範囲がひろがるとともに、「地球はまるい」という、より正確な地図、あるいは認識が、しだいに人びとのあいだに浸透していった。

そして、さらに現代では、「地球は、球に近いが、北にややとびだしており、西洋ナシ形をしている」というあらたな地図がえられている。
物理学上の法則も、反映の一種であり、「地図」のような働きをもつ。その地図によって、ある結果を予測することができる。ある結果に行きつくことができる。

たとえば、万有引力の法則という外界についての「認識」(一種の地図)によって、人工衛星を打あげるのには、どのていどの初速度を与えればよいかなどを知ることができる。
外界についての「認識」が誤っていることは、誤った地図が与えられたことにたとえることができる。

このように、地図は、ときに誤っていたり、杜撰(ずさん)であったり、ゆがんでいたりすることがある。人間の認識が進むにつれ、地図は、より正確なものとなったといえるであろう。
また、「地図」には、ある一地域のみを拡大し、その地域のみをくわしくえがいたりすることができるが、私たちの「認識」も、あるせまい範囲の問題だけをとりあげて、くわしく示しているばあいがある。

私は、どちらかといえば、「認識」については、「反映論」よりも、「地図論」の方に賛成である。
人間の思考の本質は、地図をつくること、すなわち、マッピング(mapping)にあると考えられる。
いわゆる知的能力にすぐれているとは、マッピングの能力にすぐれていること、また、頭の中に、多くの地図が、うまく整理されてはいっていること、といえるかも知れない。それは、与えられたある命題(インプット)から出発するとき、どのような結果(アウトプット)が得られるかということを、それらの地図によって、的確に予知することができることを指すといえよう。

学習するとは、既存の地図を頭の中におさめていくことであり、知的な創造をするとは、新たな地図を、つくることを意味する。
二つの方向から掘りすすめられたトンネルが結びあわされたとき、一つのトンネルとなる。それと同じように、インスピレーションとは、頭の中で、掘りすすめられていた思考の回路が、無意識のうちにも、さらに掘りすすめられ、回路が突然つながって、一つの回路となり、全体の様子が簡明にはっきりとつかめる思考の地図ができあがった状態になぞらえることができよう。

たとえば、数学の問題を解くばあいを考えてみよう。数学の問題を解くとは、ある前提から、ある結論をみちびきだすことを意味する。
はじめ、与えられた前提から、ああでもない、こうでもない、というような試行錯誤的なこころみが行われる。

思考の回路が、あちらこちらに掘りすすめられていくわけである。そのうちに、問題を解くことに成功する。すなわち、前提と結論とをつなぐ回路が、できあがったわけである。数学の力のある人は、前提をみただけで、ほとんどすぐに、解くことができる。思考の地図の回路が、ほとんどただちにできあがるわけである。

インスピレーションとは、この回路が、つながりそうでつながっていない状態になっているときに、無意識のうちに、突然つながる状態をさすといえよう。
一度回路ができあがってしまえば、それは、その問題、あるいは、その部分についての「地図」になっている。どの道を行けば、どこに達するかが、すぐにわかる形になっている。その「回路地図」を十分マスターすれば、その「回路地図」をつなぎあわせて、さらに大きな地図をつくることができる。つまり、「回路」は、「集積」することができるのであって、コンピュータの構造ときわめて似ていることが、おわかりいただけるであろう。

これを、生理学的に説明すれば、つぎのようになる。
大脳は、約百五十億の神経細胞からできている。はじめは、ぽつんぽつんと存在している細胞が、成長とともに、突起を出す。その突起は、四方八方へのび、たがいにからみあって、網の目のような、複雑微妙な配線をつくる。
科学も、思想も、着想も、感情も、生理学的には、百五十億個の神経細胞の、突起が接触しあってできる「神経回路」、すなわち、脳細胞の結合の様式にもとづいている。
学んだことを反復すれば、結合の様式が固定化し、それが記憶となる。反復しなければ消えていき、忘却となる。
頭がよくなるとは、脳細胞の回路が正しく複雑に発達し、どうすればどうなるかがわかることであるといえる。「回路」は、「学んで」つくることもできるし、「考えて」つくることもできる。



