■『朝日新聞』2014年2月7日(金)朝刊(塚本和人)の記事がある。
奈良・纒向遺跡新たに建物跡
邪馬台国の中枢施設?
女王・卑弥呼が治めた邪馬台国の有力候補地とされる奈良県桜井市の纒向遺跡(国史跡、3世紀初め~4世紀初め)で、2009年に確認された3世紀前半(弥生時代末~古墳時代初め)の大型建物跡の東側から、建物跡1棟が見つかった。市教委が6日に発表した。大型建物跡などの建物跡と同じ東西の同一線上に中心軸が並ぶことから同時期の建物とみられ、専門家は「この時代では異例の広さ。邪馬台国の中枢施設との見解が強まる」と指摘している。
遺跡では09年、3世紀前半としては国内最大規模の大型建物跡(南北19.2メート、東西12.4メートル)が見つかり、その西側の小中規模の建物跡2棟と東西の同一線上に並んで配置されていたことがわかった。
今回確認された建物跡は、この大型建物跡の36.5メートル東側で見つかった。方形の柱穴が10個(一辺40~60センチ)見つかり、東西3.4メートル、南北6.7メートルの規模だったとみられる。
石野博信・兵庫県立考古博物館長(考古学)は「東西150メートルの長方形区画の真ん中を貫くように、規格性を持って並ぶ建物群がほぼ確認できた。3世紀ではとんでもない規模の大きさだ」と指摘。
「中国の史書『魏志倭人伝』に登場する卑弥呼と後継者の台与の2人の女王時代の居館域だった可能性が強まったのではないか」と話す。現地説明会は9日午前10時~午後3時、JR巻向駅近くの現場周辺で。問い合わせは市纒向学研究センター(0744-45-0590) へ
■纒向遺跡出土の大型建物は『魏志倭人伝』の記事とあっていない
まず、これは、報道に値する内容をもっているのか、という問題がある。
というのは、この纒向遺跡の建物は、『魏志倭人伝』に記されている卑弥呼の「居処」「宮室」についての記事と合っていないからである。
邪馬台国の所在地論争は、あくまで、『魏志倭人伝』を出発点とするものである。『魏志倭人伝』に則して議論されなければならない。
『魏志倭人伝』には、卑弥呼の「居処」について、つぎのように述べられている。
「宮室・櫻観(ろうかん)[たかどの]、城柵(じょうさく)をおごそかに設け、つねに人がいて、兵(器)をもち守備している。」
そして、『魏志倭人伝』では、倭人の武器について、つぎのように記されている。
「兵(器)には、矛(ほこ)を用いる。」
「竹の箭(や)は、鉄の鏃(やじり)、あるいは、骨の鏃(のもの)である。」
たとえば、北九州の吉野ヶ里遺跡では、防衛用の城柵も、楼観のあとらしいものも発見されている。
吉野ヶ里遺跡のばあいの外濠は、築造当時、幅10メートル、深さ4.5メートルていどであったであろうといわれている。濠の断面はV字形をしている。濠は、軍事的性格をもっていたとみられる。また、洪水を防いだり、灌漑の便をはかる治水の目的もあわせもっていたであろうといわれている。
深さ4メートルの濠の外に、掘り土を盛りあげ、材木で柵をその上に設置すると、落差は、6メートル以上となる。
この柵が、『魏志倭人伝』の記事の、「城柵」にあたるかといわれている。
吉野ヶ里遺跡の発掘当時、邪馬台国畿内説をとる考古学者の佐原真は、およそ、つぎのような意見をのべている。
「もともと中国の『城』は、日本語の城、英語のカースル(castle)ではなく、日本語の囲い、英語のウォール(Wall)である。しかも、古くは、それを土をつんで造った。だからこそ『土で成る』という字になっているとか。
『城(きず)く』という動詞もある。濠を掘る。弥生の村では、その土を、濠の内側ではなく、外側に掘りあげて土の囲いを盛りあげた。『土塁(どるい)』とよんでいる。これは中国流では、『城』でよい。」(『月刊Asahi』1989年6月号。)
