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Rev4 2023.11.2

第408回 邪馬台国の会
卑弥呼が、魏から与えられた鏡が2面出現している!?
-京都府 元伊勢籠神社の秘宝「辺津鏡」「息津鏡」の謎-


 

1.卑弥呼が、魏から与えられた鏡が2面出現している!?

1700年以上の時空を流転した鏡。
『魏志倭人伝』記載の「銅鏡百枚」のうちの2枚の鏡。卑弥呼が見た、触れた鏡・・・。
その写真が目の前にある。
そんなことがありうるであろうか?
■元伊勢籠神社(もといせこのじんじゃ)の伝世鏡
・国宝海部氏系図に就いて
之は昭和51年(1976)6月に、現存する日本最古の系図として国宝に指定された。同系図は平安時代初期貞観年中(859~877)に書写された所謂祝部(はふり)系図(本系図)と、江戸時代初期に書写された勘注系図(丹波国造本記)とから成る。本系図は始祖彦火明命から平安時代初期に至る迄縦一本に、世襲した直系の當主名と在位年月だけを簡潔に記した所謂宗主系図であり、稲荷山鉄剣銘とよく似た様式で、堅(たて)系図の最も古い形を伝えたものと云われる。各當主名の上に押された二十八箇所にも及ぶ朱印は、今迄未解明であったが、昭和62年(1987)夏、美術印刷に秀れた便利堂の色分解に依る解析写真撮影で印影が浮かび上り、是を中世文書の権威村田正志博士が見事に解読して、「丹後國印」の文字である事が判明した。

是に依って當系図は海部氏が私に作成したものでなく、之を作成の後に丹後國庁に提出して認知を受け、更にそれを大和朝廷に差し出した所謂本系帳の副本であり得る事が証明され、国家公認のものとしてその権威が一段と高まったのである。
一方海部氏勘注系図は、始祖以来平安初期迄の系譜が省略なく記載され、之に當主の事績を始め兄弟等の傍系に至る迄詳密な注記が付されているが、その中には他の古記録には失なわれている古代の貴重な伝承も含まれていると云われ、今学界の注目を浴びている。
元伊勢の創祀以来の祀職である海部(あまべ)氏は神代以来血脈直系で世襲し、大化改新以前は丹波国造であったが、その後祝部(はふり)となり、現宮司に至り八十二代と伝えられる。

・『国史大辞典3』(吉川弘文館刊)から
籠神社(このじんじゃ)
京都府宮津市大垣に鎮座。「こもり」とよび、籠杜または籠守の字を宛てることもあるが、現称は「このじんじゃ」。旧国幣中社。『延喜式』の名神大社、丹後国一宮。旧与謝郡府中村大垣で、丹後国分寺跡にも近く、天の橋立を目の前にみる景勝の地を占めている。彦火明命を主神とし天水分神などを配祀している。与謝の海辺に住む人々にとっては古来の守り神として信仰が厚く、累代の宮司家海部(あまべ)氏もその名のごとく、海民の祖と仰がれる家すじである。
地方の古社としてはすでに嘉祥二年(849)に従五位下、元慶元年(877)には従四位上と神階は昇叙している。宮司家の秘宝である国宝の「海部氏系図」をはじめ、藤原佐理筆という扁額や石造狛犬、神社の境内から出土した経塚遺物などは重要文化財に指定されている。
(下図はクリックすると大きくなります)
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平安時代のはじめにできた『旧事紀(くじき)[先代旧事本紀(せんだいくじほんき)]』の『天神本紀』に、天照国照彦天の火明櫛玉饒速日の尊(あまてらすくにてらすひこあまのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)が天下るときに、天神(あまつかみ)の御祖(みおや)[天照大神、または、天照大神と高皇産霊神(たかみむすびのかみ)の二神]が与えた十種の天璽(あまつしるし)の瑞宝のなかに、『贏都鏡(おきつかがみ)』『辺津鏡(へつかがみ)』とがある。
ここに、『贏都鏡』と『辺津鏡』とがでてくる。

