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第272回講演会
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1.『三国志』のテキスト |
■ 紹興(しょうこう)本と紹熙(しょうき)本
『魏志倭人伝』を含む『三国志』のテキストとしては、紹興本と紹熙本の二つがよく知られている。
■ 現在手に入りやすいテキスト
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2.『魏志倭人伝』は誰が、いつ、どこで書いたか? |
■ 『魏志倭人伝』の成立時期
『魏志倭人伝』は「いつ書かれたか?」という設問には、つぎのような理解のしかたがある。
『晋書』「陳寿伝」によると、『三国志』を著した陳寿は、蜀の国の安漢で233年に生まれ、297年に没した。『後漢書』を書いた南朝・宋の范曄(はんよう)は398年に生まれ、445年に没した。 『三国志』は、当然だが、陳寿の生きていた233〜297年の期間に編纂された。また、『後漢書』は『三国志』より後に書かれた史書である。 4世紀後半に成立した四川省の郷土史『華陽国志』には、「陳寿は呉が滅んでから、『三国志』 を書いた。」と記されている。呉が滅んだのは280年であるから、『三国志』の成立は280年以降ということになる。 また、『三国志』の『呉史』には、284年の孫晧(そんこう:孫権の孫で呉の最後の 四代皇帝)の死を記している。従って、『三国志』が成立したのは284年以降である。 『三国志』にはさまざまな評価があるが、『三国志』を高く評価する逸話として、『晋書』の「夏侯湛(かこうたん)伝」に、次のようなことが記されている。
夏侯湛は、幼いときから才にあふれ、文章はひろく豊かで、論をあらわすこと三十余編という秀才であった。
さらに、『華陽国志』と『晋書』によれば、鎮南将軍の杜預(どよ)は陳寿の『三国志』成立以後に、陳寿を散騎侍郎にすべく推挙している。 杜預は、武将として呉を降した功績があり、また『春秋左氏伝』の註釈を完成した著名な学者でもある。杜預は284年12月に亡くなっていることから、『三国志』の成立は、284年12月より前と言うことになる。 これらのことから、『三国志』全体は、284年に呉の孫晧が没してから、284年12月に鎮南将軍の杜預が亡くなるまでの期間に完成したと判断できる。つまり、284年に成立したことが確定するのである。 『魏志』は『三国志』全体よりも早く成立していた可能性がある。 『三国志』は『魏書』『蜀書』『呉書』の順にならんでいる。最後の『呉書』は287年ごろのことまで記している。『蜀書』には、278年の記事がある。これに対し、『魏志』は265年に魏が滅んで晋が成立したことまでしか記していない。 陳寿は著作郎という役職で、晋の宮廷の図書を閲覧できる立場にいた。朝鮮古代史の専門家・井上幹夫氏は、陳寿が著作郎であったのは270年代後半から280年代前半までと推定している。 かれこれ考え合わせると、『魏志』は『三国志』全体よりは3、4年は早く、280年のころにはほぼ成立していた可能性がある。
■ 『魏略』と『魏志』 魚豢の著した『魏略』が『魏志』の先行文献であるという説の是非については議論がある。 たとえば、立命館大学の山尾幸久氏は「魏志倭人伝の資料批判」(『立命館大学』260号)のなかで次のように述べる。 『魏略』と『魏志』とは、ともに、晋の武帝の大康年間(280〜289)の成立で、ほぼ同時期の成立であり、ともに泰始二年(266)に没した王沈撰の『魏書』を参照文献にして編纂された。 しかし、この山尾幸久氏の説は、その後、阪南大学の江畑武氏、下司和男氏をはじめ、多くの研究者から批判を受けており、ほぼ誤りと見られている。次のようなことから、『魏略』が『魏志』の先行文献であることは、まず確かとみられる。
■ 『魏志倭人伝』はどう作られたか? 『三国志』のなかの『魏志倭人伝』の部分がどのように作られたのかと言うことについても、次のように いくつかの説がある。
『三国志』の「東夷伝」の裴松之(はいしょうし)の注をみると、『魏略』からの引用が10例みられるが、王沈の『魏書』からの引用がない。
また、「巻三十」の「烏丸・鮮卑・東夷伝」全体でみても、『魏略』からの引用が11例、王沈の『魏書』からの引用が2例である。 中国の史書では、『三国志』になってはじめて「東夷伝」が設けられた。その事情について、陳寿自身が東夷伝の序で次のように述べている。
公孫氏が三代にわたり遼東を支配し東夷諸国を隔断したため、東夷諸国は魏に通じることができなかった。
また、『魏略』と『魏志』の文章を比較すると、『魏略』には省略が目立つ。 『魏略』に書いてあって『魏志倭人伝』に書いてないことよりも、『魏志倭人伝』に書いてあって『魏略』に書いてないことのほうが、ずっと多いように見える。 『魏志倭人伝』を元にして『魏略』の文を書くことはできても、『魏略』の文章から『魏志倭人伝』の文は書けない表現が多い。 このようなことから考えると、『魏志倭人伝』が『魏略』に全面的に依拠したとする説や、『魏略』をベースにして他の資料によって修正したとする説は成立しがたい。 ■ 『魏志倭人伝』の情報源 『魏志倭人伝』が『魏略』に依拠したものでないとすると、その情報源は次のいずれかであろう。
『晋書』の「陳寿伝」によると、陳寿がなくなったときに、天子の詔が河南省の長官にくだり、その命により、河南省に属する洛陽の県令は、陳寿の家に行って、その書(『三国志』など)を写したとされる。 『三国志』は、陳寿の洛陽の家にあったのである。陳寿は『三国志』を、洛陽で完成させたとみられる。 『魏志倭人伝』は中国の日本に関する記事として、一番正確である。 陳寿の家は洛陽にあり、宮廷も洛陽にあったので、宮廷にあった資料を良く調べ、正確に書けたのではないか。 |
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