吉野ヶ里遺跡の実物を見(あるいは、写真を見)、佐原真の説明をきけば、『魏志倭人伝』のいう「城柵」とは、なるほどそういうものであったのかと、なっとくできるように思える。「柵」なのであるから、英語のカースルではないのであろう。
『魏志倭人伝』に記されている「楼観」のあとか、といわれている物見やぐらを思わせる建物跡がある。これは、門舎であるとする見解もある。
この建物跡について、当時、大阪外国語大学の森博達(もりひろみち)助教授は、つぎのようにのべている。
「『楼観』は、本来宮門の左右に築かれる一対の高台(たかどの)を指す。『後漢書』の〈単超伝〉や〈梁冀(りょうき)伝〉の用例から壮麗な高台であることがわかる。『楼櫓』のような単なる物見やぐらではない。吉野ヶ里から高さ10メートル以上と思われる『物見やぐら』の遺構が発掘された。内濠の東側では出入口を挟んで左右に築かれている。楼櫓ではなく楼観に近いものと考えるべきである。」『プレジデント』1989年7月号。)
『魏志倭人伝』の記述は、宮室が内部にあり、環濠と土塁と、土塁の上の柵とがあり、物見やぐら風のたかどのなどがあって、そこで兵士が監視し、守衛しているというイメージの、吉野ヶ里の状況などと、よく重なりあっているように思える。
吉野ヶ里遺跡からは『魏志倭人伝』に記されている「鉄の鏃」や、絹や、鏡(後漢式鏡)や、勾玉などが出土している。
纒向の地の柵は、防衛用のものではない。区画用のものである(この点も、桜井市の教育委員会の橋本輝彦氏に、お電話してたしかめた。)
纒向遺跡のばあい、楼観についての報告もない。
川越哲志(かわごえてつし)編の『弥生時代鉄器総覧』(広島大学文学部考古学研究室、2000年刊)によると、福岡県からの「鉄の鏃」の出土数は、398個になるが、奈良県からの出土数は、わずか4個である。圧倒的な差がある。北九州からは、「鉄の矛」が、すくなくとも7本は出土しているが、奈良県からは出土例がない。
また、やはり邪馬台国畿内説の立場をとる大阪大学の考古学者、都出比呂志(つでひろし)氏は、つぎのような見解をのべている。
「私は、邪馬台国の中心が将来発見されるとしたら、それは環濠集落ではないと考える。吉野ケ里のような環濠集落は、畿内では二世紀末から三世紀初めまでに消滅している。北部九州や北陸では三世紀の半ばぐらいまで。その後は、王様だけが環濠の中に民衆と隔離して住む豪族居館が出現する。『魏志倭人伝』に出てくる卑弥呼の姿は、王様だけがいる居館の世界だ。」(「弥生の環濠集落と戦争」『吉野ヶ里・藤ノ木・邪馬台国』読売新聞社、1989年7月22日刊。)
都出比呂志氏の述べていることを整理してみよう。
①環濠集落は、畿内では、二世紀から三世紀初めまでに消滅している。つまり、纒向遺跡の建物は、環濠集落時代のものではない。
②北部九州では、三世紀半ばぐらいまで環濠集落はある。つまり、卑弥呼の時代まで、環濠集落はある。
③邪馬台国の中心は、王様だけが、環濠の中に住む居館である。
ところで、やはり「邪馬台国畿内説」をとる考古学者の寺沢薫氏(桜井市纒向学研究センター所長)は、論文「環濠集落の系譜」(『古代学研究』146号、1999年)のなかで、つぎのようにのべる(傍線、および[]内の注は、安本が付した)。