・国宝海部氏勘注系図巻首
海部氏祖神彦火明命が天祖から 息聿鏡・邊津鏡を授かり、丹波国の凡海(おおしあま)の息津嶋に降臨された記述がある。この二面の鏡は海部氏のレガリアとして伝来されている。考古資料である鏡が文献資料である系図の鏡の記述によって、その伝来起源を明確にした貴重な例である。

・神宝 邊津鏡
前漢時代(約2050年前)学名 内行花文昭明鏡
籠神社歴代宮司家に伝わった海部氏伝世鏡。
この鏡には「内而清質以而昭而明而光而夫而日而月」と十七文字、ゴチック体で銘文があり、「この鏡の質は清純で、明るく照らし、光り輝く様は日月のようである」という意味である。

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・神宝 息聿鏡
後漢時代(約1950年前)学名 内行花文長宜子孫八葉鏡
この鏡には「長宜子孫」の銘文があり「長く子孫に宜し」という意味である。
日本ではこの鏡の類品が九州・中国・近畿・東海の古墳から二十面余り出土しているが、当社宮司家の二面の鏡は出土鏡ではなく伝世鏡であり、海部宮司家当主から次の当主へと継承していく鏡である。(本文107~112ページ参照)

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■この種の鏡は、中国でも、日本でも、卑弥呼の時代に、たしかに存在した。

卑弥呼が、魏の皇帝から与えられた100面の鏡の中にはいっていた可能性がきわめて大きい2面の鏡。(下図参照)
[元伊勢籠神社歴代宮司家 海部(あまべ)氏伝世鏡。写真は『元伊勢の秘宝と国宝海部氏系図』(元伊勢籠神社社務所発行)による]

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・中国での出土例

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後漢洛陽西晋墓の場合、総数54期の墓から、22面の銅鏡、7面の鉄鏡が出土している。

「雲雷文内行花文鏡」は、中国では後漢中期ごろから、登場している。
(下図はクリックすると大きくなります)

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後漢洛陽西晋墓の場合、総数54期の墓から、22面の銅鏡、7面の鉄鏡が出土している。

「雲雷文内行花文鏡」は、中国では後漢中期ごろから、登場している。

元伊勢籠神社の「辺津鏡」「息津鏡」と関係する昭明鏡と雲雷文内行花文鏡に下線が引いてある。

卑弥呼に与えられた100枚の鏡は魏の時代にとり急いで作られた鏡ではなく、漢代の鏡や三国時代の鏡を急いで集めたものである可能性が大きい。

 

・日本での出土例
佐賀県、福岡県が出土した鏡
(下図はクリックすると大きくなります)408-07

内行花文昭明鏡の出土地
長宜子孫内行花文鏡の方は類品が、九州、中国、近畿、東海の各地の古墳からの出土例がある。例えば、佐賀県三養基郡上峰村一本谷石棺墓、唐津市桜馬場弥生時代後期遺跡、福岡県糸島郡二丈町銚子塚、同郡前原町平原古墳、尼崎市塚口池田山古墳、天理市柳本町天神山古墳、岐阜市鴬谷瑞龍寺、松阪市清生町茶臼山古墳などである。本品も、古墳の副葬品であったかもしれないという可能性もある。
(下図はクリックすると大きくなります)408-08

わが国における『昭明鏡』の出土地をまとめると下の表のようになる。これは下の文献にもとづいて作成した。
①下垣仁志『日本列島出土鏡集成』(同成社2016年刊)
②『考古学大観6 弥生・古墳時代青銅・ガラス製品』(小学館2003年刊)
③『元伊勢の秘宝と国宝海部氏系図』(元伊勢籠神社社務所、1988年刊)
(下図はクリックすると大きくなります)408-09

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例として、番号3がある。これは福岡県田川市で、箱式石棺から出土した。箱式石棺は卑弥呼の時代である。また、甕棺からも出土している。甕棺は卑弥呼の時代の前である。

上の表から分かるように、畿内説である下垣氏が弥生時代以前の遺跡から出土したとする昭明鏡は福岡県、佐賀県から多く出土している。
そして、同じように下垣氏が弥生時代以前とする雲雷文内行花文鏡も福岡県、佐賀県から多く出土している。その中で、下垣氏が倭鏡とする鏡は少ない。
(下のグラフ参照)

