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第305回 「平塚川添遺跡と邪馬台国」、川端先生・安本先生対談


 

1.平塚川添遺跡と邪馬台国(朝倉市教育委員会文化課:川端正夫先生)

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■はじめに
安本先生は邪馬台国甘木説とのことで、地元で大きな励みとして商工会とか地域活性化団体を通じて活動をしている。10年前に平塚川添遺跡を開発して公園とした。ここには邪馬台国の会の方々にも来て頂いている。

■甘木朝倉地域
・発掘調査
朝倉地区の考古学的研究は旧制高校の先生方が中心になって始まり、現在は市町村による発掘となる。
① 旧制朝倉中学時代の先生方の坂本美鈴氏、宮崎勇蔵氏、金子文夫氏などによる調査。
② 朝倉高校史学部の古賀精里氏、高山明氏により1969年「埋もれていた朝倉文化」としてまとめる。
③ 1968年ごろから、福岡県教育委員会による九州横断道自動車道の調査としてはじまり、国道、高速道路の建設調査で多くの遺跡が発見された。これは1975年頃まで続く。
④ 夜須町・三輪町(現筑前町)、甘木市・朝倉町・杷木町(現朝倉市)小石原村・宝珠山村(覗東峰村)などの市町村教育委員会による調査が1975年頃から始まり、市町村による発掘となる。

・朝倉の地名
古代資料として、「朝倉郡」は「倭名抄」上座(かみざ)[かみつあさくら]と、下座(しもざ)[しもつあさくら]からなる。7世紀後半に斉明天皇が朝倉に入った。そして朝倉山の木を切って宮を造った。「朝倉」は「朝倉郡」としたことからの地名で郡の名から来たもの。

近代になって、「朝倉郡」は夜須郡・上座郡・下座郡とあったが、明治29年(1896年)に三郡統合となった。

甘木は中世(鎌倉時代)に安長寺の門前町・商業都市として成立したと言われる。延喜(920)の頃、南都の郷士「甘木遠近江守安長」が安長寺に地蔵を勧請した。更に、元応(1320)の頃に博多承天寺の仏印禅師が豊後への途上宿し、その後出雲より祇園勧請した。
地名の読みについて、
甘木amagi 古代に遡る地名記録は墨書を含め今のところ無い。
    「あま」天・雨・甘・海人~「うま」美・甘・旨
    「ぎ」支・城  水城、三奈木、一木、新羅、etc.
朝倉asakura  「日本書紀」斉明紀「朝倉社」「朝倉橘広庭」より下記となる。
    「あさ」 朝   cf.朝霧、朝里など複合しやすい
         麻
    「くら」 座・鞍 cf.高御座、千座、鳥座、矢座、岩座など複合しやすい
        闇・暗
・現在の朝倉市
2006年に甘木市、杷木(はき)町、朝倉町が合併して朝倉市となった。
ほぼ、旧の朝倉郡であることから、平成の市町村合併としてはうまくいっているところである。

■平塚遺跡群と福田台地
・平塚川添遺跡周辺
この地域の地形は平塚川添遺跡と平塚山の上遺跡が平野部にあり、その東から台地が始まる(堺を赤線で表示)。その台地に平塚大願寺遺跡(三角縁神獣鏡が出土)、平塚栗山遺跡、平塚垣添遺跡がある。台地は高くなく、5~6メートルの高さで、西に小石原川(または甘木川)(古くは安川)がある(地図より更に西で表記されていない)。
平塚大願寺遺跡の方形周溝墓から三角縁神獣鏡が出土し、また平塚栗山遺跡からも出土した。この地域は昔の上座郡・下座郡の中間である。


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・遺跡
①福田台地周辺遺跡群(平塚遺跡群を含む)
この台地上の遺跡群の多くは弥生前期から成立している様だが、弥生後期になって数カ所の集落が形成・拡大し、古墳初頭に最盛期を迎える。
平塚川添遺跡はその南西部への張り出し部(新墾にいばり、前線基地)ではないか。洪水等の被害の後、台地上に引き上げ、その後6世紀中頃に至るまで在地首長層として存続したものと思われ、前方後円墳の系譜が数代にわたって継続している。

②平塚川添遺跡・山の上遺跡の調査(1991~3年調査、工業団地の開発に伴う)
  川添遺跡:弥生中期~後期後半・終末~古墳初頭
  山の上遺跡:弥生後期中頃~後期後半・終末~古墳初頭
川添遺跡は低地性多重環濠集落。
後期後半・終末~古墳初頭は双子の集落として最盛期を迎える。出土した竪穴住居跡・掘建柱建物は両集落のべで517軒・252棟を数えた。主な出土品は、長宜子孫銘内向花文鏡片1、小形仿製鏡2、広型銅矛1、貨泉1、銅鏃4、ガラス製管玉、ガラス小玉、碧玉製管玉、木製建材などである。

・平塚川添遺跡の特徴
  a.低地に立地し、多重の環濠に囲まれていること
  b.地下水に封印された状態で、多くの木製品・植物遺体などの資料が得られたこと
  c.広範囲に調査したため、集落の全体がある程度推測できること