「興味深いことに、福岡県吉井町[2005年に合併して。「うきは市」となる] 生葉(いくは)遺跡、佐賀県中原町[現、三養基(みやき)郡みやき町] 原古賀遺跡、熊本県西合志(にしごうし)町[2006年に合志市となる]石立遺跡で発掘された3~4世紀の首長居館はいずれも隅円方形プランを基調とし、三重の濠をもつ点で淹城(えんじょう)[中国・江蘇省]にきわめて似ている。もちろん規模は約20分の1と比較にならないほど小さいが、内・中・外区の比率も類似している。とくに最近発掘調査の進む佐賀県東背振(ひがしせぶり)村[現、神埼(かんざき)郡吉野ヶ里町]松原遺跡は一辺25mほどの四隅突出気味の隅円方形の居館風環濠を中心に円系の環濠が5~6重もめぐっている。時期的な検討が未了だが、古墳時代初頭には埋められたと考えられる。最近の調査では一回り大きい中心部をもつ同様の環濠が切り合って検出されている(東背振村1998)。こうした特徴的な環濠プランがいずれも有明海(ありあけかい)沿岸地域にのみ集中していることは注目すべきことである。」
寺沢薫氏の論文の文章のなかに、「居館風環濠」とある。
都出比呂志氏のいう「王様だけが、環濠の中に住む居館」という記述と一致するものといえよう。
そして、それは、
①「古墳時代初頭には埋められたと考えられる」。つまり、卑弥呼の時代には存在した。
②九州の有明海沿岸地域にのみ集中している。つまり、畿内からは、発見されていない。ただし、寺沢薫氏があげられている福岡県うきは市の「生葉(いくは)遺跡」は、筑後川をかなりさかのぼったところにある。
有明海沿岸というよりは、むしろ北九州内陸部である。朝倉市(旧甘木市)の南である。また、佐賀県みやき町の原古賀遺跡も、吉野ヶ里町の松原遺跡も、筑後川をややさかのぼったところにある。
以上のように、『魏志倭人伝』の記述の卑弥呼の居処・宮室を、環濠集落のものとみても、「王様だけが、環濠の中に住む居館」とみても、それにあてはまるものが、北九州には存在している。奈良県の纒向遺跡には存在していない。
これは、「邪馬台国九州説」の人の見解をまとめたものではない。
「邪馬台国畿内説」の方々ののべているところをまとめると、そうなるのである。
なぜ、それで、纒向遺跡の建物が、「邪馬台国の中枢施設とする見方が強まる」とする見解が紹介されたり、奈良県の纒向遺跡と女王・卑弥呼が結びつけられたりすることになるのか。
邪馬台国畿内説を説く方々は、そのおかれている立場から見解をのべていることもある。
新聞は、そのような見解をストレートに全国版にのせるのでなく、公平な立場からの検証が必要ではないか。
邪馬台国畿内説の実体は、この種のものである。『魂志倭人伝』の記述や、データとあっていない。そして、相互に矛盾するものが、つぎつぎと、打ちあげ花火のように大々的に発表・報道されている。すこし、ひどすぎないか。それは、しばしば、新聞の全国版にのっている。新聞記者には、発表者の見解が、『魂志倭人伝』の記事などと合っているかどうか、相互に矛盾していないかを検証する力が必要とされるのではないか。
そうでなければ、誤った知識を、世に広めることになる。かえって、混乱をひきおこすこととなる。
現在、邪馬台国については、畿内、北九州などが候補にあがっている。
卑弥呼の居処・宮室については、どこから、『魂志倭人伝』の記述に、もっとも近いものが出土しているのかが、公平に検討・紹介されなければならないはずである。
纒向出土の建物のどこが、『魂志倭人伝』の記述に、どのように合致しているのか、具体的に検討・検証して示されなければならない。それは、たとえば、北九州出土のものよりも、どのような点で長所をもつのかが、示されなければならない。しかし、そのような検討はすっぽりと抜けている。なにもない。あるのは、マスコミ宣伝だけである。
宮室の大きさなどは、『魏志倭人伝』のどこにも、記されていない。たんに、大きな建物ならば、北九州からも、他の地からも出土している(さきの塚本氏の記事の大型建物の東西12.4メートルというのは、復元長である。確認されている長さは、6.2メートル以上)。
福岡県西区の弥生時代の吉武高木(よしたけたかぎ)遺跡からは、14メートル四方の大型建物跡が確認されている。確認面積では、纒向遺跡の大型建物よりも大きい。