■正確な地図を作成するための言語としての、数字・数学
・数字・数学はそれ自体が、組織・構造をもっている。
・時間・空間などでの、いつ、どこに、などを指定・指示する座標軸を構成しうる。経度、緯度、西暦元年、令和元年など、本来そこに特別の区切りのないところに、区切り、座標軸などを、人間が設定し、記述を行う。
ページ数による指定・・・・どこに、何が書かれているか、中国の文献では、十二支によってページ指定をおこなっているものがある。全体の半分の量が、どれだけのページ数になるか、などはわからない。

・宇宙の原理は数学という言語で記述されている(ガリレオ・ガリレイ)

・経験とは独立した思考の産物であるはずの数学が、物理的実在とこれほどうまく合致するのはなぜか(アルベルト・アインシュタイン)
           
・数学が形式論理的な演繹(えんえき)で非常に多くの結論を出せるというのは驚くべきことであって、数学以外のことばだけを使った論理ではそう先へは進めない。はじめからわかっていること、つまり同語反復(トートロジー)以上にはなかなか出られない。ところが数学の場合に驚くべく豊富な結論を生み出すことができるのは、その論理のなかに数学的帰納(きのう)法なるものがふくまれているためでもある。後者は形式論理の単なる繰り返しであるかどうか。ポアンカレ(フランスの数学者)は、ここに一つの大きな飛躍があるとみる。私もたぶんそうだろうと思う。
いかにも普通の形式論理と似た形をしているけれども、やはりちがうのではないか。(湯川秀樹『現代の科学Ⅱ』[「世界の名著」第66巻、中央公論社刊])

 

■「ことぱ」「情報」「数」とは、どのようなものか
「ことば(言語)」とか、「情報」とか、「数(数字)」とかは、どのようなものであろうか。
スイスの言語学者ソシュール(Ferdinand de Saussure 1857~1913)は、その著『一般言語学講義(Cours de linguistique générale)』のなかで、次のようなことを述べた。
「言語」は、「記号」の体系である。
その「記号」とは、次の二つのものの結合体である。(下図参照)

(1)表現形式
signifiant(シニフィアン)(フランス語の、「意味するもの」の意味。「意昧する」「表現する」という意味の動詞の、現在分詞)。能記(小林英夫)、記号表現(丸山圭三郎)などとも訳される。

(2)意味内容
signifié(シニフィエ)(フランス語の「意味されるもの」の意味。「意味する」「表現する」という意味の動詞の受動態)。所記(小林英夫)や記号内容(丸山圭三郎)などとも訳される。「表現形式」によって、指し示される内容のことである。402-03

「情報」も、基本的には、「ことば(言語)」と同じ構造をもつが、サイエンスの分野では、ふつうの「ことば」にくらべ、「意味内容」が、あいまいさをふくまず、「数(数字)」など、一義的に明確に定められたものであることが多い。

そして、「数(数字)」「数式」は、次のような性質をもつ。
(1)「数(数字)」「数式」も 、「ことば(言語)」の一種である。「表現形式」と「意味内容」とが、結びついたものである。

(2)「数(数字)」は、一定の形をそなえたもの、あるいは、測定の方法などによって定義を与えられたものであれば、「魚」であろうと、「エンピツ」であろうと、「時間」であろうと、「距離」であろうと、「温度」であろうと、「ことば」であろうと、目で直接見えるものであろうと、見えないものであろうと、対象のいかんをとわず、カウントすることができる。

(3)「数(数字)」で表現されたものについては、四則演算をすることが可能である。かくて、数式を用いて、推理をする(結論を出す)ことができるようになる。どのような「意味内容」をもつ「ことば(情報)」が、いくつあるかなど、「表現形式」によって、「ことば」や「情報」を、カウントすることもできる。

我々個人がいる。我々は言葉や数学によって、外部世界についての認識地図という繭(まゆ)を作って、その中に入って、外部世界を認識する。そして、その地図に従って、外部世界を判断して行動する。

