■講師:河村哲夫先生略歴
九州大学法学部卒、立花壱岐研究会会員、日本ペンクラブ会員、福岡県文化団体連合参与、全国邪馬台国連絡協議会九州支部副代表、福岡県朝倉郡筑前町在住、他講師及び著書多数。
奴国の中心地や甘木朝倉地方を中心とした神功皇后伝承の話。
(1)博多は古代の奴国
■博多の地図
福岡付近の地形を見ると、金印出土の志賀島に、志賀海神社があり、御笠川と那珂川に挟まれたところに、住吉を祭る住吉神社がある。志賀海神社と住吉神社の間の多々良川付近に神功皇后の本拠の香椎宮がある。その北東に立花山がありイザナギ、イザナミを祭っている。
御笠川は大宰府まで通じており、那珂川の流域が奴国の地域である。
このように、現在では埋め立てが進んでいるため、少し内陸に入っている住吉神社は博多古図で、入江の突端にあったことが分かる。
(下図はクリックすると大きくなります)
■『新唐書』日本伝の冒頭の記事
空海をはじめ、日本側の者の情報を集め、作ったと思われる『新唐書』が参考になる。
①『新唐書』は中国唐代の正史で、北宋の欧陽脩(おうよう しゅう)らが編纂。嘉祐(かゆう)6年(1060年)成立
②『魏志倭人伝』など中国側の過去の情報と遣隋使・遣唐使の情報を統合
・遣隋使・・600年(推古8年)~618年(推古26年)の18年間に6回派遣
・遣唐使・・630年(舒明2年)~894年(寛平6)までの264年間に13回派遣
■『新唐書』日本伝から読み取れることは
①日本のルーツは、「古(いにしえ)の倭の奴」という認識・・奴国は博多湾岸にあり
②初代の王は「天御中主(あめのみなかぬし)」という認識
③九州の「筑紫城」を拠点としていたという認識
④神武天皇が九州から「大和州に徒(うつ)した」という認識
『新唐書』では日本のルーツは、「古の倭の奴」という認識があったし、九州説であったことが分かる。
■記紀から
712年に成立した『古事記』から読み取れること
①高天原の初代の神は、「天御中主(あめのみなかぬし)命」という認識
・伊耶那岐神(イザナギノミコト)は天御中主命の末裔である。
②神々の故郷は「高天原」という認識
・イザナギや天照大神がいた場所
・イザナギが天照大神に高天原を治めよと命じた。
③奴国の記憶
奴(nag)の王→那珂(なか)の王→中(なか)の王→天御中主(なかぬし)神?
このように、奴国から発展していったと考えられる。
(2)伊耶那岐神(イザナギノミコト)の禊によって生まれた神々について
■禊の場所
・『古事記』 ・・「筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原」
・『日本書紀』・・「筑紫の日向の小戸の橘の檍原(あはきはら)」
■禊に至った経緯
・イザナギはイザナミを追って黄泉の国へ行く。
・そして、蛆のわいたイザナミの死体を見たため、イザナミに追いかけられる。イザナギは筑紫に逃げ帰ったあと禊を行った。
■禊によって生まれた神々
①住吉三神
「底筒の男の命」「中筒の男の命」「上筒の男の命」⇒住吉神社の祭神
②ワタツミ三神
「底津綿津見の神」「中津綿津見の神」「上津綿津見の神」は「阿曇(あずみ)の連(むらじ)」の祖先神 ⇒志賀海神社の祭神
■「筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原」はどこか
第1説・・福岡市博多区住吉の住吉神社付近(博多湾岸説)
第2説・・宮崎県大字塩路の住吉神社付近(宮崎説)
第3説・・鹿児島県末吉の住吉神社付近(鹿児島説)
