TOP>活動記録>講演会>第333回 一覧 次回 前回 戻る  


第333回 邪馬台国の会
神功皇后の時代
「纒向学」はどこへ行くのか(第2回)
『魏志倭人伝』を読む(第17回)


 

1.神功皇后の時代

■神功皇后の出生
成務天皇の後継ぎは成務天皇の子ではなかった。日本武の尊(やまとたけるのみこと)の子が仲哀天皇として即位した。

その仲哀天皇の皇后が息長帯比売(おきながたらしひめ)の命である神功皇后である。

戦前は日本の力を外国にも示したとして、お札に神功皇后が印刷されるまでになったが、戦後一転して、神功皇后の話は作り話だとされるようになった。

333-01


「息長(おきなが)」は近江国坂田郡(滋賀県坂田郡近江町)を本拠とする豪族である。
また、彦坐王(ひこいますのおう)の妃である息長水依比売(おきながのみずよりひめ)は野洲郡の出身である。そこから息長は坂田郡から野洲郡付近に広がっていた豪族あるいは地名であると思われる。

333-02


第十四代仲哀天皇の皇后の神功皇后は、『古事記』『日本書紀』ともに、天皇とはしていない。しかし、『常陸国(ひたちのくに)風土記』は「息長帯比売(おきながたらしひめ)の天皇(すめらみこと)」と記している。
これは、『日本書紀』によって、天皇の歴代が確定する以前の呼び方を記したものである。
『扶桑略記(ふそうりゃっき)』は、神功皇后を第十五代の天皇とし、「神功天皇」「女帝これより始る」と記している。

これらによると、『常陸国風土記』の神功皇后は天皇の扱いとなっており、『扶桑略記』でも女帝として、天皇としている。

神功皇后の系図では第10代開化天皇の5代の孫であるとしており、母は葛城高額比売(かずらぎのたかぬかひめ)としている。

338-03



この葛城高額比売は天日槍(あめのひぼこ)の5代の孫となっている。つまり新羅の王子の子孫となっているのだ。 神功皇后はいわゆる三韓征伐で新羅を攻めたことになっているが、新羅と関係している。


333-04


■神功皇后の年代
天皇1代10年説の天皇年代論から、仁徳天皇を基準点Ⅰとすれば、2代遡った仲哀天皇没年の推定は404年となる。
(下図はクリックすると大きくなります)

333-05

この404年頃というのは下記の時期と合うと考えられる。

・崇神天皇陵古墳の年代は四世紀の半ばすぎ(森浩一・大塚初重・齊藤忠・川西宏幸・関川尚功の諸氏)
・400年、倭は新羅城に満ちていた(『広開土王碑文』)
・402年、未斯斤(みしきん)人質(『三国史記』)
・404年、「倭は不軌にも、帯方界に侵入」(『広開土王碑文』)
・407年、広開土王は倭と合戦・「斬殺蕩尽」(『広開土王碑文』)
・413年、倭王讃あり(『晋書』の(安帝紀)、『南史』の「倭国伝」)
・471年、辛亥の年、獲加多支鹵大王(わかたけるだいおう)、斯鬼(しき)の宮に在る。(稲荷山古墳出土鉄剣銘文)

この年代については、『三国史記』「新羅本紀」で「元年(402)三月、倭国と好(よしみ)を通じ奈勿王(なぶつおう)の子、未斯欣(みしきん)を人質とした。」とある。

更に、『日本書紀』でそれと同じような記述がある。
『日本書紀』「神功皇后紀」仲哀天皇九年
①爰(ここ)に新羅の王 ②波沙寐錦(はさむきむ)、皍ち ③微叱己知波珍干岐(みしきんはとりかんき)を以て ④質(むかはり)として、仍(よ)りて金(こがね)・銀(しろがね)・彩色(うるはしきいろ)、及び綾(あやきぬ)・羅(うすはた)・縑絹(かとりのきぬ)を齎(もたら)して、八十艘(やそかはら)の船に載(のせい)れて、官軍(みいくさ)に從(したが)はしむ。

