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邪馬台国東遷説
第四章


  第四章  邪馬台国時代の遺跡と遺物
[表1]と[表2]には九州、近畿、関東のいろいろな遺跡、遺物の数が書かれております。
銅をとりましても鉄をとりましても、あるいは鉄鏃をとりましても絹をとりましても、数からいえば九州の方が畿内に比べて圧倒的に有利だと思います。畿内の方がわずかに有利なのは、三角縁神獣鏡と銅鐸ぐらいだと思います。

銅鐸は「魏志倭人伝」には書かれていません。少なくとも、直接的に「魏志倭人伝」に書かれているものを考えたならば、これは九州の方がどうみても有利だと思います。

鉄は消えてなくなるのではないかという佐原真先生のお話がございますけれども、「魏志倭人伝」に書かれているのは鉄だけではありません。他の遺跡、遺物のこともたくさん書かれています。そのほとんど全部が九州の方がずっと有利になっていると思います。
表1



表2



ここで遺跡、遺物についてもう少しくわしく考えてみたいと思います。

佐原真先生は、先日放送されたNHKの「歴史発見」で、三角縁神獣鏡がたくさん出ているから畿内、大和が邪馬台国のあった場所と見られると説明されていましたけれども、三角縁神獣鏡というのは、主に四世紀の時代にしか出てこないものだとわたくしは思います。

邪馬台国のことを議論するならば、邪馬台国時代のものをとりあげなくてはならないと思います。つまり邪馬台国時代という時代を設定して、その時代に遺跡の分布がどうなっているのかということを考えなければ議論の焦点がずれてしまうのではないかというのが率直なわたくしの感想です。

それでは邪馬台国時代の遺跡、遺物は何かということですが、埋葬形式として、まず土器の甕のなかに死体を葬るという甕棺(かめかん)の時代が西暦紀元前後から180年頃までつづく。吉野ケ里遺跡なども、主なものはこの甕棺時代のもので、邪馬台国時代より前のものだったと考えます。

甕棺時代のつぎにやってきたのが箱式石棺の時代、平らな石を組み合わせてつくるお墓の時代です。それがまさに邪馬台国時代の埋葬形式だと考えます。

そのつぎに竪穴式の石室を持つお墓の時代がやってきます。これが主に四世紀時代のお墓であると思います。そのつぎに横穴式の石室を持つお墓の時代がくる。これはだいたい五世紀頃だと思います。

つまり邪馬台国時代の遺跡、遺物を問題にするならば、箱式石棺の時代のものをとりあげなければいけないと思います。

ここで地域と時間とを限定しなければ話が混乱しますので、旧甕棺墓地域というものを設定します。甕棺のおこなわれた地域です。

この地域では、甕棺の時代のつぎに箱式石棺の時代がやってきます。ところが周辺地域には甕棺がおこなわれずに、はじめから終わりまでずっと箱式石棺が主におこなわれていました。ですから、地域と時間とを限定しなければなりません。

この甕棺がおこなわれた地域(旧甕棺墓地域)では、西暦180年頃から箱式石棺に変わるわけです。卑弥呼の時代は、箱式石棺の時代です。

[図11]をご覧ください。これは箱式石棺から出た主な遺跡、遺物です。

旧甕棺墓地域において、箱式石棺がおこなわれた卑弥呼時代のものにしぼってその分布を書いたものです。すると、昔、甕棺がおこなわれた地域では、四つの中心地があることがおわかりかと思います。

まず、福岡県前原市の平原(ひらばる)のあたり。ここから非常にたくさんの遺物が出ていますが、これは原田大六さんが発掘されたたったひとつのお墓から出たものです。これは大変なもので、もし筑後川の流域から出たものならば、文句なく卑弥呼のお墓だといっていいようなものです。

それから福岡市のあたりにひとつの中心があることがおわかりいただけるでしょう。

また、わたくしが邪馬台国があったのではないかと考える甘木、朝倉のあたりにひとつの中心地がある。

それから吉野ケ里のちょっと北側、北背振村のあたりに中心地がある。

その四つの中心地があることがおわかりいただけると思います。特に、鉄の遺跡、遺物となりますと、これは甘木、朝倉あたりが中心的になります。

図11 山田尾告示代の遺物の出土状況


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