吉野ヶ里遺跡からは、約12.5メートル四方の、ほぼ正方形の高床式の大型建物が出土している。これも、確認面積では纒向遺跡の大型建物よりも大きい。
佐賀県鳥栖市(とすし)柚比(ゆび)本村遺跡出土の大型建物も、吉野ヶ里遺跡の大型建物の面積をすこしこえるものである。
さらにいえば、縄文時代の青森県の三内丸山(さんないまるやま)遺跡では、長辺32メートル、短辺9メートルの、纒向遺跡の大型たてものよりも、はるかに大きな竪穴住居が出土している。
高倉洋彰著『交流する弥生人』(吉川弘文館2001年刊)
「近年は、梁行(はりゆき)五間(9.8メートル)X桁行八間(16.6メートル)、平面面積はじつに163平方メートルに達する佐賀県鳥栖市柚比本村遺跡例を最大に、建物の平面面積が70平方メートルを超える例が増えている。それらの平面形をみると、多くは梁行で三~五間、桁行でも五間以上を数える構造になっている。
こうした面積が100平方メートルを超えるような大型の建物は、柚比本村例や復原祭殿の例としてあげたそれに次ぐ大きさの吉野ヶ里遺跡北内郭の三間(12.5メートル)X三間、平面面積158.75平方メートルをはかる建物など、北部九州に多い。しかし最近は北部九州以外でも大型建物が各地で検出されていて、近畿地方にもやはり復原祭殿の例にあげた池上曾根遺例のように梁行は一間(6.9メートル)ながら桁行10間(19.2メートル)、平面面積135平方メートルをはかる大型建物がある。この建物は両妻側に銅鐸や土器に描かれた絵と同じように独立棟持柱があり、屋根下ではかると総面積は400平方メートルにもなる。」
「最初に登場する超大型建物は弥生時代前期末~中期初の福岡市吉武高木遺跡のそれで、梁行四間(9.6メートル)X桁行五間(12.6メートル)、平面面積121平方メートルをはかる。その外周に一間分の廂(ひさし)状の廻縁がつくと考えられていて、それでみると梁行五間(13.7メートル)X桁行五間(15メートル)、平面面積は200平方メートルを超える巨大な建物になる。主屋内部には主軸線上に大形の柱穴がみられる。しかも早良(さわら)王墓として話題をよんだ吉武高木墓地と至近の距離にあり、ほかの建物が首長層の墓地とは反対側の一段低いところに位置しているのにたいし、この超大型建物は見上げる位置にある。」
『魏志倭人伝』に記されていないものをとりあげて、想像をふくらませるよりも、記されている事実を、一つ一つチェックする必要がある。そのような作業は、なにもなされていない。およそ、非科学的である。
とにかくセンセーショナリズムをねらって、マスコミ発表・報道を行なうので、事実のおさえ方がおよそいいかげんである。内実がない。
各地域の公的機関に属する研究者のばあい、地域おこしも、その職務のなかにはいっている。
そのような地域発の見解を、特別の検討もなく、新聞が、全国版で、くりかえし報じてよいものか。
一度、二度ならば、地域発の情報としてうけとることができる。しかし、同じようなことが何度も重なると、地域の宣伝になってしまう。
宣伝優先の地域発の情報に、そのままのるのでは、公平に、奈良県の出上物を、他の地域の出土物とくらべるという「科学」や「学問」のあり方が、おしつぶされてしまう。
大きなバイアスを生ずることとなる。
■大型建物の年代
つぎに纒向遺跡の大型建物は、いつごろのものなのか、その年代を考えてみよう。
さきの『朝日新聞』の塚本和人記者の記事は、くりかえし記す。
「3世紀前半の大型建物跡」
「3世紀前半としては国(最大規模の大型建物跡)」
「3世紀ではとんでもない規模の大きさだ」
ここでは、「3世紀前半」であることが、証明ずみの事実であるかのように記されている。
この「3世紀前半」という年代は、確証をもっているのか。むしろ、四世紀の建物なのではないか?
