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第332回 邪馬台国の会
成務天皇の時代
「纒向学」はどこへ行くのか(第1回)
「魏志倭人伝」を読む(第16回)


 

1.成務天皇の時代

■記紀などによる成務天皇の記事は文字数としては少ない。
崇神天皇以後、垂仁天皇、景行天皇、成務天皇と続く。

成務天皇の系図を下記に示す。
(下図はクリックすると大きくなります)

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・『古事記』の記事
西宮一民(にしのみやかずたみ)校注『古事記』(新潮社刊)
若帯日子(わかたらしひこ)の天皇(すめらみこと)、近つ淡海の志賀(しが)の高穴穂(たかあなほ)の宮に坐(いま)して、天の下治めたまひき。この天皇(成務帝)、穂積(ほづみ)の臣等(おみら)が祖、建忍山垂根(たけおしやまたりね)が女、名は弟財(おとたから)の郎女(いらつめ)を娶りて生みたまへる御子、和訶奴気(わかぬけ)の王(おおきみ)。かれ、建内(たけうち)の宿禰(すくね)を大臣(おほおみ)として、大国(おおくに)・小国(をぐに)の国の造(みやつこ)を定めたまひ、また、国々の堺(さかひ)、また大県(おほあがた)・小県(をあがた)の県主(あがたぬし)を定めたまひき。天皇の御年、玖拾(ここのそ)ちあまり伍歳(いつつ)ぞ[乙(きのと)の卯(う)の年の三月(やよい)の五日(いつか)に崩(かむあが)りましき]。御陵は沙紀(さき)の多他那美(たたなみ)にあり。

・『日本書紀』から
黎元(おほみたから)、蠢爾(うごめくむしのごとく)にして、野(あら)き心(こころ)を悛(あらた)めず。是(これ)國郡(くにこおり)に君長(ひとごのかみ)無(な)く、縣邑(あがたむら)に首渠(おびと)無ければなり。今(いま)より以後(のち)、國郡に長(をさ)を立(お)き、縣邑に首(かみ)を置(た)てむ。皍(すなわ)ち當國(あたれるくに)の幹了(をさをさ)しき者(ひと)を取りて、其(そ)の國郡の首長(ひとごのかみ)に任(ま)けよ。是(これ)、中區(うちつくに)の蕃屏(かくし)と爲(な)らむ」とのたまふ。

五年の秋九月(ながつき)に、諸國(くにぐに)に令(のりごと)して、國郡(くにこほり)に造長(みやつこをさ)を立て、縣邑(あがたむら)に稻置(いなき)を置(た)つ。並(ならび)に盾矛(たてほこ)を賜(たま)ひて表(しるし)とす。

■『先代旧事本紀』の記事が、『新撰姓氏録』の記事と符合する
『先代旧事本紀』には記紀で書かれていないことが多くあるが、
『先代旧事本紀』の「国造(くにのみやつこ)本紀」に、たとえば、つぎのような記事がある。
廬原国造(いほはらのくにのみやつこ)
志賀(しが)の高穴穂(たかあなほ)の朝(みかど)の御世(みよ)(成務天皇の時代)に、池田の坂井(さかなゐ)の君の祖(みおや)・吉備(きび)の武彦(たけひこ)の命(みこと)の児(みこ)、思加部彦(しかべひこ)の命(みこと)をもって、国造(くにのみやつこ)に定められた。」
「廬原国」は、のちの駿河国(現在の静岡県中央部)の廬原郡[現在、清水市、および、庵原(いはら)郡]の地である。

『古事記』『日本書紀』によれば、成務天皇の一代まえの第十一代景行天皇の時代に、成務天皇の父の倭建(やまとたける)の命は、吉備(後の備前・備中・備後)地方の豪族の、吉備の武彦をつれて、東国を征討している。

 そして、『新撰姓氏録』の「右京皇別」に、「廬原公(いほはらのきみ)」は、吉備の武彦の後裔であると記されている。
すなわち、『新撰姓氏録』は、つぎのように記す。
「廬原公(いほはらのきみ)。笠(かさ)の朝臣(あそみ)と同じき祖(おや)。稚武彦(わかたけひこ)の命の後(すえ)なり。孫(ひこ)、吉備の武彦の命、景行天皇の御世に、東方に遣(つかわ)されて、毛人(えみし)また凶鬼神(あらぶるかみ)を伐(う)ちて、阿倍(あへ)[後の駿河の国安倍郡の地)の廬原の国に到り、復命曰(かえりことまをせしとき)、廬原の国を給(たま)ひき。」
景行天皇の時代に、廬原の国が、功績によって吉備の武彦に与えられ(以上、『新撰姓氏録』による)、景行天皇のつぎの成務天皇の時代に、吉備の武彦の命の児(こ)の、思加部彦(しかべひこ)が、廬原国造(いほはらのくにのみやつこ)に定められた(以上、『先代旧事本紀』による)、というのは、話として自然である。