①以下、一行、微叱己知の入貢を述べ、五年三月条の伏線とする。仲哀記にはない。この一連の話は、これまでの征討の物語とは違い、史実を核としたもので、朝鮮側にも以下に述べるような異伝が記録されている。

②波沙は、三国史記、新羅本紀の第五代婆娑尼師今(尼師今は王号)なる伝説的王。寐錦は、広開土王碑・智証大師寂照塔碑に見え、尼師今(尼叱今)と同語か。

③微叱己知は、第十五代奈勿王の子の未斯欣(三国史記。三国遺事では美海、また未叱喜)。波珍干岐は、新羅十七等官位の第四波珍干(飡)=海干(海の朝鮮古訓patar.)。五年三月条では「微叱許智」伐旱に作る。

④入貢の年を三国史記は第十六代実聖王元年(402)、三国遺事は奈勿王三六年(390)とする。

注:【三国史記】(さんごくしき)朝鮮の現存最古の史書。五〇巻。高麗の仁宗の命で金富軾らが撰。1145年成る。新羅・高句麗・百済の三国の歴史を紀伝体に記す。

■倭と新羅、百済との関係
・「戦闘および不和」の文脈のなかであらわれる「倭」とは、たとえば、つぎのようなものである。これらは、すべて、「新羅本紀」のなかにあらわれる。
「倭兵が大挙して攻めてくる……。」
「倭人は、大いに敗れて逃走した。」
「倭人が来て、金城を包囲して、五日も解かなかった。」
「倭兵が、明活城(慶州付近)に攻めてきて、勝てずして帰るところを、王が騎兵をひきいて、独山(迎日郡)の南で迎撃して、ふたたび戦ってこれを破り、三百余名を斬殺した。」
「倭人が、東辺をおかした。」
「倭人と風島で戦ってこれに撃ち勝った。」

・「戦闘および不和」の文脈以外の文脈のなかであらわれる「倭」は、ほとんど、「百済本紀」のなかにあらわれる。
以下は、「百済本紀」のなかにみえる例である。
「王は、倭国と友好関係を結び、太子の腆支(てんき)[直支(とき)]を人質にした。」
「使者を倭国に遣わして、大きな珠を求めた。」
「倭国の使者が来たので、王は、彼を迎えて、慰労し、とくに厚く遇した。」
「[王が薨(こう)じ]腆支太子は、倭国において、訃報を聞いて、哭泣(こっきゅう)しながら、帰国を請うた。倭王
は、兵士百名をともなわせて、護送してくれた。」

このように、倭、新羅、百済、高句麗の国際関係を示す、この図から倭と新羅の関係は友好より、敵対関係であったことが分かる。それに対し百済とは友好的であったことが分かる。
(下図はクリックすると大きくなります)

333-06

 

■任那割譲
大伴談(かたり)の子で武烈天皇・継体天皇の即位実現に功があり、宣化天皇にいたる4朝の大連(おおむらじ)であり、筑紫の磐井の乱の鎮圧で功績を上げた大伴金村(おおとものかなむら)は欽明天皇元年(540)に百済への任那4県割譲の責任をとわれ失脚した。

333-07このように、欽明天皇という歴史的記録が確かな時代に、日本は任那の4県を百済に割譲している。この4県は全羅南道のほとんど全域に及ぶ。ということは、それ以前に日本は朝鮮半島を支配していたことを物語る。


その後、歴史の流れは下記となる。
・562年、新羅が任那を滅ぼす(欽明朝)
・660年、百済が日本に救援を求める(斉明朝)
・663年、白村江の戦いで日本大敗、百済滅亡(天智朝)

白村江の大敗で、日本は朝鮮半島から撤退する。

 


■神功皇后の懐妊
・懐妊期間を十月十日としている
『日本書紀』によれば、仲哀天皇は、仲哀天皇の九年二月五日になくなり、応神天皇は、仲哀夫皇の九年十二月十四日に生まれたという。
人間が胎内にいる期間は、十月十日(とつきとおか)であるというよく知られている期間に、正確にあっている。

