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第304回 「纒向式土器の相対年代と歴年代」、石野先生・安本先生対談


 

1.安本先生講演・纒向式土器の相対年代と歴年代

石野先生との議論はこれが4回目となる。

■土器の編年
・今年出版した石野先生の本「唐子・鍵と纒向」(『ヤマト王権は、いかにして始まったか』[学生社.2011年間]所収)による。
この図において、庄内0、1,2,3、布留0、1の土器を西暦年代にあてるとどうなるかである。

 

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・近畿地方における弥生時代歴年代対応比表

石野先生は1973の時点では、表のように纒向1式など土器を比較的新しく編年していた。 1984ではだいぶ古い時代にシフトした。

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・土器の絶対年代は確実ではない。
確実な根拠がないため、たとえば、布留O式とされている箸墓古墳の築造年代でも、考古学者によって、つぎのように、およそ100年ぐらいの幅で異なる。
四世紀の中ごろ(西暦350年前後)
・・・関川尚功氏(奈良県立橿原考古学研究所)

三世紀の終りごろ(西暦280年~300年ごろ)
・・・寺沢薫氏(奈良県立橿原考古学研究所)
・・現在の石野先生と同じ年代となるかと考えられる。

三世紀の中ごろ(西暦250年前後)
・・・白石太一郎氏(大阪府立近つ飛鳥博物館長)

新聞などで発表される土器の年代は、暫定的なものであって確実なものではない。
(確実なように主張する人がいれば、それは信念にもとづくもの)

■「再現性」の問題 2006年5月13日(日)
・安本先生
調査された事実は、だれが観測しても、ほぼ同じ結果を示すという「検証性」「再現性」をもっていなければならない。
・石野先生
安本先生の議論に封し、石野先生は、ほぼ次ぎのように反論する。
「『再現性』などということばの意味がよくわからない。同じものをみても、意見の違うことのあるのは、ふつうのことではないか。意見が違った場合は、なぜ意見が異なったのか、その原因を明確にして行くべきである。そのようなプロセスを通じて、邪馬台国も、しだいにあきらかになって行くとみられる」
安本先生の「事実」について、石野先生は「意見」としている。

■「事実」と「意見」とについて
☆森博嗣著『科学的とはどういう意味か』(幻冬舎2011年刊)
「では、科学と非科学の境界はどこにあるのだろ?
実は、ここが科学の一番大事な部分、まさにキモといえるところなのである。
答をごく簡単にいえば、科学とは『誰にでも再現できるもの』である。また、この、誰にでも再現できるというステップを踏むシステムこそが『科学的』という意味だ。
ある現象が観察されたとしよう。最初にそれを観察した人間が、それをみんなに報告する。そして、ほかの人たちにもその現象を観察してもらうのである。その結果、同じ現象をみんなが確かめられたとき、はじめてその現象が科学的に『確からしいもの』だと見なされる。どんなに偉い科学者であっても、一人で主張しているうちは『正しい』わけではない。逆に、名もない素人が見つけたものでも、それを他者が認めれば科学的に注目され、もっと多数が確認すれば、科学的に正しいものとなる。
このように、科学というのは民主主義に類似した仕組みで成り立っている。この成り立ちだけを広義に『科学』と呼んでも良いくらいだ。なにも、数学や物理などのいわゆる理系の対象には限らない。たとえば、人間科学、社会科学といった分野も現にある。
そこでは、人間や社会を対象として、『他者による再現性』を基に、科学的な考察がなされているのである」
「まず、科学というのは『方法』である。そして、その方法とは、他者によって再現
できる』ことを条件として、組み上げていくシステムのことだ。他者に再現してもらうためには、数を用いた精確なコミュニケーションが重要となる。また、再現の一つの方法として実験がある。」としている。

