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ホケノ山古墳の年代について


■ 平成12年3月28日 新聞各紙の報道

ホケノ山古墳(奈良県桜井市箸中の大和古墳群)を発掘調査していた奈良県橿原考古学研究所 大和古墳群調査委員会(樋口隆康委員長 岡林孝作発掘主任)は、古墳の築造年代を3世紀中葉の最古の前方後円墳であると発表した。

3世紀中葉ということは、邪馬台国の卑弥呼の時代ということで、畿内説の考古学者はこぞってコメントを発表された。

発掘調査により明らかになった主な事項(新聞報道の抜粋)
  1. 古墳の構造は石で囲った木槨(一部ヒノキ材)の中に長大なくりぬき式木棺(コウヤマキ材)を据えた前例のない三重構造で、墳丘墓と前方後円墳の双方の要素をもつ構造。

  2. 棺内中央部に水銀朱の塊がある。

  3. 二重口縁壺(庄内式土器)20ケ以上が石囲いの内側から等間隔で配置(埴輪か?)

  4. 画文帯神獣鏡1面(「吾作明竟」から始まる計56文字の吉祥銘文入りの「同向式」)

  5. 内行花文鏡1面の破片2点

  6. 画文帯神獣鏡2面の破片数点

  7. 銅鏃(やじり)60点

  8. 素環頭太刀

  9. 鉄剣・鉄鏃・鉄農具など鉄製品130点以上



■ ホケノ山古墳発掘について、安本先生のコメント
事実を無視して、大々的なPRに走ってはならない

すこしきつい表現になるが、はっきりものをいおう。
最近の関西発 邪馬台国関連発掘ニュースは、なにやら、大本営発表に似てきている。

発言権をにぎった発掘者が、しばしば、はじめから邪馬台国=大和説の前提で発表を行う。
新聞社や、テレビ局の関西本社などの担当者は、ご当地びいきからか、あるいは、卒業した関西の大学で、邪馬台国=大和説をたたきこまれたためか、情報を得るのを有利にするためか、大和説の前提で、報道をおこなう。
さらによくみれば、邪馬台国と直接関連のない情報までも、ニュースヴァリューを高めるために、邪馬台国と結びつけて報道する。

発掘の当地から発信されれば、他の地域は、その情報を、全国ネットで流さざるをえない。 ところが、もとの情報は、はじめからバイアスがかかっているのだ。

かくて、バイアスのかかった情報が、事情をよくしらない人たちに、大々的にインプットされていく。

なにやら、マインドコントロールの図式に近い。客観的な事実があって、客観的な検討が必要なのであるが、客観的な検討がぬけて、発掘が、特定の説や立場のPRの具となっている。注意が必要である。


今回の発掘は、疑問点があまりにも多い。
まず、「木槨木棺墓がみつかった」「木の枠で囲った部屋があり、その中心に、木棺があった」という。

この事実じたいが、ホケノ山古墳の築造年代が、「邪馬台国時代に相当する三世紀中頃」という判断を疑わせる。

「魏志倭人伝」には、倭人の葬式は、

   「棺あって槨なし。」

と、明記しているのだ。木槨のなかに木棺があったのでは、「魏志倭人伝」の記述に合っていない。

「三国志」の著者は、葬式には、関心をもっていた。  たとえば、
  • 「韓伝」「夫余伝」では、それぞれ、「槨あって棺なし」、

  • 「高句麗伝」では、「石を積みて封となす」、

  • 「東沃沮伝」では、「大木の槨を作る、長さ十余丈」
などと、いちいち書きわけている。

畿内の「木槨木棺墓」も「竪穴式石室墓」も、「棺あって槨なし」にあわない。 邪馬台国が、かりに大和にあったとすれば、魏の使は、それらの葬式を見ききせずに記したのであろうか。

「木槨木棺墓」や「竪穴式石室墓」、さらには「横穴式石室」は、時代の下った「隋書倭国伝」の、

   「死者を斂めるに棺槨をもってする」

という記事と、ぴたり一致する。 中国人の観察、弁別記述は鋭い。

いっぽう、九州の福岡県前原市の平原遺跡からは、39面の鏡が出土したが、 平原遺跡では、土壙(墓あな)のなかに、割竹形木棺があった。割竹形木棺は、幅1.1メートル、長さ3メートル。ここでは、「木の枠で囲った部屋」などはない「魏志倭人伝」の記述にあっている。

