九州説の主張

様々な研究者の見解を集めたので、邪馬台国は九州にあったとする点では共通ですが、その他については、同じ項目の中でも、必ずしも意見が統一されてないことがあります。

  

地理的・政治的状況

  • 揚子江下流域に弥生文化の源流があるとされるが、弥生文化の担い手は、対馬海流に乗って、朝鮮半島南部、北九州、出雲などに漂着した可能性が高い。これらの地域が当時の文化的な先進地域であり、その後の歴史でも主導的な役割を果たしたことは容易に想像できる。
  • 渡来人によって、朝鮮半島や中国から最先端の文化や技術が「東の果ての日本」に伝えられるとき、大陸に最も近い九州に最初に入ってくる。2〜3世紀のころは、九州が先進地域、大和は後進地域であった。
    その後の歴史を見ても「文化は西から東へ」が自然の成り行き。中国大陸や韓国の文化はまず九州に来る。
  • 強大な中国の周辺の国にとって、中国は常に脅威であり、国家維持を考えるときの重大テーマであった。大陸に近い九州のほうが、魏と同盟して支援を受けるなど、外交関係を真剣に考えたであろう。


  

国家統一の状況

  • 日本の全国統一は5世紀以降である。3世紀の邪馬台国時代の日本は、まだ地域分権国家であった(北九州、南九州、出雲、吉備、畿内、東海など)。
    この時代に、九州から畿内までの広大な地域を統治した、大和朝廷のような権力が存在したとは考えられない。
  • 弥生時代の畿内圏で、祭祀に用いられたと思われる銅鐸は、大和朝廷成立後の、わが国の歴史に一切現れない。九州地方の祭器であった銅矛・銅剣・銅斧などが神話に登場し、剣は天皇家の三種の神器の一つにまでなっている。もし天皇家が近畿圏で発生し、邪馬台国から大和朝廷に発展したのなら、どうして銅鐸の記憶が人々の頭から消えてしまったのか。邪馬台国が、九州から来て大和朝廷を樹立し、日本を統一したと考えるのが妥当ではないか。
  • 栄えていた邪馬台国が征服されたような伝説は存在しない。しかし、邪馬台国の名は突如として消えて、代わりに大和朝廷が全国統一の勢いを急に強めてくる。ヤマトという名称は九州起源と考えられることもあわせて、国家を統一した勢力が、九州の邪馬台国から畿内にきて、大和朝廷を建てたことをうかがわせる。
  • 卑弥呼は北九州時代の大和朝廷の女王であった。この国はおそらく狗奴国(熊襲)の襲撃を受け3世紀末頃に大和へ東遷した。その後、大和で勢力を蓄えた朝廷は、熊襲を倒し北九州を制圧した。(和辻哲郎)
  • 九州にあった国が、中国から見た邪馬台国であろう。4世紀後半、朝廷は応神天皇の下で朝鮮経営に乗り出したが、やがて卑弥呼の記憶も応神天皇の記憶も曖昧になり、大和から九州に里帰りするような時代になると、人々は神功皇后と卑弥呼を同じ人物とみなした。それで日本書紀は卑弥呼を神功皇后であるとほのめかしている。(井上光貞)


  

倭国大乱 

  • 桓帝・霊帝時代(147〜188)の極東アジアは、小氷期の冷涼な気候で、飢饉が続発し、中国でも黄巾の乱などの戦乱が続いた。このため、流民が馬韓・辰韓・弁韓に流れ込み、これが引き金になって、北九州地域で倭国の大乱が起こった。
  • 倭国大乱は、金印国家奴国と邪馬台国勢力の戦いである。 大乱を境にして、北九州の墓制が、甕棺から箱式石棺に代わったり、鉄製武器の出土地域が博多湾沿岸部から、内陸部の筑紫平野方面に移ったように見えるのは、勢力が博多湾沿岸の奴国から、筑紫平野の邪馬台国に移動したことで説明できる。
  • 奴国のうしろ盾の漢が戦乱で弱体化し、三国時代になったときに、魏の支持を得た邪馬台国が勢力を強め、奴国から覇権を奪った。奴国の金印は、このような戦乱のなかで、志賀島に埋められたのであろう。
    したがって、倭国の大乱は九州のなかでの戦乱で、その後30ヶ国の原始国家が北部九州に生まれ、邪馬台国が盟主として君臨する時代になる。まだこの時代には中部日本と西日本を統一する勢力はなかった。


  