「美人」という言葉は、一義的ではない。意見としては「美人かどうか」であるが、客観的要素としては「二重まぶたかどうか・身長155センチより高いかどうか」である。

■客観性や再現可能性
・用語と方法と手続きの問題
客観世界についての問題は「あるものが再現性があるかどうは研究対象が、どのような性質をもつかの問題ではなく、こちら側、研究探求がどのような方法手続き」をとるかの問題である。

・池田清彦著『科学とオカルト』(講談社文庫2007年刊)
『科学』では、同じやり方に従って行えば、誰がやっても同じ結果がでることこそ重要なのである。これを再現可能性と言う。」
「(かつては、)現在のような制度化された科学はなかった。そればかりか、今日、科学の重要な特徴と考えらている客観性や再現可能性を有した学問それ自体も、なかったのである。」

・具体的に庄内式土器と一緒に出た、鏡のデータ
奥野正男氏、寺田薫氏、小山田宏一氏のものがある。三人の意見は違うが、共通していることがある。それは「庄内期に一緒に出てくる鏡は福岡県が圧倒的に多く、奈良県はほとんどみるべきものがない」ということ。これが私の言っている再現性である。立っている基盤に大きな違いがあっても同じ結果が出る統計的再現性がある。意見の違いとはちがう。個々のものでは測定誤差があっても全体の傾向としては動かない。

どんな鏡が多いかについても、奥野氏、小山田氏、寺沢氏のデータは内行花文鏡、方格規矩鏡が多いことになる。

どのような墓から出るかについても、奥野氏、寺沢氏は同じで、箱式石棺から多く出る。
魏志倭人伝に倭人は鉄の鏃を使うと記述されている。西暦300年以前では鉄の鏃は福岡県から圧倒的に多く出てくる。奈良県の100倍はある。

奈良県に圧倒的に多いのは前方後円墳、三角縁神獣鏡、画紋帯神獣鏡である。これらは布留式土器の時代となる。

■中国考古学者たちの見解
中国を代表する考古学者の王仲殊氏はのべている。「河南省の洛陽を中心とする中国の黄河流域の各地で出土した、二世紀の後漢・三世紀の魏晋期の銅鏡の種類から判断すると、魏王朝が卑弥呼に賜わった百面の銅鏡は、『方格規矩鏡』『内行花文鏡(連弧文鏡)』『獣首鏡』『夔鳳鏡』『双頭竜鳳文鳳』、それに『位至三公鏡』などであるに違いありません。」(『三角縁神獣鏡と邪馬台国』梓書院、▽1997年刊)

また、王仲殊氏とならんで、中国を代表する考古学者である徐苹芳氏も、つぎのようにのべる。
「要するに、幅広い調査発掘の成果によって、魏および西晋時代の中国北方の銅鏡は、ことごとく方格規矩鏡・内行花文鏡・獣首鏡・夔鳳鏡・盤竜鏡・双頭竜鳳文鏡・位至三公鏡・鳥文鏡などであることが立証されました。
よって、わたくしたちは、邪馬台国の女王卑弥呼や、その後継者が中国から得たところの銅鏡は、以上挙げた種類の銅鏡の範囲を越えることはあり得ないと考えるのです。」(『三角縁神獣貌の謎』角川書店、1985年刊)

寺沢薫氏の示された表のデータによるとき、福岡県から出土した30面の庄内期出土の鏡のうち、王仲殊氏、徐苹芳氏のあげる「方格規矩鏡」「内行花文鏡」「獣首鏡」「夔鳳鏡」「双頭竜鳳文鏡」のいずれかにあてはまるものは24面を数える。
8割までは、卑弥呼が魏王朝から与えられた鏡にほぼふさわしいものである。
出土した鏡の量からいっても、内容からいっても、庄内期の福岡県、あるいは、北九州こそ、日本列島のうちで、卑弥呼のいた場所としてもっともふさわしいようにみえる。

