TOP > 邪馬台国東遷説 > 第五章 前章 戻る  


      
第一章 第二章 第三章 第四章第五章
邪馬台国東遷説
第五章


第五章  台与(とよ)の時代
[図12]をご覧いただきたいと思います。この地域では初めから終わりまで箱式石棺がおこなわれていたので、箱式石棺が出たからと行って、それが邪馬台国時代のものであるとは限定できないのですが、そこにまた四つの中心地があることがわかります。

京都郡のあたり、今の行橋市のあたりにひとつの中心地がある。それから北九州市のあたりに、もうひとつの中心地がある。それから若宮町、宮田町のあたりに中心地があることがおわかりいただけると思います。さらにいまひとつの中心地は、遠賀川の上流域、香春町、田川市のあたりにある。

この四つの中心地をふくめた地域が投馬国ではないかとわたくしは考えています。

図12 投馬国の遺物の出土状況

ここからはかなりたくさんのものが出ています。不思議なことにここの箱式石棺のなかからは、極めて多量の「ヤリガンナ」が出てくる。この多量の「ヤリガンナ」は何であろうか。もし人口の点からいったら邪馬台国の地域、筑後川流域からいっぱい「ヤリガンナ」が出そうなものなのに、そうはなっていない。これはなぜであろうか。

これは家をつくるための「ヤリガンナ」ではなく、船をつくるための「ヤリガンナ」だったとわたくしは思います。その船は何であったか、少なくとも三つくらいは考えられます。ひとつは天の鳥船の神と建御雷(たけみづち)の神が出雲方面へ行ったという伝承がありますように、出雲方面へ行くための舟ということが考えられます。

表3

それからもうひとつはこの北九州のあたりに企救郡というのがありましたが、ここらへんに聞(企救)物部という人たちがいたと考えられるわけです。物部氏が、多くの船頭たちとともに、大和へ移ったという話が「旧事本紀」に書いてある。それと関係するのではないかと考えられます。

もうひとつは、遠賀川河口付近にあった神武天皇が出発した岡田の宮と関係があるのではないか。宮田町、若宮町からは簡単に遠賀川河口付近に出られるような川のルートがあるわけです。したがいまして、ここで船などをたくさんつくったためにたくさんの「ヤリガンナ」が出てきたのではないか。

問題は京都郡であります。ここに「ミヤコ」という地名が残っています。古代においては、都はしばしば移っております。中国の方に注意がむいていた卑弥呼の時代にはたしかに卑弥呼の都は甘木、朝倉地域にあったと思いますけれども、その宗女の台与の時代になったとき、都が京都郡に移ったのではないかと考えられるわけです。

ここらへんは、豊前、豊後の「豊の国」であり、「豊の国」と台与という名前は、地名が豊という国だったから台与という名前で呼ばれたのか、あるいは台与という女性がそこに住んだから地名が豊になったのかわかりませんけれども、いずれにしても、豊という人名とは、無関係ではないであろうと思います。

そしてこの台与の時代こそ、のちの大和朝廷の前史をなす大発展時代だったのだろうと思います。つまり出雲方面にはそれなりの勢力が行き、それから大和の方面にはニギハヤヒの命が行き、そして南九州にはニニギノ命が天尊降臨したという形で行き、このように北九州から日本のあちこちに勢力がおよんでいった時代だったろうと思います。その一環として南九州に降った人たちがいる、そうしてそれがのちの大和朝廷につながるということになるわけです。

この宮崎県のあたりには、しかるべき遺跡、遺物がでないではないかというようなご質問も当然あろうかと思いますけれども、それについてわたくしの答えは用意してあります。要するに神武天皇は、宮崎県から出発して大和朝廷をたてた。それは邪馬台国のヤマトの名前をつぐものであった、と考えるわけです。宮崎県に天孫降臨したのは、なんらかの史実の核があったとわたくしは考えています。



なお、邪馬台国が東遷したとする根拠について、安本先生の著書『卑弥呼と邪馬台国』から抜粋した内容を、「邪馬台国東遷説の根拠 >>としてまとめています。



  TOP > 邪馬台国東遷説 > 第五章 上へ 前章 戻る