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季刊邪馬台国73号「ニュースフラッシュ」をもとに構成
勝山古墳の年代について


勝山古墳の木製品
2001年5月31日付の朝刊各紙は、奈良県桜井市の 勝山古墳の周濠から見つかった木製品が、年輪年代法の測定により、三世紀初めに伐採 されたヒノキだったことを報じている。

さらに、つぎのようなことも、報道された。
  • 勝山古墳の築造年代が、三世 紀前半までさかのぼることになりそうだ。
  • 「邪馬台国=畿内説」が裏づけられた。
ほんとうにそうなのか検証してみよう。

   勝山古墳の築造年代は、三世紀前半までさかのぼるれるのか?
新聞報道と橿考研の発表内容について、つぎの3つの疑問についてしらべてみよう。  
疑問 1   年輪年代法は信頼できるのか? 信頼できる。

年輪により年代を正確に定める年輪年代法の技術は、統計学的に洗練さ れており、高い水準に達している。得られた結果は、貴重 で、信頼できる。 →

ただし、原木の伐採後、加工するまでの原木を保 管したり、古材を再利用することがあり、年輪年代法で得られた結果だ けで遺跡の年代を決めることは慎重を要する。 →
疑問 2 伐採年代と古墳の築造時期をほぼ同じころと見て良いのか? 同時期という根拠がない。

多くの事例が示すように、木材を伐採した年代と、建築物などを作った年代と、一般的には合致しない。 →

橿考古学研究所の発表した下記の理由は根拠が不明。
  • 年輪の状態などから他の建物からの転用ではない。
  • 紫外線による劣化がなかったことから伐採後すぐ使われたことがわかった。
疑問 3 同時に出土した土器の年代は3世紀前半までさかのぼるれるのか? さかのぼれない。

『読売新聞』の報ずるところでは、勝山古墳の場所から、同 時に、「布留O式」の土器が出土しているという。

研究者により、多少の違いはあるが、布留式土器は3世紀後半以後のものとみられて いる。
  • 寺沢薫氏      3世紀後半以後
  • 都出比呂志氏   3世紀後半以後
  • 柳田康雄氏   4世紀初め(300年)以降
  • 関川尚功氏   4世紀中頃(350年)以降  


結論

 勝山古墳の築造年代は、3世紀前半にはさかのぼれない。
年輪年代法によるデータは信頼がおけるものの、木材の伐採年代と古墳の築造年代を 同一時期とする主張は、根拠に乏しい。

一般的に、これら二つの年代には大きな差がある。

一般的な状況に反して、勝山古墳の事例では伐採と古墳築造が同時期であると、特別の判定するためには、多くの人が納得できる明確な根拠を提示する必要がある。

さらに、同時に出土したという布留0式土器の年代は、多くの研究者が3世紀後半以降の土器としている。
古墳の築造年代を判定するときには、199年ごろに伐採されたという木片と、3世紀後半以降の土器の両方を考慮しなければならない。

古い遺物と、新しい遺物とが、同じ遺跡から出土したならば、その遺跡の築造年代は、新しい遺物によってきまる。

すなわち、勝山古墳の築造年代は、新しい遺物である布留0式土器の年代によって決めるべきである。

以上のことを総合すると、 勝山古墳の築造年代は、3世紀前半にさかのぼることはできないとの結論になる。




勝山古墳の築造年代によって

「邪馬台国=畿内」説が裏づけられるのか?

邪馬台国所在地論争の手順
「邪馬台国」は魏志倭人伝のなかに詳しく描写される。邪馬台国問題の原点は魏志倭人伝である。
邪馬台国を考えるときには、魏志倭人伝にどう書かれているかが出発点。

邪馬台国の所在地論争は、
  • 候補地が、魏志倭人伝の記述にどれだけ適合しているか。
  • 候補地が、魏志倭人伝の記述の直接的な証拠をどれだけ提示できるか。
などについて検討されるべきである。

勝山古墳の築造年代の議論は、このいずれにも当てはまらない。 邪馬台国とは無関係な、あるいは、一歩譲っても、かなり間接的なことがらについての議論である。

従って、この議論がどのように展開しようとも、それだけでは「邪馬台国=畿内説」を裏付けることにはならない。

邪馬台国の所在地の検証のためには、勝山古墳の木片の議論よりも、「魏志倭人伝」が描いていることと、畿内や各地で出土した遺物との関係を調べ、邪馬台国=畿内説が成立するかどうかを検証することのほうが重要である。

以下にそれを見てみよう。

「魏志倭人伝」に記載された遺物の九州・近畿・関東の比較
( ◎ 他地域より多い事物   ○ 他地域よりやや多い事物 )
魏志倭人伝の記載項目 九州 近畿 関東
人口    
矛(戈)    
   
