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第317回 邪馬台国の会
炭素年代法記事について
「三角縁神獣鏡」を検討する


 

1.炭素年代法記事について

・『読売新聞』2012年12月10日(日)の記事
*「炭素14」で測定
  畿内説を支持する「物証」のひとつが、奈良県桜井市の纒向遺跡にある全長280メートル箸墓古墳だ。最古の巨大前方後円墳で、卑弥呼の墓ではないかと注目を集めている。
  この古墳ができた年代に科学の光をあてたのが、国立歴史民俗博物館のグループだ。炭素14を使った年代測定で、築造は240~260年と推定された。卑弥呼が没したとされる247年ごろに一致する。炭素14は、大気中の窒素に宇宙線があたって作られる半減期5730年の放射性元素。炭素14の減った量を調べれば、年代を決定できる。箸墓の周辺で出土した築造時の土器に付着した「すす」を分析した。
  だが、この方法でも、決定した年代には数十~数百年の狂いが生じる可能性がある。これを20年の幅に絞り込めたのは、考古学で積み重ねた土器の研究の成果を組み合わせたためだ。
  土器は数十年単位で特徴が変化する。母から娘へ技術が継承され、作り手が変わるのが原因と考えられている。同博物館の坂本稔准教授は「複数の土器の特徴と炭素14の結果を矛盾なく組み合わせることで、年代を絞り込めた」と話す。
  纒向遺跡には当時、桃源郷のような風景が広がっていたこともわかってきた。
  奈良教育大学の金原正明教授(環境考古学)が、当時の穴に堆積した土中の花粉を分析したところ、桃の花粉が約1%含まれていた。桃は昆虫が花粉を媒介する。風で花粉を運ぶコナラやイネに比べて、花粉の量はずっと少ない。金原さんは「桃の花粉がこんなに見つかるのは珍しい。一面が桃の林だったのではないか」と想像を膨らませる。

・『朝日新聞』2013年3月2日(土)の朝刊の記事
ニュースがわからん!
箸墓古墳に初めて研究者が入ったな
卑弥呼の墓という説もあって学会が要望したよ
ホー先生 宮内庁が立ち入り禁止にしていた古墳に研究者が初めて入ったそうじゃのう。
A 奈良県桜井市の箸墓(はしはか)古墳だね。邪馬台国の女王・卑弥呼の墓という説もあって、一般の人の関心も高いんだ。中国の歴史書「魏志倭人伝」に記された邪馬台国がどこにあったか、近畿説、九州説を中心に論争が続いている。今回は歴史や考古学の学会の要望が認められたんだ。
ホ なぜ、卑弥呼の墓といわれるんじや。
A 全長約280メートルの箸墓古墳は、全国の巨大な前方後円墳の中で一番古そうなんだ。倭人伝には卑弥呼の墓について「径百余歩」と書かれていて、これが箸墓古墳の後円部の直径(約160メートル)に相当するとみる人もいる。古墳のある纒向遺跡は全国から人が集まっていた大きな集落遺跡で、「卑弥呼の宮殿では」と騒がれた大型の建物跡も見つかっているんだ。
ホ でも、それだけでは卑弥呼が葬られたとは言えんのではないのではないか。
A 古墳の周りから出土した土器のススや焦げを国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)が「放射性炭素年代測定法」で調べた結果、土器は240~260年ごろのもので、古墳が築かれたのもそのころと推定された。250年ごろという卑弥呼の死亡時期に重なる可能性が出てきたんだ。
ホ ホホウ。
A 測定結果には数十年の誤差があり、年代にもいろいろな見方がある。だから研究者が実際に墳丘で観察することに意義がある。
ホ それで今回は何か新しい発見はあったのか?
A 墳丘の最下段を歩いただけだけれど、墳丘全体が石に覆われていた可能性が浮上したそうだ。造られた時期を探る手がかりにもなる。実は、宮内庁が「○○天皇の墓」などとして管理している古墳には、考古学者から見ると、時期がその人の亡くなった年と合わないものがある。今後も立ち入り調査を続けて欲しいね。(塚本和人)