纒向遺跡跡からは、たとえば、年代を記した土器などは、出土していない。
確実な根拠がないため、たとえば、布留0式とされている箸墓古墳の築造年代でも、考古学者によって、
次のように、およそ百年ぐらいの幅で異なる。
・四世紀の中ごろ(西暦350年前後)…関川尚功氏(元奈良県立橿原考古学研究所員)
・三世紀のおわりごろ(西暦270年よ300年ごろ)…寺沢薫氏(桜井市立纒向学研究センター所長)
・三世紀の中ごろ(西暦250年前後)…白石太一郎氏(大阪府立近つ飛鳥博物館長)
纒向学研究センター所長の寺沢薫氏は、土器の編年を、西暦の実年代にあてはめることの難しさについて、
箸墓古墳の「布留0式期」(布留0式という型式の土器の行なわれた時期)に関連して、つぎのようにのべる。
「それでは、この『布留0式』という時期は実年代上いつ頃と考えたらよいだろうか。正直なところ、現在考古学の相対年代(土器の様式や形式)を実年代におきかえる作業は至難の技である。ほとんど正確な数値を期待することは、現状では不可能といってもよい」(寺沢薫「箸中山古墳〔箸墓〕」、石野博信編『大和・纏向遺跡』学生社、2005年刊所載)
考古学者、白石太一郎氏も、のべている。
「相対年代(どの土器が古くて、どの土器が新しいかの比較年代)の枠組に絶対年度(西暦年数に換算できるような年代)を与えるのは、非常に難しく、考古学の方法だけでは決定できない。文献史料の助けを借りたりして総合的に考えていかなければいけないわけで、今後も我々に与えられた材料を総動員して、最も合理的な年代観を想定していかなければいけないし、新しい資料が出てくればどんどん修正されていくわけです。」(上田正昭・大塚初重監修、金井塚良一編『稲荷山古墳の鉄剣を見直す』【学生社、2001年刊】)
国立歴史民俗博物館の館長であった考古学者で、亡くなった佐原真は述べている。
「弥生時代の暦年代に関する鍵は北九州がにぎっている。北九州地方の中国・朝鮮関連遺物・遺跡によって暦年代をきめるのが常道である。」(「銅鐸と武器形青銅器」『三世紀の考古学』中巻、学生社、1981年刊)。
ここに名のみえる寺沢薫氏、白石太一郎氏、佐原真氏は、いずれも、「邪馬台国=畿内説」の立場にたつ考古学者である。
ここでは、大型建物よりも時代の下るとみられる箸墓古墳についてさえ、「考古学の方法だけでは」不可能であることがのべられている。
それよりも時代がさかのぼるとみられる纒向遺跡の大型建物の年代について、「3世紀前半」などという年代は、定めうるのか?