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それに対し、下垣氏が古墳時代以後の遺跡から出土した「雲雷文内行花文鏡」は、奈良県が多くなる。その奈良県では、下垣氏が倭鏡とする鏡が多くなる。

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そして、雲雷文内行花文鏡は、元伊勢籠神社の鏡(前の方の写真参照)と倭鏡を比較すると、倭鏡(下図参照)はシンプルなデザインとなっている。そして、奈良県の新山(しんやま)古墳から13面出土している。中国の墳墓では鏡がこのように大量出土することはない。408-13

このことは、小形仿製鏡と西晋鏡(西晋の時代265~316年)でも同じ傾向があり、小形仿製鏡Ⅱ型は福岡県、佐賀県から多く出土しており、西晋鏡は奈良県から出土したものが多くなる。

 

これを「大激変」として表す。
ここまで調べたものは、すべて、福岡県を中心とする北部九州を中心として分布する。
それは、時期的にみれば、次のようなものである。
(1)中国では、おもに、前漢(紀元前202年~紀元後8年)から、西晋(265年~316年)のころのものとして出土している遺物である。
(2)日本では、おもに、弥生時代・庄内期にかけてのころ、出土している遺物である。
(3)邪馬台国の時代も、この時期のうちに含まれる。このような状況は、邪馬台国が、北部九州にあったことを強く指し示す。

ここで、大激変が起きる。以後、鏡などが、奈良県をはじめとする近畿を中心に分布するようになるのだ。(320~350年)
(下図はクリックすると大きくなります)

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それは、時期的にみれば、次のようなものである。
(1)中国では、東晋(317年~420年)以後の時代にほぼあたる。
(2)日本では、古墳(前方後円墳)時代、布留式土器以後の時代に、ほぼあたる。
(3)大和朝廷が成立し、発展した時代にあたる。
以下では、その状況をみてみよう。

「大激変」は、日本が国交をもった中国の国が、大きくみれば、北中国(華北、西晋の国)から、南中国(華中・華南、東晋の国)に変わったことと対応している。(280年、呉が滅亡)

考古学者の森浩一氏は、合わせ鏡について、つぎのようにのべている。
「中国では、日本のように、一人の墓の中にたくさん二十何枚もの鏡は入れないのですね。入れるばあい、10センチ足らずの鏡と12センチ~13センチの鏡。あれは合わせ鏡なのですね。大きいほうの12センチ~13センチの鏡で、前を映して、小さい鏡でうしろあたりを見たりする、合わせ鏡です。そういうふうに使ったのですね。二枚ある。たしか馬王堆(まおうたい)古墳(湖南省長沙市)では、お墓の中に入れた品物のリストを一緒にお墓に入れていますね。遺策(竹簡)と言ったのかな、その中に大きな鏡と小さな鏡と二つきちんと書いてあります。」(森浩一「魏鏡と『倭人伝』への認識をぼくが深めていった遍歴」[『季刊邪馬台国』110号、梓書院、2011年刊])。408-15

合わせ鏡が墓のなかにいれられているということは、その鏡が、被葬者生前の使用品であったということである。化粧用の鏡であったということである。
鏡は、漆ぬりの奩(れん)[化粧箱]にいれられているものがあり、鈕(ちゅう)には繊維の残るものがあった。つまり、紐(ひも)が通されていたのである。
これは、三角縁神獸鏡の鈕(ちゅう)[つまみ]の孔が「鋳放し(鋳たままで仕上げをしていないもの)」で、鈕の孔がふさがっていて、紐(ひも)が通らないものであったりするのとは、異なっている。

 

■年代と系譜
・年代
年代問題については、2022年7月24日の「第401回の邪馬台国の会」で、ややくわしく検討している。
「統計学的年代論」「パラレル年代推定法」など。

平安時代のはじめにできた『旧事紀(くじき)[先代旧事本紀(せんだいくじほんき)]』の『天神本紀』に、天照国照彦天の火明櫛玉饒速日の尊(あまてらすくにてらすひこあまのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)が天下るときに、天神(あまつかみ)の御祖(みおや)[天照大神、または、天照大神と高皇産霊神(たかみむすびのかみ)の二神]が与えた十種の天璽(あまつしるし)の瑞宝のなかに、『贏都鏡(おきつかがみ)』と『辺聿鏡(へつかがみ)』とがある。
ここに、『贏都鏡』と『辺聿鏡』とがでてくる。