女王卑弥呼

  • 卑弥呼のことが神話化し、伝説化したのが天照大御神である。天照大御神も卑弥呼も太陽を祭っていた。卑弥呼が亡くなった年の前後に、2年続けて太陽の死を思わせる皆既日食がおきた。これは、太陽神である卑弥呼を、国王として崇めていた古代人の心に強い印象を残し、それが「天の岩戸」伝説になった。
  • 天皇の在位年数約10年説で換算すると神武天皇の活躍していた年代は280〜290年ごろ。したがって、神武から5代前の天照大御神の時代は230年〜240年ごろとなる。卑弥呼は、239年に魏に使いを送っており、天照大御神の時代と卑弥呼が活躍していた時代がぴったりと重なる。
  • 吉野ヶ里遺跡で、弥生時代中期としては最大規模の墳丘墓の存在が確認された。一世紀ごろの九州で、このような大きな墳丘墓が造られているとすれば、三世紀の邪馬台国の時代に、径百余歩の卑弥呼の墓として、さらに大きな墳丘墓が存在してもおかしくない。


  

卑弥呼の鏡

  • 卑弥呼のもらった100枚の鏡は、当時、中国に存在していた、内行花文鏡・方格規矩鏡・位至三公鏡などの「後漢式鏡」である。これらの後漢式鏡は、中国でも出土するし、日本では、北九州の墳墓から多く発見されている。
  • 日本だけで500枚以上出土しながら、中国から1枚も出ていない三角縁神獣鏡は、日本で作られたものであり、卑弥呼の鏡ではあり得ない。


  

邪馬台国への道のり

  • 魏志倭人伝では、朝鮮から伊都国までと、それ以降とは、道のりの書き方が異なっている。
    朝鮮から伊都国までは「A国、又・・・至B国」のように国が連続して繋がっているように書いてあるのに対して、以降は、「伊都国・・・・東南至奴国・・・・東行至不弥国・・・・南至投馬国・・・・南至邪馬台国」のように書かれており、伊都国を起点として放射状に国々が配置されている(放射式)と解釈するべきである。放射式で道のりをたどると、邪馬台国はどんなに遠くても九州域内となる。(榎一雄)
  • 熱暑の中、道なき道を歩む当時の旅を想定して行った実地踏査では、1日の行程は7キロがやっとであり、リアス式海岸伝いに、このペースで2日歩いても直線距離にして5キロほどしか進めないことが多かった。当時の1日の陸路の行程は予想外に短いようだ。この程度の速度で旅をしたとすると、邪馬台国への道のりを順次式で考えても、邪馬台国を九州の中で考えるべきである。


  

邪馬台国の方角

  • 日本列島に上陸後、投馬国へ行くのも「南」邪馬台国に行くのも「南」と、南に方向をたどっている。畿内の「大和」の方向である「東」とは書かれていない。
  • 当時は、日の出の方向を東と見ていたようである。朝鮮からの使者が、船で渡来しやすい海の静かな夏の季節は、日の出は時計と反対周りに45度ずれる。だから奴国までの東南は東、邪馬台国までの南は実際には東南である。


  

邪馬台国への日数・距離

  • 「水行十日、陸行一月」などの表現は、先に水路を10日行ってから、続いて陸路を一月進んだという意味ではない。 地勢によって、沿海水行したり、山谷を乗り越えたり、川や沼地を渡ったり、陸路を行ったり、さらに、天候などの事情によって進めなかった日数や、休日、祭日その他の日数も加算し、卜旬の風習も頭に入れておおざっぱながらも、整然とした「十日」「一月」で表記したのであろう。
    つまり、「水行十日、陸行一月」は、かかった総日数であって、実際に旅行し進み続けた日数ではない。
  • 「南。水行十日、陸行一月」の意味は、不弥国から邪馬台国までの旅程ではなく、朝鮮の帯方郡から邪馬台国のまでの道のりを要約したもの(古田武彦)
  • 「郡(帯方郡)より女王国にいたるまで1万2000余里」とある。ここから、帯方郡から伊都国までの距離1万500里を引くと、のこり1500里が伊都国から邪馬台国までの距離になる。壱岐と対馬の距離1000里のわずか1.5倍の距離であり、これは邪馬台国が北部九州の域内であることを示す。
  • 「郡(帯方郡)より女王国にいたるまで1万2000余里」とある。さらに、倭人伝の記述から、、 となって、A:B:C=7:3:2である。帯方郡から狗邪韓国までの実際の距離は500キロなので、末盧国から邪馬台国まではその7分の2の約140キロになり、邪馬台国は、北部九州の範囲内である(1里=約70m)。
  • 倭人伝は「倭の地を周旋すれば5000余里ばかり」とある。これは倭の地を、九州の範囲とすればを整合する値である。




  

倭種の国



  