大型建物の年代については、桜井市教育委員会文化財課係長の考古学者、橋本輝彦氏が、つぎのようにのべている(橋本輝彦・白石太一郎・坂井秀弥共著『邪馬台国からヤマト王権へ』「ナカニシ出版、2014年刊」所載、橋本輝彦氏執筆の第1章「纒向遺跡の発掘調査」)。ただし、傍線は、安本。
「この柱が抜き取られた穴の中からは土器を納めたものが何か所かで見つかっていまして、これらの土器の年代から、建物が三世紀の中頃ぐらい、考古学では庄内3式期と呼んでいますが、その頃に建物が無くなり、柱が抜きとられて廃絶したということがわかっています。
ちなみに、建物が建てられた年代というのは、実はまだはっきりと確認できていません。今回の調査地周辺では建物を建てるに際して大規模な造成工事が行われているということがわかっていますが、造成土の中から出てくる土器の検討では先ほど名前が出ました庄内式の中でも古い方、庄内の1式とか2式とか、3式で建物は無くなりますので、どこかそのあたり、三世紀前半段階でも前の方の段階で建てられているのだろうというところまでは想定しているのですが、それ以上細かくはまだ現場でも押さえきれていないという状況です。」
「これらの建物はちょうど女王卑弥呼が生きていたころと同じ時代のものだということで、建物Dでは卑弥呼が寝ていたのではないか(笑)という声が多いのですが、現場の考古学的状況からはここに卑弥呼がいたとする積極的な根拠は、何もありません。ただ、纒向遺跡が持つ特質や建物の時期・規模などを勘案すると、纏向遺跡はいわゆる邪馬台国の時代、卑弥呼の時代と一致する時期のものであり、かつ他に比するものが無いという点においては、その有力な候補にはなるだろうと思っています。」
橋本 実は少し前までは、私も箸墓古墳は卑弥呼の墓ではないとハッキリと考えておりまして、今も基本的には変わっていません。先ほど白石先生が楽屋でおっしゃられていました。「困ったことに纒向を掘つている橋本君とか、ずっと研究している石野さん、寺澤さんが、箸墓古墳は卑弥呼の墓じゃないと言っているんだよね一って……(笑)。
ただ、建物群を掘ってからはちょっと考えがうまくまとまっておりません。仮定の話になってきますが、今回調査しました大型建物群が、三世紀の中頃、庄内3式期に廃絶するということであれば、年代的な可能性としては卑弥呼が、あそこにいた可能性というのは出てくるであろうと思います。この考えが許されるのであれば、私はこの建物が廃絶するときが、卑弥呼という人が亡くなったときと考えていいと思っています。そうなると庄内3式期に卑弥呼が亡くなり、居館が廃絶、布留0式期の古相に箸墓古墳の築造がスタートするというのは、白石先生のおっしゃるように卑弥呼の墓だというストーリーで考えれば、居館と墳墓、土器の型式的には両者の時期が比較的接近し、一見、説明がつきやすいようにも思えます。」
「これからもう少し調査と検討を進めながら時間をかけて、今は卑弥呼の墓じゃないと言っている立場ですので(笑)、はっきりとした考えをまとめたいと思っております。」
橋本氏は、慎重なもののいい方をされる方である。しかし、纒向遺跡などを顕揚(けんよう)しなければならない立場にあることも、考慮する必要がある。
橋本輝彦氏は、さきの文章のなかでのべている。
「三世紀の中頃ぐらい、考古学では庄内3式期と呼んでいますが、……」
「三世紀の中頃、庄内3式期に廃絶する……」
この年代観について検討してみよう。
橋本輝彦氏のさきの文章中にみえる「庄内3式期」とか、「布留0式期」などの土器の年代は、寺沢薫氏が提案された用語である。
そこで、以下では、寺沢薫氏の用語を用いて検討する。
さて、寺沢薫氏によれば、「ホケノ山古墳」は、庄内3式期に築造されたものである。
ホケノ山古墳については、くわしい報告書『ホケノ山古墳の研究』(奈良県立橿原考古学研究所編集、2008年刊)がでている。
そこには、ホケノ山古墳から出土した「およそ12年輪」の二つの小枝について、炭素14年代測定法によって年代を求めた結果がのっている。
その結果は、表A、および、図A、図Bに示されているようなものである。