『朝日新聞』の記事では、『日本書紀』には箸墓古墳は崇神天皇の時期に出来たと書いてある。そのことは一言も触れず『日本書紀』の記述を無視している。

田中角栄氏の列島改造論で各地で道路など造った。その時考古学的遺跡などが出てくると、緊急で発掘調査を行わなければならなかった。そして膨大な人たちが発掘に携わり、考古学関係の人員も増えた。
そして、派手に新聞発表をすればお金が出るといったことが繰り返されてきた。
しかし、発表内容では必ずしも質が高くなかった。

■日本考古学協会の発表
マスメディアでの華やかな大宣伝のすぐあと、2009年5月31日、早稲田大学で歴博の研究グループは、「箸墓古墳は卑弥呼の墓である」説を強い確信の言葉とともに述べた[発表者は春成秀爾(ひでじ)氏を中心とするメンバーである]。

ところが、その発表会の司会者で、日本考古学協会理事の北條芳隆東海大学教授が、そのとき、報道関係者に次のような「異例の呼びかけ」を行ったことを、『毎日新聞』が報じている。
「会場の雰囲気でお察しいただきたいが、(歴博の発表が)考古学協会で共通認識になっているのではありません」(『毎日新聞』6月8日付夕刊)

そして、北條教授はその後、自身のヤフーのブログで次のように記している。
「私がなぜ歴博グループによる先日の発表を信用しえないと確信するに至ったのか。その理由を説明することにします」
「問題は非常に深刻であることを日本考古学協会ないし考古学研究会の場を通して発表したいと思います」
「彼らの基本戦略があれだけの批判を受けたにもかかわらず、いっさいの改善がみられないことを意味すると判断せざるをえません」

■向井氏意見
「岡安光彦さんもブログ(考える野帖)[6月1日]にお書きになっていますが、「さて、〔歴槫グループの〕箸墓の築造年代に関する問題の発表は、例によってAMSの結果をかなり恣意的に使っていて、危うい感じがした。脂肪酸分析の二の舞〔旧石器捏造事件のさい、捏造発覚以前に、石器から、「ナウマン象」の脂肪酸が見出されたとの鑑定結果を発表した学者がいて、その後、その石器が捏造であることが判明し、笑いものになった事例をさす〕にならなければいいけれど。何か決定的なものが出土して、物語が崩壊する可能性もある。『出したい結果』が見え見え。もう少し『野心』を押さえたほうがよい」 物語が崩壊する可能性・・・・会場にいた多くの方々が同じものを感じたと思われます。

■マスコミで発表したものが勝ち的方法
岡安光彦氏は、5月31日の歴博の発表に関して、翌6月1日のご自身のブログのなかで、つぎのように記している。
「マスコミ主導のC14(炭素14)年代はいつ躓(つまず)く?
大砲発達後の戦闘では、攻撃準備射撃が行われるようになった。敵陣への突撃を開始する前に、雨あられと砲弾を打ち込んで炸裂させ、可能な限り敵を無力化しておく作戦である。
マスコミを使った攻撃準備射撃を常套手段とするのが、歴博C14年代測定チームである。学会で正式な発表をする前に、まずはマスコミに情報を流す。このため、発表会場には記者や一般の古代史ファンが詰めがけ、異様な雰囲気に包まれる。
考古学協会の質疑応答は5分程度しかないから、十分な議論などできようはずがない。結局は、発表者がその主張を宣言する場になってしまう。そして翌日の新聞には、『科学に導かれた新しい有力な学説!』が記事になって踊るわけだ。
学界で深く議論される前に、ある一つの主張、特定の成果が世の中で一人歩きしだして、定説であるかのように羽ばたき始める。抗(あらが)うのが次第に困難になる。
こういうパターンに覚えがある人は多いだろう。そう、例の旧石器遺跡捏造の過程で進んだのと同じパターンだ。あの時も考古学の大戦果が次々に大本営発表され、それにマスコミが乗っかった。『科学』が標榜されるところもそっくりだ。」

