■考古学解析のあるべき姿
ダーウインの『進化論』について言えば、一つ一つの化石だけを丁寧に調査して記録したとしてもただちに『進化論』が出て来たことにはならない。調査結果を相互比較して、そこにどのような規則性があるかを見出だしていかなくてはならない。
しかし日本の考古学については、一つ一つの遺跡の調査は丁寧に行うが、そこからの規則性を見出すのが、苦手なようである。
穴沢咊光(あなざわわこう)氏は「梅原末治論(前編)」(『季刊邪馬台国』120号)で次のように述べている。「金関恕(ひろし)は、梅原末治が「あまりにも膨大な知識」をもっていたために、「法則化に対する例外を常に見いだして反発した」と述べているが、うがった観察であろう。・・・・梅原は「コツコツと遺物自体を徹底的に調べ上げる」ことにかけては万人の及ばぬ努力家で天才的な才能を発揮したが、「それを結び合わせて研究を進めて行く」ことはどうも苦手であったようだ。」
このように、梅原末治氏は膨大な知識から、他の学者が新たな法則的なことを唱えると、その法則性に合わない事例を示して、その法則性をつぶすのである。
日本の考古学は、この流れが続いている。遺跡などを一つ、一つ丁寧に調査することはしても、そこから法則性、規則性を見出すことが出来ていない。また、自説と仮説の区別がない。そして、自説に固着する。
あるべき姿は客観的な基準を設けて、自分の仮説は棄却されない仮説だとして行くべきである。それにはデータを数量化して統計的な処理が必要となる。
■中国北方系の鏡から、南方系の鏡への推移
・鉛同位体比の分布のグラフ
中国北方の燕系の銅材料とされている直線Dと、前漢鏡主要分布域の領域A、三角縁神獣鏡分布域の領域Bに分かれる。境域Aは更に小型仿製鏡Ⅱ型分布域の小さい範囲がある。
・我が国で最初に出てくる鏡は多鈕細文鏡である。これは燕の国系の銅原料で細形銅剣・細形銅矛・細形銅戈と同じであり、鉛同位体比ではDの領域となる。そして、文様は燕の国系である。
・前漢鏡の「照明」「日光」「清白」「日有喜」銘鏡は文様は中国北方系で、銅原料は北方系であり、鉛同位体比はAの領域となる。
・貨泉も銅原料は北方系であり、鉛の同位体比はAの領域である。
・雲雷文長宜子孫銘内行花文鏡や平原遺跡出土の方格規矩鏡も文様は北方系で、銅原料は北方系である。そして同位体比はAの領域である。
・小型仿製鏡第Ⅱ型も文様は北方系で、銅原料は北方系である。そして鉛同位体比はAの領域である。
・西晋鏡[位至三公鏡、双頭竜鳳文鏡、蝙蝠鈕座長宜子孫銘内行花文鏡、夔鳳鏡(きほうきょう)]になって文様は北方系のままで、銅原料が南方系に変わる。そして、鉛同位体比がBの境域に変わる。これは中国北方では銅原料が不足して、呉が滅んで、南の銅が入手できるようになったからである。
・画文帯神獣鏡となり文様が南方系に変わり、銅原料が南方系で、鉛同位体比もBの領域ままである。これは東晋となり、都も建鄴(南京)に変わたので、南方色は当然である。
・三角縁神獣鏡は画文帯神獣鏡と同じように南方系文様で、南方系の銅材料で、鉛同位体比もBの領域である。
これらをまとめると下表のようになる。
鏡の種類 |
「文様」が、中国北方系か南方系か |
「銅原料」が、中国北方系か南方系か |
鉛同位体比の分布領域 |
総合判断 |
わが国での出土中心地 |
対応するおもな中国王朝 |
中国王朝の都 |
中国王朝の動き |
多鈕細文鏡・細形銅剣・細形銅矛・細形銅戈 |
(燕系) |
(燕系) |
D |
(燕系) |
北九州 |
燕 |
薊(けい)[北京の西北] |
BC222年燕滅亡 |
前漢鏡の「照明」「日光」「清白」「日有喜」銘鏡など |