邪馬台国の人口

  • 古代の人口研究によれば、縄文、弥生にかけて九州では、有明海沿岸や筑後川沿岸に人口が集中していた。江戸時代・明治時代にでも、福岡市より九州中部のほうが人口が多かった。邪馬台国の戸数7万戸が、有明海沿岸や筑後川沿岸地域に存在した可能性は十分ある。
  • 奈良時代の兵士募集の記録によると、九州全体から約2万人を募兵している。当時は、正丁(成人男子)に対する募兵率は、10人に1人の割合であった。したがって、このときの九州全体の正丁は約20万人。さらに、良民の中の正丁の割合は、0.18、良民に対する奴婢の割合を7%とする研究成果を適用して計算すると、九州の全人口は120万人ほどになる。古代の人口増加の速度はゆっくりしたものであることや、都が九州から畿内に移ったことで九州が寂れたこと等を考慮すると、奈良時代と、邪馬台国の時代で、九州の人口は、大きな変化がなかったと推定される。仮に邪馬台国時代の九州の全人口を奈良時代と同じ120万人とすると、邪馬台国7万戸の人口は30万人前後であり、邪馬台国は九州全体の1/4の人口を抱えていたことになるが、邪馬台国が九州最大の平野である筑紫平野を支配していたことを考えると十分現実的であると思われる。


  

狗奴国

  • 狗奴国は邪馬台国の南に位置する。クナ国はクマソのことで、クマソは熊襲国でクマ(球磨)とソオ(噌唹)が合わさって転化したものである。狗奴国の官の名前である狗古智卑狗は菊池彦であり、その名は現在も、菊池川、菊池郡として残っている。


  

投馬国

  • 投馬国の比定地としては、日向(宮崎県)妻町・西都原付近、薩摩(鹿児島県、南水行二十日で到達する場所の候補として)、日田郡五馬(大分県)、上妻郡、下妻郡(福岡県)など。


  

記紀の神話

  • 『古事記』『日本書紀』では、天皇家の祖先が九州に天下りし、神武天皇の時代に東遷して大和朝廷を建てたとされる。記紀の神話は、九州にあった邪馬台国勢力の子孫が、東に移って大和朝廷の礎を築いたことの反映とみられる。
  • 古事記・日本書紀、古代の記録、伝承、神話や天皇家の神事に、北部九州(筑紫)の事跡や地名、風俗などと似かよったものが多い。


  

地名

  • 九州の地名は、日本の古典に出てくる古い県名や、郡名などと一致するものが多い。 古事記の神話に登場する地名を調べると、九州の地名がもっとも多く36回、次に出雲の地名が34回現れ、神話の舞台がこの地域であることをうかがわせる。畿内の地名はずっと少なくて11回しか現れない。
  • 福岡県甘木市・朝倉地方の地名は、奈良盆地と一致する地名が多い。名前だけでなく、その方向まで一致しているのは驚くほどである。
    甘木市・朝倉地方には、天の安川(安川・夜須川)天の香具山など、記紀の神話に出現する固有名詞と同じ地名が多く残っている。これらのことは、甘木市・朝倉地方の勢力が大和へ東遷し、やがて大和朝廷を樹立したことを示すものである。(安本美典)
  • 筑後山門(柳川・八女市一帯)と肥後山門(菊池郡一帯)にヤマトの古い地名が残っている。これらの地名のトの音は、甲類のトの音で、邪馬台(ヤマト)の乙類のト音とは異なる。しかし、当時の中国人が倭人の「甲類・乙類」の発音を正確に聞き分けられたかどう疑問が残る。
  • 九州方言は「〇〇〇〇トですよ」・・・で「ここは何処か」と聞かれて「山トですよ」と答えた? (^^;)


  

古墳・遺跡

  • 最近の考古学的発見は特に北九州において目覚しく、3世紀の北九州における吉野ヶ里遺跡、甘木市平塚川添遺跡など当時の繁栄を髣髴とさせるものが多い。




  

遺物

  • 考古学的遺物の分布から、弥生時代には、北九州を中心とする銅剣・銅矛文化圏と、畿内を中心とした銅鐸文化圏とが存在した。その後の大和朝廷には、剣を尊ぶ伝統は残ったが、銅鐸の痕跡がまったく残っていない。これは、銅剣・銅矛文化圏が、銅鐸文化圏を征服したためと解釈できる。
  • 弥生時代(邪馬台国時代)では中国との交流、遺物は九州が圧倒的に多い。
  • 倭人伝には、「兵には矛、盾、木弓を用う」「倭錦上献す」「宮室、楼観、城柵」「棺有りて槨無し」の記述がある。以下のように、これらの記述は北九州の遺跡・遺物と整合する。
  • 卑弥呼の時代・3世紀の遺物として発掘される、鉄製武器、鉄鏃(てつぞく)、矛、絹などは、九州での出土数が、畿内よりも圧倒的に多い。大和では、弥生時代の鉄器はほとんど出土しない。
  • 弥生時代の絹が発見されるのは北部九州だけである。
  • 佐賀県吉野ヶ里遺跡には、魏志倭人伝に描かれている宮室、楼観(物見やぐら)および城柵跡の3つがそろって発見されている。畿内にはこれら三点セットがそろった遺跡は発見されておらず、倭人伝は九州の国の様子を描いたものだろう。
  • 「棺ありて槨なし」の埋葬形式は、北部九州に多い箱式石棺の形式に一致する。奈良盆地での埋葬形式は、ホケノ山古墳のように「木槨」が出土しており、倭人伝の「槨なし」の記述とは異なる形式である。


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