マスコミ人はマスコミに発表されたものだけが本当だと思い込む傾向がある。
確実な根拠がないため、たとえば、布留0式とされている箸墓古墳の築造年代でも、考古学者によって、次のように、およそ百年ぐらいの幅で異なる。
  ・四世紀の中ごろ(西暦350年前後)
    関川尚功氏(奈良県立橿原考古学研究所)
  ・三世紀のおわりごろ(西暦280年~300年ごろ)
    寺沢薫氏(奈良県立橿原考古学研究所)
  ・三世紀の中ごろ(西暦250年前後)
    白石太一郎氏(大阪府立近つ飛鳥博物館長)

それでは、この『布留O式』という時期は実年代上いつ頃と考えたらよいのだろうか。正直なところ、現在考古学の相対年代(土器の様式や型式)を実年代におきかえる作業は至難の技である。ほとんど正確な数値を期待することは現状では不可能といってもいい。
寺沢薫氏「箸中山古墳」石野博信編『大和纒向遺跡』[学生社、2005年刊]

相対年代の砕組に絶対年度を与えるのは、非常に難しく、考古学の方法だけでは決定できない。
白石太一郎氏の見解。『稲荷山古墳の鉄剣を見直す』(学生社、2001年刊)

このように、土器から絶対年代を定めるのが難しいと、考古学者ものべている。

■歴博研究グループが発表した際の会場の雰囲気や、続出した質問などからもうかがえる。
・ここで、「続出」という言葉を用いたが、これは私の判断ではなく、『毎日新聞』も「会場からはデータの信頼度に関し、質問が続出した」と報じている(2009年6月1日付)。
・「旧石器捏造事件」(2000年11月5日、『毎日新聞』が旧石器の捏造をスクープした)が起きた際、国士舘大学イラク古代文化研究所の大沼克彦教授は、強い言葉でこう警告している。
「私はマスコミのあり方に異議を唱えたい。今日のマスコミ報道には研究者の意図的な報告を十分な吟味もせずに無批判に、センセーショナルに取り上げる傾向がある。視聴率至上主義に起因するのだろうが、きわめて危険な傾向である」(立花隆編著『「旧石器発掘ねつ造」事件を追う』朝日新聞社、2001年刊)

・この会場のやり取りを掲載したものもある(向井一雄氏のHPから)
Q:「ホケノ山はいつ頃なんだ?」
A:「3世紀前半、橿考研の木棺片の炭素年代測定データから」
Q:「3世紀前半? ・・・・それじゃあ、お話にならない」「ホケノ山からは銅鏃が出ているんだ! 銅鏃(の年代)はどうなるんだ?」
A:「・・・・」

安本注:銅鏃とは竹の矢にかぶせる篦被(のかつぎ)という鏃(やじり)のことで、古墳時代のもの。3世紀前半では時代があわない。その場の雰囲気から、この質問の意味さえ、歴博の発表者は理解出来なかったようだ。

・日本情報考古学会の扱い
本誌を継続してお読みいただいている方々は、ほとんど、ばかばかしい記事であると思うであろう。
「歴博研究グループ」の炭素14年代測定法の報告なるものは、日本考古学会協会の会員であれば、だれでもが発表できる15分ほどの発表と、マスコミへの事前リーグを行なったものにすぎない。そして、日本考古学協会での発表のさいも紛糾したものである。当時の『毎日新聞』も、「会場からはデータの信頼度に関し、質問が続出した」と報じている(2009年6月1日付)。その後、2010年3月27日(土)に、大阪大学で開かれた日本情報考古学会というこの分野の専門の学会での公式のシンポジウムでは、歴博研究グループの発表は、方法も結論も誤りであると、ほとんど全面的に否定されている。また、確実な反証が示されている。このシンポジウムの内容は、日本情報考古学会の機関誌『情報考古学』のVol.16、No.2(2010年刊)以下に、連載で掲載されている。

日本情報考古学会は、統計学者で同志社大学教授の村上征勝(まさかつ)氏(もと、文部省統計数理研究所・総合研究大学院大学教授)が会長で、理系の人の発表や、コンピュータによる考古学的データ処理などの発表も多く行なわれている。炭素14年代測定法などの検討には、もっともふさわしい学会といえる。
  「歴博研究グループ」の箸幕古墳についての炭素14年代測定は、おもに、「土器付着炭化物」を、試料として用いている。ここに、大きな問題がある。同じ箸墓古墳出土の試料でも、桃核(桃の種の固い部分)では、80年ていどは、年代が新しくでている。桃核試料を用いれば、箸墓古墳の築造年代の推定値は、おもに四世紀ということになる。