『日本国語大辞典』(小学館刊)は、記している。
「とつき 十日(とおか)10か月と10日。人が胎内にある期間をいう。」
  人が胎内にある期間は、統計的に280日土17日といわれている。一朔望月(さくぼうげつ)(月の新月からつぎの新月まで、または、満月からつぎの満月にいたる期間)は、29.5日あまりであるから、正確には、陰暦で計算しても、平均して十月十日にはならない。
しかし、いつのころからか、人が胎内にある期間は、十月十日であるといいならわしてきた。
『日本書紀』の記述では、応神天皇は仲哀天皇の没した日から数えて、ちょうど十月十日目に生まれたことになっている。

この話は十月十日と同じ日とし、奇妙である。

・神功皇后は、無意識の世界で、夫仲哀天皇の死を願っていた
『古事記』は、つぎのように記している。
「皇后の息長帯日売(おきながたらしひめ)の命(神功皇后)は、神懸りをした。
仲哀天皇が、筑紫の香椎(かしい)の宮にいて、熊曾の国を撃とうとしたときに、天皇が琴を弾き、建内(たけうち)の宿禰(すくね)が祭りの庭にいて、神の言葉を乞い求めた。
皇后に神が懸って、神が教えたことは、つぎのとおりであった。
『西のほうに国がある。金銀をはじめ、目をかがやかせる種々の宝物がその国に多い。私が、いま、その国を与えよう。』
仲哀天皇が、答えて言った。
『高いところに登って、西のほうを見ても、国は見えない。ただ大海だけだ』
いつわりを言う神だと思って、琴を押し退けて、弾かずに黙っていた。
そこで、神は、大そう怒って、
『すべて、この国は、お前[汝(いまし)]の治めるべき国ではない。お前は、この世の人が行くべきただひとつの道、すなわち死の国へ行け。』
とのべた。
そこで、建内の宿禰が言った。
『おそれ多いことです。陛下、やはりその琴をお弾き遊ばせ。』
そこで、仲哀天皇は、その琴をすこし引きよせて、しぶしぶと弾いていた。まもなく、琴の音が聞こえなくなった。火をともしてみると、すでに天皇は、薨去(こうきょ)していた。」

現代の心理学や精神医学の教えるところによれば、神憑(かみがか)りなどの憑依(ひょうい)現象は、外部の神などが、人間にとりつくのではなく、人間の潜在意識が、神などの別人格の形をとって表面にあらわれるものであるという。

神懸りして天理教をはじめた中山みきも、大本教をはじめた出ロナオも女性であった。第二次世界大戦後、「おどる宗教」として注目を集めた北村サヨも、「神懸り」して、天照皇大神宮教をはじめたが、女性であった。

これから、考えられることは、応神天皇は仲哀天皇の子であったのであろうか。

『住吉大社神代記』
津守(つもり)氏の氏文。天平三年(731)津守宿禰客人・島麻呂による住吉大社司の解文の体裁で、延暦八年(789)の摂津職(せっつしき)判をもつ。
「是の夜、天皇(すめらみこと)忽(たちま)ちに病(みやまひ)発(おこ)りて崩(かむあが)りましぬ。是(ここ)に、皇后(おほきさき)と大神(おおかみ)と密事(みそかごと)有り。[俗(くにひと)、夫婦(めをひと)の密事(みそかごと)を通(かよ)はすと曰(い)ふ。]」といふ。

ここでは神功皇后と住吉大社との密事を記している。

しかし、一番疑わしいのは神功皇后の側にいた武内の宿禰ではないか。
武内の宿禰の子孫の系図を下記に示す。絢爛たる閨閥である。

333-08

更に蘇我氏に繋がっている。蘇我氏の一族から天皇が大勢誕生している。

333-09


2.「纒向学」はどこへ行くのか(第2回)