日本武の尊(やまとたけるのみこと)の東征路に廬原郡がある。

また、歴代の天皇のなかでは、成務天皇の時代が一番多く国造を定めた。これは『先代旧事本紀』の「国造本紀」の天皇別頻度表からもわかる。

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■日本武の尊のことを伝えている
・『宋書』「倭国伝」478年、倭王武(第21代雄略天皇か)の上表文
「封国(ほうこく)は偏遠(へんえん)にして藩(はん)を外に作(な)す。昔自(よ)り祖禰躬(そでいみずか)ら甲胄(かっちゅう)を擐(めぐらし)、山川を跋渉(ばっしょう)し、寧処(ねいしょ)するに遑(いとま)あらず。東のかた毛人(もうじん)五十五国を征し、西のかた衆夷(しゅうい)六十六国を服(ふく)し、渡りて海の北の九十五国を平らぐ。」

(上文現代語訳:「我が国は遠く辺地にあり 中国の外垣(外藩)となる。昔から、祖先はみずから、よろいかぶとを身にまとい、落ち着くいとまもなくはせまわる。
東のかた毛人(もうじん)五十五国を征し、西のかた衆夷(しゅうい)六十六国を服(ふく)し、渡りて対馬島海峡の北の九十五国を平らぐ。」)

・『古事記』「景行天皇記」倭建の命
そこよリ入り幸して、ことごと荒ぶる蝦夷等(えみしども)を言向(ことむ)け、また山河の荒ぶる神等(かみたち)を平和(やは)して、」

(上文現代語訳:「上総国から〔東方へ〕入って行き、総て暴れすさぶ蝦夷等(えみしども)を服従させ、また山河の荒ぶる神等(かみたち)を平定して、」)

・『日本書紀』「景行天皇紀」日本武(やまとたける)の尊
「(景行)天皇、群卿(まへつきみたち)に詔(みことのり)して曰(のたま)はく、『今東國(あずまのくに)安(やす)からずして、暴(あら)ぶる神多(さは)に起(おこ)る。亦蝦夷悉(ふつく)に叛(そむ)きて屢(しばしば)人民(おおみたから)を略(かす)む。』」
「蝦夷の境(さかひ)に至る。蝦夷の賊首(ひとごのかみ)、嶋津神(しまつかみ)・國津神(くにつかみ)等(たち)、竹水門(たかのみなと)に屯(いは)みて距(ふせ)かむとす。」

この『宋書』「倭国伝」の倭王武が平定した国の数が55ヵ国と66ヵ国となることを加えると121ヵ国となる。これは前のグラフの『先代旧事本紀』の「国造本紀」の天皇別頻度132ということから、132というのは新たな国造の数と考えられるので、雄略天皇以後である元明天皇~桓武天皇までの時代にできた国造の数6ヵ国を引くと、126ヵ国となり、121ヵ国と126ヵ国はおおむね近い数字となる。

このように考えると『宋書』「倭国伝」の対馬島海峡の北の九十五ヵ国を平らげることも、記紀における朝鮮半島で神功皇后が活躍した話と結びつくのではないか。

■人口について
『隋書』「倭国伝」に
「軍尼(くに)一百二十人有、猶(なお)中国の牧宰(ぼうさい)のごとし。八十戸ごとに一伊尼翼(いなき)を置く。今の里長の如(ごと)きなり。十の伊尼翼(いなき)は一軍尼(くに)に属す。」
とある。

軍尼(くに)が国造(くにのみやつこ)とすると、120で『宋書』「倭国伝」倭王武が平定した国とほぼあう。
『隋書』「倭国伝」から戸数は(80戸×10)×120=96,000戸となる。

一戸は何人か
(1)中国の文献に照らして考える
『後漢書』の「郡国志」によるとき、全国の戸数9,698,630戸で、人口は49,150,220人。
一戸あたりの数は、5.07人。

(2)わが国の郷戸にあたると考える
のちの律令制では、50戸をもって、一郷(里)と定めた。
その郷を構成した各戸を、郷戸という。奴婢や寄口(きこう)[没落した戸が富裕な戸に引きとられたものなど]の非血縁者を含むことがある。平均約25人に達する大家族であるが、10人前後から100入以上におよぶものなど、さまざまである。

(3)わが国の房戸(ぼうこ)にあたると考える
郷戸は、それを構成する小家族に分かれるのがふっうである。房戸は、単婚家族に近い小単位で、一戸内の別棟(すなわち別房)に住んでいたので、房戸という。房戸は平均約8人からなる。

これらから、郷戸と考えるのが妥当であろう。平均で25人となる。

ここで、人口を推定すると

50戸=1郷=1,399人
1戸=27.9人

27.9人×96,000戸=2,678,400人

約268万人となる

 

奈良時代の人口を推定した本がある。
青木和夫著『日本の歴史3 奈良の都』(中央公論社、1965年刊)
数学と歴史学
還暦を迎えた前東京高商教授、理学士沢田吾一(ごいち)氏が、東京帝大の文学部国史学科に再入学したのは、1920年(大正9)の秋であった。すでにひろく使われていた数学教科書の著者として著名な氏が、末っ子のような学生たちと机か並べる気になったのは、日本の古文書の魅力に憑(つ)かれたためらしい。ともかくめでたく卒業して理学士兼文学士となった氏が、まもなく提出した博士論文は、指導教官に握られたまま審査されないうちに古稀がきて、氏は病没してしまった。奈良時代の人口の推計などを論じたその論文は、横文字の原書を引用して数学理論を縦横に駆使してあったため、他の国史学者たちには審査できなかったからだという。