銅鏡    
   
鉄鏃    
   
勾玉    
卜占遺跡     ○ 

(参考)「魏志倭人伝」に直接記載のないもの
項目 九州 近畿 関東
三角縁神獣鏡    
銅鐸    
○     

魏志倭人伝の記述と、各地の出土遺物の関係から言えること

  • 「魏志倭人伝」に描かれた遺物は、数の上では九州の方が畿内に比べて圧倒的に有利。

  • 三角縁神獣鏡と銅鐸は、畿内から多く出土するが、三角縁神獣鏡は、国産鏡の可能性が強いと考えられるし、銅鐸は「魏志倭人伝」に全く描かれていない。

  • 少なくとも、直接的に「魏志倭人伝」に書かれているものを考えたならば、邪馬台国の候補地としては九州の方が明らかに優位である。

結論

 勝山古墳の築造の年代では、「邪馬台国=畿内説」を裏づけられない。
魏志倭人伝に照らして、各地の出土遺物をみたときに、邪馬台国=畿内説そのものが成立しない可能性が高い。 このような現実を状況をきちんと認識すれば、勝山古墳の木片の議論が、いかに遠まわしで説得力の弱い議論かがわかる。

魏志倭人伝との関連や、邪馬台国=畿内とする直接的な根拠の提示なしに、遠まわしの議論を繰り返しても、とても畿内説を裏付ける論理にはならないし、砂上の楼閣がどんどん高く積み上がるだけのように見える。



勝山古墳の報道を巡るマスコミの姿勢について

勝山古墳の報道について、「読売新聞」では、一面のトップ記事で取り上げ、39面では、 「所在地論争決着近づく?」として、いちじるしく「邪馬台国=畿内説」にかたむいた とりあげ方をしている。

ほんとうに「邪馬台国=畿内説」に有利な材料だろうか。

「邪馬台国問題」はあくまで、『魏志倭人伝』という文献から 出発しているはずだ。

『魏志倭人伝』には、
  • 「(倭人は)兵(器)には、矛・楯・木 弓を用いる。」と記されている。

    北九州からは、銅の矛も、鉄の矛もいくつも出ているの に、纏向遺跡からは、ホケノ山古墳からも、勝山古墳から も、銅の矛も、鉄の矛も、まったく出土しないのは、どうし たわけか。

  • 『魏志倭人伝』はまた、「異文雑錦二 十匹を貢いだ」など、倭人は、絹製品をつ くっていたことを記す。

    絹製品も、北九州からいくつも出土しているのに、「纏向 遺跡」など、奈良県から、当時のものは、出土していないの はなぜだろう。

  • 倭人は、鉄利器を用いていた。

    ホケノ山古墳からは、たし かに、鉄の鉄、素環頭大刀、直刀、剣が出土しているが、福 岡県からは、奈良県をはるかに上まわる当時の鉄利器が出土 していることは、「邪馬台国畿内説」の寺沢薫氏でさえ指摘 しておられるところである。

  • 『魏志倭人伝』には、倭人の葬制は、「棺あって槨なし」と 明記している。

    これも、北九州の墓制と合致している。
    ホケノ山古墳では、「木槨」があった。『魏志倭人伝』の記述に合っ ていない。

逆に、『魏志倭人伝』には、遺跡から「邪馬台国時代の木製 品」が出土すれば、そこが、邪馬台国である、などとは、な にも記されていないのだ。

それに、北九州から、「邪馬台国時代の木製品」がすでに出 土している可能性は、きわめて大きい。
たんに、年輪年代法 や炭素14年代測定法によって測定発表されている事例は、近 畿中心のものに偏っているというだけのことではないか。

たとえば、西暦200年前後に築造されたとみられる福岡 県前原市の平原王墓出土の割竹形木棺や、福岡県小郡市の 津古生掛(つこしょうがけ)古墳出土の木棺などは、年代を測定することが可 能であったならばホケノ山古墳や勝山古墳出土の木製品と同 じような年代を与える可能性は多分にある。

「邪馬台国論争」は、『魏志倭人伝』の記述がもとになってお きている。『魏志倭人伝』の記述にあっているかどうかを考 えるのが、眼目ではないか。

『魏志倭人伝』にもとづく直接の証拠を検討せずに、いちじ るしい偏りのあるデータにもとづいたり、研究者の意図的な 報告を大々的にとりあげたり、論理構成をしすぎたりする と、旧石器担造事件と同じような空中楼閣を築くことになり かねない。

旧石器担造事件に関係し、国士舘大学イラク古代文化研究所 の大沼克彦教授は、強く警告のことばをのべている。
「私はマスコミのあり方にも異議を唱えたい。

今日のマスコミ報道には研究者の意図的な報告を十分な吟味もせずに 無批判に、センセーショナルに取り上げる傾向がある。

視聴率主義に起因するのだろうが、きわめて危険な傾向であ る。」

(立花隆編『「旧石器発掘ねつ造」事件を追う』

この言葉は、邪馬台国問題にも、ほぼそのまま、あてはま る。


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