・先代舊事本紀卷第三(さきのよのふることのふみみまきにあたるまき) 天神本紀(あまつかみのもとつふみ)の記述

正哉吾勝々速日天押穗耳尊(まさやあかつかつはやひあまのをしほみみのみこと)
天照太神(あまてらすおほみかみ)詔曰(みことのりてのたま)はく「豊葦原之千秋長五百秋長之瑞穂國(とよあしはらのちあきながいほあきながのみづほのくに)は吾御子正哉吾勝々速日天押穗耳尊(あがみこまさやあかつかつはやひあまのをしほみみのみこと)の知(しら)す可(べ)き國(くに)なり」と言寄(ことよさ)し詔賜(のりごちたまひ)て、天降(あまくだし)たまふ。
時(とき)に、高皇産靈尊(たかみむすびのみこと)の兒(みこ)思兼神(おもひかね)の妹(いも)萬幡豐秋津師姫栲幡千々姫命(よろづはたとよあきつしひめたくはたちちひめのみこと)を妃(みめ)と爲(な)して、天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてらすくにてらすひこあまのほあかるくしたまにぎしはやひのみこと)を誕生(あれま)す。

時(とき)に
正哉吾勝々速日天押穗耳尊(まさやあかつかつはやひあまのをしほみみのみこと)奏曰(まうしてまを)さく「僕將(あれませ)に降(あまくだ)らむと欲(おも)ひ裝束間(よそうま)に所生(あれませ)る兒(みこ)あり。此(これ)を以(も)て降可(あまくだすべ)し」とのたまふ。詔(みことのり)して之(これ)を許(ゆるし)たまふ。

天神御祖(あまつかみのみおや)詔(みことのり)て、天璽瑞寶十種(あまつしるしのみづのたからとぐさ)を授(さづけ)る。嬴都鏡一(おきつかがみひとつ)邊津鏡一(へつかがみひとつ)、八握劔一(やつかのつるぎひとつ)、生玉一(いくたまひとつ)、死反玉一(よみかへしのたまひとつ)、足玉一(たるたまひとつ)、道反玉一(みちかへしのたまひとつ)、蛇比禮一(へみのひれひとつ)蜂比禮一(はちのひれひとつ)、品物比禮一(くさぐさのひれひとつ)と謂(のたま)ふは是(これ)なり。

これは、天照大御神から尾張氏の祖先(天の火明の命)に、「息津鏡」と『辺聿鏡』が与えられていることを記している。そして、尾張氏の子孫の海部氏が神主であるところから、「息津鏡」と『辺聿鏡』が保存され、出てきたことになる。その鏡は中国にも、日本にもあったものである。

・山陰道 丹波(たには)の国造
志賀高穴穂朝の御代に、尾張(おわり)の国造と同じ先祖(天の火明の命)、建稲稲の命(たけいなたねのみこと)の四世の孫の大倉岐(おおくらき)の命を国造に定めた(丹波は京都府北部を兵庫県北東部)とある。

丹波の国造は「天理図書館善本叢書」{卜部兼永自筆本の写真版に落ちていて、延本[鼇頭(ごうとう)(頭注)旧事記]によっておぎなわれている。}

丹波の国造の記述は下記となっている
国名:丹波(たには)
先祖の系統:天の火明の命(あめのほあかりのみこと)[尾張(おわり)氏の祖]系[建稲種の命(たけいなたねのみこと)の四世の孫の大倉岐の命(おおくらきのみこと)]

尾張氏(あるいは物部氏をふくむ饒速日の命系の人々)にとっての元伊勢籠神社を、天皇家にとっての伊勢神宮にあたるようなものと考える。

 

・系図
『先代旧事本紀』の系図には尾張氏系図が書いてあって、天の火明の命と饒速日の命が同一人物であるとして、子孫が延々と書いてある。そいて、第11代の乎止与命(をとよのみこと)と第12代の建稲種命(たけいなだねのみこと)がでてくる。