以来三十余年、歴史学者たちは、奈良時代の人口を口にするとき、沢田氏がその博士論文の主旨を、一般の人々のためにやさしく書きなおした著書『奈良朝時代民政経済の数的研究』(初版は1926年)の結論を、そのまま借用している。いわく、
「故に計算上に於て総良口(りょうこう)558万云々を得たれども、安全なる主張としては500万と600万の間にありと云(い)ふ可(べ)く、従(したがっ)て之を560万といふも是れ大体の近似数と見るべきものとす」

ただ、もう一つの結諭、良民(りょうみん)のほかに賤民(せんみん)をくわえれば総人口は600万ないし700万くらいになるだろうというほうは、論証過程があっさりしすぎて説得性を欠いているため、借用する人はすくない。

747年(天平19)にいたってきめた規準は、郷あたりの納税者を330人とするものだった。ここでいう納税者とは、年齢や健康の程度によって負担額はちがうけれども、17歳から65歳までのすべての男子を指す。この一郷330人という規準を、どうやって政府が算出したのかは知らないが、当時の政府は全国の納税者数も、郷数も知っていたのだから、全国平均の数字なのだろうと沢田氏はいう。
つぎに氏のしたことは、正倉院文書(しょうそういんもんじょ)のなかにある八世紀の全国各地の戸籍などの断簡、つまり切れ端から性別・年齢別の人口統計をつくり、全人口中に17歳から65歳までの男子が占めるわりあいを算出することだった。答えは23.58パーセントとでた。そこで330人を0.2358で割る。つまり1399人。これが一郷の全人口である。

さらに全国の郷数を記録した史料はないかと探す。日本最初の部門別百科事典である源 順(みなもとのしたごう)の『倭名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)』には全国の郷名を列記した部分かおる。そのばあい、神戸(かんべ)だとか余戸(あまるべ)だとか駅尸(えきこ)の郷のような、ふつうは50戸に満たないだろうと考えられている郷まで、一人前に数えてみると、4041になる。『律書残篇(りつしょざんぺん)』という、いかにも古めかしいが得体の知れない本にも、全郷数を4012と記してある。かくて氏は1399人の4000倍、560万人との結論を得る。

奈良時代が561万人とすれば、上記の268万人を大まか妥当な推定と考えられる。

 

■新にできた国造(くにのみやつこ)の地域

成務天皇の時代にできた国造の地域を地図上に示すと下図のようになる。日本武の尊の東征地域と重なることが分かり、千葉県が多いことが分かる。
(下図はクリックすると大きくなります)


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2.「纒向学」はどこへ行くのか

「纒向学」を研究している寺沢薫先生は私と立場が違う。そこで寺沢先生の説と私の考えと、どういうところが共通点であって、どういうところが違うか、何回かに分けて詳しく述べてみたいと思う。
今日は第1回なので、これまでに話したことの復習をしてみたい。

(1)出土物にもとづく「邪馬台国=奈良県説」成立の確率(存在しうるかどうかではなく、確率を求める)
『弥生時代政治史研究 弥生時代の年代と交流』寺沢薫著 2014年3月吉川弘文館刊で、
庄内様式に出土した鏡について、書いている。
年代も入っているので、邪馬台国時代である。(「238年、または239年卑弥呼遺使」は安本が書き加えたもの)

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このデータから、県別の庄内期の鏡のグラフによると、奈良県から3件(全てがホケノ山古墳)の鏡が出ているだけで、福岡県からの出土に比較すると、圧倒的に少ない。

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同じようなグラフを他の学者が作ったものでも、同じことが言える。

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この鏡に加え鉄鏃、勾玉、絹のデータを加えて、ベイズ統計学で表すと下記となり、邪馬台国が福岡県である確率が圧倒的に多くなる。奈良県の確率は0となってします。

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この結果について、松原教授の話。
「統計学者が、『鉄の鏃』の各県別出土データを見ると、もう邪馬台国についての結論は出ています。畿内説を信じる人にとっては、『奈良県からも鉄の鏃(やじり)が四個出ているじゃないか』と言いたい気持ちはわかります。しかし、そういう考え方は、科学的かつ客観的にデータを分析する方法ではありません。

私たちは、確率的な考え方で日常生活をしています。たとえば、雨が降る確率が『0.05%未満』なのに、長靴を履き、雨合羽を持って外出する人はいません」(『文芸春秋』2013年11月号)

『季刊邪馬台国』118号
寺澤薫氏は、この問題について、まったく触れておられない。寺澤氏の示されたデータによって、寺澤氏の結論を否定する結果が出てくる。
寺澤薫氏は、容易に確率計算ができる形で、データを整理して提出している。
ただ、データから結論をみちびく推理方法じたいの厳密化、客観化が、今後大きな問題となる。ビッグ・データの時代。

