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第267回
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1.中国古伝承のなかの倭 |
■ 倭は「江南の呉から来た」という伝承を持っていた
『魏志倭人伝』に、倭人の風俗について次のように記されている。 夏后(王)少康の子、会稽に封じられて、断髪文身(頭をそり、入れ墨をする)してもって蛟竜の害を避く。今、倭の水人、好んで沈没し、魚蛤を捕う。文身し、またもって大魚水禽を厭(はら)う。のちややもって飾りとなす。諸国の文身おのおの異なり、あるいは左にし、あるいは右にし、あるいは大きく、あるいは小さく、尊卑により差あり。 この文にみえる会稽は、越の本拠地である。したがってこの文は、倭人の断髪や入れ墨が越の習俗と似ていることを述べている。越と戦った呉は周の太王の子の太伯が建てた国とされている。『論語』の「泰伯篇」には、泰伯は最高の人格者である。周の王朝の世継ぎの天子となるのを嫌ってその地位を弟の季歴にゆずったと記されている。 『史記』の「呉太伯世家(せいか)」には、太伯が、末弟に王位を譲るため、蛮族の住む地にに移ったことが次のように記されている。 「ここにおいて、太伯とその弟の仲雍の二人は、荊蛮(けいばん)にはしり、文身断髪して、用うべからざるを示し(後継者として適切でないことを証明し)、もって末弟の季歴を避けた(継承権をゆずった)。」 そして、倭人は呉の太伯の子孫だとする伝承がある。たとえば、『翰苑』には、「(倭人は)文身黥面して、なお太伯の苗(びょう)と称す。」と記され、 また、『魏略』を引用して「その俗、男子は皆黥面文身す。その旧語を聞くに、みずから太伯の後という。」と記す。 同じような内容が、『晋書』「倭人伝」、『梁書』「倭伝」、『北史』「倭伝」等にみえる。 宋の末から元の初めごろの歴史家、金仁山(1232〜1303)は『通鑑(つがん)前編』のなかで次のように記す。 「日本いう。呉の太伯の後なりと。けだし呉亡んで、その支庶(ししょ:傍流)、海に入って倭となる。」 周の王族の姓は姫氏であった。そのため、周から出た呉も姫姓であった。『日本書紀』の平安時代の講義筆記ノートである『日本書紀私記』に「日本の国が、姫氏国と呼ばれるのはなぜなのか」という質問が載っている。 そのころ、日本が、太伯伝説にもとづき、中国から姫氏国と呼ばれていたことがわかる。 太伯伝承の倭人が日本にやってきたとすると、その時期は、従来、日本列島の稲作の始まりが紀元前400年前後と見られていたので、BC473年に呉が滅んで少ししてからということになる。 しかし、歴博の新説ほどは前倒ししないとしても、稲作開始が従来考えられていた時期よりも早くなると、呉が滅びた時、あるいは、滅びる前に稲作を持った人々が日本列島に来たとしてもおかしくない。 ■ 弥生時代の墳丘墓と土墓(どとんぼ) 日本では、弥生時代の墳丘墓も、前方後円墳などの古墳も、遺体を墳丘の比較的高いところ (地面より高いところ)に埋葬する。 ところが、中国の華北では、遺体を地面より深いところに埋め、その上に土を盛るのが原則である。 いっぽう、呉や越の国があった江南地域の土墓(土とは、土を積んでできた高まりを指す)では地面よりも高いところに遺体を埋葬する。 そして、土墓は、中国のきわめて限られた地域(春秋戦国時代の呉、越の地域付近)で行われた埋葬形態であった。 越が楚に滅ぼされ、江南一帯が楚の領土となってからは、土墓は消滅し、楚の木槨墓が行われるようになった。 吉野ヶ里などの弥生時代の墳丘墓が、中国江南地方で呉・越の限られた時代に行われた土墓の影響を受けた可能性を示しており、この時代の人々が、日本列島に渡来したことと整合する。 ■ 殷周代の古法 藤堂明保著『漢字の起源』によると、中国の殷の時代には、さかんに占いが行われ、ありとあらゆることを神々に占いを立てて確かめていた。周の時代の官制を記した周礼(しゅらい)にも、占いのことが記されており、殷の礼法が周にも伝わったと思われる。 『魏志倭人伝』に倭人が骨を焼いて占いをしていたことが記されているが、倭人の占いは、周の王族から出た呉の人々によって日本列島に伝えられた可能性がある。 また、『魏志倭人伝』で、倭人は大人を敬うのに柏手を打つことが記されているが、柏手も、その起源は中国の古い礼法であるとする。 周時代に「振動(しんどう)」という拝礼の方法があり、周礼では、「振動」は敬い恐れおののいたときに手を打つ礼法であるとされる。 現在でも、神社の参拝などで柏手を打つが、この礼法も周時代の作法が、呉を介して倭人に伝わり、現在まで引き継がれていると考えられるのである。 ■ 『山海経(せんがいきょう)』のなかの倭 『山海経』は中国古代の神話や地理について記した書物で、そのなかの「海内北経」に「蓋国在鉅燕南倭北倭属燕」記述がある。 通常はこれを「蓋国は鉅燕の南、倭の北にあり、倭は燕に属す。」と読み、倭が中国北方の燕に従属し朝貢していたことを示するとされている。 しかし、異なる読み方もある。江戸時代の初期に、松下見林が『異稱日本傳』で「蓋」をけだしと読み、「南倭、北倭は燕に属す」と読んでいる。ここでは、朝鮮半島の南岸の倭人を北倭、九州の倭人を南倭と理解していたのだろう。 いづれにしても、倭は燕に属していたと書かれていた。 余談になるが、『史記』の刺客列伝には、燕の滅亡について次のような話が記されている。 燕の太子の丹が、荊軻(けいか)を刺客として秦に送って、始皇帝を暗殺しようとした。荊軻は始皇帝への土産として、秦から逃亡した将軍の首と、秦に献上する土地の地図を持ち、燕の易水という川のほとりで見送りを受けた。このとき別離の悲しみを歌った詩はよく知られている。 しかし、荊軻の企てはもう少しのところで失敗に終わり、やがて、このことを口実にして、燕は秦に滅ぼされてしまった。紀元前222年のことである。 また、時代はだいぶ下って三国時代になると、遼東半島付近で公孫氏が勢力を拡大し、あらたに帯方郡を設けた。『三国志』の「魏志」「韓伝」には、「倭・韓は遂に帯方に属す」と記されている。 公孫氏は公孫淵の時代に燕として自立し、公孫淵は燕王と称した。歴史はくり返すと言うが、この時代にも、倭は燕に属していたことになる。 ■ 青銅器の鉛の同位対比研究 鉛には、質量数が204、206、207、208の質量の異なる4つの同位体があり、産地によって同位体の混合比が異なる。 青銅器に含まれる鉛の同位体の混合比率を調べることによって、青銅器の産地や年代を知る手がかりとする研究が行われている。 とくに、質量数207の鉛と206の鉛の比を横軸にとり、質量数208の鉛と206の鉛との比を縦軸にとって平面上にプロットすると、多くの青銅器がかなり整然と分類される。
新井宏氏は次のような根拠から、商周期の鉛は、燕の将軍・楽毅(がくき)が「斉」から奪った宝物類が原料であるとする。 『史記』の「楽毅列伝」によると、BC284年に燕の昭王が、楚と三晋(趙、魏、韓)と秦と連携して、斉の都の臨澑(りんし)を陥落させた時に、燕の将軍の楽毅が斉の宝物類を根こそぎ奪って昭王のもとに送り届けたとされる。 斉は、その前々年に宋を滅ぼして併合しているので、その時の戦利品も楽毅が奪った宝物の中に含まれていたと思われる。 この結果、中国の中原地方の宝物として伝世された青銅器が、燕に大量に集められ、ここで青銅器の原料として再溶解されたのではないか。 商周期の鉛が、500年以上を経て、突如として燕や朝鮮半島そして日本列島に大量に現れ、しかも、短期間で使用が終わってしまったのは、このような想定以外にストーリーが考えられない。 ■ 細型銅剣の年代 歴史民族博物館の春成秀爾氏は、甕棺から出土する細型銅剣の年代を紀元前4世紀のものとする。いっぽう、考古学者の橋口達也氏は、紀元前210年ごろとする。 新井宏氏の説に従うと、細型銅剣に含まれる商周期の鉛は、燕の将軍・楽毅が「斉」から奪った宝物類の青銅器に含まれていたことになる。 『史記』によると、燕は、BC284年に大量の青銅を手中に収めた後、BC280年に東胡を撃って領土を遼東方面まで広げたとされる。 『山海経』に記された「倭は燕に属す」という内容は、燕が東に領土を拡大して以降、BC222年に滅亡するまでの間の期間のことと考えられる。 倭人が、燕の青銅材料で細型銅剣を作ったのもこの期間と想定される。そうすると、橋口氏の見解よりも若干古い時期ではあるが、春成氏のいう紀元前4世紀には届かない。 |
2.金印国家奴国の滅亡 |
■ 倭の奴国
『後漢書』に次のような記述がある。
「建武中元二年、倭の奴国の使者が貢(みつぎ)を奉(ささ)げて朝賀す。使人は自ら大夫と称う。倭国の極南界なり。光武は賜うに印綬を以ってす。 安帝の永初元年、倭国王帥升等、生口百六十人を献じ、願いて見(まみ)えんことを請う。」 奴国が倭国の極南界とされるのは、朝鮮半島から対馬・壱岐経由で実際は東南方向に進むのを、南に進むと考えて、玄界灘沿岸から東南方向に引っ込んだ奴国のあたりを倭国の一番南と考えたのかもしれない。 ■ 細型の青銅武器と広型の青銅武器 甕棺からの出土状況を見ると、細形銅剣、細形銅矛、細形銅戈は、前漢鏡を副葬する甕棺よりも、古い型式の甕棺から出土する。従って細型の青銅武器は前漢鏡よりもまえの時代のものである。 いっぽう、広形銅矛、広形銅戈は、前漢鏡よりも後の時代のものである。 細形銅剣、細形銅矛、細形銅戈と広形銅矛、広形銅戈は時代的に連続しておらず、その間に前漢鏡が副葬される期間がある。鉛の同位対比をみても異なるグループのものである。 細形銅剣、細形銅矛、細形銅戈は北部九州の海岸に近い地域に分布する。広型銅矛、広形銅戈は少し南側の内陸部に分布する。 ■ 「漢倭奴国王」の金印 千葉大学の三浦佑之氏は著書『金印偽造事件』の中で、江戸時代に福岡県志賀島で発見された「漢の倭の奴の国王」の金印はニセモノであると記している。 これについて、安本先生は第252回講演会で、「奴」という漢字の読み方から三浦氏の説が成立しないことを述べた。今回は、さらに、金印の意匠などから、三浦氏の主張が誤りであることを説く。 後漢の第2代明帝が、光武帝の息子の劉荊を、山陽王から広陵王に徒封したときに下賜した「広陵王璽」の金印が中国で発見されている。「広陵王璽」は、倭の奴国に金印が下賜される1年前に、広陵王劉荊に与えられた印綬である。 中国で出土した「広陵王璽」と、志賀島で出土した「漢倭奴国王」を比べると、鈕のかたちは亀と蛇で異なるものの次のように多くの共通点があることと、わずか一年違いで下賜されたことから、洛陽の同一工房で製作されたものと推定されている。
このことから、魚子鏨は、時間的にきわめて限定された範囲で用いられた文様・技法であり、「広陵王璽」と「漢倭奴国王」の金印が、同一工房で同時期に製作されたことを裏づけているように見える。 すなわち、「漢倭奴国王」の金印は後漢の工房で製作された本物の印綬である。 「漢倭奴国王」の金印は、墳墓からではなく、志賀島の石囲いの中から発見された。 細型と広型の青銅武器の分布の違いから推測すると、細型の青銅武器を用いていた奴国が、南方に新しくおきた新興の邪馬台国によって滅ぼされ、その際、奴国王の金印は、志賀島に隠匿されるに至ったのであろう。 |
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