さきに紹介した大阪大学での、日本情報考古学会のシンポジウムで、名古屋大学年代測定総合研究センターの中村俊夫教授はのべている。
「炭素14年代を測定する対象によって、信頼度という点においてだいぶ違うことがあります。本日は、かなり土器付着炭化物の年代測定が叩かれておりましたけれど、確かにおっしゃるように年代測定してみると、試料によっては、例えば北海道産の土器付着炭化物試料は確実に実際の年代よりも古くなる傾向にあります。」
「最適な試料は陸産植物ですね。しかも単年生のもの(ある特定の一年に生じたもの)。」
「例えば今日、私が十点測って誤差の範囲内で非常によく一致するという話をしましたけれど、あれはオニグルミ(野生のクルミ。)です。(中略)ああいった保存の良い試料については心配なく測れる。」
「それに対して、土器付着炭化物というものは、何を煮炊きして出来たものかよく分かりません。例えば、海産物起源のものですと、海の炭素リサーバーの影響が出てきまして、先ほど言いましたように、古い年代が得られる可能性が非常に高くなる。」
「試料の処理の仕方ですが、試料の化学洗浄処理をすると、土器付着炭化物が溶けて無くなってしまうので、少しお手柔らかにしようという風に手加減してやると、例えば試料に後から付着混入したものが充分に排除し切れないという問題が起こり得ます。そんな訳で、C14年代測定を依頼される方も、あるいは提出された年代を自分の理論に利用される研究者も、年代値を使われる際には、それがどんな試料を基に出た年代値であるのか、それが信頼できるのかどうか、自分の希望したぴったりの年代値が出てきたからといって、それに飛びつくことなく、冷静に判断して頂ければと希望します。」(以上、『情報考古学』Vol.18、No.1・2、2012年刊による。)

 数理考古学者の新井宏氏は、「土器付着炭化物」の年代が古くでる理由として、炭化物が、活性炭のような性質をもち、土壌に含まれるフミン酸やフルボ酸などの腐植酸を吸収しやすい傾向をもつことをのべておられる。
そして、新井宏氏は、「(土器付着炭化物は、年代が、)古く出ているか否か」の問題は卒業して、土器付着炭化物を試料として用いると、「なぜ古くでるのか」の問題に、関心が集中する段階であるという。


下記の表から、オニグルミの炭素年代BPは4910年だが、ヤマトシジミやアサリなどは5210年~5430年となる、それが土器付着炭化物は5505年となり、土器付着炭化物が新しい年代となることが分かる。
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7例の遺跡から出土した土器付着炭化物とクルミ・桃核などとの比較。これによれば明らかに、土器付着炭化物が新しい年代となる。
古いものと、新しいものが出土したなら、新しい年代によってその遺跡の年代を決めるべきである。
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考古学者の、森浩一氏はのべている。
「学問はマスコミの主導でおこなってはいけないし、それは危険である。学界で討論をし、それでも耐えられたときに初めて仮説や学説になる。」(「纒向を探究するさいの心構え[『大美和』第123号、大神抻社、2012年刊]

■木材の年代について
法隆寺を再建した宮大工の西岡常一(つねいち)氏が『日本経済新聞』連載「私の履歴書」1989年11月20日付でのべたこと。「解体修理などではっきりしたことだが、スギなら七百年、八百年、マツなら四、五百年はもつ。しかし千年以上ビクともしないヒノキに勝るものはない」

ヒノキがいかに古くでるか・・・。ヒノキは古くでている。
ヒノキは再利用の可能性があるから、データとして使うのは危ない。
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箸墓古墳も年代はどの資料の分析結果を使うによって変わってしまう。ヒノキは古く、その次が土器付着炭化物、桃核データとなる。
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『毎日新聞』はこの点を疑問とし、2009年6月8日付夕刊で、歴愽の研究グループの小林謙一氏に問いただしている。ところがこの質問に対する小林氏の回答は、記事では、次のように一言で記されている。
「理論的にはこの布留1式の数値が4世紀の中盤以降に入る可能性があるが、『考古学的にありえない』として退けられた」