外部世界の認識の仕方は下図の左に示すように
(1)感官を通して近くする
(2)データを集める(観測・調査・実験などによる)
(3)前提・出発点(a)仮説の設定、(b)データの確定
(4)(a)演繹を行う、(b)統計的分析を行う
(5)演繹・統計的推論などによる結論(外部世界についての認識地図)
(6)外部世界とつきあわせる(検証)
これの繰り返しによって外部世界をつかむことになる。
402



■ 数理文献学・数理考古学・数理歴史学のすすめ
いつ、どこに、なにが存在したのか、どこで、なにが起きたのかを、時間、および、空間の座標の上に、できるだけ正確に定める。
そのために、数字、数学を用いる。問題の性質としては、刑事が、残された状況や証拠をもとに、事件を解決するのと同じと考える。

(1)出発点は、自明の事実でなくてよい。(天動説と地動説、ユークリッド幾何学と非ユークリッド幾何学。)

(2)どちらの公理系が、より矛盾なく簡明に説明体系がつくれるか。

ポーランドに生まれ、アメリカに帰化し、意味論を提唱し、一般意味論研究所の所長となった論理学者、コージプスキー(1879~1950)は、ことばを二種類にわけた。すなわち、専門用語と非専門用語とである。

コージプスキーは、専門用語においては、たとえば、90°とかH₂Oとか書けば、誤解なくコミュニケートできるが、そうでない非専門用語は、誤解をまねくことばであるとのべている。
90°とかH₂Oとかにおいて、ことばの意味が一義的である。学問を進めるにあたっては、そこで用いられることばは、明確な定義によって限定され、可能なかぎり一義的であることが望ましい。このことは、パスカルの規則のなかにも含まれていることであるが、とくに重要なことであると私は考える。

科学のことばとして、しばしば数学や数理が用いられる。数学や数理は、意味や論理の展開が、一義的であるからである。
京都大学人文科学研究所の教授であり、西洋史学者であった会田雄次は、その著『合理主義』(講談社現代新書)のなかで、つぎのようにのべている。
「合理主義的なものの考え方をつきつめると、いっさいを量の変化において考え抜こうという精神です。」

 

■公理的方法についての私の立場
ここで、公理主義についての私の考えをのべておこう。
私は、「公理」は、たしかに「それ自身で完全に明証的なことがら」で、「万人に承認される明晰なことがら」でなければならないとは考えない。その意味では、パスカルよりも、ゆるやかな立場をとりたいと思う。
しかし、明確に定められた「仮定」であれば、どのようなものであってもよいとは思わない。あるていど、経験的事実や直感に合致したものが望ましいと考える。この点ヒルベルトほどゆるやかな立場はとらない。
ヒルベルトは、「テーブルと椅子とコップとを、点と直線と平面との代わりに使っても、やはり幾何学はできるはずだ」とのべたと伝えられている。

私が、「公理」は、あるていど、経験的事実や直感に合致したものが望ましい、と考えるのは、そのような立場の方が説得力があると考えるからであって、そのような立場をとらなければならないという論理上の根拠は存在しない。

十七世紀の末に、アイザック・ニュートンは『プリンキピア』(原題『自然哲学数学的原理』)をあらわし、万有引力の法則をはじめて世に知らせた。これにより、天体の力学と地上の力学とは統一的に把握されることとなった。
『プリンキピア』は、ユークリッドの『ストイケイア』(幾何学言論)にならって書かれたものであった。

たとえば、ニュートンはその第1部で、「質量」や「運動量」などを定義したのち、公理をのべている。
【公理I】
「すべての物体は、力が働かないかぎりは、静止しているものは、いつまでも静止し、一様な直線運動をしているものは、その運動をつづける。」

【公理Ⅱ】
「運動の変化は、作用する力に比例し、かつ力が働く方向に起こる。」

【公理Ⅲ】
「作用は、常に反作用に等しい。いいかえると、二つの物体の相互の作用は、つねに等しいが、方向は反対である。」

ニュートン力学の三法則も、ここで提唱されている。また、力の合成に関する「平行四辺形の公理」も、補足的に示されている。これらの公理から、力学の基本原理、たとえば「万有引力の法則」が演繹されている。

