TOP>活動記録>講演会>第247回 | 一覧 | 次回 | 前回 | 戻る |
第247回 |
1.継体天皇 |
■ 継体天皇
記紀系譜による第26代天皇。在位507−531。父は彦主人王(ひこうしのおう)。母は振媛(ふるひめ)。 『日本書紀』によると、応神天皇の5世の孫。武烈天皇に子がなく、その死後越前三国から大伴金村らにむかえられて即位するが、大和入りにその後20年かかった。筑紫の磐井の乱をおさめ、朝鮮の新羅、百済などの争いに、近江毛野(おうみのけの)を派遣した。 継体天皇25年2月7日死去。82歳。28年没説もある。墓所は三島藍野陵(みしまのあいののみささぎ:大阪府茨木市)。別名は男大迹天皇(おおどのすめらみこと)、彦太尊(ひこふとのみこと)。 (『日本人名大辞典(講談社)』による。) ■ 後継者難 雄略天皇が親族を多数殺害してしまったため、天皇家の親族が激減。清寧天皇が子供を設けなかったので皇統が途絶えそうになった。 このときは、雄略天皇に殺害された市辺押磐皇子(いちのべのおしわのみこ)の子供たちを探し出して、顕宗天皇、仁賢天皇として即位させたが、仁賢天皇の子、武烈天皇を最後として、仁徳天皇から続いた家系がついに途絶えてしまった。(右系図参照) ■ 応神天皇の5世の孫 継体天皇は応神天皇の5世の孫とされる。しかし、『日本書紀』には、応神天皇から継体天皇に続く家系の人名がまったく記されていない。 このため、戦後、継体天皇が応神天皇の5世の孫というのは、後世の造作であるとする見方が有力であった。すなわち、皇統譜に神経質な『古事記』『日本書紀』が天皇の出自を書きもらすはずがないから、「5世の孫」というのも、それ以前には4世までを王としていた皇親の範囲が5世にまで拡大された慶雲2年(705)以降に案出されたものではないか、というのである。 しかし、今日では、こうした継体天皇の出自を疑う諸説はほとんど否定されているといってよい。 それは、用語・文体などから推古天皇朝前後の時期(おそくとも7世紀末まで)に成立したと推定される『釈日本紀』所引の「上宮記曰一云(じょうぐうきいわくいちにいう)」に、応神天皇から継体天皇に至る系譜が記されているからである。 『釈日本紀』に引用されたこの文章の文字の使い方を見ると、「ひこ」を「比古」で表したり、「ひめ」を「比弥」で表したり記紀よりも古い形を残していることから、その内容も古い伝承を伝えているものと思われる。 「上宮記曰一云」の内容によると、継体天皇は応神天皇の4世の孫、汗斯王(うしのみこ)を父とし、垂仁天皇の7世の孫、布利比弥命(ふりひめのみこと)を母とする天皇家の血筋である。 そして、若野毛二俣王(わかぬけふたまたのみこ)など応神天皇の子供や孫として記紀に記される名前と一致する人名がこの系図にはいくつか記されている。(左系図参照) |
2.筑紫の磐井 |
■ 筑紫の磐井
6世紀前半の豪族。筑紫国造として北九州最大の勢力をほこる。 継体天皇21年(527)朝廷が朝鮮半島への出兵をくわだてたとき、新羅と通じて大規模な反乱をおこした。 22年11月、朝廷の派遣した物部麁鹿火(もののべのあらかひ)の軍と戦って敗死したという。石井ともかき、筑紫磐井ともいう。 (『日本人名大辞典(講談社)』による。) ■ 磐井の墓 磐井の墓について『筑紫の国風土記』は次のように記す。
この古墳は石人石馬を伴っていて『筑紫の国風土記』の記す内容とよく符合することから、筑紫の磐井の墳墓に比定されている。国造級の被葬者の名前が判明する前方後円墳として重要である。 岩戸山古墳を九州王朝の大王の墓という説があるが、前方後円墳を全長の順に並べると、全長132メートルの岩戸山古墳は93番目に当たる。この大きさは王墓としては小さすぎる。やはり国造クラスの墓と考えるべきであろう。 |
3.継体天皇陵の再検討 |
■ 新聞の報道
1989年5月29日付の『読売新聞』夕刊は、一面のトップニュースで「継体天皇陵は誤り」という記事を掲載した。 現在、継体天皇陵として宮内庁に管理されている古墳は、大阪府茨木市大字太田の通称太田茶臼山古墳であるが、この古墳の外堤護岸工事の事前調査で、五世紀の円筒埴輪が発掘され、六世紀の継体天皇の墳墓と見るには、約100年のズレがある、という報道である。 いっぽう、継体天皇の本当の陵墓ではないかと、近年注目を浴びているのが、太田茶臼山古墳から北東に1.5キロの今城塚古墳である。出土埴輪や形などから今城塚古墳の築造は六世紀前半とされ、継体天皇の没年と合致する。
■ 古墳の型式による編年 前方後円墳の前方部の幅、後円部の径、墳丘全長をパラメータとして下図のようなグラフを作成すると、築造時期の古い古墳は左下に、新しい古墳は右上に、明瞭な傾向を持って分布する。この図によって、古墳のおおよその築造年代を知ることができる。 この図によると、継体天皇陵とされる太田茶臼山古墳は、かなり典型的な「五世紀型古墳」である。古墳の型式において、応神天皇陵古墳よりも古い特徴を持つ。 太田茶臼山古墳を継体天皇陵と見るのは、古墳の型式による編年と合致しない。 いっぽう、今城塚古墳は、「六世紀型古墳群」に属している。 そして、継体天皇と同時代の筑紫の磐井の墓とされる岩戸山古墳ときわめて近い形をしている。 さらに、継体天皇の妃の目の子媛の墓という説がある断夫山古墳(下図)ともほぼ同じ形をしている。 今城塚古墳は、その場所や古墳の型式から見て、継体天皇の墓とみてよく、岩戸山古墳とともに520〜530年ごろに造られたものであろう。 今城塚が真の継体天皇陵とすると、太田茶臼山古墳の被葬者は誰なのか。 この地域には渡来人が住み着いたという伝承がたくさんある。 太田茶臼山古墳はこれらの伝承となんらかの関わりがあると思われるが、詳しいことは分からない。 なお、渡来人が多数この地域に住み着いたことから今城塚を「いまき(今来)づか」と読む説があるが、戦国時代に、今城塚古墳の上に三好長慶が城を構えたことから「いましろづか」と読むようになったとするほうが有力である。
|
TOP>活動記録>講演会>第247回 | 一覧 | 上へ | 次回 | 前回 | 戻る |