小林氏のいうように「考古学的にありえない」は正しいのであろうか。(橿考研の関川尚功氏は、寺沢薫氏が庄内3式のものとするホケノ山古墳や布留0式のものとする箸墓古墳は、いずれも布留1式期のものであるとされ、四世紀中ごろのものであることを、三十年来、相当な根拠を挙げて主張している(これについては後述する)。
  どうも歴博の研究グループは、意図的なのか、はたまた不勉強なのか、当然検討しなければならないものを検討せず、学会発表でも触れもせず、土器の専門家が「ありうる」としていることを、「考古学的にはありえない」などと、いとも簡単に、大新聞紙上に記事として掲載される場面でコメントするのである。

小枝の資料だと、ホケノ山の年代は320年~400年ごろとなる。箸墓古墳はそれよりも新しいと言われており、もっと新しくなる。

庄内3式の土器が200年頃としているものも成立しない。
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このグラフが箸墓古墳の年代を表しているであろう。317-06

炭素14年代法は、誤差の幅が広い(数百年単位)なので、箸墓古墳の年代を、一世紀にも二世紀にも、三世紀にも、四世紀にも、もって行ける。天皇の一代在位年数約十年にもとづく統計的年代法は誤差の幅が狭い(数十年単位)ので、一世紀~三世紀は除きうる。誤差の幅の広いもので、大さわぎしている。

田中良之(日本考古学協会会長)弥生時代が1000年古くなるという、説に対して批判している。歴博はどんなに批判されても反省していない。マスコミに発表すれば勝ちとの考え方だ。

 


2.「三角縁神獣鏡」を検討する

三角縁神獣鏡は日本で550面以上発見されている。これは魏から支給された鏡だとする説と、日本で造られたとする説がある。

・関係鏡の例
三角縁神獣鏡の例として、島根県神原神社古墳出土例を下図に示す。

画文帯神獣鏡の例は下図となる。真ん中の紐の周りに神と獣を描いているのは三角縁神獣鏡と同じだが、半円と四角を重ねたような半円方形帯があることが特徴である。

画像鏡の例として、揚子江流域出土の「神仙車画像鏡」を下図に示す。
直径22.1cmで、この鏡は浙江省紹興県上灶(じょうそう)から出土した。この鏡は。縁が三角であること、直径が大きいこと、外がわの文様が、外から内に「鋸歯文(のこぎりの歯のような三角)帯→複波紋(2重の波形)帯→鋸歯文帯」であることなど、「三角縁神獣鏡」の基本要件を、よく満たしている。
しかし、中の図柄が画像であり、文様が笠松模様でないなど違いがある。また文様も三角縁神獣鏡はどこかぼけているが、画像鏡はリアリティがある。

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・三角縁神獣鏡と画文帯神獣鏡と画像鏡のかたちから次のことが分かる
三角縁神獣鏡は中国の画文帯神獣鏡の中の部分と中国の三角縁画像鏡の外の部分を合わせると出来あがるように見える。

・鏡の直径から分かること
中国浙江省出土の画文帯神獣鏡と同じ浙江省出土の画像鏡の直径を比較すると、画像鏡の方が大きい。中国製のなかでも画像鏡の直径は大きい。
画像鏡は中国製作の鏡のなかでも径が大きい。

日本出土で出所が確かで、直径が測れる三角縁神獣鏡の直径の度数分布から分かるように、中国出土の画文帯神獣鏡と比較しても、三角縁神獣鏡は直径が大きいという特徴がある。

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日本出土「画文帯神獣鏡」の直径の度数分布をみると、ピークが二つある。これは日本で造られた鏡の径が大きく、中国から入って来た鏡の径が小さく、両方の分布が重なったものではないか。