(参考)貝原益軒は福岡市博住吉神社の地とする(『筑前国続風土記』)
貝原益軒(1630~1714)は「筑前の国のなかで、小戸は姪浜にある。立花(橘)は糟屋郡および怡土(いと)郡にある。阿波岐原という地名が志摩郡と筵田(むしろだ)郡にある」(『筑前国続風土記』)とし、本居宣長もこの説に賛同している。
(3)戦後史学の基本的潮流
■日本古代史の外国人向け情報
『英語で話す「日本」(Talking About Japan)』(講談社)による外国人への日本紹介で、「・・・『古事記』『日本書紀』という日本の古代歴史を記録した本によりますと、日本の初代の天皇は神武天皇となっています。紀元前660年のこととされています。しかし、事実として証明されたことではなく、『古事記』『日本書紀』共に8世紀になってから編纂されたものですから、神話として作られたものという説が有力です。実在した可能性があるのは、第10代の崇神天皇からと言われていますが、記録が残っているのは、592年から628年まで実在した第33代推古天皇からです。・・・」と書かれている。
これを外国人が読んだらどう思うか、存在しないと証明されていないのに、古代の天皇を抹殺している。
■太平洋戦争の終結による教育転換
わが国は米軍を主力とする連合軍の占領下に置かれ、天皇の絶対的権威と戦前・戦中の歴史教育のいっさいが否定された。
■『古事記』『日本書紀』神話の追放
日本の神話についても、天皇の支配者としての地位を正当化するために大和朝廷の役人が机上でつくりあげたものであるとされ、『古事記』『日本書紀』は教科書から追放されてしまった。
■唯物史観史学や考古学の盛行
唯物史観史学や「モノ」に語らしめる考古学の研究が盛んになり、記紀神話が徹底的に否定され、記紀神話を虚構とみる説は、現在ではほぼ常識となっている。
■古代天皇の否定・抹殺
このような風潮のなかで、初代神武天皇はもちろん、多くの古代天皇の実在が否定され、「高天原論争」や「高千穂論争」など、戦前大いに議論されていた問題も無意味なものとされ、神功皇后についても、想像上の人物であるとする説が学界の多数説を占めるようになった。
(4)神功皇后について
■『岩波日本史辞典』に書かれた神功皇后
神功皇后の紹介で、「説話的要素が多く創作上の人物ともされている」として、「らしい」、「言われている」とあいまいな言い方で、神功皇后を抹殺している。
また、「朝鮮半島に関する記述は、干支二運(120年)引き下げると史実にあう部分も存在する。『日本書紀』は『魏志倭人伝』を引用し、卑弥呼を神功皇后と比定する」としている。
この『日本書紀』は卑弥呼を神功皇后と比定していることは、明らかに時代が合わない。
■神功皇后が活躍した時代
①『日本書紀』による神功皇后の生没年は西暦170年~269年(享年100歳)
②卑弥呼の活躍年代は、西暦180年ごろから247年ごろ
・『日本書紀』の編者は「神功皇后=卑弥呼」とみている。
③安本美典先生の「統計的年代論」
・『日本書紀』は年代を誤っているのではないか。
・神武天皇が紀元前660年に即位したとする記事がその代表例。その当時、はいまだ縄文時代。中央集権的な国家をつくれる段階には到達していない。
④「統計的年代論」によれば、次のとおり。
これからみると、神功皇后の活躍年代はおおよそ390~410年で、4世紀後半から5世紀初頭の人物であったと推定される。広開土太王碑の碑文にもあう。もちろん卑弥呼ではない。
(5)北部九州にのこされた膨大な神功皇后伝承