北方系 |
北方系 |
A |
北方系 |
前漢 |
長安 |
BC206年前漢成立
(前漢BC206年~AC8年)
8年前漢滅亡 |
(貨泉) |
(北方系) |
(北方系) |
(A) |
(北方系) |
(北九州) |
(新) |
(長安) |
(新9年~23年) |
雲雷文長宜子孫銘内行花文鏡
(平原遺跡出土の方格規矩鏡) |
北方系 |
北方系 |
A |
北方系 |
北九州 |
後漢~魏 |
洛陽 |
25年後漢成立
(後漢25年~220年)
220年魏成立
(魏220年~265年) |
小型仿製鏡第Ⅱ型 |
北方系 |
北方系 |
A |
魏 |
265年西晋成立 |
西晋鏡(位至三公鏡、双頭竜鳳文鏡、蝙蝠鈕座長宜子孫銘内行花文鏡、夔鳳鏡) |
北方系 |
南方系 |
B |
過渡期 |
西晋 |
280年呉滅亡
(西晋265年~316年) |
画文帯神獣鏡 |
南方系 |
南方系 |
B |
南方系 |
畿内 |
東晋 |
南の建鄴
(南京) |
317年東晋成立 |
三角縁神獣鏡 |
南方系 |
南方系 |
B |
(東晋317年~420年) |
(古墳時代出土の方格規矩鏡) |
(?) |
(南方系) |
(B) |
420年南朝宋成立 |
■鏡に関する説明
①「照明」「日光」「清白」「日有喜」鏡
前漢鏡のうち、銘帯を主文様としたものの総称を異体字銘帯鏡(いたいじめいたいきょう)という。樋口隆康氏によって提唱された。このなかに「照明」「日光」「清白」「明光」が含まれる。
『洛陽焼溝漢墓』(中国科学院考古学研究所編、科学出版社、1959年刊)から「照明鏡」の例を下図に示す。
また、異体字銘帯鏡が北九州から多く出土することが分かる。
②雲雷文長宜子孫銘内行花文鏡
内行花文鏡は、中国鏡のうちの代表的なもののひとつである。内行花文鏡は、内がわに、半円弧形を連環状にめぐらし、花びらを内むき(内行)に連ねたような図形があるので、「内行花文」(「文」は「模様」の意味)の名がある。内行花文鏡は、後漢時代から西晋時代にかけて制作されたものが多く、中国、朝鮮、わが国の墳墓から数多く出土している。
本来が、花の形であるという証拠がないため、連弧文鏡ということばを用いるべきだという意見がある。中国の考古学者、および、日本の中国考古学者は、ふつう「連弧文鏡」ということばを用いる。
「長宜子孫」などの文字のはいっているものを、「長宜子孫銘内行花文鏡」という。
そして、「雲雷文」と、「雲雷文帯」のはいっているものを、「雲雷文長宜子孫銘内行花文鏡」という。
雲雷文は渦巻状・同心小円などの変異がある。
雲雷文帯は、松葉文・同心円的平行線のものなどの変異がある。
下図は雲雷文連弧文(雲雷文内行花文鏡)である。これも北九州から多く出土することが分かる。このグラフ四葉鈕座内行花文鏡(四連)・八葉鈕座内行花文鏡の数(大略、雲雷文長期子孫銘内行花文鏡と重なりあうとみられる)ただし、平原遺跡出土鏡については、報告書『平原遺跡』(前原市教育委員会、2000年刊)によってデータをおぎなった。
(下図はクリックすると大きくなります)
③方格規矩鏡
下図は平原遺跡出土の「方格規矩鏡」で『邪馬台国と安満(あま)宮山古墳』(吉川弘文館1999年刊)による。
これも北九州から多く出土することが分かる。このグラフの方格規矩鏡(四神)鏡の数については、報告書『平原遺跡』(前原市教育委員会、2000年刊)によってデータをおぎなった。
(下図はクリックすると大きくなります)
また、内行花文鏡と方格規矩鏡は庄内期の鏡である。これは小山田宏一氏や寺沢薫氏の資料からも分かる。