表A、および、図A、図Bは、原報告書にあるものを、そのままコピーして示したものである。表Aにおいて、「1σ(しぐま)暦年代範囲」のところに、下線が引いてある。これも、原報告書のままである。
これは、つまり、庄内3式期のホケノ山古墳の推定年代の可能性の大きいのは、三世紀ではなく、四世紀であることを示している。図A、図Bをみても、その状況は、うかがわれる。
いま、図A、図Bのうえに、方眼紙をあて、ホケノ山古墳出土の二本の小枝が、西暦300年以後のものである確率(黒い山の面積)を求めれば、図C、図Dのようになる。
これによれば、これらの小枝試料が、西暦300年以後、つまり、四世紀のものである確率は、それぞれ、68.2パーセント、および、84.3パーセントとなる。
つまり、三世紀のものである確率よりも、四世紀のものである確率のほうが、二倍以上大きい。図D では、五倍以上大きくなっている。
四世紀の中では、四世紀の前半であるよりも、四世紀の後半である確率のほうが、大きくなっている。
これは、「三世紀の中ごろ、庄内3式期」という橋本氏の発言と、百年、あるいは、百年以上くいちがっている。
この点についての橋本氏の説明はない。
「明日、雨である確率は、70パーセント」というのと同じぐらいの確からしさで、「庄内3式期が、四世紀のものである確率は、約70パーセント」といえるデータが存在するのである。
考古学の分野では、考古学者の大塚初重氏がのべておられるような、つぎの基本的な原則がある。
「考古学本来の基本的な常識では、その遺跡から出土した資料の中で、もっとも新しい時代相を示す特徴を以てその遺跡の年代を示すとするのです。」(『古墳と被葬者の謎にせまる』[祥伝社、2012年刊])
この原則をもってすれば、ホケノ山古墳から出土した資料の中で、もっとも新しい時代相、すなわち年代を示すのは、すでに紹介した二本の、年輪十二年ほどの小枝である。
そして、この二本の小枝については、原報告書心『ホケノ山古墳の研究』に、「小枝については古木効果の影響が低いと考えられるため有効であろうと考えられる」と記されている。
つまり、試料として用いられるのにふさわしいということである。
そして、この二本の小枝の示すところは、図C 、図D。の示すように、四世紀で、しか、四世紀の後半の確率が大きいということである。
■纒向遺跡の検討の仕方
森浩一「纒向を探究するさいの心構え」(『大美和』123号2012年7月刊。『季刊邪馬台国』117号2013年4月刊転載。)「僕は纒向遺跡で大型建物の跡が見つかった時、最初に頭に浮んだのは記紀が記録する初期ヤマト政権の三代にわたる大王の宮である。これから検討するのが学問の進め方の常道である。ところが卑弥呼の都説だけで報道し、まずやるべき検討がなおざりにされている。これは桜井市にとっては惜しいことである。以上が僕の考えである。」
■洛陽付近出土の位至三公鏡
位至三公鏡は西晋の時代の鏡である。しかし、畿内説の学者は下記の表で、後漢晩期の洛陽西郊漢墓から出土していることから、後漢時代としている。
■中国北方系の鏡から、南方系の鏡への推移
中国の王朝と鏡とは関連している。中国で南方系の銅が使われるようになったのは、280年に呉が滅亡されてからと考えられる。
西晋鏡を邪馬台国時代にした場合、邪馬台国時代は北方系の銅と、南方系の銅の両方が使われていることになる。そう言えるのだろうか?
■遺物の解釈が非常に短絡的
考古学者の北条芳隆(ほうじょうよしたか)氏(現、東海大学教授)はのべる。
「いわゆる邪馬台国がらみでも、(旧石器捏造事件と)同じようなことが起こっている・・・・近畿地方では、古い時期の古墳の発掘も多いが(邪馬台国畿内説が調査の大前提になっているために、遺物の解釈が非常に短絡的になってきている。考古学の学問性は今や、がけっ縁(ぷち)まで追いつめられている」(「朝日新聞」2001年11月1日)
北条芳隆氏の記されるように、「邪馬台国畿内説が調査の大前提になっている」ため、統計的に整理すれば、一目みてわかることが、目にうつらない。みずからが示したデータの大勢からは主張できないことを、「部分」や「解釈」を強調することによって主張する構造になっている。