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王仲殊氏はのべている。
「ここで注意すべきはヽ中国の平縁神獣鏡が、どの種類であれ、すべて南方の長江(揚子江)流域の製品であって、北方の黄河流域のものでなかったことである。最盛期である三国時代のさまざまな平縁神獣鏡を例にとるとそれらは長江流域の呉鏡であって、黄河流域の魏鏡ではない」(『三角縁神獣鏡の謎』)

■貨泉の問題
石野先生は以前の議論で、畿内の古い年代を決めるのに、上限は一世紀初めの貨泉で決めると言ったが、日本で出土した貨泉は沖縄や北海道からも出土している。これらは鎌倉時代の遺跡から出ている。中国でも明、清の時代からも出ている。
中国で鋳造した貨泉が日本にくるまでの時間はわからないので、出土の上限を決めることはできない。
しかも、大阪から京都からは出ているが、奈良からは出て来ない。

雲雷文連弧文鏡(内行花文鏡の一種)は190年を下限とする洛陽焼溝漢墓から出てくる、300年ごろの洛陽晋墓からも出てくる。日本では平原遺跡からも出てくるし古墳時代からも出てくる。これが日本で一番多く出てくるのはやはり福岡県である。

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■墓制の変遷
北九州における墓制は、時代とともに、大略、つぎのように変化してきているといえる。
(1)甕棺墓葬
弥生時代前期から行なわれたが、西暦紀元元年ごろを中心に、西暦180年ごろまでの弥生時代中期に、北九州の中心部で盛行した。後漢から金印をもらった奴国の時代に対応する。二つの甕の口と口をあわせ、なかに屍体をいれて葬る合口(あわせぐち)甕棺が多い。甕棺墓葬は、弥生時代後期前半を境に、急速に消滅する。甕棺墓は共同墓で、顕著な封土をもたない。細形・中細形の銅剣・銅矛・銅戈は、甕棺から出土している例がかなりみられる。また、鏡では「清白」「日光」「照明」「日有喜」銘鏡などが出土する。これらが、甕棺墓葬の時代に対応している。甕棺墓葬は、弥生時代後期中ごろには、姿を消す。

(2)箱式石棺墓葬・石蓋土壙墓葬
西暦180年前後を境に、北九州の中心部の墓制は、甕棺墓葬から、箱式石棺墓葬・石蓋土壙墓葬・木棺墓葬へと、交替していく。
箱式石棺墓葬では、たいらな板石を長い箱形にくみあわせ、同じく板石でふたをした棺に葬る。石蓋土壙墓は、土の墓穴の上に、石のふたをしたもの。この箱式石棺墓葬・石蓋土壙墓葬の時代が、大略、邪馬台国の時代にあたるとみられる。この時代の遺物として代表的なものとしては、「長宜子孫」銘内行花文鏡、小形仿製鏡第Ⅱ型、鉄剣、鉄刀があげられる。これらは、きわめてしばしば、箱式石棺から出土している。
そして、「長宜子孫」銘内行花文鏡と小形仿製鏡第Ⅱ型とは、甕棺からの出土例は、まれである。逆に、北九州中央部の、かつて甕棺が行なわれた地域において、細形の銅剣・銅矛・銅戈は、箱式石棺からの出土例がない。「長官子孫」銘内行花文鏡、小形仿製鏡第Ⅱ型、鉄剣、鉄刀は、ほぽ同じ地域に分布し、北九州の中央部において、箱式石棺から出土し、また、同一遺跡からの出土例もしばしばみられるので、大きくは同一の政治的・文化的集団の遺物とみてよい。ただ「長宜子孫」銘内行花文鏡よりも小形仿製鏡第Ⅱ型のほうが、後の時代に出現したとみられる根拠がある。箱式石棺が、甕棺よりも後出的なものであることを示す好例としては、福岡県朝倉郡筑前町中牟田遺跡などの例があげられる。この遺跡では、弥生中期の須玖式甕棺墓の地上に、小盛土をして、箱式石棺を埋没していたという(原田大六著『日本国家の起源 上』三一書房刊)。
(3)竪穴式石室葬
四世紀を中心とする時代に行なわれた。古墳の内部に作られた。長方形の穴を掘り、その四壁に、扁平な割り口を小口づみにする。上部から棺をいれ、石材などで天井をおおう。これは、棺の形式ではなく、棺をいれる石室の形式である。竪穴式石室は、前方後円頂の内部に作られることが多く、また竪穴式石室のなかには、木棺がいれられることが多い。
箱式石棺は、板石を用いて作るのにたいし、竪穴式石室は、いっぱんに、割り石を積んで作る。竪穴式石室は棺の形式ではないので、竪穴式石室のなかに、箱式石棺がおさめられることもある。
この時代には、三角縁神獣鏡や、画文帯神獣鏡といわれる鏡が盛行する。三角縁神獣鏡は、おもにこの時代に新しくあらわれ付加される鏡である。四世紀を主とする時代の遺物と、つぎの五世紀以後の遺物の傾向の異なることは、考古学者の小林行雄氏が、つぎのように述べている。
「四世紀の大部分にわたって継続したものが、ほとんど五世紀には遺存せずに、消失していったという表現によってあらわすことができよう。すなわち、魏の三角縁神獣鏡の所持とか、大型のぼう製鏡の製作とか、碧玉製腕飾類をはじめ、各種の特殊な碧玉製品の流行などがそれに属する。」(『古墳文化論考』平凡社、1976年刊)