寺沢薫氏著書:『弥生時代政治史研究 弥生時代の年代と交流』寺沢薫著 2014年3月吉川弘文館刊の「付節 最近の古墳時代出現期の半世紀以上下降説批判」

「本章(第六章古墳出現期の暦年代)は、弥生時代の暦年代論に続いて。古墳時代開始期つまりは庄内式の始まりから布留0式の暦年代幅までを射程に入れて論述したものである。その議論の矛先は、自然科学的測定成果に後押しされて最近頓に趨勢を極める弥生時代開始期の遡上論に伴って、古墳時代開始期の暦年代をも遡上させようと趨勢に対して向けられたといっても過言ではない。
ところが最近、それとはまったく逆に、ごく限られた一部の人たちのなかには古墳時代開始期の暦年代あるいは布留0式の年代幅を極端に新しく設定しようとする主張も存在する。この思考方法は現在の考古学界ではあまり顧みられることのない1970年代の年代観に近いが、こと私の纏向遺跡論や邪馬台国論とも根底的なところで抵触することからまったく看過するわけにもいかない。したがって最後に付節を設け、庄内式の始まりを三世紀末ないし四世紀初めとし、私のいう布留0式古相(箸墓古墳の築造時期)を四世紀前葉ないしは中頃とみる暦年代観に対してその成り立ちがたいことを簡単に述べておく。」

寺沢薫氏はこのように批評している。

寺沢薫氏の土器編年によれば、庄内3式期のつぎの時期の土器型式は、「布留0式期古相」である。
纒向古墳群に属する箸墓古墳は、布留0式期古相のものとされている。また、同じく纒向古墳群に属する東田大塚(ひがいだおおつか)古墳も、布留0式期古相のものとされている。
そして、箸墓古墳からは、三個の桃核(桃の種の固い部分)が出土している。東田大塚古墳からは、一個の桃核が出土している。
これらの、合計四個の桃核は、箸墓古墳、および、東田大塚古墳から出土した資料の中で、もっとも新しい時代相を示している。
そして、これらの桃核の炭素14年代測定法による測定値は、ホケノ山古墳出土の小枝試料の年代測定値に近い年代を示している。
いま、ホケノ山古墳出土の二つ小枝試料、箸墓古墳出土の三つの桃核試料、東田大塚古墳出土の一つの桃核試料の合計六つのデータを用い、これらの西暦推定年代の分布を示せば、下図の左のようになる。

年代分布を描くための計算は、数理考古学者の新井宏氏にしていただいた。
新井宏氏に計算していただいた結果の表も、下図の右表に示す。

333-03


図をみればわかるように、これらの三つの古墳の築造の時期が、西暦300年以後である確率は、85.2パーセントとなる。西暦350年以後である確率でさえ、76.7パーセントとなる。図は、ホケノ山古墳だけの結果と、はなはだ整合的である。
これらは、すべて、四世紀のものである確率が大きい。
333-11
なお、箸墓古墳についての年代測定データは、『箸墓古墳周辺の調査』(奈良県橿原考古学研究所、2002年刊)による。
この報告書、『箸墓古墳周辺の調査』のなかで、寺沢薫氏は、箸墓古墳出土の「桃核」について、「明らかに布留0式古相の土器群とPrimaryな状況で共存したと判断された桃核」と記しておられる。あとから、なにかの事情で、まぎれこんだりしたものではない、ということである。
また、桃核試料については、名古屋大学年代測定総合研究センターの中村俊夫教授が、「クルミの殼」について、「クルミの殼はかなり丈夫で汚染しにくいので、年代測定か実施しやすい試料である。」(日本文化財料学学会第26回大会特別講演資料)とのべておられることが、参考になるであろう。

そして、奈良県立橿原考古学研究所の所員で、纒向遺跡を発掘し、大部の報告書『纒向』を執筆された関川尚功氏は、つぎのようにのべている。
「箸墓古墳とホケノ山古墳とほぼ同時期のもので、布留1式期のものであり、古墳時代前期の前半のもので、四世紀の中ごろ前後の築造とみられる。」(『季刊邪馬台国』102号、2009年刊)
この関川氏の見解は、炭素14年代測定法の測定結果の年代とも、よく合致している。