また、天文学の分野で、大まかに言えば、
A.ティコ・ブライデー(デンマーク)が膨大で精密な天文観測記録を残した。

B.ケプラー(ドイツ)がその観測事実を丁寧に整理して、三法則(惑星は太陽を一つの焦点として楕円軌道上を動くなど)を見出した。

C.ニュートン(イギリス)がケプラーの法則は万有引力の法則で説明がつくとした。

これになぞらえて日本古代史にあてはめれば、

a.膨大な発掘記録がある
このデータの整理の仕方が重要、例えば寺澤薫氏の庄内期の鏡のデータなど信頼性がある。

b.邪馬台国の遺物・遺跡についての強い法則性
例えば九州に圧倒的に邪馬台国時代に遺物の出土が多いなど。

これについて、寺澤薫氏は沈黙しておられる。

c.邪馬台国の遺物・遺跡についての総合命題

これは、穴沢咊光(わこう)「梅原末治論」(角田文衡『考古学京都学派』[雄山閣出版1997年刊]所収、『季刊邪馬台国』120、121、122郷に転載)で述べていることにあてはまる。
「現在まで、日本考古学主流のやってきたことは、さながら梅原的研究戦略の踏襲であり、これに無反省であれば、ついには晩年の梅原のように八幡の薮知らずのようなデータの森の中で迷子になるだけであろう。」

「研究方法も「モノを一つ一つ丹念に観察し、実測し、写真や拓本をとり、その形態や装飾をアタマにたたきこむだけではダメなのであって、青銅器は成分の鉛同位体比を測り、鉄器はX線検査、土器は胎土分析、石器は使用痕の研究、木器は年輪年代の測定、動植物遺存体は専門家の鑑定、遺跡の土は土壌分析と花粉分析を行い、その結果を総合しなければ本当のことはわからない」といった時代になった。
資料の激増によって、梅原のやったように自分の頭脳をデータベース化していたのでは追いつかなくなり、碩学の頭脳と資料のファイルに代わってコンピュータが登場し、「考古資料に関する情報ネットワークの開発によって、学界共通のデータベースには夥しい資料が登録され、そこから引き出される情報がただちに研究資料となる」という情報革命の時代が必ず到来するであろう。

そういう時代に、考古学の最新課題となるのは、いろいろの情報をいかに総合して過去を復原するかという考古資料の解釈理論であり、「考古学は報告書や図録を出版するだけが能じゃない」といわれるようになるだろう。こういう時代になって、日本考古学が梅原のやったように「資料の語ることだけがおのずから結論となる」という厳格経験主義に拘泥し続けるならば、国際学界からは「事実を積み上げるばかりで、その説明を試みない」と「峻烈な非難を浴びせられる」であろう。」

穴沢咊光氏の述べているように、データの一部だけをつかまえて発言すると、群盲象をなでるようなことになる。

また。バイオ関係でも、榎木英介(えのきえいすけ)『嘘と絶望の生命科学』(文春新書、文藝春秋社 2014年刊)は下記のことを述べている。
「バイオ研究が歪む原因として、統計学の知識、経験不足が大きいことが指摘されている。薬の薬効も、生命現象も、非常に複雑な要素が関係しており、クリアカットに(明快な形で)成果が出ないことが多い。薬で言えば、効き目には個人差が大きく、Aさんには効いてもBさんには効かず、Cさんには副作用が出た、といった個々による反応性の違いがある。同じ人に同じ薬を投与しても、毎回同じ反応がでるわけではない。データは当然ばらつきが大きくなる。
個々の反応から効き目を明らかにするには、統計学が強力な力を発揮する。年齢、性別、身長、体重をはじめとする個々の要素やデータのばらつきを統計学的に処理することで、薬や治療法が効いているかといったことが分かるからだ。
ところが、日本のバイオ研究者、とくに医学者は統計学にあまりに疎い。

このように、統計的にとらえることが重要なのである。

(2)箸墓古墳の築造年代
箸墓古墳の築造年代でも、炭素年代法のデータは土器付着炭化物では3世紀となるが、桃核のデータでは4世紀となる。

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しかし、寺澤氏は「明らかに布留0式古相の土器群とPrimaryな状態で共存したと判断された桃核」と書いている。
桃核が布留0式古相の土器と同じとすると、炭素年代法から4世紀となり、自ら4世紀と示していることになる。下の表の年代と異なることになる。

寺沢薫『王権誕生』(講談社200年刊)
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(3)ホケノ山古墳の築造年代

『ホケノ山古墳の研究』(奈良県立橿原考古学研究所編、2008年刊)は「ホケノ山古墳」についての現在、最終の正式報告書である。このなかで、「小枝については古木効果の影響が低いと考えられるため有効であろう」と書かれている。
このホケノ山古墳(庄内3式時代)の放射性炭素年代測定及び暦年校正の結果を下記表にしめす。小枝の資料から、精度が高い結果が出ている。この表から二つの山となっており、3世紀と4世紀に推定値が分かれる。

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しかし4世紀である確率の方が高い。
ホケノ山古墳出土の小枝資料が300年以後のものである確率(1)[資料No.1]
68.2%である。(下図右参照)

ホケノ山古墳出土の小枝資料が300年以後のものである確率(2)[資料No.2]
84.3%である。(下図左参照)

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「寺澤薫氏の見解」
「第二にホケノ山古墳の石囲い木槨内から出土した二点の小枝のAMS14C年代の成果に関する拘(かかわ)りである。そもそも安本氏は私と同様にAMS14C年代測定については、測定学としての問題、試料の問題、統計処理上の問題等々で、その結果についても一線を画してきたものと理解していた。それがなぜホケノ山古墳の試料に関しては庄内3式の暦年代をわずか2点の測定データに追従するのかわからない。しかも試料1は2σ(何故2σをとるのか?)でcalAD.250~AD.400年(95.4%)、資料2はcalAD.250~AD.300年(13.9%)、calAD.320~AD.420年(81.5%)であって、較正年代の確率分布は資料1では後260年、後340年、後380年に、資料2では、後260年と後340年~380年にピークが見える。しかし、真の年代値は後250年前後から後420年前後の間に含まれるとしかいいようがないのである。」