(4)横穴式石室葬
五世紀ごろ、九州と近畿を中心に行なわれた。朝鮮半島の墓制の影響のもとに成立した。六世紀以降に、各地で埋葬施設の主流となった。遺骸を安置する玄室(げんしつ)と、これに通じる通路としての羨道(せんどう)とを、石材で構築する。玄室は、広く高い空間をもち、羨道は、棺、その他をはこびいれることができる幅と、歩行することできるていどの高さをもつ。
竪穴式石室では、墓穴を、墳丘の上面からうがつ。横穴式石室では、墳丘の側面からはいる。横穴式石室の玄室は、あるていどの広さをもつので、数回の追葬が可能である。

(1)の甕棺墓葬と、(2)の箱式石棺墓葬・石蓋土擴墓葬は、おもに、北九州に分布する。
(3)の竪穴式石室葬と、(4)の横穴式石室葬とは、畿内を中心に分布する。

 

■福岡県における鏡の形式の変遷と墓の形式

前漢鏡から、古墳時代鏡までについて、どのような墳墓(甕棺墓、箱式石棺墓、前方後円墳)から出て来たものが多いかについての表から、西晋時代鏡は箱式石棺と前方後円墳で半分づづとなる。これが庄内式と布留式土器の境目となると考えられ、そのひとつ前の時代が邪馬台国時代のもではないか。つまり後漢鏡系列(方格規矩鏡、小形仿製鏡、長宜子孫銘内行花文鏡)である。

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中国の社会科学院考古研究所楊氾氏は、つぎのように述べている。
「方格規矩鏡・内行花文鏡・夔鳳鏡・獣首鏡、これらはすべて後漢の鏡ですが、魏晋の時代に入ってもそのまま中国の北方で流行していました。ただ、様式的にはいくつかの変化が現われます。たとえば方格規矩鏡の文様はより簡略化され、内行花文鏡の鈕座は多く蝙蝠の形をとるようになり、また獣首鏡の獣首文様も全く獣首らしくなくなりました。」
この蝙蝠鈕座内行花文鏡も圧倒的に北九州から多く出土する。

寺澤さんのデータでも、200年~250年の鏡は圧倒的に北九州から出ている。

 

 

2.石野博信先生講演・纒向式土器の相対年代と歴年代

今日は邪馬台国がどこにあったは触れないで、土器の相対年代から暦年につないでいくことについて話したい。
土器の年代は相対年代で、土の下から出たものが古く、上から出たものが新しいとする。絶対年代にするには、年代が分かるものと一緒に出てきたものから考えていき、歴年代とする。
しかし、どうしても、発掘結果から、層位の乱れがある場合がある。