ユークリッドの幾何学とニュートンの力学とは、数学的なものと物理学的なものとして、現代では別々に把握されている。しかし、もともとは同質のものといえる。ともに、はじめに定義を示し、さまざまな定理・命題を導き出すという形をとっている。そして、導き出された定理・命題が、経験的事実と一致する。
すなわち、これらは、一つの論理的な整合性をもった理論体系であるとともに、日常の経験世界の忠実な記述でもある。

ユークリッド幾何学もニュートン力学も、ともに観察によって認識されうるようないくつかの「事実」的なものを公理とし、それらを出発点としたうえで、多くのことがらを説明したところに、その強みがあったといえる。ユークリッド幾何学が、非ユークリッド幾何学があらわれるまでの、およそ二千年の歳月に耐えることができ、ニュートン力学が、今世紀のはじめに量子論があらわれるまでの、二百年の歳月に耐えることができたのは、観察可能な「事実」的なものを基礎としていたことがあげられうるであろう。

私は、ユークリッドの『ストイケイア』やニュートンの『プリンキピア』は、経験科学のあるべき叙述の姿の、ある意味での典型をなしていると思うものである。
以上をまとめるならば、私は、わが国の古代の探求のために、基本的には、公理的方法にしたがう立場をとる。ただしこの公理は、「万人に承認される明晰なことがら」でなければならないとは考えないが、どのようなものであってもよいとはしない。ある程度、経験的な「事実」や直感に合致したものが望ましいとする。

また、用語は、可能なかぎり明確な定義により限定された一義的なものであることが望ましいとする。
なお、「公理」の数は、できるだけ少なく、相互に独立のものが望ましいとする。

 

■私の邪馬台国論の論理構造
わが国の古代史全体を統一的、構造的に把握しようとするばあいには、私は、公理(仮説、仮定、前提、出発点)としてつぎの二つを設定したいと思う。 
          
【公理I】
「『古事記』『日本書紀』に記されている天照大御神以下の五代、および諸天皇の代の数は、信じられるものとする。」(これは、代の数のことをのべているのであって、ある天皇と、つぎの天皇との関係は、親子関係であるとはかぎらない。)

【公理Ⅱ】
「西暦何年ごろに活躍していたか、実年代が不明の天照大御神以下の五代、および古い時代の諸天皇の活躍の時期は、活躍の時期がはっきりしている諸天皇の一代平均の在位年数をもとに、推定しうるものとする。」

この二つの公理を設定するとき、つぎのようなことがらが、定理的に導出される。
(1)天照大御神は、卑弥呼とほぼ同時代の人となる。(そしてこの二人が、ともに女王的な存在で、宗教的な権威をもち、夫をもたなかったこと、天照大御神が、のちにわが国最大の政治勢力となった大和朝廷の系譜上の人物であること、などは、この二人が同一の人物であることを指向する。)

(2)神武天皇は、西暦280~290年ごろの人となる。(このころからあとに、大和に古墳がおこり、刀剣、矛、鏃、鉄、鏡、玉などの分布の中心が、九州から大和に移っている。すなわち、記紀に記されている神武天皇の東征によって説明しうると思われる事実が存在する。)

(3)崇神天皇は、西暦350~360年前後の人となる。(奈良県天理市大字柳本に存在する崇神天皇の陵を、東大の考古学者、歴史学者である斉藤忠博士は、四世紀の中ごろ、またはそれをやや降るころのものとしておられる。)

そしてさらに、(1)の「系」として、記紀によれば、天照大御神(卑弥呼)の活躍していた場所が、北九州であると考えられ、また大和朝廷が九州に興ったと考えられる少なからぬ根拠が存在するところから、
(1)邪馬台国は、北九州である。
ということがみちびかれる。