(A)「わずか二点」とはデータをふやせという意味のようにみえる。
データをふやして、どう処理するのかが記されていないのでわからない。

しかし、データが多くあれば何とかなる問題ではない。約1700年で±20の精度である。これはデータの数の問題ではない。

(1)もっとも新しい年代をとる寺澤説にとって、さらに不利になる。
また、考古学の分野では、考古学者の大塚初重氏が述べておられるような、つぎの基本的な原則がある。
「考古学本来の基本的な常識では、その遺跡から出土した資料の中で、もっとも新しい時代相を示す特徴を以てその遺跡の年代を示すとするのです。」(『古墳と被葬箸の謎にせまる』[祥伝社、2012年刊])

(2)測定誤差を小さくすることをめざす(加重平均をとる)
BP年代で、誤差は±20年。誤差はすでに、かなり小さい。測定数をふやしても、結果はほとんど変わらないとみられる。

(B)「追従する」というが、現在、ホケノ山古墳については、これをこえる年代資料は提出されていない。かつ、寺沢氏自身の示す箸墓古墳出土の桃核資料データとも、整合的である。

桃核試料については、名古屋大学年代測定総合研究センターの中村俊夫教授が、「クルミの殼」について、「クルミの殼はかなり丈夫で汚染しにくいので、年代測定か実施しやすい試料である。」(日本文化財科学学会第26回大会特別講演資料)と述べておられることが、参考になるであろう。

(C)寺沢説の成立の確率は?
寺沢氏は布留0式期の「箸墓古墳」の築造年代を、西暦270年前後とする、とすれば、庄内3式期はそれより以前である。

確率は大きい小さいによって判断すべきである。すこしでも可能性があればそれは認めるべきであるというような議論をすれば、寺沢しはとうぜん、安本説を否定できなくなる。
前に説明したホケノ山古墳出土の小枝資料の分析結果の図の面積から確率を求めれば、西暦270年以前である確率は資料1から9.3%、資料2から8%程度である。

つまり、ホケノ山古墳の年代が270年以前である確率は10%以下であるということである。「十中八、九以上」の確率で支持されるのは寺沢説ではない。
寺沢氏はホケノ山古墳の築造年代について、『ホケノ山古墳の研究』に示されているものより確からしい年代論的根拠を示しておられない。

データを集めるさいの精密さにくらべ、データから推論をする手つづきは愕然するほど粗い。「年代」という「数字」をとりあつかいながら、数的データはなにも示しておられない。
目立つのは「拘り」「わずか」「追従する」「盲信し」などの微妙に主観的判断をまじえた強調表現である。このような語は未定義語なので、逆の立場にたつ人は、容易にその言葉を投げかえすことができる。以上のような理由から、「寺沢氏に追従」できないなどと。



3.『魏志倭人伝』を徹底的に読む(狗邪韓国)

(1) 倭人について。
倭人(わじん)は、(朝鮮の)帯方(たいほう)[郡][魏の朝鮮支配の拠点、黄海北道沙里院付近か、京城(そうる)付近]の東南の大海のなかにある。山(の多い)島によって国邑(こくゆう)[国や村]をなしている。もとは百余国であった。漢のとき(中国に)朝見するものがあった。いま、使者と通訳の通(かよ)うところは、三十か国である。

原文(「紹興本」による)
倭人在帶方東南大海之
中依山?爲國邑舊百餘
國漢時有朝見者今使譯
所通三十國

(2) 狗邪韓国
(帯方)郡から倭にいたるには、海岸にしたがって水行し、韓国(かんこく)(南鮮の三韓)をへて、あるときは南(行)し、あるときは東(行)し、倭からみて北岸の狗邪(こや)韓国(弁韓・辰韓など十二か国の一つで、加羅すなわち金海付近)にいたる。

原文(「紹興本」による)
從郡至倭循海岸水行歴
韓國乍南乍東到其北岸
狗邪韓國

 

■どこから出発したか
『魏志倭人伝』は、つぎのように記す。
「郡より倭にいたるには、海岸にしたがって水行する。」
この「郡より」の「郡」は、どこをさすのであろうか。これには、おもに、つぎの三つの説がある。

(1)帯方郡の郡治(郡役所)の所在地とし、その位置を、現在の京城(ソウル)付近とする説
東洋史学者の那珂通世(なかみちよ)(1985~1908)、白鳥庫吉(1865~1942)、池内宏(1878~1952)、榎一雄(1913~ )、朝鮮史学者の今西竜(いまにしりょう)(1875~1931)などの諸氏は、この説をとる。『漢書』「地理志」の楽浪郡の条に、「帯水、西して帯方に至って海に入る」とある。この帯水を漢江にあて、したがって、帯方を漢江の河口にある今日のソウル付近であるとする。