3.『魏志倭人伝』を徹底的に読む(第17回)

今回は「停喪(ていそう)十餘日」について話す。
『魏志倭人伝』で、倭は人が死んだら、すぐ墓に入れずに、10日間とどめておくと書いてある。

これは記紀の中の伊邪那岐が黄泉の国の伊邪那美に会いに行った神話に似ている。

■菅谷文則氏の説
2014年9月25日(木)の『朝日新聞』夕刊の記事
日本最古の歴史書『古事記』の世界に、ゆかりの宝物や考古・文献資料、美術品などを通じていざなう特別展「語り継ぐココロとコトバ 大古事記展」(奈良県、朝日新聞社主催)が10月18日奈良市の奈良県立美術館で開幕する。

・「神話と歴史 たどろう考古学で読み解く面白さ」
古事記にはどんな魅力があるのか。8月28日に東京都内で開かれた記念シンポジウムで専門家らが語り合った。(コーディネーターは天野幸弘・元朝日新聞編集委員)

基調講演
奈良県立橿原考古学研究所所長 菅谷文則(すがやふみのり)さん
古事記の内容はすべてが歴史的事実ではありません。キリスト教圈には「聖書考古学」という分野がありますが、古事記についても、考古学の成果を踏まえて批判的に見ながら、史実を反映している部分を見極めて研究することができるんです。

古事記の冒頭に、男神の伊邪那岐命(いざなぎのみこと)と、女神の伊邪那美命(いざなみのみこと)による国生み神話があります。火の神を産んだ伊邪那美はやけどで亡くなり、黄泉の国へ行ってしまう。会いに行った伊邪那岐は伊邪那美の変わり果てた姿を見て、この世に逃げ帰ってきます。この黄泉の国は、水平に入っていく古墳の横穴式石室をイメージさせます。日本では福岡県周辺で400年ごろから横穴式石室が作られており、それより後に成立した神話でしょう。

現在の神社建築の屋根に見られる、棟の上に並んだ鰹木(かつおぎ)や両端から突きだした千木(ちぎ)に注目したい。古事記によると、雄略天皇は天皇の宮に似せて屋根に鰹木を乗せた家を見て怒り、これを焼かせたといいます。雄略は5世紀に実在した人物。鰹木は奈良県御所(ごせ)市の室大墓(むろのおおはか)古墳(4世紀末~5世紀初め)の家形埴輪(はにわ)に見られます。一方、とがった千木は継体天皇の墓とされる大阪府高槻市の今城塚(いましろづか)古墳などの、6世紀以降の家形埴輪にあります。雄略の時代に鰹木の記述しかないことは、考古学の成果とよく合うんです。
古事記には、後世に付け加えられた部分が多くあります。そこに描かれた自然環境や家屋、墓、武器などが実際に出現した時期を考古学で絞ひ込むことによって、その部分がいつごろ付け加えられたかが分かります。考古学で古事記を読み解くおもしろさを「大古事記展」で感じてほしいですね。

この中で、横穴式石室は5世紀ごろ造られたとすると、神話は5世紀以後に作られたのか?
また、雄略天皇は5世紀で鰹木が出てくる。継体天皇は6世紀の千木が出てくる。としている。だから神話の時代に鰹木、千木がなかったから、神話の時代の話は後世に作られたものだとしている。

この説は、高橋健自(たかはしけんじ)氏(1871-1929)[明治-昭和時代前期の考古学者。37年東京帝室博物館にはいり、鑑査官、歴史課長をつとめるかたわら考古学会を主宰して「考古学雑誌」を刊行、考古学の発展と普及につくした。]と後藤守一(ごとうしゅいち)氏(1888-1960)[昭和時代の考古学者。東京帝室博物館の鑑査官をへて、国学院大、日大などでおしえる。昭和23年明大教授。登呂遺跡や、東日本の重要な古墳の発掘を手がけた。]の説と同じである。