以上の議論は、【公理I】【公理Ⅱ】をもうけ、そこから、統計学、確率論などの数学の論理をかけて、「定理」、あるいは「系」をみちびきだすという形をしている。

ヒルベルト的な公理設定の自由性をみとめる立場にたてば、【公理Ⅲ】として、「天照大御神=卑弥呼」をたてることも考えられる。そのほうが、全体の説明は簡単になるようにもみえる。
ただ、そのようにすると、【公理Ⅲ】の「天照大御神=卑弥呼」は、あるていど、【公理I】と【公理Ⅱ】からみちびかれるので、【公理I】【公理Ⅱ】【公理Ⅲ】の三つの公理における相互の独立性がやや失なわれる。

やはり、「卑弥呼=天照大御神」(正確には「卑弥呼のことが神話化し、伝承化したものが天照大御神」、あるいは「天照大御神伝承には、史実の核があるということ」)は、定理的なものと考えたほうがよいであろう。

さて、まえにものべたように、「天動説」も一つの仮説であり、「地動説」も一つの仮説である。どちらの説が妥当であるかは、どちらの説のほうが、多くの観測事実にあっているとみられるかによって決定される。
それと同じように、「天照大御神」を「実在性」をもった神と考えるのも、一つの仮説であり、「非実在」の神と考えるのも、また一つの仮説である。
どちらの説の方が妥当であるかは、古代の多くの諸事実を、よりうまく説明できるかによって決定される。

提出された「仮説系」は、「豊富性」をもっているものがよい。
これについては、東京大学の教授であった数学者、小平邦彦(こだいらくにひこ)氏が『数学のすすめ』(筑摩晝房刊)のなかで、おもしろい例をあげている。
「碁盤の上に碁石を並べて行なうゲームに、五目並べがある。四目並べを考えれば、先手必勝でたちまち勝負がついてしまうので全然つまらない。六目並べにすると、いくら続けても永久に勝負かつかないので、やはりつまらない。すなわち、四目並べも六目並べも、五目並べほど面白くない」

仮説系は、ゲームの規則に相当する。仮説系が豊富であるということは、ゲームがおもしろいものであることを意味する。ある仮説を設けたならば、ひじょうにたくさんのことが説明できる、というようなことは、結局、新しい、おもしろいゲームを発見するのと同じである。しかし、そのような新しい、おもしろいゲームを発見するのは容易ではない。仮説系は単なる仮説であって、矛盾を含まないかぎりなんでもよい、とされている。しかし、ひじょうにたくさんのことを説明できるような仮説形を設定することは、きわめてむずかしい。仮説系の選択の自由は、実際上はそれほど多くはない。

そして、私は、「卑弥呼=天照大御神」仮説系が、「豊富性」をもち、おもしろい仮説系で、古代の多くの諸事実が、かなりよく、統一的、構造的、整合的に説明できることをのべようとしているのである。

もろもろの観測事実をうまく説明できる仮説は、妥当なものとみとめるべきである。
「仮説」の妥当性は、それじたいの「妥当性」の検討によって決定されるのではない。もろもろの観測諸事実を説明できることによって決定されるのである。
「卑弥呼=天照大御神」仮説は、現在の常識や、多数意見などに合致するか否かではなく、それが、どのような矛盾、不都合をもたらすかによって、たずねられなければならない。

私は、数理歴史学や、データサイエンスにもとづく新しいゲームの規則を提供しようとしている。これが、ゲームチェンジャーになりうるか否かは、今後の検討にかかっている。


■「仮説」がそなえるべき条件
ここで、「仮説」とか、「前提」とか、「公理」とかいわれるものの性質について考えてみよう。

現代の科学方法論においては、一般に、「仮説」あるいは「前提」あるいは「公理」は、つぎのような条件を満たすことが、望ましいとされている(たとえば、フェーブルマン著、竹田加寿雄訳『科学と哲学』法律文化社刊など)。
(1)経済性
仮説あるいは前提は、できるだけすくないことが望ましい。よく整理され、必要最小限のものでなければならない。仮説あるいは前提の数を、際限なくふやしていけば、どのような議論でも、なりたつことになってしまう。