纒向に幅5メートル、推定長さ2600メートルの水路があり、ここから何百個の土器が出てくる。この中でも少し、層位の乱れがある。

「庄内式土器」は大阪の豊中市の庄内という土地から出たので、布留式以前の土器として庄内式としたもの。この名前が一般的に通っているが、弥生5様式より新しく、布留式より古いとされたもので、邪馬台国時代ではないかと言われている。今回の話は「纒向式土器」として話す。

表1にあるように、纒向1式2式3式4式から5年前に、纒向1類2類3類4類と表記を変えた。しかしまだこの表記は浸透していないが、正しいのはこの「類」表記である。

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唐子・鍵遺跡を中心とした弥生5様式が細かく5種類に細かく分けられているが、その最終期の分類に当たるのが纒向1類となる(纒向の始まる時期)。布留式になるのが纒向5類で、纒向の最終期となる。また纒向4類を寺沢氏は布留式の要素が出始めた庄内式なので、布留0式とした。
しかし庄内式の一番新しいタイプとしたほうが良いと考える。これは呼び方が異なる意見の違いである。

壷に波型、丸いボタンみたいなものが付いており石垣波状紋といわれている。これは加飾壷[かしょくつぼ](かざりかけた壷)で、加飾壷は弥生5様式には無く、纒向2類から現れ、3類、4類、5類へと続き、纒向5類になると無くなる。

小形丸底の土器(直径10センチ程度)が纒向2類から出てきて、3類、4類と5類の布留式まで続く。これはかけらでは4類では布留式と見分けが付かなくなってくる。

小形器台も纒向2類から出てきて、5類まで続く。そして形が微妙に変化して行き、4類では縁のところが変わってくる。

布留式土器の目安となる小形土器3種が纒向5類から出てくる。これが全国的に広がってくる(土器の斉一化)。近畿を中心として、文化が土器としても全国的に広がったといえる。これが前方後円墳の時代で、大和政権の全国制覇となる。
そのため布留0式は微妙な表現となる。

弥生5様式の甕が纒向4類まで使われる。専門家でも弥生5様式と纒向4類の甕の区別ができないくらいのものである。弥生的な煮焚きに使う甕が使い続けられるのである。

庄内甕と言われる薄甕は厚みが2mmから1mmである。この庄内甕が現れるのは纒向4類からで、纒向5類(布留式甕)まで続く。

纒向2,3,4類の土器の違いは、出土した土器の数が多くないと難しく、少なくとも5~6個は見つからないと難しい。

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・纒向遺跡の外来系土器
纒向遺跡から出る、他の地域の土器について、
纒向1類の土器は他地域のものがあるが少ない。どこでも多くて3%くらいは他地域の土器がある。100個くらい出ないと統計的に信用できない。
纒向2類になると多くなる。器台は奈良以西で出雲と四国の阿波や播磨から。壷は東海地方(美濃、尾張、伊勢、三河)である。

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邪馬台国畿内説では、狗奴国は東海地方との説があるが、大きな銅鐸を持っているのは東海であり、近畿と東海は仲がよいので、狗奴国ではないのではないかと思われる。これは土器の交流でもいえる。この交流は東海系の土器が近畿に来ており、近畿土器の東海への移動量は少ない。

 

・出土鏡

4番
原田遺跡から出た土器、岡村氏漢鏡7期の鏡と一緒に出ている。纒向2類の土器となる。
6番
祇園山古墳

7番
青竜鏡と纒向4類と思われる土器が一緒に出ている。

8番
京都黒田古墳の
纒向3類の土器と一緒に出ている。

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・庄内式土器と布留式土器の出土層(「古墳のための年代学」から)

