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第246回 |
1.倭王武と雄略天皇 |
■ 倭王武の上表文(478年)と『日本書紀』との比較
上表文の内容と『日本書紀』を比較すると若干の違いがある。『日本書紀』には倭国が高句麗と戦ったことと、南宋に使者を送ったことは記されているが、南宋から爵号をもらったことは記録されていない。 これは、聖徳太子以降、中国と対等の立場に立った日本が、かつて爵号をもらって中国の臣下になったことを記録に残したくなかったのだと思われる。 ■ 百済航路と呉音 倭王武の上表文には、倭人が百済を経由して中国との間を往復したことが記されている。漢字の読み方で呉音と呼ばれるものは、中国南朝の音の百済なまりと考えられるので、百済経由での南朝文化の伝来が、呉音が大量に日本に入ってきたことの理由と考えられる。 ■ 502年(天監元年)の昇進 梁の武帝即位の際に、倭王武を征東大将軍に昇進させたと記されているが、『日本書紀』によれば、このときすでに倭王武は亡くなっている。 これについては二つの説がある。
■ 毛人 倭王武の上表文のなかに、「祖禰(そでい)自ら甲冑をきて、山川を跋渉(ばっしょう)し、寧処にいとまはなかった。東は毛人(蝦夷、アイヌか)を征すること55ヶ国。西は、衆夷(熊襲、 隼人などか)を服すること66国。渡って海北を平らげること95国。・・・」という記述がある。 ここに記される毛人について考える。結論から言えば、毛人とは、東北方面に住んでいた蝦夷のことを指すと考えられる。 蝦夷については、『日本書紀』斉明天皇紀に次のような記事がある。
『日本書紀』によると、日本武の尊は景行天皇に命じられて東北の蝦夷の征伐に向かった。 日本武の尊の東征経路(図B)と関東東北での三角縁神獣鏡の分布域(図A)がよく一致することから、この地域の三角縁神獣鏡は日本武の尊によってもたらされたのではないかという内容は、第240回の講演会でも解説した。 さらに、岡山県の備前車塚古墳で出土した三角縁神獣鏡と同型鏡がこの地域に5枚もある(図B)。 『日本書紀』によれば、吉備の武彦が日本武の尊と同行したとされ、吉備の武彦が、吉備と同型の三角縁神獣鏡を東国に持ち込んだと考えると、『日本書紀』の記述と出土する遺物がよく整合しているように見える。 日本武の尊の伝承は作り話だと言われてきたが、このように考古学的な遺物と文献を丁寧に見てくると、『古事記』『日本書紀』の記す日本武の尊の伝承には、かなりの史実がふくまれているように見える。 また、図Aをみれば、三角縁神獣鏡の北限が、銅鐸の北限からさらに北東方向に拡大しているように見える。これは、三角縁神獣鏡が銅鐸よりあとの時代のものであることを示しているように見える。 ■ 倭王武の上表文と日本武の尊の東征 倭王武の上表文に「東は毛人を征すること55ヶ国」と記されているのは、日本武の尊の関東東北地方の遠征を指していると思われる。倭王武と考えられている雄略天皇から見ると、日本武の尊は5代前の祖先である。 「祖禰(そでい)自ら甲冑をきて、山川を跋渉(ばっしょう)し」という描写は、まさに、日本武の尊の姿を彷彿とさせる。 |
2.稲荷山鉄剣銘文 |
1978年、埼玉県埼玉(さきたま)古墳群の稲荷山古墳から出土した鉄剣につぎのような銘文が発見された。
【銘文】
銘文のなかのワカタケル大王とは雄略天皇のことである。この銘文は、武蔵の国の有力者が雄略天皇に仕えたことを記している。また、『日本書紀』雄略天皇紀には、武蔵の直丁(つかえのよぼろ)と信濃の直丁が、大和朝廷に徴発され、都で働いているようすが記されている。 これらは、雄略天皇の時代には、武蔵の国まで大和朝廷の版図に入っていたことを示すものである。 熊本県玉名郡菊水町江田船山古墳から「治天下獲□□□鹵大王・・・」の75文字の銘をもつ銀象嵌大刀が出土した。この銘文の大王名が稲荷山鉄剣銘文と同じである可能性が指摘されている。すなわち、雄略天皇の大和朝廷がこの地方も版図に組み込んでいたと推定されるのである。 日本武の尊の時代には、関東も九州も反抗する勢力がいて、日本武の尊が遠征して蝦夷や熊襲を討ったところである。五代あとの雄略天皇の時代には、この地域が大和朝廷の体制にすっかり組み込まれていたことがわかる。 ■ 大彦の命の系図 銘文に記される意富比(オホヒコ)とは、第8代孝元天皇の皇子の大彦の命である。多くの学者によって、孝元天皇も大彦の命も架空の人物とされてきたが、この銘文によってその実在が確認された。 皇室の系図をまとめた『本朝皇胤紹運録(ほんちょうこういんじょううんろく)』に、大彦の命の系図が記されている。 これによると、大彦の命は、阿倍朝臣、布勢朝臣、阿閇臣、高橋朝臣、阿閇朝臣、膳臣などの祖先とされる。 系図をよく見ると、大彦の命の孫に当たる「豐韓別命」は、鉄剣銘文でオホヒコの孫の「弖已加利獲居(テヨカリワケ)」と読み方がよく似ている。また、鉄剣の「多加披次獲居(タカハシワケ)」は、大彦の命の子孫の高橋朝臣と関連するかも知れない。 ■ 大彦の命の墓所 大彦の命の墓の伝承地が二箇所ある。
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