(下図はクリックすると大きくなります)
④小形仿製鏡Ⅱ型
日本で造られた鏡で、箱式石棺から出土する例が多い。森浩一氏や奥野正男氏は邪馬台国時代の鏡だとしている。
小形仿製鏡Ⅱ型は下図からも北九州から多く出土することが分かる。このグラフのもとデータは田尻義了(たじりよしのり)著『弥生時代の青銅器生産体制』(九州大学出版会、2012年刊)による。なお、田尻義了「弥生時代小型仿製鏡の集成」(『季邪馬台国』106号、2010年刊)参照。
⑤位至三公鏡(いしさんこうきよう)
左と右とに、双頭の獣の文様を配する。獣の文様は、ほとんど獣にみえないことがある。小形の鏡である。
中国では、後漢末にあらわれるが、おもに西晋時代に盛行した。
双頭竜鳳文鏡の系統の鏡である。双頭竜鳳文鏡にくらべ、獣の文様がくずれている。
双頭竜鳳文鏡では、主文様の外がわに連弧文があるが、位至三公鏡では、連弧文がないのがふつうである。
また、「位至三公鏡」、「双頭竜鳳文鏡」、「蝙蝠鈕座長宜子孫銘内行花文鏡、「夔鳳鏡(きほうきょう)」などは西晋鏡である。
福岡県前原市大字井原出土(『倭人と鏡』埋蔵文化財研究会刊による位至三公鏡の図を右図に示す。
位至三公鏡と西晋鏡の出土数を下図に示す。位至三公鏡は中国では洛陽など北方で多く出土し、西晋鏡は日本では北九州に多く出土する。
(下図はクリックすると大きくなります)
洛陽ふきん出土の「位至三公鏡」と、墓誌からの中国出土「位至三公鏡」の年代を下記に示す。
呉が滅んだ280年以後の出土のものが多い。ただ、後漢晩期のものがある。
⑥双頭竜鳳文鏡(そうとうりゅうほうおうもんきよう)
一つの体躯の両端に、竜または鳳凰の頭がついている。これを一単位の文様とするとき、二単位(二体躯分)が、左右に描かれている。
一単位の二つの頭がともに竜頭のこともあれば、一方が竜頭、一方が鳳頭のこともある。「双頭・竜鳳・文鏡」と区切るべきである。
文様の基本は、S字形または逆S字形で、点対称。
右図は京都国立博物館蔵・樋口隆康著『古鏡図録』新潮社刊による。
双頭竜鳳文鏡は鈕のまわりにはっきりした竜と鳳凰の像があるが、位至三公鏡はこの竜と鳳凰がくずれた像となっている。
双頭竜鳳文鏡は内向花文が入っているが、位至三公鏡にはない。
それ故、位至三公鏡は双頭竜鳳文鏡をベースとして造られている事が分かり、位至三公鏡は双頭竜鳳文鏡より新しいことになる。
寺沢薫氏は双頭竜鳳文鏡は古く、後漢の時代までもって行けると言うが、鉛の同位体比では双頭竜鳳文鏡も位至三公鏡も同じである。そんなに違いはないのではないか。
⑦蝙蝠鈕座内行花文繞(こうもりちゅうざないこうかもんきょう)
西晋を中心とする時代になると、鈕(まん中のつまみ)座のまわりの文様が、葉(スペード)の形から、蝙蝠の形へ変化したものが多くなる。
雲雷文内行花文鏡で、鈕座のまわりの文様が蝙蝠の形をしているものを「蝙蝠鈕座内行花文繞」という。
なお、「蝙蝠鈕座内行花文鏡」のことを、「蝙蝠座鈕内行花文鏡」とよぶ研究者もいる。「蝙蝠鈕座内行花文鏡」は、ほぼかならず「長宜子孫」などの文字がはいっており、「長宜子孫銘内行花文鏡」の一種である。
参考までに、インターネットを検索すると、検索数は、つぎのとおりであった(2014年12月3日調べ、グーグルによる)。
蝙蝠鈕座内行花文鏡……124件
蝙蝠座鈕内行花文鏡…… 32件
約四倍の違いがある。この稿、一応、多数の人のよび方にしたがう。
日本では、北九州を中心に出土する。日本出土のものは、3世紀の後半以降に製作のものがほとんどか。(下図は、福岡県糟屋郡粕屋町大字大隈の、上大隈古墳出土のものによる。『倭人と鏡』〔埋蔵文化財研究会編集・発行〕所蔵の図をもとに製作。)