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鏡の直径が20cm以上であるものの割合

中国出土の画文帯神獣鏡では1%程度だが、日本出土の画文帯神獣鏡では29.6%であり、三角縁神獣鏡では、97.6%となる。

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原田大六の示した大型鏡、上位十面

この10面ともあきらかに日本製のものであることが分かっている。

だ竜鏡はワニのような形をした鏡で中国からは出てきていない。同じように勾玉文鏡も勾玉は日本的であり、中国からは出てきていない。
また、日葉酢姫(ひばすひめ)陵から出土している内向花文鏡は特殊で日本産である。四仏四獣も同じである。

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画文帯神獣鏡から、直径の大きいもの上位十位を取り出すと、全て日本製と思われる。

番号に丸印が付いたものは四仏四獣であり、仏教が入ってき来てからのもと思われ、 魏の鏡とは関係ない。

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中国の考古学者、王仲殊氏も、この「画文帯神獣鏡」について、のべている。
「数多くの(この種の)画文帯同向式神獣鏡は、日本国内で製作されたからこそ、その同笵鏡が、日本各地の古墳からひとつ、またひとつと発掘されたのではないでしょうか。そしてまた、日本の国内で作られたからこそ、日本での出土数は今日すでに二十五面(安本註。今日では二十六面知られている)の多きに達し、逆に中国全土においてはどこを探しても、いまだに一個も見つからないわけです。」(王仲殊・樋囗隆康・西谷正共著『三角縁神獣鏡と邪馬台国』梓書院、1997年刊)


■何故、日本に「景初三年鏡」とか「正始元年鏡」の銘が入った鏡が出土するのであろうか?
記年銘鏡は三角縁神獣鏡の場合と画文帯神獣鏡の場合がある。

景初3年の銘が入った鏡の図柄は画文帯神獣鏡も三角縁神獣鏡も共通して、紐の周りに小円が4個あり、数学のルート記号を長くした文様[鋸(きょ)]がある。

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この模様の鏡は中国でも出ているが、揚子江流域だけでなく、中国全体に広がってきた。これは、魏や呉が滅んだあとの西晋時代の鏡ではないか。

中国では、「景初三年鏡」、「正始元年鏡」などの銘が入った鏡は1枚も出土していない。

中国と韓国の関係で、晋書が出来た年に、既に新羅にもたらされていることから、人海戦術で書を写し、案外早く歴史書は海外にもたらされているのではないか?
三国志が出来てから、日本にもたらされたのは意外と早いかもしれない。

日本では崇神天皇のころの4世紀中頃に鏡が造られたと考えられ、魏の時代から70年くらいの時代差がある。その頃に三国志が日本にもたらされた可能性がある。

年号は貴重に思われたのか、古い鏡に後から年号が埋め込まれと思われるものもあり、これらは同径鏡の出土から文字としてではなく文様として扱われたように思われる。

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画文帯神獣鏡は中国では鄂城(がくじょう)や浙江省のような揚子江流域から多く出ている。また、西安、洛陽からも出ている。これは西晋の南京を都にしたことからの分布に合うようにみえる。

日本では九州、中国地方、四国からも出ているが、近畿が多い。時代も4世紀の古墳から出てくる。
このように、画文帯神獣鏡は奈良県から揚子江流域につながっている。

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■日本でどのようにして鏡が造られたか

各地に「鏡(かがみ)」「各務(かがみ)」「加美(かがみ)」「覚美(かがみ)」の名が残っている。

鏡作りの役目
大化前代の四世紀を中心とする時代において、各地にいた鏡作り氏の役目には、つぎの三つが考えられる。
①各地で、鏡作り部という部民をひきい、鏡を製作し、作った鏡を、各地の大和朝廷関係の豪族、あるいは、大和朝廷そのものに貢納した(生産品の貢上。貢納型の仕事)。
②各地の鏡作り部の工人などが、交代で故郷をはなれて畿内に上番(じょうばん)(勤務につき)、中央の必要とする鏡を製作した。そのばあい、工人などの生活費などは、出身地の鏡作り氏が負担する(労働力の貢上。上番型の仕事)。
③中央の鏡作り氏が、渡来系の工人をかかえ、それらの工人の生活費などを各地の鏡作り氏が負担する(資養型の仕事)。
各地の鏡作り氏は、おそらく、この三つの役目を、ともにはたしていたのであろう。

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