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第261回
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1.日本語に近い諸言語 |
2.日本語と朝鮮語の基礎語彙の比較 |
■ 基礎語彙
基礎語彙とは、目とか水とか川のように、いかなる未開民族でも持っているような単語のことで、時間が経過しても変化しにくい。「映画」のような文化語は、「活動」、「シネマ」のように短時間で変化してしまう。 このような単語を200単語集めて分析の材料とする。 ■ 言語の近さの測定法 シフト法は代表的な測定法の一つで、カリフォルニア大学のロバート・オズワルドが考案した方法である。 シフト法では、比較する言語の基礎語彙200語を並べ、、1段ずつずらしながら語頭音の一致を調査する。 「上古日本語」と「中期朝鮮語」の基礎語彙200語をシフト法によって比較すると、まず、意味が一致する組み合わせで語頭音が一致するものは53語であった。 1段づつずらしながら語頭の一致数を確認すると、199個の一致数のセットが得られる。これら199個の数値は、オリジナルの表から1段ずつシフトしていったものなので、意味は一致しない。 したがって、ここで得られた199個の数値は偶然に一致した数になる。その平均は36.15語であった。 199個の偶然の一致数は下図のように分布する。このときに、意味が一致する組み合わせで語頭音が53語一致したことを統計的にみると、偶然では起こりえないとことと検定される。すなわち、「上古日本語」と「中期朝鮮語」は偶然以上の関係があると判断される。 シフト法は、理解しやすい方法だが、欠点もある。200語のシフトで出来た度数分布が、正規分布になることを前提にして検定する方法なのだが、分布が正規分布になるという理論的な保証が得られていない。 もう一つの代表的な方法である2項検定法は、偶然の一致数が正規分布に従うので、シフト法のような懸念はないが、判定結果がシャープに出ない欠点がある。シフト方で偶然以上の確率で優位差があるとされているものが2項検定法では優位差が見えない場合があって、一長一短であるる。 ■ シフト法による比較結果 シフト法によって、さまざまな言語のうち「上古日本語」と偶然以上の一致が見られる言語は右表のとうり。 「上古日本語」は東京方言や首里方言と多くの一致を示すが、日本列島を離れると一致数は激減する。 おもしろいことに、「上古日本語」と「カンボジア語」や、「上古日本語」と「中期朝鮮語」は、偶然以上の一致を示すが、「カンボジア語」と「中期朝鮮語」だけを取り上げてみると、この間には偶然以上の一致は認められない。 これは、右図に示すように、日本語がヨーロッパの言語のように祖語から分裂してきたものではなく、さまざまな言語が流れ込んでできあがった言語であるためと考えられる。 ■ 日本語形成のプロセス 古極東アジア語からわかれた古日本語(日本基語)は、はじめ、北九州と南部朝鮮にあり、ビルマ系江南語と結びついて、倭人語(日本祖語)が成立した。 その言語を母胎として、大和朝廷の原勢力邪馬台国が北九州に発生し、大和朝廷の原勢力が南九州におよぶとともに、台湾原住民の言語アタヤル語などと関係をもつインドネシア系の言語の語彙を吸収した。 さらに、その原勢力が東漸し大和朝廷をたて、その力が日本列島の各地におよぶとともに、縄文期に長年月にわたって庶民の間でかなり広く広がっていたインドネシア系の言語や、クメール(カンボジア)系の言語などをも吸収しながら、日本列島を、言語的に統一していった。 また、朝鮮語は、もともとは、現代よりも北のほうで行われていたのが、南下したと考えられる。 ここで、基礎語彙200語ではそれほど強い関係になかったビルマ系の言語(5%水準で有意)を、倭人語の成立に関係したと明示した。その理由は、下表に示すように、身体語だけを取り上げてみると「上古日本語」とビルマ系諸言語が非常に強い一致を示すことから、古日本語にビルマ系諸語がなんらかの関与をしたと想定できるからである。 ■ 日本語と朝鮮語の距離 下表によって英語とドイツ語の数詞や身体語を比べてみると、「six」と「sechs」、「seven」と「sieben」、あるいは、「foot」と「Fuss」、「nose」と「Nase」など、語頭音が一致している単語がいくつもある。 日本語と朝鮮語についても、数詞と身体語を比較してみると、「hitotsu」と「hana」のように一致する例もあるが、英語とドイツ語の関係よりも語頭音の一致例が少ない。 すなわち、二つの言語の近さの度合いは、英語とドイツ語の関係よりも、日本語と朝鮮語のほうが遠いことがわかる。 英語とドイツ語は、およそ2000年前に分離したとされる。日本語と朝鮮語はそれよりもはるか前に分離したことになる。 計算によって求めると、日本語と朝鮮語の分離した時期は、4000年ほど前になる。8世紀に編纂された万葉集などを朝鮮語で解釈できるとするのは、まったくナンセンスである。 |
2.聖徳太子の墓 |
聖徳太子の墓は、大阪府南河内郡太子町太子にある叡福寺北古墳である。
従来、この古墳は円墳とされてきた。 しかし、最近の研究では、墳丘は上下2段の構造で、上段を円形、下段を多角形とする直径35m程度の古墳と見て、従来の円墳説の見直しが提案されている。 過去にたびたび侵入があり、内部のようすをある程度知ることのできる古墳である。 『一遍上人絵伝』には、拝殿の奥に横穴式石室の開口部が見え、鎌倉時代には石室内部に入ることが可能な状態であったことがわかる。 埋葬施設は三棺合葬の横穴式石室で、古記録によると、東棺は太子、北棺は太子の母穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇女、西棺は太子の妃であった膳部臣菩岐々美郎女(かしわでのおみほききみのいらつめ)が葬られていると伝えられる。 中世の人々はこの三棺合葬の形を阿弥陀三尊に結びつけ、とくに、「三骨一廟」と呼び信仰の対象とした。 |
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