■斎藤忠氏の喪屋説
それに対し、斎藤忠氏[昭和-平成時代の考古学者。明治41年8月28日生まれ。文化財保護委員会主任調査官などをへて、昭和40年東大教授。43年稲荷山古墳発掘を指導。45年大正大教授。のち静岡県埋蔵文化財調査研究所長。日本のほか東アジアまで幅ひろく調査、研究。東京帝大卒。]の喪屋説がある。

『日本書紀』の一書や、『旧事本紀』などは、「伊弉諾の尊は、その妻にあおうとして、殯斂(もがり)のところにいった。」と記している。
このような点などから、黄泉の国訪問の描写を、横穴式石室のこととする説に、疑問を呈したのは、斎藤忠氏であった。
東京大学の教授であった考古学者の斎藤忠氏(1908~2013)は、黄泉の国訪問の話は、遺骸をかりに安置した喪屋をあらわすとする(『古典と考古学』学生社、1988年刊)。  
(1)さきの腐爛状態を示す遺骸は、喪屋の内部とみることも可能である。
喪屋は、遺骸をかりに安置し、そこで、「もがり」の儀式を行なったものである。
『魏志倭人伝』のなかに、
「はじめ死するや、停喪(『喪』には、『なきがら』『ひっぎ』の意味かおる。『停葬』は、『なきがら』『ひつぎ』をとどめ、最後の埋葬をしない状態にしておくこと)十余日」という記事がある。この記事は、弥生時代に、「もがり」の風習があったことを示している。『古事記』『日本書紀』に、天の若彦が死んださい、「喪屋を造りて、日八日夜八夜(ひやかよやよ)遊びき」とある神話も、古代における喪屋と、喪葬のさいに、歌舞の行動があったことを語っている。大化二年(646)の詔のなかに、「およそ王以下庶民にいたるまで、殯(もがり)を営(つく)ること得ざれ」とあるのも、そのころ、殯、すなわち、もがりの行為を禁止させたものであろう。「もがり」の諸行為、たとえば、歌舞とか供膳とか燎火(かどひ)かを燃やすとかがなされたのは、死を確認するまでは、墓にほうむることをやめたためであり、あわせて、鎮魂的な意図も含まれ、複雑なものがあったと思われるが、日本の原始・古代の社会にあって、葬制上の重要な行為であった。この喪屋の内部に、遺骸を安置したとき、遺骸が、ある期間をへて、蛆(うじ)がわき、どろどろした状態になったこともありうる。

(2)遺跡の実際からみると、横穴式石室の入口にせよ、閉塞の石材は用いられたとしても、それは、千引の岩というような表現の自然の大磐石ではなく、板石のようなものや、あるいは、石塊を充填させたにすぎない。この千引の岩をもって横穴式石室の閉塞石とする考えは、すこし無理なこじつけのようなところがある。むしろ、邪をさける呪性を含む大磐石をもって、黄泉平坂という黄泉の国の境界をへだてたのである。

(3)横穴式石室よりも、喪屋のほうが、遺骸をのぞきみる機会がしばしばあったとみられる。
喪屋の内部をのぞき見ることは、喪屋が、本来死の確認ということに根本の意味がある以上、頻繁になされたと思われる。この点、「蛆たかれとろろきて」という遺骸に接する機会は、むしろ喪屋に多く、喪屋であってこそ、このような神話の発生に都合がよかったのである。