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(2)帯方郡の郡治の所在地とし、その位置を、現在の黄海北道沙里院付近とする説
東洋建築史家の関野貞(せきのただす)(1867~1935)、朝鮮史研究家の小田省吾(1871~1953)、古代史研究家の白崎昭一郎(1927~ )、坂田隆(1948~ )などの諸氏はこの説をとる。沙里院駅の東北の一古墳から、「帯方太守張撫夷塼(ぜん)」の銘が発見されている。帯方太守の墓があるのであるから、この地が、帯方郡治のあった場所であろうとする(地図参昭)。
この(2)の説に対しては、墓のある場所が郡治のあった場所とは、かぎらないとする反論がある。また、(1)(2)の二つの説を折衷(せっちゅう)する説に、帯方郡治は、はじめソウル付近にあり、のちに、帯方郡の南部が百済(くだら)に侵されたため、沙里院付近に、移ったのであるとする説がある。

(3)『魏志倭人伝』の「郡より倭にいたる」の出発点の「郡」は、帯方郡ではなく、洛陽郡をさすとする説
すなわち、魏の都洛陽からの道程を記すとみる。この説は、榧本杜人がとなえた。この説は、郡から狗邪韓国までの距離七千余里が、帯方郡からの距離としては、長すぎることをうまく説明する。しかし、『魏志倭人伝』の「郡より倭にいたる」の文は、あきらかに、その前の、「倭人は、帯方の東南の大海のなかにある」という文をうけているようにみえる。この「郡」は、やはり、帯方郡をさすとみるべきであろう。
郡を帯方郡としたばあい、距離が長すぎるというが、距離が長すぎるのは、帯方郡から狗邪韓国までの距離だけではなく狗邪韓国以後の距離も、長すぎるのである。

▼参考文献
▽帯方郡の郡治は、ソウル付近か、黄海北道沙里院付近かの論争の経過については、榎一雄「『魏志』『倭人伝』とその周辺―テキストを検討する―(5)」(『季刊邪馬台国』19号、1984)にくわしい。

▽出発点の「郡」を、「洛陽郡」とする見解は、榧本杜人「魏志倭人伝の里程について」(『朝鮮学報』、第四十一輯彙報、1966年1月)に述べられている。

 

■狗邪韓国はどこか
帰途についた倭の使は、洛陽を出発し、帯方郡治に足をとどめ、さらに、船で、朝鮮の南の、狗邪韓国の方向へとむかった。
狗邪韓国は、弁韓・辰韓など十二ヵ国の一つである。『三国志』の「弁辰伝」に、弁辰の「狗邪国」とあるのは、狗邪韓国のことである。現在の慶尚南道の金海付近にあった。 朝鮮の歴史書『三国史記』では、「金官国」と記されている。また、『三国史記』にみえる「加耶(かや)国」の「加耶」も、「狗邪」に通じる。同じく朝鮮の歴史書である『三国遺事』では、「駕洛(からく)国」、『日本書紀』では、「南加羅」と記されている。この狗邪韓国については、これを、倭の一国とみる説と、そうとは見ない説とがある。

(1)倭の一国とみる説
『後漢書』は、「其西北界狗邪韓国」と記し、狗邪韓国を倭の領域に属する国とみなしている。当時、朝鮮半島の南には、倭が住んでいた。狗邪韓国は、この倭の領域内にはいっていたとみる。『魏志倭人伝』には、「(中国または帯方郡と、)使者と通訳との通ずるところは、三十ヵ国」と記されている。そして、『魏志倭人伝』には、女王国に属する国として、二十九ヵ国の名があげられている。狗邪韓国を加えると、ちょうど三十国となり。「使者と通訳との通ずるところは、三十ヵ国」というのと、数があう。三十ヵ国は、通じていたからこそ、名が記されたのであると考える。『魏志倭人伝』には「(帯方)郡から倭にいたるには・・・・・」と記されており、帯方郡のあとに記されている狗邪韓国は、当然、倭のなかにはいると考える(地図参照。このばあい、邪馬台国は三十ヵ国の代表として、他の二十九ヵ国の貢表もまとめ、たずさえて入貢したとみる)。

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これは、下記の記事から日本と朝鮮半島の金海付近との共通性からも考えられる。
『伽耶文化展』(東京国立博物館編、朝日新聞社、1992年刊)
4世紀の古墳から出てくる主な日本系遺物としては、巴形銅器、筒形銅器、碧玉製品、そして土師器が挙げられる。大成洞古墳の場合、23号墳と13号墳から各2個の巴形銅器が出、18号墳、39号墳から筒形銅器各2個が出ている。
この4墳は何れも木槨墓であるが、23号墳、39号墳の両墳は双槨の最高級墳墓である。筒形銅器は5世紀の分も加えて、慶尚南道各地出土と伝えられる例を合せると、その数30を上回り、日本内出土量に匹敵し、筒形銅器は日本固有という従来の考え方は再検討を要するようになった。

とにかくこれら日本系銅器の伽耶古墳での少なからざる出現は、当該銅器に対する韓日両国考古学界の関心を大いに高めているが、後述の碧玉製品と共に副葬品として両国の間で同じような精神的・物質的意義、或いは価値が与えられているという事実が、当時の両国の文化関係を考えるのに重要である。今後の冷静な視角が望まれる。
この外にも慶州月城路(ヲルソンノ)のカ-31号墳(4世紀末頃)では、土師器の高杯と器台、そして碧玉の釧が出ているが、昌原三東洞2号墳石棺出土の銅鏃2個、同18号甕棺出土の仿製内行花文鏡も日本系遺物と見られている。
上記の高杯は布留式の最新式であるが、布留式の典型的な内弯口円底壺(軟質甕)は、金海禮安里の古墳群からも出ている。4世紀の伽耶の国際色を示す資料である。

