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第272回講演会
『魏志倭人伝』成立論争 


 

1.『三国志』のテキスト

■ 紹興(しょうこう)本と紹熙(しょうき)本

『魏志倭人伝』を含む『三国志』のテキストとしては、紹興本と紹熙本の二つがよく知られている。
  • 紹興本

    南宋の初期の、平安時代末期にあたる紹興年間(1131〜62)に刊行されたもので、「倭人伝」を含む刊本としては現存最古。 『魏志倭人伝』の文字数は1985文字。

  • 慶元本(いわゆる紹熙本)

    南宋の紹熙年間(1190〜94)に刊行されたとしばしばいわれているテキストで、「倭人伝」の部分は、中華民国の学者張元済が百納本二十四史を編纂したときに、宮内庁書陵部に存在するものを写真印刷した。

    南宋中期の建安で印刷された坊刻本(民間で刊行された本)だが、紹熙年間に刊刻された根拠は存在せず、慶元年間(1195〜1200)の刊本が存在するだけなので慶元本と呼ぶのが妥当である。俗字や略字が多くテキストとして余り良いものではない。 『魏志倭人伝』の文字数は1984文字である。
『魏志倭人伝』のテキストは1131年以後に作られているが、『魏志倭人伝』自体は 日本で古くから知られていたと思われ、720年に作られた『日本書紀』に引用されれている。

■ 現在手に入りやすいテキスト
  • 標点本『三国志』(中華書局刊)

    現在における標準的なテキスト。段落をもうけ、固有名詞に傍線が付され、句点・ 読点が入っている。現代の中国人学者の標準的な区切りによる読み方で、日本の学者の読み方と 違うところがある。

  • 百衲本『三国志』(台湾商務印書館刊)

    清朝から中華民国時代にかけての学者・張元済が、いくつかの版本を集め、写真に 撮って、まとめたもの。

    「百衲」はお坊さんの着る衣の「百衲衣」(ボロ布の使える部分だけをパッチワークのように継ぎ合わせた衣) から来ている。

  • 『三国志集解』(『二十五史7』芸文印書館刊

    清の考証家・盧弼(ろひつ)の撰になる。諸本の異動をやや詳しく記している点に特徴 がある。

  • 『和刻本正史 三国志』汲古書院刊

    日本の出版社から出されており、ふつうの書店に注文すれば、容易に手に入れることが できる。江戸時代に付けられた句読点、返り点、送り仮名が付けられている。

2.『魏志倭人伝』は誰が、いつ、どこで書いたか?

■ 『魏志倭人伝』の成立時期

『魏志倭人伝』は「いつ書かれたか?」という設問には、つぎのような理解のしかたがある。
  • 『三国志』の成立した時期が、『魏志倭人伝』の成立した時期、つまり、書かれた ときと考える。

  • 『三国志』のなかの、『魏志(魏書)』の成立した時期を、『魏志倭人伝』の成立 した時期と考える。

    『魏書』『蜀書』『呉書』はもともと、別に書かれたものであり、『魏書』の成立は、『三国志』全体の成立より早かったことが考えられる。

  • 魚豢(ぎょかん)の書いた『魏略』の中に、『魏志倭人伝』と、共通する記事がある。

    『魏略』は、『魏志倭人伝』の先行文献であったとする説がある。また、王沈(おうしん)の 『魏書』が先行文献であったとする説がある。

    さらに、王沈の『魏書』が先行文献で、『魏志倭人伝』も、魚豢の『魏略』も先行文献 である王沈の『魏書』の記事をうけついだものである、とする説もある。

    いずれにしても、『魏志倭人伝』には、先行文献があったのである。

    陳寿が先行文献をそのまま丸写ししたとすると、先行文献の成立した時期が「倭人伝」の成立時期ということになる。
■ 『三国志』はいつ書かれたか?

『晋書』「陳寿伝」によると、『三国志』を著した陳寿は、蜀の国の安漢で233年に生まれ、297年に没した。『後漢書』を書いた南朝・宋の范曄(はんよう)は398年に生まれ、445年に没した。

『三国志』は、当然だが、陳寿の生きていた233〜297年の期間に編纂された。また、『後漢書』は『三国志』より後に書かれた史書である。

4世紀後半に成立した四川省の郷土史『華陽国志』には、「陳寿は呉が滅んでから、『三国志』 を書いた。」と記されている。呉が滅んだのは280年であるから、『三国志』の成立は280年以降ということになる。