これも中国では洛陽など北方に多く出土する。
(下図はクリックすると大きくなります)
⑧画文帯神獣鏡
一つの体躯の両端に、竜または鳳凰の頭がついている。これを一単位の文様とするとき、二単位(二体躯分)が、左右に描かれている。
右図は川西宏幸著『同型鏡とワカタケル』(同成社、2004年刊)にもとづいて作成。面径10.3cm
下図のように、県別出土状況は畿内が多い。このグラフのもとデータは安本美典著『大崩壊「邪馬台国畿内説」』[勉誠出版、2012年刊]による。
(下図はクリックすると大きくなります)
⑨三角縁神獣鏡
下図の三角縁神獣鏡は京都府椿井大塚山古墳出土の三角縁獣四神四獣鏡で直径23.2センチである。
下図のように、県別出土状況は畿内が多い。このグラフのもとデータは下垣仁志著『三角縁神獣鏡研究辞典』[吉川弘文館、2010年刊]による。
(下図はクリックすると大きくなります)
⑩古墳時代の方格規矩鏡
古墳時代になって出てきている方格規矩鏡の鉛の同位体比はBの領域である。しかしごくわずかであるが、領域Aのものがある。そのようなAの領域のものは古い時代のものが伝世されたのではないか。
■位至三公鏡や画文帯神獣鏡は何時の時代のものか?
寺沢薫氏は、以前に紹介した文章のなかでのべる。
「(安本は、)画文帯神獣鏡の諸型式の系譜を混淆し、加えて出現期古墳の画文帯神獣鏡のみを厳密に抽出せずに議論するという。位至三公鏡の場合とまったく同じ方法的欠陥の轍を踏んだ思考である。」
これに対して、
寺沢薫氏は位至三公鏡の1面が後漢晩期のものがあるから、日本にある位至三公鏡も古い時代にさかのぼるべきと言っているが、二つ問題がある。一つは日本ではタイムラグある。貨泉では200年位のタイムラグが想定される。「新」の時代から「後漢」は時代が下るが、ある程度タイムラグを考える必要があるのではないか。二つ目は位至三公鏡の古い形式も新しい形式も鉛の同位体比はB領域で同じである。そんなに古い時代を想定できるのであろうか、年代的にあまり差が無いのではないか。
寺沢薫氏は、「画文帯神獣鏡」や「位至三公鏡」の諸型式を検討すべきであるという。
まず、つぎのような議論ができる。
①寺沢薫氏によれば、ホケノ山古墳は、「出現期古墳」といえる。
②樋口隆康氏によれば、ホケノ山古墳から出土した画文帯神獣鏡と、同種の鏡として、熊本県の江田船山古墳出土鏡があげられている(『ホケノ山古墳調査概報』学生社、2001年刊)。
③大塚初重氏他編の『日本古墳大辞典』(東京堂出版、1989年刊)では、江田船山古墳の築造年代は、「5世紀末の可能性が強くなる。」とある。それは、江田船山古墳出土の銀象嵌大刀銘のなかに、埼玉県の稲荷山古墳出土の金象嵌刀銘の「獲加多支鹵大王」(雄略天皇)と共通する銘がみられるからである。
④このように、ホケノ山古墳出土の画文帯神獣鏡は、わが国においては、それよりまえの時代の鏡とは、つながらない。あとの時代の江田船山古墳出土鏡などとつながる。江田船山古墳の築造年代は、やや根拠をもつ。
⑤以上から、ホケノ山古墳や、そこから出土した画文帯神獣鏡の年代として、五世紀末を考えることもできる。
ホケノ山古墳は庄内期であるから、ホケノ山古墳から出土した「画文帯神獣鏡」は邪馬台国時代に持って行けると言っている。しかし「画文帯神獣鏡」は鉛の同位体比はBの領域である。邪馬台国時代は鉛の同位体比はAの領域なのではないか。時代が合わない。
出現期古墳の画文帯神獣鏡を抽出しても、寺沢薫氏流のことばによる「解釈主義」によれば、ホケノ山古墳の年代を、5世紀末にさげることも可能になる。