この建稲種命は『古事記』「応神記」に尾張の連の祖、建伊那陀宿禰(たけいなだのすくね)と同一人物だと考えられる。
尾張氏系図は下の『先代旧事本紀』巻五「天孫本紀」所載尾張氏系図を参照(下図はクリックすると大きくなります)

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そして、国宝海部氏系図では、第14世の小登藇?命(おとよのみこと)と第15世の建稲種命(たけいだねのみこと)がでてくる。そして建稲種命の子が大倉岐命(おおくらきのみこと)となる。
上の系図には「大倉岐の命」は出てこないが、『先代旧事本紀』の国造本紀は丹波(たには)の国造について、建稲種命の4世の孫として 「大倉岐命」が出てくる。下の系図では子としている。( 下の籠名神社祝部海部直氏歴世系図を参照)

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江戸時代末から明治時代に生きた鈴木真年(まとし)[1831~1864(明治27)]が膨大な量の過去系図をまとめたものを残した。それをもとにして宝賀寿男氏が『古代氏族系所集成』を書いた。その『古代氏族系所集成 中巻』(古代氏族研究会発行)1294ページにあるのが下の系図である。(下図はクリックすると大きくなります)

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そこでは、「大倉岐命」と「建稲稲命」(◎参照)が出てくるが、また違った系譜となっている。

本居宣長は、『古事記伝』のなかで、つぎのように述べている。
「『先代旧事本紀』の巻三の、饒速日の命(にぎはやひのみこと)が、天から降ったときのことや巻五の尾張の連(おわりのむらじ)・物部の連(ものべのむらじ)の世系や巻十の国造本紀など、これらは、どの本にも見えず、あらたに造ったとも見えないので、他に古い本があって、そこからとったのであろう。」

本居宣長のように、これらの系図から、系譜に違いあるが、これらの人物は、捏造ではないと考えてもよいのではないか。

 

・邇波(にわ)丹波(たんば)
尾張国略図に丹羽郡(にわぐん)があり、その地域のなかに海部郡(あまのこおり)がある。(下の地図参照)408-19

下記の他の例がある
墨江(すみのえ)→住吉(すみのえ)→住吉(すみよし)
漢字に引っ張られれて、墨江(すみのえ)が住吉(すみよし)になった。

同じように、
邇波(にわ)→丹羽(にわ)→丹波(たんば)
となり、そこから、邇波(にわ)丹波(たんば)になったと考えられる。
つまり、尾張から丹波が来ていると考えられる。

また、佐伯有清著『新撰姓氏録の研究』(巻三、吉川弘文館刊)に下記のようにある。
但馬海直(たぢまのあまのあたへ)。火明命(ほあかりのみこと)の後(すゑ)なり。

但馬海直
但馬海の氏名のうち、但馬は後の但馬国(兵庫県)の地名にもとづき、海はかつて海部の伴造氏族であったことにもとづく。

但馬海直氏の一族の人名は、他の史料にみえない。

本条の但馬海直氏の同族に丹後国与謝郡の海直(海部直)氏があり、その一族に丹後国与謝郡の大領、海直忍立(天平十年「但馬国正税帳」2-61)がおり、また同氏には『丹後国与謝郡籠神社海部系図』『丹後国与謝郡籠神社税(祝カ)部氏系図』があり、海部直都比(『海部系図』『日本古代人名辞典』1-100)・海部直県(同上、『日本古代人名辞典』1-99)・海部直阿知(同上、『日本古代人名辞典』1-99)・海部直刀(同上、『日本古代人名辞典』1-100)・海部直葧?挂?(同上、刀の児)・海部伍佰道(同上、『日本古代人名辞典』1-99)・海部直愛志(同上、『日本古代人名辞典』1-99)・海部直千鳥(同上、『日本古代人名辞典』1-100)・海部直千足(同上。『日本古代人名辞典』1-100)・海部直千成(同上、『日本古代人名辞典』1-100)・海部直綿麿(同上、『日本古代人名辞典』1-101)・海部直雄豊(同上、綿麿の児)・海部直田継(同上、雄豊の児)・海部直田雄(同上、田継の児)らの名がみえる。