また、『三国志』の『呉史』には、284年の孫晧(そんこう:孫権の孫で呉の最後の 四代皇帝)の死を記している。従って、『三国志』が成立したのは284年以降である。

『三国志』にはさまざまな評価があるが、『三国志』を高く評価する逸話として、『晋書』の「夏侯湛(かこうたん)伝」に、次のようなことが記されている。

夏侯湛は、幼いときから才にあふれ、文章はひろく豊かで、論をあらわすこと三十余編という秀才であった。

夏侯湛も『魏書』を書いていた。しかし、陳寿の『三国志』を見て、自分の書いたものがとうてい陳寿に及ばないとして、自ら書いたものを破り捨てたという。

夏侯湛は291年に亡くなっている。従って、『三国志』ができたのは、291以前と考えられるのである。

さらに、『華陽国志』と『晋書』によれば、鎮南将軍の杜預(どよ)は陳寿の『三国志』成立以後に、陳寿を散騎侍郎にすべく推挙している。

杜預は、武将として呉を降した功績があり、また『春秋左氏伝』の註釈を完成した著名な学者でもある。杜預は284年12月に亡くなっていることから、『三国志』の成立は、284年12月より前と言うことになる。

これらのことから、『三国志』全体は、284年に呉の孫晧が没してから、284年12月に鎮南将軍の杜預が亡くなるまでの期間に完成したと判断できる。つまり、284年に成立したことが確定するのである。

『魏志』は『三国志』全体よりも早く成立していた可能性がある。

『三国志』は『魏書』『蜀書』『呉書』の順にならんでいる。最後の『呉書』は287年ごろのことまで記している。『蜀書』には、278年の記事がある。これに対し、『魏志』は265年に魏が滅んで晋が成立したことまでしか記していない。

陳寿は著作郎という役職で、晋の宮廷の図書を閲覧できる立場にいた。朝鮮古代史の専門家・井上幹夫氏は、陳寿が著作郎であったのは270年代後半から280年代前半までと推定している。

かれこれ考え合わせると、『魏志』は『三国志』全体よりは3、4年は早く、280年のころにはほぼ成立していた可能性がある。

    『魏志倭人伝』関連文献の成立
年代     文献の成立
255年ごろ魏の王沈(?〜266)の『魏書』なる。
(『晋書』「王沈伝」に、「正元中(正元年間254〜255)、魏書を撰す」とある)
257年〜265年魏の魚豢の『魏略』成立。
(下司和男氏、毛利康二氏などは、『魏略』の成立年代を、257年ごろとする。)
(263年)(蜀の滅亡)
(265年)(魏の滅亡)
(280年)(呉の滅亡)
280年ごろ晋の陳寿(233〜297)の『魏志』成立。
284年晋の陳寿の『三国志』全体の成立。

■ 『魏略』と『魏志』

魚豢の著した『魏略』が『魏志』の先行文献であるという説の是非については議論がある。

たとえば、立命館大学の山尾幸久氏は「魏志倭人伝の資料批判」(『立命館大学』260号)のなかで次のように述べる。

『魏略』と『魏志』とは、ともに、晋の武帝の大康年間(280〜289)の成立で、ほぼ同時期の成立であり、ともに泰始二年(266)に没した王沈撰の『魏書』を参照文献にして編纂された。

しかし、この山尾幸久氏の説は、その後、阪南大学の江畑武氏、下司和男氏をはじめ、多くの研究者から批判を受けており、ほぼ誤りと見られている。

次のようなことから、『魏略』が『魏志』の先行文献であることは、まず確かとみられる。
  • 唐の歴史家の劉知幾(りゅうちき)は、その著『史通』の「正史編」で次のように述べている。

    魏の年代に、京兆郡(前漢の旧都長安を郡治とする郡)の人、魚豢は、『魏略』を私撰した。帝紀は明帝(239年1月没)で終わっている。

  • 信頼できる『魏略』の逸文のもっとも時代のあとのものは、高貴郷公(254〜260)の甘露2年(257)のものである(江畑武「再び『魏略』の成立年代について)。

    『魏略』の成立はこの257年をそれほど大きくは降らないとみられる。

  • 『魏略』は『魏志』に比べ、司馬氏に対して厳しく、司馬氏の敵対者には寛容な傾向が見られる。これは、『魏略』が、司馬氏のたてた国である晋になるまえの魏の時代(265以前)に編纂されたためであろう。
これらのことから、『魏志』の先行文献である『魏略』は、257〜265年の間に成立したと考えられる。

■ 『魏志倭人伝』はどう作られたか?