(2)単純性
仮説あるいは前提は、諸事実を、できるだけ単純に説明できるものであることが望ましい。これは、科学の指導原理のひとつである。同一のことがらを説明するのに、仮説Aによっても説明でき、仮説Bによっても説明できるとする。しかし、仮説Aのほうが単純であるならば、仮説Aのほうがすぐれているということができ、仮説Aを採択すべきであるといえる。
天体が、きわめて複雑な運動をしていると考えれば、天動説も、なりたちえないわけではない。天動説よりも、地動説がえらばれるのは、説明が、いちじるしく簡易なものとなるからである。

(3)豊富性
ある「仮説系」が、きわめて多くのことがらを説明できるのであれば、その「仮説系」は、「豊富性」をもっているといえる。ゲームとしての面白さ。

(4)独立性
「公理」あるいは「前提」「仮説」は、たがいに独立でなければならない。ある公理が、他の公理から、導出されうるものであってはならない。もし、ある公理が、他の公理からみちびきだせるのであれば、それは、「公理」ではなく、「定理」と考えるべきである。

(5)無矛盾性
「公理」からみちびきだされた諸定理が、たがいに矛盾することがあってはならない。

(6)適切性
「仮説」あるいは「前提」「公理」は、観察される諸事実を、適切に説明しうるものでなければならない。「仮説」「前提」からみちびきだされた諸結果を、観察される諸事実と照合してみたばあい、そこに、矛盾や無理があってはならない。
「無矛盾性」は、「仮説」からみちびきだされた「諸結果(定理)同士で矛盾がないこと」をさし、「適切性」は、「諸結果と観察される諸事実とのあいだに矛盾がないこと」をさす。
「無矛盾性」や「適切性」がみとめられないばあいは、「仮説」「前提」「公理」などといわれるものを修正したり、あるいは、他のものにおきかえたりする必要がある。

(7)検証性
「仮説」からみちびきだされた諸結果は、できるだけ、検証可能なものであることが望ましい。どのように矛盾がなくても、検証することが不可能な仮説は、科学としての位置をしめえない。

たとえば、西洋の中世のキリスト教のように、この世のすべてのことは、バイブルによって矛盾なく説明されうるとしたばあい、その教えの内部には、あるいは論理的矛盾が存在しないかもしれない。しかし、その教えがもっている前提から導出されることがらを、「観察される諸事実」と客観的にきちんと照合することを放棄していたとすれば、それは、宗教上の教義ではありえても、科学上の仮説とはなりえない。

わが国の古代史について立てられた仮説も、その仮説から導出された諸結果は、文献上、あるいは、考古学上の諸事実と、客観的に、きちんと照合されなければならない。すなわち、その照合によって、もとの仮説が、採択されるべきか否かが、客観的に定められなければならない。(このような照合をおこなうさいの客観的基準として、「有意」の概念は、重要であると思われる。「有意」の概念が導入されていないばあいは、仮説を採択すべきか否かの判定が、主観的なものとなりやすい)。

これまでの邪馬台国問題についての諸研究においては、しばしば、「仮説」が、このような条件を満たしていることが望ましいという認識じたいが欠けているように思われる。というよりも、「仮説」の観念を明確にもたず、どのような議論も、かならず、ある種の仮説から出発していることに、気がついてない議論が、すくなくないように思われる。
そのため、仮説じたいが、整理されておらず、いくつかの仮説系を、相互に比較することが、困難であるばあいが多い。

 

■私の「仮説系」の適切性について
さて、まえに述べた【私の仮説系Ⅱ】が、一般に、「仮説」が満たしていることが望ましいとされている条件を、どのていど満足させていると考えられるかについて、つぎに検討をおこなってみよう。

(1)経済性
私の立てた仮説は、基本的には、天皇などの「代の数」だけを一応信じようというものである。【前提1】は、そのことを述べたものであり、【前提2】は、正確にいえば、「推論の方法」についての「前提」である。【前提1】で、出発点となる仮説を述べ、【前提2】で、「推論の方法」についての基礎を述べている。仮説としては、きわめて単純であり、これ以上すくない仮説からなる「仮説系」を求めることは、おそらく困難であろう。