■山田・菱野地区遺跡群(4世紀ごろの古墳?)  [今回の講演で詳細説明省略→資料のみ掲載]
・「山田外之隈遺跡」
  ○画文帯神獣鏡 前方後方形墳丘墓(後漢後半か)
  ○飛禽鏡 Ⅱ区1号墳2号墓(三国時代か)
  ○重圏連弧文鏡(国産?舶載?)
・「山田後山遺跡」昭和8年石棺4基(2基から鏡出土)
  ○内向花文鎮(後漢鏡)
  ○小形仿製内向花文鏡
・「山田長田古墳」(この古墳は4世紀より古い)
  ○直径40m以上の円墳。前期古墳。
・「菱野剣塚古墳」
  ○菱野台地南端、全長75mの前方後円墳、南東部に「別区」造出
・「菱野鎌塚古墳」
  ○剣塚北方、直径40m級の円墳

■平塚川添遺跡と邪馬台国
筑後川中流域で括った場合の北東部に平塚川添遺跡があり、この地域は、弥生時代後期の高地性集落がすぐ近くに点在する。また、背振山地、三郡山地に囲まれ、少し離れた北東に、朝倉山があり、更に離れたところに、北部九州で一番高い(1200m)の英彦山がある。このような地形であることも、邪馬台国を考えるヒントになるのではないか。



2.平塚川添遺跡について(安本美典先生)

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・九州の古代の人口密度
「九州北半分の平野分布」「弥生時代の九州地方の人口(遺跡)分布」「弥生時代遺跡の推定分布」から、九州の平野部では朝倉付近が一番広く、朝倉から筑後川の下流地帯の人口密度が高かったことが分かる。
また、甕棺の分布も福岡市から朝倉市にかけて、分布が広がっている。


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 「九州北半分の平野分布」

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  「弥生時代の九州地方の人口(遺跡)分布」

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・明治の頃、福岡は九州第一の人口ではなかった。
橋本増吉『東洋史より見たる日本上古史研究』にて、「大正14年(1925年)の国勢調査によれば、九州第一の都市は長崎市で人口18万9千余、次は熊本市で人口14万7千余、第3位が博多を包括する福岡市で人口14万6千余となっている。福岡は九州第3の都市である。明治36年(1903年)で、長崎市が人口15万3千余、次は福岡市で人口7万1千余、次が佐世保市で人口6万8千余となっている。」
「福岡市は九州で第2位か3位であった」とあり、現在の福岡は九州第一の都市であるが、昔から九州第一の都市ではなかった。

・平塚川添遺跡は吉野ヶ里に匹敵するくらいの規模の遺跡。
読売新聞の記事からも大規模な遺跡であることがわかる。

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・邪馬台国時代の遺物の出土状況
赤線の左側は甕棺地域を表す。弥生時代末期の邪馬台国時代は旧甕棺地域が墓式石棺に代わって行く。邪馬台国時代の土器は庄内式土器で、庄内式土器と一緒に出る鏡が「長宜子孫銘内行花文鏡」などである。この鏡は北九州から多く出土する。その鏡と一緒に出たものは何かを表示したものがこの図で、4か所の中心的なところがあり、糸島半島の平原遺跡(鏡が多く出土)、博多付近、朝倉市付近、吉野ヶ里付近となる。

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次の図の鉄器でも同じように分布している。

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北九州市や遠賀川流域に投馬国があったと考えられる。この地域は箱式石棺があったところで、甕棺が行われなかったところである。ここも4か所の中心があり、北九州市付近、京都(みやこ)郡(行橋)付近、遠賀川上流部付近(嘉穂)、鞍手郡(宗像東)付近となる。

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・朝倉市付近の史跡
斉明天皇陵付近が斉明天皇の大本営をかまえていたところではないか。
岩屋神社、香山(高山)、安川など神話に出る地名が多いように思われる。

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3.川端先生・安本先生対談

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①平塚川添遺跡付近の発掘結果について
安本先生質問
昔は水をコントロールすることが難しいこともあり平野部より丘陵部に人が住んでいた。吉野ヶ里は丘陵部からの遺跡が多かった。発掘された平塚川添遺跡は低地であり、その付近に台地がある。台地の工業団地でブリジストンタイヤの工場がある。工業団地造成のときに、遺物などが出て来たのではないか?

川端先生回答
この工業団地は昭和30年代の誘致であったので、行政も詳細な試掘などをしていない。しかし朝倉高校で進入路の道路の一部で発掘が行われた。一部甕棺などがあったようだが詳細はわからない。東側と南側に集落があったかもしれない。キリンビール工場のところは前に陸軍の大刀洗飛行場があり、その飛行場を造るときに調べた。甕棺などが出て、大きな集落があったようだ。

②遺跡の発掘について
安本先生質問
邪馬台国の会でも、朝倉市付近は邪馬台国の遺跡があるのではないかと考えている。そこで、古代史について興味を持っているものがお金を集めて発掘ができるのだろうか?

川端先生回答
行政としての考えは保守的で、なるべく掘らないようにして後の世代に残して託すという考えである。しかし攻めの考えで、学問的に絞り込んで可能性があるとし、調査団を組んでこのような形で慎重にやるということであれば、許可を得て可能だと思う。

③行政による発掘
安本先生質問
奈良県は観光以外に産業が少ない、ということもあり、奈良県がお金をつぎ込み発掘に力を入れているように思える。福岡では行政自体がお金を出して知的好奇心のために発掘をおこなうようなことはないのか?

川端先生回答
奈良は少し前に奈良遷都1300年などで観光に力を入れているように思える。しかし福岡は課題としてはあるが、遺跡も多くそれらを維持する予算で精いっぱいである。更に観光のために発掘する予算の余裕はないと思う。

 

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