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第229回 神武天皇の東征経路 その2

 

 1.神武天皇東征

神武天皇は、安芸の国に滞在の後、吉備の国の高嶋の宮へ移った。ここで浪速へ向けての戦の準備をした。
■ 吉備の高嶋宮

吉備の高嶋宮の候補地はいくつかあるが、主要なものは、備前と備中の2ヶ所である。 吉田東伍の『大日本地名辞書』では、これらの候補地について下記のように記している。

  1. 備中の神島(こうしま)
    外浦の南一海里の地点で、要害の地でもない。 「備舟楫蓄兵食」とあるのには相応しないようだ。

  2. 備前は児島湾の高島
    現在は、児島水道、東西両大川の口の間の浅水中にあり。この島及び南岸宮浦は神武帝駐師の故跡という伝承が残る。

また、皇紀2600年記念事業の一環として、政府が調査した報告書『神武天皇聖蹟調査報告書』では児島湾の高島を高嶋宮としいる。

この報告書には、寛永年間(1624〜1644)の『備前国絵図』などにその名が記されていることや、天和元年(1681年)山田定経撰の『遊高嶋記』にも、神武東征のとき舟をめぐらせ兵食をたくわえた地としてその名が記されている。

これらのことから、児島湾の高島が高嶋宮の有力候補と考えられる。

尚、神武天皇が安芸と吉備に入った時には戦争の記述がない。

この地域は神武天皇に敵対したのではなく、九州の親派であった可能性がある。

■ 浪速

『古事記』では、河内国から大和国に入ろうとした神武天皇軍は浪速(なみはや)に 上陸。

ここで、軍勢を整えて待ち受けていた登美能那賀須泥昆古(とみのながすねひこ) と戦うと記されている。

脛が長い(足が長い)のは北九州系の倭人とは別の種族であったかもしれない。

これを称して「ながすね ひこ」といったのかもしれない。

当時の大阪湾は現在と地形が異なっており、現在の陸地の多くは水の中であった。

神武天皇は、生駒山の近くまで船で移動し、楯津で船を下りた。

そこを名づけて日下(くさか)の蓼津といった。

那賀須泥昆古と戦い、神武天皇の兄の五瀬命(いつせのみこと)が矢を受けた。

「日の神の御子が日に向かって戦ったのがよくなかった。手傷を負ってしまった。 今から迂回して、日を背負って敵をうとう」といった。

その後、五瀬命は紀の国の水門(みなと)で亡くなった。陵墓は紀の国の竈山にある。

『延喜式』には竈山墓は紀伊の国名草郡にあるとあり、明治9年(1876)年に名草 郡和田村の竈山の地に五瀬命の墓が治定された。

隣接して竈山神社がある。

■ 熊野

神武天皇が紀の国の水門から迂回して、熊野の村に至ったとき、大きな熊が現れて消え た。

この熊の毒気で神武天皇が正気を失ったが、熊野の高倉下(たかくらじ)が横刀(たち)を奉ったところ、神武天皇が正気に戻った。

この刀は、天照大神・高木の神が、高倉下の夢の現れ、神武天皇に渡すように告げたものと言われる。

■ 南九州と紀州との類似地名

鏡味完二氏が、下表のように南九州と紀州と類似地名が並んでいることを指摘している。

地域地名
南九州kuma(熊県、玖磨川)moro(諸県)sanu(狭野)naka(那賀郡)伊鈴川(五十鈴川)
紀伊kumano(熊野)muro(牟婁郡)sanu(狭野)naka(那賀郡)伊勢の五十鈴川


南九州と紀州には、鏡味氏の指摘以外にも多くの類似地名がある。 >>
これら地名の類似は、神武天皇の東征と関係があるのではないか。

 2.古代日本語探検

講演中の安本先生 前回の講義では、八つの母音をふたつに区別し、これを「上代特殊仮名遣」の甲類 乙類の別として説明した。

今回は上代の八母音について、乙類の「メ」および、乙類の「ミ」「ヒ」、「ビ」、「キ」、「ギ」をとりあげる。

(1)乙類の「メ」

■ 通則

諸文献に用いられている乙類の「メ」を観察した結果から、つぎの三つの通則(ルール)が 導かれる。

  1. 同じ意味内容の単語に「ま」も用いられ、「め」も用いられる場合、その「め」は 原則的に、乙類の「メ」である。

  2. 熟語の表現なかでは古い表現が残りやすい。

  3. 乙類の「メ」を表す万葉仮名漢音は原則的に「バイ(マイ)」系統の音であり、甲類の 「メ」は「ベイ(メイ)」系の音である。「ai」の音からエ行乙類の音が出てきた。


■ 具体例

このような音の変化を理解すると、以下のようにいくつかの言葉について語源を探ることができる。

  1. 飴の語源
    飴の「メ」は乙類である。甘の意味の「ama」に後置定冠詞的な「i」が付加されて「amai」となり、「ai」が乙類の「メ」になったとみられる。

  2. 蝿の語源
    現代語の「はひふへほ」は古代では「ぱぴぷぺぽ」の音であった。 乙類の「へ」は「pai」の音にさかのぼれるので、蝿の古代音は「papai」とみられる。

    「i」は、後置定冠詞的なものなので蝿は「papa(puapua)」となるが、古代の日本語では 濁音が語の頭にくることはなかったので、「baba(buabua)」というような音がもとであったと思わ れる。つまり「ぶんぶん」と羽がうなる音を表現したのでははないか。

  3. 船竅iふなのへ)の語源
    「ふなのへ」の「へ」は「pai」にさかのぼりうる。「i」を取ると、「pa」になり、 「は」は「端(ふち)」の意味になる。

  4. 鮫の語源
    「さめ」の「め」は乙類の「メ」で、「mai」にさかのぼる。「さ」は「tsa」となり、 古代語は「tsamai」となる。「i」をとると、「tsama」となる。「鮫」は目が細いから 「狭目」となったとの説がある。

  5. 梅の語源
    「梅」の漢字の呉音は「mai」である。上代の「mai」の発音に近い。「梅」の「め」は中国音が変化して乙類の「め」なったという説は正しそうである。

(2)乙類の「ミ」「ヒ」「ビ」「キ」「ギ」の音価

■ 通則

諸文献に用いられている乙類の「ミ」を観察した結果から、乙類の「ミ」「ヒ」「ビ」「キ」「ギ」の音価について次の通則(ルール)が導かれる。

  1. 同じ意味内容の単語に「む」も用いられ、「み」も用いられる場合、その「み」は、原則的に乙類の「ミ」である。

このような通則が成立する理由は「mu」に「i」の音が付加されて「mui」になり「ミ」 に変化した。

■ 具体例

  1. 杉の語源 「まっすぐなもの」の「すぐ(sugu)」に「i」の音が付加されて「sugui」になり「gui」が「乙類ギ」に変化 した。


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