ここで、
邇波県(にわのあがた)
大荒田命の後裔と伝える氏族。『先代旧事本紀』天孫本紀に「十二世孫建稲種命。此命。邇波県君大荒田女子玉姫為妻」とある。邇波県は尾張国丹羽郡丹羽郷の地名と関係すると考えられる。

海部(あまべ)
丹後国には天平十年「但馬国正税帳」によると、与謝郡大領として海直忍立がいる。
この一族と思われる者に『丹後国与謝郡籠神社海部系図』にみえる海部直氏がいる。この氏族は祝として歴代籠神社に奉仕している。

更に、『古事記』の「応神天皇記」によれば、新羅の王子の天の日矛がもってきた玉津宝(たまつたから)八種のなかに、「奥津鏡」と「辺津鏡」とがある。
ここでも、「奥津鏡」と「辺津鏡」とがでてくる。
そして、『日本書紀』の「垂仁天皇紀」三年の条、および、八十八年の条によれば、新羅の王子 天の日槍(あめのひぼこ)がもってきた宝物七種または八種のなかに、「日の鏡」がある。
『古事記』と『日本書紀』とをあわせ考えれば、「奥津鏡」「辺津鏡」とが、「日の鏡」であることになる。
内行花文鏡が、太陽の輝きをとらえた模様だと推定されているとする森浩一氏の推定がある。

また「昭明鏡」の中にも、「日、月」の文字がある。
天照大御神が、太陽神であることと、なにかの関係があるのであろうか。

中国と日本とでは、鏡の使用目的が違う。中国では、死者生前の使用品が、墓にうずめられた(あの世でも使ってもらうためかとみられる)。そのため、中国で出土した鏡は、一般に、あまり大きくない(大きいと重くて、もち運びに不便である)。
また、一つの墓に埋納される鏡は、1、2面がふつうである。
日本では、鏡は、「葬具」として、いわば、花輪的に用いられた。そのために、立派にみえるように、面径のより大きな鏡が埋納されるようになった。また、何人かの人がささげるために、一つの墓に何面もの鏡が埋納されるようになった。そのさい、築造される古墳の近くで、同じ鏡作り師(集団)に、製作を依頼するため、同じ鏡[同笵(どうはん)鏡、同型鏡]が何面も、一つの墓に埋納されることが起きるようになった。

 

・魏や晋の時代、中国の北方では、銅材が不足していた。
このことについて、中国の考古学者、徐萃芳氏は、「三国・両晋・南北朝の銅鏡」(王仲殊他著『三角縁神獣鏡の謎』角川書店、1985年刊所収)という文章のなかで、つぎのようにのべている。
「漢代以降、中国の主な銅鉱はすべて南方の長江流域にありました。三国時代、中国は南北に分裂していたので、魏の領域内では銅材が不足し、銅鏡の鋳造はその影響を受けざるを得ませんでした。魏の銅鏡鋳造があまり振るわなかったことによって、新たに鉄鏡の鋳造がうながされたのです。数多くの出土例から見ますと、鉄鏡は、後漢の後期に初めて出現し、後漢末から魏の時代にかけてさらに流行しました。ただしそれば、地域的には北方に限られておりました。これらの鉄鏡はすべて夔鳳鏡(きほうきょう)に属し、金や銀で文様を象嵌(ぞうがん)しているものもあり、極めて華麗なものでした。『太平御覧』〔巻717〕所引の『魏武帝の雑物を上(のぼ)すの疏(そ)』(安本註。ここは「上(たてまつ)る疏(そ)」と訳すべきか)によると、曹操が後漢の献帝に贈った品物の中に。”金銀を象嵌した鉄鏡”が見えています。西晋時代にも鉄鏡は引き続き流行しました。洛陽の西晋墓出土の鉄鏡のその出土数は、位至三公鏡と内行花文鏡に次いで、三番目に位置しております。北京市順義、遼寧省の瀋陽、甘粛省の嘉峡関などの魏晋墓にも、すべて鉄鏡が副葬されていました。銅材の欠乏によって、鉄鏡が西晋時代の一時期に北方に極めて流行したということは、きわめて注目に値する事実です。」