神功皇后伝承地は北部九州で3000ヶ所、福岡県だけで750ヶ所となる。
一番南は日向の都農神社で、北は対馬の突端部である。
(6)神功皇后が福岡に至るルート
本州から来て豊浦宮に滞在する。関門海峡から風師山、小森江、小倉を経て皿倉山、帆柱山に登っている。山鹿島の江川を経て遠賀川河口に至る。
岡湊から西川を経て、香椎宮へ行き、福岡では香椎宮(福岡市東区香椎)を拠点とする。
この香椎宮で仲哀天皇が亡くなる。
(7)香椎・甘木朝倉コース
香椎宮から大己貴神社に行く。
■『日本書紀』の記事
神功皇后は宝満山の近く層増岐野(そそぎの)で羽白熊鷲(はしろくまわし)を討つ。その時、「熊鷲を取り得(え)つ。我が心則(すなは)ち安(やす)し」と言った。そこで名付けて「安(やす)」といったと伝えられている。
この付近は山岳地帯となる。ルートは宝満山から砥上岳の近くを通り小石川に至るわけで、山岳地帯を通ったことになる。
実際、神功皇后伝承は尾根伝いにある。
■甘木朝倉地域の神功皇后伝承
砥上から来る。
・砥上岳(筑前町)
中腹の「ひずめ石」・・神功皇后が乗った馬のひずめの跡がついた岩であるという。
七合目付近の「みそぎのはる」・・そこで禊をしてから上に登らなければならない。
八合目付近の「さやん神」(「塞の神」)・・小石をピラミッドのように積み上げた塚らしきものがある。
九合目付近の「かぶと石」・・神功皇后が着用したといわれる大岩がある。
山頂の「武宮(たけのみや)」・・祭神は武甕槌(たけみかづち)神で、神功皇后によって祀られたと伝えられている。鹿島神宮(茨城県鹿嶋市宮中)や春日大社(奈良県奈良市春日野町)の祭神とされているこの神は、古来、武神として崇められてきた。
・陣ノ内(筑前町三並)・・神功皇后の陣所が置かれた。
・栗田八幡宮(筑前町)=松峡宮
三神を祭っており、東(向かって右)が神功皇后、中央が八幡大神、すなわち応神天皇、西(向かって左)が住吉大神である。『日本書紀』の「松峡宮」とされる。
・目配山(筑前町)
山頂に一辺が一間(一・八メートル)ほどの四角い石がある。この石に神功皇后が座り、四方を眺めまわしたところから、目配山というようになったという。
・大己貴(おおなむち)神社(筑前町弥永)
『日本書紀』は、「秋九月十日、諸国に令して船舶を集め、兵を訓練された。ときに軍卒が集まりにくかった。皇后がいわれるには『これは神のお心なのだろう』と大三輪の神社を建て、刀と矛を奉納なされた。すると軍兵が自然に集まった」と書いている。
『筑前国風土記』逸文には、「気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)(神功皇后)が新羅を討とうと思って兵士を整備して出発されたときに、道の途中で兵士が逃亡してしまった。そのわけを占ってたずね求められると、すなわち祟っている神があった。名を大三輪の神といった。それでこの神の社を建てて、ついに新羅を征服なされた」とある。代々の宮司は、神功皇后に随行していた三輪大友主命君(おおみわのおおともぬしのきみ)の末裔である大神氏であった。
・増岐野(そそきの)――すすき原(朝倉市)
『日本書紀』によると、神功皇后は三月十七日に熊鷲を討つため、香椎宮から松峡宮に移ったが、「(三月)二十日、層増岐野(そそきの)にいき、兵を挙げて羽白熊鷲を殺した。そばにいた人に、『熊鷲を討って心安らかになった』といわれた。それで、そこを名づけて安(やす)という」とある。