平原遺跡の時期は、1998年度の確認調査で、周溝から古式土師器が出土し、また、出土した瑪瑙管玉、鉄器などから、「弥生終末から庄内式(時代)に限定される」(柳田康雄「平原王墓の性格」「東アジアの古代文化」1999年春・99号)

これこそ、三世紀の邪馬台国時代に相当するといえよう。

北九州で多量に発見される甕棺墓や箱式石棺墓なども、「棺あって槨なし」の記述に合致するといえよう。


そもそも、ホケノ山古墳の築造年代が「邪馬台国時代に相当する」という判断は、どのような根拠にもとづくのか。
一つは、「庄内式土器」が出土したということによっているようである。

しかし、邪馬台国=畿内説をとる考古学者でも纒向遺跡を発掘した関川尚功氏などは、庄内式土器を、「卑弥呼の活動していた時期よりものちの時代の土器」とする(「庄内式土器について」「季刊邪馬台国」43号)

庄内式土器の年代については、考古学者のあいだで、一致した見解がえられているわけではないのだ。

ホケノ山古墳に近い箸墓古墳の築造年代なども、三世紀後半にくりあげる考古学者が多い。しかし関川氏は、四世紀中ごろのものとしている。

「日本書紀」の伝承では、箸墓古墳の被葬者は、崇神天皇の時代に活躍した倭迹迹日百襲姫とされている。いっぽう、崇神天皇陵古墳については、四世紀中ごろの築造と見るのが、考古学者の多数意見である。とすれば、箸墓古墳の築造年代も、四世紀中ごろとし、崇神天皇陵古墳とほぼ同時代としたほうが、文献的事実ともあう。

私は、ホケノ山古墳を、西暦300年ごろに築造されたもの、箸墓古墳を、西暦350年ごろ以降に築造されたものとみる。

西暦247か248年になくなった卑弥呼と結びつかない。

画文帯神獣鏡がでたことなどは、古墳の築造年代をきめる上で、なんの参考にもならない。
画文帯神獣鏡は、全国で、およそ150面出土しているが、ほとんどは、四世紀代の古墳から出土している。
なかには、埼玉県の稲荷山古墳や、熊本県の江田船山古墳のように、五世紀末の、雄略天皇時代のものとみられる古墳からも出土している。

そして、「神獣鏡」は、長江下流域の中国南方系の鏡である。
中国北方の魏と交際のあった邪馬台国の鏡として、ふさわしくない。

平原古墳の39面の鏡などは、すべて、中国北方系の鏡である。

卑弥呼が、魏からもらった鏡はすでに中国の代表的考古学者、王仲殊氏、徐苹芳氏などが強くのべているように、方格規矩鏡、内行花紋鏡、獣首鏡、き鳳鏡、盤竜鏡、双頭竜鳳紋鏡などであり、三角縁神獣鏡や、画文帯神獣鏡は、はいらない、とみるべきである。

三角縁神獣鏡も、画紋帯神獣鏡も、卑弥呼が魏からもらった鏡とすると、総数で我が国から600面以上すでに出土していることになる。卑弥呼がもらった100面の鏡としては、数が多すぎる。

画紋帯神獣鏡も、三角縁神獣鏡とおなじく同型鏡が、数多く出土している。今、出土しているものは、ほとんどが、我が国でつくられたものであろう。いわゆる踏み返し鏡といわれるコピー鏡であろう。

■ ホケノ山古墳の示す事実そのものは、「魏志倭人伝」の記述に合っていない。

■ 事実を無視して、大々的なPRに走ってはならない。


 「邪馬台国の会」内野会長、畿内説支持者を批判

新聞報道のあった翌日の平成12年3月29日(水)、日本テレビの朝のニュース番組「じぱんぐ朝6」に、「邪馬台国の会」内野会長が出演しました。

内野会長のコメント
「ホケノ山古墳」の発掘が畿内説に有利には働かない。
その理由は、『魏志倭人伝』には「棺(かん)あれど槨(かく)なし」と記述されています。 「ホケノ山古墳」には槨があり、『魏志倭人伝』の記述と矛盾している。

「畿内説支持者が古墳の築造年代を古く古く持っていこうとする風潮はいかがなものか?」


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