西暦280年に、華北の洛陽に都する西晋の国は、華中・華南の長江流域に存在した呉の国を滅ぼす。呉の都は、建業(南京)にあった。

その結果、華中・華南の銅が、華北に流れこみ、華北で、華中・華南の銅原料を用い、華北の文様をもつ青銅鏡がつくられるようになったとみられる。
西晋時代の「位至三公鏡」で、墓誌により年代の推定できるもの十二面が、すべて、西暦285年以後に埋納されたものである

★皇室における伊勢神宮のような存在が、物部氏・尾張氏における元伊勢籠神社のようにみえる。

 

まとめ
(1)京都府の元伊勢籠神社(もといせこのじんじゃ)宮司家・海部(あまべ)氏に伝えられてきた「辺津鏡(へつかがみ)」「息津鏡(おきつかがみ)」の二面の鏡は魏の時代に中国に存在していた鏡で、確実に中国から来た鏡であるといえる。

(2)この海部氏は尾張氏から出ている。「海部氏系図」は、海部氏の「大倉岐(おおくらき)の命(みこと)」(『先代旧事本紀』の「国造本紀」に、「丹波国造」とある)を、建稲種の命の子とし、「国造本紀」は、建稲種の命の四世の孫とする。この建稲種の命は『古事記』の「応神天皇記」に、「尾張の連の祖、建伊那陀の宿禰(たけいなだのすくね)」とある人物である。『先代旧事本紀』に建稲種の命、「邇渡の県の君(にわのあがたのきみ)」のむすめと結婚したと記す。「邇波(にわ)」は尾張の国の「丹羽(にわ)郡」と関係があるとみられ、「丹羽(にわ)」は「丹波(たんば)」の地名と関係するとみられる。

(3)尾張氏の祖先は、饒速日の命(にぎはやひみこと)[天の火明の命(あまのほあかりのみこと)]である。

(4)饒速日の命は天照大御神から、『嬴津鏡(おきつかがみ)』と『辺津鏡(へつかがみ)』とを与えられている(『先代旧事本紀』の「天神本紀」)。

(5)天照大御神は卑弥呼のことが伝承したとみられる。
卑弥呼は、中国から、百枚の銅鏡を与えられている。
天照大御神が、饒速日の命に与えた「辺津鏡」「息津鏡」とは、年代の一致からみて、「百枚の鏡」の中の二枚である可能性が大きい。

(6)丹波地方は、「昭明鏡」や「雲雷文内行花文鏡」などの出土地の中心地域ではない。分布振動の震源地は、九州地方とみられ、これらの鏡は、九州地方からもたらされたと考えられる。


・「三角縁神獣鏡」を「卑弥呼の鏡」とする見解がある。
しかし・・・
(1)「三角縁神獣鏡」は中国の全土から、一面も出土していない。卑弥呼が存在したころ、「三角縁神獣鏡」が中国に存在したという確証がない。

(2)日本では、弥生時代、庄内様式期の時代の遺跡から「三角縁神獣鏡」が出土した確実な例がない。「三角縁神獣鏡」は、古墳時代、布留式土器の時代の遺跡から、確実に、かつ、大量に出土する。
「三角縁神獣鏡」は日本でも、卑弥呼の時代に存在したという確証がない。

(3)「三角縁神獣鏡」には、南中国(華中、華南)の銅が用いられている(鉛同位体比の分析による)。このような銅原料は、280年に、呉が、西晋の国によって滅ぼされた以後、南中国から、北中国にもたらされたものと考えられる。魏の国の時代の話ではない。西晋の国の時代になって、南中国の銅原料を用いて、北中国系の文様をもつ「位至三公鏡」などが作られるようになったとみられる。それまで魏の国では、銅原料が不足していた。
「三角縁神獣鏡」が作られるようになるのは、「位至三公鏡」などの「いわゆる西晋鏡」よりも、さらにのちの時代のこととみられる。そうでなければ、庄内様式期の時代に「位至三公鏡」にまじって、「三角縁神獣鏡」が出土しないのがおかしい。

「三角縁神獣鏡」問題については、機会をあらためて、さらにくわしくのべたい。

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