層増岐野という地名については、夜須(安)地方のことではなく、怡土郡の雷山(らいざん)(福岡県糸島市・佐賀県佐賀市富士町)という説がある。『日本書紀通証』は、「ある人がいうには、怡土郡の雷山山中に層増岐野嶽というところ」と書いている。
・熊鷲塚(朝倉市)
矢野竹村に熊鷲塚があったが、寺内ダム建設に伴い、「あまぎ水の文化村」の敷地内に移されている。
(8)斉明天皇と朝倉宮
■朝倉橘広庭宮(朝倉宮)を置く
『日本書紀』によると、斉明7(661)年、百済再興支援の要請を受けた斉明天皇は、皇太子の中大兄皇子以下を率いて九州へ向かった。3月25日に博多の那の津に到着し、5月9日に那珂川中流域の「磐瀬の宮」(福岡市南区三宅付近と推定されている)から「朝倉宮」に遷った。そのとき、「朝倉の社」の木を切り払って宮殿を造ったため、神の祟りを受け、宮殿は破壊された。宮中に鬼火が現われ、大舎人など近侍者に多くの病死者が出たという。そして、7月24日には斉明天皇自身が朝倉宮において68歳で亡くなった。8月1日に中大兄皇子は天皇の遺体を「磐瀬の宮」に移したが、この日朝倉山の上に鬼が現われ、大笠をつけて葬儀を見つめたので、人々はこれを怪しんだという。
■恵蘇八幡宮(朝倉市山田)
「朝倉宮」は「木の丸殿」とも呼ばれたともいい、その所在地について、従来は「朝倉町須川説」(旧宮野村下須川)が最も有力であったが、九州歴史資料館の発掘調査にもかかわらず発見されず、昭和51年3月に「朝倉町須川説」は一応否定され、現在では、「朝倉町山田説」に従い、「恵蘇八幡宮」境内に「朝倉木之丸殿旧蹟碑」が建てられている。
(9)神功皇后と斉明天皇の行動の意味
■何ゆえに神功皇后は甘木朝倉を征討したのか
「卑弥呼=天照大神」であり、「邪馬台国=高天の原=甘木・朝倉」という安本美典先生の結論を前提に考えると、神功皇后の行動は「聖地奪還」ともいえる行動である。
■何ゆえに斉明天皇は朝倉宮を置いたのか
斉明天皇の行動は、大和政権発祥の地への「里帰り」ともいえる行動である。
「邪馬台」という発音は「山田」にも通じるともいわれている。安本美典先生も、「山田という地名と邪馬台との音の近似も、気になるところである」と述べられている(『邪馬台国への道』梓書院)。
(10)宝満川・筑後川・有明海コース
甘木朝倉地方で熊鷲を討伐したのち、神功皇后は筑後方面に軍団を移動しているが、その際にも宝満川を下り、筑後川に出ている。
・蜘蛛塚(瀬高町大塚の老松神社)――田油津媛の墓と伝えられている。
女山に神護石があり近くに蜘蛛塚がある。
(11)有明海・佐賀の嘉瀬川・唐津の玉島川コース
・堀江神社(佐賀市神野西二丁目)
『肥後古跡縁起』によると、神功皇后の御座船が掘江に入港したという。
・與止日女(よどひめ)神社(佐賀県佐賀郡大和町大字川上)。
嘉瀬川(川上川)上流にあり。延喜式内社、旧県社であり、河上神社とも称し、淀姫神社とも書く。祭神は「與止日女神」であり、神武天皇の祖母の豊玉姫とする説と神功皇后の妹とする説が伝えられている。
・「玉島神社」(唐津市)
この神社の近くの公園に「皇后石」が陳列されており、神功皇后がこの岩石に立って鮎を釣ったという伝承が残されている。この石は「垂綸(すいりん)石」とも「紫台(しだい)石」とも呼ばれている。
神功皇后の玉島川での鮎釣りの故事にちなみ、実に明治初期まで男たちは玉島川での鮎釣りが御法度となり、女性だけしか鮎釣りをおこなうことができなくなった。
(12)奴国の裂田溝(さくたのうなで)((筑紫郡那珂川町)
唐津の玉島川の方からスタートの香椎宮に戻る途中に山田というところに安徳台がある。ここに、神功皇后伝承と遺跡が一致するところがある。