ここで、参考になるのは、伊波普猷(いはふゆう)[1876~1947。沖縄民俗学者]が、「南島古代の葬儀」(『民族』2~5、6、1927年刊)のなかで、沖永良部(おきのえらぶ)島の葬儀に関し、1877年9月21日に、鹿児島県庁が、つぎのような諭達を出しているむねを紹介していることである(以下、安本が現代語に訳してみた)。
「死人の葬式の儀は、随意に任されているが、まず、地(土)葬・火葬の二つがある。この島では、近年、神葬式に改めている。以来、地葬すべきは当然であるが、あるところでは、その棺を墓所に送り、モヤととなえる小屋内に備えておき、親子兄弟などが、このモヤに到り、その棺を開いて見ること数回、ついに数日をへ、屍が腐敗しても、臭気をいとわずおもむくときく。これは、人情が厚いのに似ているがその臭気をかぐものは、はなはだ健康を害する。また、近所を通行するものも、その臭気に触れれば、病気を伝染し、あるいは、一種の病気を醸(かも)すものである。衛生上はなはだよろしくない。
今後このような弊習は、かならず改め、死んだものは、すみやかに埋葬すべきである。云々。諭達する。」この諭達は、腐敗し、臭気が発生しているにもかかわらず、喪屋内の遺骸をのぞいていた慣習のあったことを示している。

■安本の喪屋説
私は斎藤忠氏の喪屋説に、基本的には賛成である。ただし、「殿(との)の騰戸(あげど)」は、高床式の喪屋の戸ではなく、竪穴式の喪屋の戸であると考える。
このことについては、このシリーズのなかの一冊の『古代物部氏と「先代旧事本紀」の謎』のなかで、ややくわしく検討した。ここでは、その要点のみを記しておく。

奈良県北葛城郡河合町の佐昧田(さみた)宝塚古墳から出土した有名な「家屋文鏡」に、下のような絵が書かれている。
この絵は、竪穴式の建物の絵である[『古事記』などにあらわれる室屋(むろや)か]。竪穴式の建物では、地表から数十センチ垂直に掘りくぼめて、床面をもうけ、その上に屋根をつくる。 333-12
この竪穴式住居から外に出るときは、下から上におしひらく「上げ戸」を用いる。
「家屋文鏡」の絵には、「上げ戸」を開き、そこにつっかい棒をしている状況が描かれている。

中部工業大学の建築史家、池浩三(いけこうぞう)氏は、その著『家屋文鏡の世界』(1982年、相模書房刊)のなかで、「家屋文鏡」の竪穴式建物の絵について、「建物の左手には入口の戸を押し上げているような状況を描き」と記している。

『日本国語大辞典』(小学館刊)は、「あげど(揚戸)」について、つぎのように説明している。
  「上部が蝶番(ちょうつがい)などで取りつけてあり、上の方に釣りあげるようにして開く戸。」

■千木と鰹木
森田勇造氏は、その著『「倭人」の源流を求めて』(講談社、1982年刊)のなかで、「千木とカツオ木の由来」をつぎのように説明している。
(雲南省の)景洪の郊外の村は、たいていヤシ林があり、家が数十軒寄り集まった集落で、周囲には稲が青々と育った水田が広がっていた。家はいずれも高床式で、梯子(はしご)か階段を登らないと入ることはできない。その家のかやぶきの屋根には、日本の神社に見られる『千木』や『かつお木』と見紛(まが)う物がある。
これは、まさしく、出雲大社や伊勢神宮などの屋根の型と同型である。

日本で、神社の屋根にある棟飾りのような『千木』と『かつお木』を見る度に、何のために、どうしてあるのか説明されても、とってつけたような具合いにあるのは理解できなかった。しかし、このタイ族の民家のかやぶき屋根を見ると、その存在理由が一目瞭然である。

『千木』と呼ばれる二本の角が屋根の切妻から出ているのは、屋根の両側の妻を風から守るため、補強用として固定した二本の丸竹が、棟で交差し、反対側に屋根からつき出た部分である。それは、短いよりも長いほうが、棟押さえを固定するために便利なのである。
『かつお木』と呼ばれるものは、両側の屋根を棟までふきあげ、雨もりがしないように棟から両側に橋渡しをしたかやを押さえる二本の竹、すなわち棟押さえを固定するため、棟に突き刺した横木なのである。

千木もかつお木も、かやぶき屋根を補強するためには、なくてはならないものである。もし、それがなければ、屋根は風雨に弱く、一度の嵐で屋根のカヤが吹き飛ばされてしまう。

333-13



  TOP>活動記録>講演会>第333回 一覧 上へ 次回 前回 戻る