(2)倭の一国とはみない説
「狗邪韓国」と、国名に「韓国」という文字がはいっている以上、これは明らかに倭の国ではなく、韓の国である。『三国志』の「弁辰伝」に、「弁辰狗邪国」。とあるのであるから、弁辰韓の一国と考えられる。当時、朝鮮半島の南に、倭が住んでいたとみる考え方には疑問かある。「使者と通訳との通ずるところは、三十ヵ国」の「三十ヵ国」は、だいたいの数を記したともみられるし、あるいはまた、狗邪韓国を入れず、女王国に属さない狗奴国を入れて、「三十ヵ国」という意昧にもとれる。

さらにまた、通説では、邪馬台国に帰る倭の使は、狗邪韓国を通ったと考えるが、狗邪韓国を通らなかったとする説もある(張明澄など)。その根拠は、つぎのとおりである。
「朝鮮半島と対馬海峡との間の、朝鮮海峡は、かなり速い速度で、西から東へ流れている。金海付近まで行ってしまって、海を渡ろうとすると、船は大きく東に流されて、対馬につくことができない。

現に、昭和五十年に、角川書店の主催で、古代船野性号で朝鮮海峡を渡ろうとしたが、船は東に流されて、人のこぐ力だけでは対馬につくことができず、母船に曳航してもらった。船はもっと西のほうの地占から出発し、潮の流れにのって、対馬に到着したはずである。
もともと、ここの原文は、藤堂明保などが、読み下しているように、つぎのように読むのが、中国文として自然である。
『(帯方)郡従(よ)り倭に至るには、海岸に循(したが)いて水行し(諸)韓国を歴(へ)て乍(たちま)ち南し、乍(たちま)ち東し、其の北岸狗邪韓国に到る。(郡より)七千余里にして、始めて一つの海を度(わた)り、千余里にして対馬国に至る。』
すなわち、『七千余里』は、上の文の狗邪韓国にかかるのではなく、下の文にかかるのである。
帯方郡から七千余里いったところで、陸地をはなれて、海をわたったという意味である。『七千余里』は、帯方郡から、狗邪韓国までの距離を記しているのではない。狗邪韓国の名をここに記したのは、それが倭の一国なので、記したのであろう。狗邪韓国よりも西の、帯方郡から七千余里の地点から、海をわたったと考えるべきである。」
この、張明澄などの読み方は、現在、多数意見にはなっていないようであるが、一つの合理性のある見解といえるであろう。

ずっと後にできた『新元史』の「日本伝」は、つぎのように記す。
「巨済島に至り、はるかに対馬島を望んだが、大洋は万里、風と濤(なみ)とは、天を蹴っていた。」
魏の使も、巨済島から対馬に渡ったことが、十分考えられる。『魏志倭人伝』 の、朝鮮半島から対馬へ至る記事には、方向が記されていない。朝鮮半島のかなり西のほうから、海流にのって対馬にわたったとみるほうが、自然であるようにも思える。

・「韓伝」から弁辰、辰韓の記述
『三国志』の『魏志』の「韓伝」に、つぎのような文がある。
「韓は、帯方(郡)の南にあり、東西は海をもって限りとなし、南は、倭と接す。」
この文は、韓が、南は、海をへだててではなく、陸つづきで、倭と接していたと、読みとれる文である。

「弁辰(べんしん)は、辰韓(しんかん)と雑居し、亦(ま)た城郭有り。衣服居処は辰韓と同じ。言語・法俗相(あい)似たるも、鬼神(きしん)を司祭(しさい)するに異なる有り、竈(そう)を施(ほどこ)すに皆(みな)戸の西に在(あ)り。其の瀆盧(とくろ)国は倭と界(さかい)を接す。十二国亦(ま)た王有り、其(その)の人、形皆(みな)大なり。衣服は絜清(けっせい)にして長髪。亦(ま)た広幅の細布を作る。法俗特に厳崚(げんしゅん)なり。」

332-15

■任那の存在について
日本側の文献では「任那」が盛んに出てくるが、朝鮮側の文献では「任那」はではほとんどでてこない。朝鮮側では「伽耶」となる。

任那については下記の記事がある。

・『新撰姓氏録』「吉田連(きちたのむらじ)」(左京皇別下)(崇神天皇)
磯城瑞籬宮御宇御間城入彦天皇(しきのみずかきのみやにあめのしたしろしめししみまきいりひこのすめらみこと)の御代(みよ)。任那国(みまなのくに)奏(まう)して曰(まう)さく、臣(やっこ)が国(くに)の東北(ひがしきた)に三(みつ)の己汶(こもん)といふ地有り。上己汶(かみこもん)、下己汶(しもこもん)なり。地(くに)の方(ひろさ)三百里(さんびゃくり)あり。土地人民(くにたみ)も富饒(とみにぎは)へり。
新羅国(しらぎのくに)と相争(あいあらそ)ひ、彼此(かしこもここも)摂治(をさむる)こと能(あたは)ず。
兵戈(いくさ)相尋(あひつづき)て、民(たみ)、生(くらし)を聊(やすん)じえず。臣(やっこ)、請(こ)ふらくは、軍(いくさ)を将(ひきゐ)て此(こ)の地(ところ)を治令(をさめし)めたまはば、即(すなわち)貴国(かしこきくに)の部(かきべ)と為(な)さむと。
天皇(すめらみこと)大(いた)く悦(よろこ)びて、群卿(まへつきみたち)に勅(みことのり)して、遺(つかは)す応(べ)き人を奏(もう)さしめたまふ。卿等(まへつきみたち)、奏(もう)して曰(まう)さく、彦国葺命(ひこくにぶくのみこと)の孫(ひこ)、塩垂津彦命(しほたりつひこのみこと)、頭上に贅(ふすべ)[コブ]有り、三岐(みつまた)にして松樹(まつのき)に如(ひと)し、其の長(たけ)五尺(いつかさ)、力は衆人(ひと)に過(すぐれ)え、性(ひととなり)も勇悍(いさを)しと、天皇(すめらみこと)、塩垂津彦命を遣令(つかわし)めたまふ。・・・