■『日本書紀』の記事
「そこで神田(みとしろ)を定められた。儺の河(那珂川)の水を引いて、神田に入れようと思われ、溝を掘られた。迹驚岡(とどろきのおか)に及んで大岩が塞がっており、溝を通すことができなかった。皇后は武内宿禰を召して、剣と鏡を捧げて神祇に祈りをさせられ、溝を通すことを求めた。そのとき雷が激しく鳴り、その岩を踏み裂いて水を通じさせた。時の人はそれを名づけて裂田溝(さくたのうなで)といった」(『日本書紀』)
①「迹驚岡」=「安徳台」
広さ23ヘクタールの広大な台地で、およそ50万年前に阿蘇山の噴火による火山灰が堆積してできた台地といわれている。平成13年、那珂川町教育委員会による発掘調査がおこなわれ、製鉄工房跡や日本最大級の建築物を含め130軒を超える住居跡が発見された。甕棺墓から出土した鉄矛・鉄戈・ガラス製管玉・塞杆状ガラス製品・ゴホウラ貝腕輪など王墓級の遺物も出土。
②「裂田溝」
「裂田溝」についても、那珂川町教育委員会による発掘調査がおこなわれ、「裂田神社」近くの水路の底から、花崗岩の固い岩盤が発見され、加工痕も確認され、『日本書紀』の信憑性が著しく高まった。
③神功皇后の実在を証明する遺跡
伝承と遺跡が一致する裂田溝は、神功皇后の実在を証明する最も重要で核心的な遺跡である。
■裂田神社を迂回する裂田溝(B)
■人為的に削られた花崗岩
・裂田溝と安徳台(迹驚岡)は、伝承と遺跡が一致し、神功皇后の実在を証明する最も重要で核心的な遺跡である。
■奴国の神々への献納
①神々に献納された神田
・神功皇后は何ゆえにこの地に水路を拓き、「神田」を作ろうとしたのか。
・その神とは一体何者なのか。神功皇后にとって、那珂川は、一体いかなる意味を有していたのか。
・そして、那珂川の氏神ともいえる「住吉三神」を、神功皇后は何ゆえことさら信奉したのか。
②奴国の記憶
・那珂川流域にはかつて栄えた「奴国」が存在していた。
・『新唐書』日本伝によれば、「日本は古(いにしえ)の奴」であり、奴国は日本のルーツとされている。
・那珂川流域は、イザナギの禊伝説の残る日本創生神話の舞台である。
・神功皇后は、このような歴史を熟知していたのではないか。
・であるがゆえに、神功皇后は難工事の末に水路を穿ち、「神田」を開墾して神々に献納したのではないか。
(13)神功皇后伝承の意義
■民衆が伝えた神功皇后伝承
①民衆-------名もない民人たちが、伝承という形で脈々と地域の歴史を伝えてきた。
②大和朝廷に押しつけられた虚構の話を地元の伝承として残した、というような伝承は一件もない。まさに、神功皇后そのものの伝承として地域に伝えられている。
③地域の人々が『日本書紀』『古事記』を読んで、それに合致するような伝承を捏造したというような説は成り立たつはずもない。『日本書紀』『古事記』が一般民衆のレベルまで流布してはいなかったからである。
④広域的な通信手段を持たない古代人が、壱岐・対馬を含む北部九州の広い範囲で相互に連絡を取り合って神功皇后伝承を創作することは不可能である。
■先人への敬意を持つべき
『日本書紀』『古事記』『先代旧事本紀』などの古代文献、氏族伝承、地域伝承、社伝、遺跡・遺物などに対して、謙虚にして真摯な姿勢で向き合わないかぎり、歴史の真相が見えてくるはずもない。
津田左右吉説およびその信奉者に盲従し、あるいは迎合して、記紀の編者を愚弄し、記紀の記事をもてあそび、ひねりまわして解釈し、複雑でゆがんだ観念論を紡ぎ出したとしても、歴史の真相が見えてくるはずもない。