『三国志』のなかの『魏志倭人伝』の部分がどのように作られたのかと言うことについても、次のように いくつかの説がある。
  1. 『魏志倭人伝』はおもに、倭に行った魏の使(梯僑、張政)の現地見聞報告書によったと考える。(他に魏朝の対外記録も)
    これが正しいとすると、倭人伝はかなり早くできていたと思われる。
  2. 『魏志倭人伝』は『魏略』に全面的によったと考える。
  3. 『魏志倭人伝』はおもに、『魏略』によるが、それ以外の資料により、修正・補訂 を行ったと考える。
  4. 『魏志倭人伝』も『魏略』も、王沈の『魏書』にもとづくと考える。(山尾幸久氏)
4の山尾幸久氏の説は、現在ではほぼ否定されている。

『三国志』の「東夷伝」の裴松之(はいしょうし)の注をみると、『魏略』からの引用が10例みられるが、王沈の『魏書』からの引用がない。     裴松之の注の数(巻三十について)
『魏略』王沈の『魏書』
烏丸伝1例1例
鮮卑伝0例1例
東夷伝10例0例
11例2例


また、「巻三十」の「烏丸・鮮卑・東夷伝」全体でみても、『魏略』からの引用が11例、王沈の『魏書』からの引用が2例である。

中国の史書では、『三国志』になってはじめて「東夷伝」が設けられた。その事情について、陳寿自身が東夷伝の序で次のように述べている。

公孫氏が三代にわたり遼東を支配し東夷諸国を隔断したため、東夷諸国は魏に通じることができなかった。

公孫氏が滅びて、東夷諸国のさまざまな様子がわかってきたので、中国との同異を記すことにした。これは、これまでの史書には無かった内容である(前史の未だ備わらざる所)。

王沈の『魏書』には「東夷伝」関係の記述が無かった可能性が強い。すなわち、王沈の『魏書』を『魏志』と『魏略』の先行文献とする山尾幸久氏の説は、やはり成立しない。

また、『魏略』と『魏志』の文章を比較すると、『魏略』には省略が目立つ。

『魏略』に書いてあって『魏志倭人伝』に書いてないことよりも、『魏志倭人伝』に書いてあって『魏略』に書いてないことのほうが、ずっと多いように見える。

『魏志倭人伝』を元にして『魏略』の文を書くことはできても、『魏略』の文章から『魏志倭人伝』の文は書けない表現が多い。

このようなことから考えると、『魏志倭人伝』が『魏略』に全面的に依拠したとする説や、『魏略』をベースにして他の資料によって修正したとする説は成立しがたい。

■ 『魏志倭人伝』の情報源

『魏志倭人伝』が『魏略』に依拠したものでないとすると、その情報源は次のいずれかであろう。
  • 梯儁や張政が魏の使者として倭へ行ったときの現地見聞報告書
  • 難升米など倭の使者からの聞き取った情報
『魏志倭人伝』を詳しく見ると、次のようなことから、魏の使者の梯儁や張政が記した現地見聞報告書を情報源にして書き写しているように見える。
  • 「(帯方)郡から倭に至るには」となっていて、「倭から(帯方)郡に至るには」となっていない。

  • 「対馬国→一支国」と、道順が魏から倭に来たかたちになっている。

  • 対馬国、一支国、不弥国、投馬国でみな官を副官まで記している。副官まで書いた のは現地で聞いたものではないか。

  • 「末盧国」での「草木が茂りさかえ、行くのに前の人がみえないほどである」などは 実際に見たことの記述であろう。

  • 「皆黥面文身」「皆露」など、「皆」の字を入れている。一部の人を見ただけではこのように書けない。

  • 「鵲(かささぎ)」がいないと書く。「鵲」を知っている人にはこう書けても、知らない人には書けない。

  • 猴(おおざる)」「黒雉」なども、実物を見ないと書けない。

  • 婦人の「被髪・屈」なども、現地で見ないと書きにくい表現ではないか。

  • 次のようなことから、魏使の中には、中国の南方出身、または、中国の南方事情に詳しい者がいたように見える。

    • 耳・朱崖」との類似などは、中国南方に行ったことのない倭の使者には書けない。

    • 照葉樹林の樹木名の記載が多い。樹木の中国名など、倭人は知らない可能性が大きい。魏使が実物を見て書いたのではないか。

  • 下戸が大人(身分の高い人)に会えば平伏するなども、現地での観察のようにみえる。(中国では立礼がふつう。)

  • 受け答えの声は「噫(おお)」という、なども現地での観察のようにみえる。
■ 『三国志』はどこで書かれたか?

『晋書』の「陳寿伝」によると、陳寿がなくなったときに、天子の詔が河南省の長官にくだり、その命により、河南省に属する洛陽の県令は、陳寿の家に行って、その書(『三国志』など)を写したとされる。

『三国志』は、陳寿の洛陽の家にあったのである。陳寿は『三国志』を、洛陽で完成させたとみられる。

『魏志倭人伝』は中国の日本に関する記事として、一番正確である。

陳寿の家は洛陽にあり、宮廷も洛陽にあったので、宮廷にあった資料を良く調べ、正確に書けたのではないか。



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