纒向2式土器の変化
纒向遺跡東田地区南溝(南部)黒色粘土1下層出土土器
纒向遺跡東田地区南溝(南部)黒色粘土2下層出土土器

纒向2・3式土器の変化
纒向遺跡東田地区南溝(南部)黄褐色・黒色粘土2(上部)出土土器
纒向遺跡東田地区南溝(南部)黒色粘土1上層出土土器

纒向3式(纒向4類)土器の変化
纒向遺跡辻地区土坑4下層出土土器
ここから布留0式が出た。稲の籾殻が出た。

・北部九州からみた土器編年と年代

九州の多々良込田遺跡から西新ⅠB期、纒向3類


九州の津古生掛古墳から 西新ⅡA期、纒向4類から5類の間くらいのもの。


九州の那珂遺跡群から西新ⅡA期、纒向4類

このように九州と纒向の土器の関係を比較している。

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・弥生~古墳時代初頭における中国鏡の出土状況
土器と鏡の共伴関係を示した寺沢薫氏による資料があった。表示省略。




3.安本先生・石野先生対談

 

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①岡村秀典氏の鏡の年代
・安本先生質問
石野先生の資料4の原田遺跡1号石棺墓の単夔文鏡について、岡村秀典氏は漢鏡7期としている。岡村氏の鏡の年代表は実際と合わないし、石野先生の年代表とも合わない。平原遺跡の鏡は漢鏡5期として、西暦50年くらいとしている。柳田康雄氏の平原遺跡に関する報告書では西暦200年のものとしている。約150年くらい早くしている(確認すると岡村氏は75年としており、125年早いことになる)。北九州から多く出ている位至三公鏡は洛陽晋墓(墓誌が出ている)から出ており、西暦280年~300年とされている。岡村氏は位至三公鏡は漢鏡6期を中心として漢鏡7期にかかるとして西暦150年前後としている。石野先生は三角縁神獣鏡は布留式土器の時代であり4世紀全般の鏡としているので、それを4世紀初めとして西暦320年とする。対して岡村氏は三角縁神獣鏡は卑弥呼の鏡であると考えており、250年くらいとしている。これでも70年くらい違っている。岡村氏は鏡の年代を全般に70年~150年早くしている。

・石野先生回答
今回掲載した資料はよく検証せずの掲載した。岡村氏は漢鏡7期の段階で九州までの地(山口から九州周辺)の地域に7期の鏡が多くなって、反対に九州が減っているとして岡村氏の編年鏡の資料を掲載した。岡村氏の年代は中国での製作年代としている。7期は200年より少し前としている。
三角縁神獣鏡は纒向4類(布留式0土器)までの土器と一緒に出土しているもは1面もない。ただ、可能性があるのは3面ある。香川県の奥三号墳(まわりの古墳群から纒向4類の可能性があるが、ここからは土器が出ていない)、福岡県の那珂八幡古墳(土器は出ているが、横の埋蔵施設かもしれなく同伴関係がはっきりしない)、その他1面である。これらからはっきりしているのは纒向5類以降であり、庄内式土器時代のものではない。また黒塚古墳は布留1式以降であると思っているので、邪馬台国時代のものとは思っていない。


②画紋帯神獣鏡
・安本先生質問
石野先生の資料4,5,6,7,8、安本資料の「中国考古学者たちの見解」。
画紋帯神獣鏡は魏の鏡ではない。
祇園山古墳群の甕棺は特殊なケースで甕棺が後の時期まで続いたと思われる。この甕棺から画紋帯神獣鏡が出ている。
私は画紋帯神獣鏡は4世紀の鏡だと思う。
この鏡を卑弥呼の鏡とすると、魏は北の地域なのに南の呉の鏡が出たのは、この鏡が卑弥呼の鏡と言えないことはないか。

・石野先生回答
画紋帯神獣鏡で呉の年号が入っている鏡が2面出ている。
当時の日本では、邪馬台国政権以外も各地域が独自に外交をやっている体制であったのではないか、だから圧倒的に魏の鏡が多くても、呉の鏡が出てきてもおかしくは無いと思う。