(2)単純性
私の立てた「仮説系」からみちびきだされることがらも、きわめて単純で、はっきりしているといってよいであろう。「卑弥呼=天照大御神」「邪馬台国=天の原=北九州」など、いずれも、その意味する内容は、けっして複雑なものではない。

たとえば、中国まで名のひびいた女王卑弥呼と、わが国の神話の中心人物である女性の神天照大御神とが、ほぼ同時代の人となり、おそらくは、同一人物であろうと考えられることとなる。卓越した人物であったからこそ、中国にまでも、名がひびいたのであろうし、また、たとえ神話化されたにしても、後世にまで名が伝わったと考えることができよう。卑弥呼をひとりの巫女である倭迹迹日百襲姫や倭姫などに比定する見解は、卑弥呼の像の矮小化のうえになりたつとはいえないであろうか。

そして、なぜひとりの巫女が、ほぼ同時代に中国には、女王として伝わったかについては、新たに説明が必要となる。正確にいえば、そこに、新たな仮説の導入が必要となる。そして、そこに加わる新たな説明の分だけ、話は単純でなくなる。
虚心に考えれば、卑弥呼の像としては、天照大御神のほうが、よりふさわしいとは、いえないであろうか。
私の提出した「仮説系」は、もし、その説明に矛盾がないとするならば、古代の諸事象を、もっとも単純な形で把握することを可能にさせる「仮説系」のひとつであると思われる。

(3)豊富性
日本神話の「作為説」、すなわち、神話はつくられたものであるとする説が、戦後の学界を風靡している。そのため、ほとんど論じられなくなったが、日本神話のなかに語られている「高天の原」が、天上にではなく、地上にあったとする考えは、戦前には、かなり数多く存在した。
高天の原の所在論争は、戦前には。邪馬台国論争に劣らぬ内容をもっていた。そのなかで、とくに有力なのは、「高天の原=九州説」と「高天の原=大和説」とである。
「邪馬台国」の所在について、「九州説」と「大和説」とがあったばかりでなく、「高天の原」の所在についても、「九州説」と「大和説」とがあったのである。

私の「仮説系」からみちびきだされる「邪馬台国=高天の原=北九州(卑弥呼の都した場所=天照大御神のいた場所=北九州)」は、邪馬台国の所在についての問題に答えると同時に、高天の原の所在についての問題にも答えるものである。
この「仮説系」がもたらすであろう豊富性については、なお、さまざまな立場から、さまざまな人によって、検討される必要があると、私は考える。

(4)独立性
私の立てた「仮説系」のうち【前提1】は、出発点になる仮説であり、【前提2】は、推論の方法についての約束である。したがって、一方から一方をみちびきだすことができないことは、あきらかである。すなわち、相互に独立であるといえる。

(5)無矛盾性
「独立性」が十分保証されているので、「仮説系」からみちびきだされる諸結果が、相互に矛盾することがないこともあきらかであると思われる。

(6)適切性
私は、私の立てた「仮説系」からみちびきだされる諸結果が、文献上、あるいは考古学上の諸事実を、かなり適切に、無理なく説明するものであるように思っている。

しかし、これについては、異論のある方もおられるであろうから、そのような意見は、どんどんだしていただきたい。それに答えるという形で、「仮説系」が、どのていど妥当であるかが検討されることとなる。

(7)検証性
私の立場は、ある意味で、かなり「実証的」であると思っている。観念だけによって、議論を進めようとは、していないつもりである。できるかぎり、文献上、考古学上の諸事実と、客観的に、きちんと照合することをめざしているつもりである。しかし、そうでないと思われる点があれば、ご指摘いただきたい。また、そのような照合をおこなうために必要な「客観的な基準」も、提示したつもりである。

要するに、邪馬台国議論の全体の構造としては公理的方法を用いましょう。それで全体が説明できますよ。それを導くには、できるだけ数学的な方法を用いましょう。それがゲームチェンジャーになりうる。

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