このように、崇神天皇の時代(4世紀)に任那の記述があったようだ。

・『日本書紀』に第29代欽明天皇23年の頃に同じような記事がある。
欽明天皇(562年)二十三年の春正月(むつき)に、新羅、任那の官家(みやけ)を打ち滅(ほろぼ)しつ。一本(あるふみ)に云はく、二十一年に、任那滅ぶといふ。総ては任那と言ひ、別(わき)ては加羅國(からくに)・安羅國(あらのくに)・斯二岐國(しにきのくに)・多羅國(たらのくに)・卒麻國(そちまのくに)・古嵯國(こさのくに)・子他國(したのくに)・ 散半下國(さんはんげのくに)・乞飡國(こちさんのくに)・稔禮國(にむれのくに)と言ふ、合(あは)せて十國(とをのくに)なり。

・なお三国史記には新羅真興王二十三(欽明二十三)年九月条に「加耶(加羅)叛。王命異斯夫討之。斯多含副之。斯多含領五千騎先馳、入栴檀門立白旗。城中恐懼、不知所為。異斯夫引兵臨之、一時尽降」という記事がある。

 

・参考に加羅(から)について、末松保和『任那興亡史』、今西竜「加羅疆域考」(『朝鮮古史の研究』所収)によると、下記となる。
朝鮮の国名また地域名。加良・駕洛・伽落・伽洛・伽耶・伽椰などとも書く。
半島東南部第一の河川洛東江の沿岸にあったいくつかの小国を総称して五加羅とか六加羅といい、個別的には阿羅加羅・古寧加羅・星山加羅などといい、それらの諸国は同盟連合の関係にあったことを思わしめるが、中でもおもだった国が二つあった。
南の金海の加羅と、北の高霊の加羅(大加羅)である。朝鮮文献ではこの二国は建国の年を同じくし(後漢の。光武帝建武十八年、42)、前者は十王代490年、新羅の法興王十九年(532)に、後者は十六代520年、同じく新羅の真興王二十三年(562)に滅んだとされている。
日本文献では多くの場合、金海の加羅を南加羅とし、高霊の加羅を単に加羅と記し、総称の地域名としては柯羅倶爾(韓国)というが、歴史的には「任那」と記している。

・任那(みまな)についての記載に下記がある。
4~6世紀,朝鮮南端部に成立した政治的ブロック。高句麗広開土王碑文に、洛東江河口一帯を指す任那加羅がみえ、「魏志」弁辰伝の狗耶国、つまり金官地方(慶尚南道金海)に比定される。馬韓・辰韓の諸国をそれぞれ百済・新羅が統合すると、洛東江中下流域の旧弁辰(弁韓)と蟾津江(せんしこう)流域の諸国の総称に任那を用いることになった。
倭は4世紀後半金官と接触して以来、派兵して任那諸国の王を支配下においたが、6世紀になると、まず己汶(こもん)・帯沙(たき)を百済に割譲、金官は532年新羅に服属した。
代って有力となった北部の加羅(慶尚北道高霊)も、安羅(慶尚南道咸安)・多羅(同陜川)などとともに、562年新羅に併合され、任那は滅亡した。
その後、金官を占拠した新羅または百済によって貢納されたものが任那の調であった。任那日本府は在安羅諸倭臣とも書かれ、任那総括の倭の出先機関というより、百済・新羅進出期に安羅に派遣され、主として金官奮回を画策した倭人組織であったらしい。

・金官加羅について下記に記載がある
朝鮮半島南部にあった小王国。慶尚南道金海付近。弁韓の狗那国が前身で、伽耶、伽落、駕落などと書かれ、加羅の地域名が拡大すると、北方の高霊加羅に対し、南加羅・金官加羅とよび、任那加羅あるいは任那(狭義)とも称した。南宋から倭王珍・済・武に与えられた将軍号の任那は、金官加羅に当る。魏の時代より倭人と交通し、5世紀には倭王の任那諸国支配の中継地点となった。532年新羅に併合され、任那(広義)滅亡後は、646年まで新羅・百済が任那の調を貢じた。

注:宋は倭王武(雄略天皇)に対し次のよう任じた。「詔(みことのり)して武(ぶ)を使持節(しじせつ)・都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事(ととくわしんらにんなからしんかんぼかんりっこくしょぐんじ)・安東大将軍(あんとうだいしょうぐん)・倭王(わおう)に除(じょ)す。」

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