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第316回 邪馬台国の会
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1.邪馬台国が福岡県(九州)である確率 |
■ベイズの定理 これは、表にあるように赤い玉の数の合計から推定できる。
「邪馬台国は福岡県か奈良県か?」では九州は
「データを総合的にみること(統計学)」と「反対の人も、みとめざるをえない再現性のあるデータにもとづいているか」と「たんなる感想にすぎないか」が必要で、邪馬台国は想像によってではなく、科学的推定方法によって求めるべきである。
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2.神武天皇の「実在論」「非実在論」の検討 |
神武天皇が実在したとするなら、280年~290年頃だと思われる。 ■河内湖 このことから、大阪に河内湖があり、古代には内陸部まで入れたと思われる。 ・吉田東伍は、「大日本地名辞書」のなかで、つぎのように記している。 ②日下(草香)まで、船で直接行くことができた。
■神武天皇陵の話
■宇沙都彦の話 小田富士雄・長嶺正秀編の『石塚山古墳の謎』(海鳥社刊)のなかで、大分県立宇佐風土記の丘歴史民俗資料館の真野和夫氏は、つぎのようにのべている。 明治維新後に東大教授となった栗田寛(くりたひろし)(1835~1899)は、『国造本紀考』のなかで、つぎのようなことをのべている。 ・系図 国東半島の西の根元に宇佐があり、それを拡大したのが左の図で、そこに赤塚古墳がある。(下図参照)
神武天皇について、 |
3.神武天皇などの「非実在説」抹殺博士主義の哲学的基礎 |
戦後、津田左右吉の説の実証主義的文献批判が主流となって、『古事記』、『日本書紀』の古代の天皇の存在を否定するようになった。 注: このことをギリシャ哲学の田中美知太郎氏が対談で述べている。 また、東京大学の学長もされた西洋史学者の林健太郎氏は、その著『歴史と体験』(文芸春秋社刊)のなかで、かつて拙著の『神武東遷』(中公新書、1968年刊)をとりあげ、その方法論の大略を紹介されたのち、つぎのように述べておられる。 「素朴実証主義」は「実証主義」と違う。 ここでいう「実証主義」(「素朴実証主義」のこと)は19世紀の有力な科学哲学、つまりオーストリアの物理学者のエルンスト・マッハ(1838~1916)などが、一般的な形で説いた実証主義哲学のことである。 個々の実験事実や現象は、原子などが、われわれの五官に認知されうる世界に落した影であり、個々の文献や遺物も、史的事実がまず存在して、それが落とした影であるともいいうる。 マッハ(Ernst Mach)はオーストリアの物理学者・哲学者。近代実証主義哲学の代表者。超音速流の研究を行い、ニュートン力学に対する批判はアイシュタインに大きな影響を与えた。一方で、実証主義の立場からボルツマンの原子説に反対しつづけた。主著「力学史」。 マッハの認識論の核心部は現在では「要素一元論」と呼ばれていることがある。ヨーロッパで発達した近代哲学や近代科学というのは(それを実践する人々は一般に全く自覚していないが)主・客二元論や物・心二元論などのパラダイムの中にいる。マッハはそれの問題点を指摘し、直接的経験へと立ち戻り、そこから再度、知識を構築しなおすべきだとした。つまり我々の“世界”というのは、もともと物的でも心的でもない、中立的な感覚的諸要素(たとえば色彩、音、感触…等々)から成り立っているのであって、我々が「物体」と呼んだり「自我」と呼んでいるのは、それらの感覚的要素がある程度安定した関係で立ち現れること、そういったことの複合を、そういった言葉で呼んでいるにすぎず、“物体”や“自我”などというのは本当は何ら“実体”などではない、と指摘し、因果関係というものも、感覚諸要素(現象)の関数関係として表現できる、とした。そして「科学の目標というのは、感覚諸要素(現象)の関数的関係を《思考経済の原理》の方針に沿って簡潔に記述することなのだ」といったことを主張した。 また、 この世界の純粋要素とは〈感覚〉に他ならず、事物も自我も等しくこの〈感覚要素〉から構成されているのである。世界は、この〈感覚要素〉から一元的に成立している。(《感覚要素一元論》) マッハは哲学の分野では現象学等に多くの影響を与えている。認識論や科学哲学の分野では、思惟経済という考え方を強調したことで影響を残した。生理学でも《マッハ・ブロイアー説》など、マッハの名前が冠された業績は多数ある。心理学分野では《マッハ帯》や《マッハ効果》を発見し、さらに現在ゲシュタルト心理学にも影響を与えている。
しかし、 そのようにレーニンはマッハ流の『実証主義』を批判したのに、日本の左翼系の人たちは、マッハ流の『実証主義』である津田左右吉氏の理論を支持した。その理由は天皇制を否定した左翼系の人たちが、レーニン主義より、古代の天皇を否定いた、津田左右吉理論に賛同したためかもしれない。 |
4.「棺あって槨なし」 |
①箸墓古墳
・纒向周辺に関係する古墳が多い。(下図参照)
・崇神天皇前後の時代の狭穂姫(さほひめ)、狭穂彦王(さほびこのみこ)、日葉酢媛(ひばすひめ)、豊鍬入姫(とよしきいりひめ)の命、大海媛(おおしあまひめ)、御間城(みまき)姫について下図の系図を参照。
②日葉酢媛(ひばすひめ)の命陵(奈良市山陵町) ③ホケノ山古墳(桜井市三輪檜原)
④黒塚古墳(天理市柳本町) ⑤神原(かんばら)神社古墳(島根県雲南市加茂町の「神原」) 実際発掘してみると、経塚であった。これは「キョウ」の発音から経塚が兄塚と間違えられたものであろうか。現在は神原神社古墳が振根の墓ではないかといわれている。 ⑥柳本天神山古墳(天理市柳本町) ⑦桜井茶臼山古墳[桜井市外山(とび)]
畿内の諸古墳の築造年代をくりあげていけば、その墓制には、棺と槨とがあり、『魏志倭人伝』の「棺あって槨なし」の記述にあわなくなる。諸古墳の年代をさげれば、「箸墓古墳=卑弥呼の墓説」などはなりたたなくなる。 崇神天皇の時代などは、歴史時代に、そうとうにはいっている。魏から使いがきたのなら、なんらかの形で記されたであろう。
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