③土器の共伴関係
・安本先生質問
土器が共伴関係にあれば、併行関係によって、土器の年代がたどれるという。考古学のなかでそのような考え方をする方が多いようだが、相当のタイムラグがあるのではないか。北九州と奈良県と同じ土器が出てきた場合、同じ時期と言えるのだろうか。北九州から圧倒的に多数の邪馬台国時代の鏡が出てきている。もし仮にこれが庄内式土器とした場合、奈良県からは確実な手掛かりのあるものが出て来ない。画紋帯神獣鏡が出てきているがこの鏡は、邪馬台国時代より後の時代である。畿内のホケノ山古墳は4世紀ごろで、江田船山古墳は5世紀ごろと思う。
併行関係なら、九州も畿内も一緒の時期とするが、ほんとうにそう言えるのか?

・石野先生回答
ホケノ山古墳は加飾壷が出てくる、しかし纒向5類の小形丸底土器もでている。ホケノ山は土器からいえば布留1式の新しい段階だが、私は纒向4類の時代だと頑張っている。
江田船山古墳からは出て来ない。布留1式290年~340年くらいかと思っている。
ホケノ山は小形丸底は布留1式でも古い段階であると思っているので、340年まで考えなくてもよい。画紋帯神獣鏡がこの段階からあると考えるしかない。

九州の庄内式土器と近畿の庄内式が同じ形でも一緒に使われたか分からないではないかということに対し、 九州の西新式土器が近畿でも30箇所くらい出ているし、数は少ないが近畿の庄内式土器が九州でも出ている。だから、九州に対し近畿の庄内式土器が20年~100年も開くことは考えられない。

九州から多くの鏡が出て、近畿から出て来ないことについては別問題である。

しかし、九州で掘っている箱式石棺、甕棺、に対し、近畿で庄内段階の纒向2・3・4類の方形周溝墓は少ない。同じ時期の土器を出している墓はホケノ山程度で、同時に中山大塚は盗掘を受けており中身はよく分からない。
結局、近畿では鏡が出てくるであろう墓は掘っていない。
庄内期の墓は7~8基くらいある。

④邪馬台国問題は魏志倭人伝に書かれていることで議論すべき
・安本
邪馬台国問題は魏志倭人伝に記載されている内容から、土器の年代を決めることが筋ではないか。

・石野
考古学では遺跡から大量の土器が出てくるので、土器で相対的年代を決める。違う地域については土器の併行関係から編年するのが筋である。

・安本
考古学一般としては石野先生の言うように、土器から編年することは正しいと思うが、邪馬台国時代を議論する場合は魏志倭人伝を優先させるべきである。

⑤貨泉
・安本
貨泉は大阪府や京都の北の方から出ているが、奈良からは出ていない。3世紀の終わりごろは大阪府や京都の地域が邪馬台国の力が及んでいたが、奈良県には及んではいなかったではないか。このように奈良県に邪馬台国関係の遺物が出ていないのは何故か。

・石野
確かに、奈良から邪馬台国関係の遺物が出ないのは事実。
土器からみても福岡県を中心に伽耶系、楽浪系の朝鮮半島の土器が出ており、2~3世紀は九州の方が、朝鮮半島との交流の密度が高い。その時代の土器が出てくるのは大阪、京都の地域である。奈良からは出て来ない。
唐子鍵遺跡の2階立ての建物がある。この柱は当時としては新しく中国的な立て方である。この建て方について宮大工に聞くと中国から棟梁が一人来ても技術的に造れるとのこと。
だから技術者が大和へ来ても日常使用土器はさほど出ない。だから出なくて仕方ない。

⑥次回
・安本
鉄族等の話は次回の機会に・・・
又同じような機会を何回か設けましょう。

・石野
この延長戦を奈良に来られる機会があれば、纒向遺跡あたりでやれればいいですね。








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