■縄文人の核DNAからの分析によると、日本人は縄文人と弥生系渡来人の混血か?
『朝日新聞』2016年9月2日(金)(朝刊)
縄文人のDNA 大陸と大きな違い 最も近いのはアイヌ人
縄文時代に日本列島で狩猟採集生活をしていた縄文人の遺伝的特徴は、東アジアや東南アジアの人たちとは大きく離れていることがDNA解析でわかった。総合研究大学院大学や国立科学博物館などのチームが、人類学の専門誌ジャーナル・オブ・ヒューマン・ジェネティクスに1日発表した。
福島県北部の三貫地(さんがんじ)貝塚[安本注:福島相馬郡新地町(しんちまち)]で出土した約3千年前の縄文人2人の歯から細胞核のゲノム(全遺伝情報)解読を試みた。約30億個ある塩基のうち、約1億1500万個の解読に成功した。縄文人の核DNAの解読は初めて。
世界各地の現代人のDNAと比較したところ、中国南部の先住民や中国・北京の中国人、ベトナム人などは互いに近い関係にあるのに対して、縄文人はこれらの集団から大きく離れていた。
現生人類ホモ・サピエンスは4万~5万年前にアジア地域に到来し、その後、各系統に分かれたとされる。今回のDNA解読で、少なくとも1万5千年前よりも古い時期に縄文人につながる系統ができ、東アジアや東南アジアの集団は、別の系統から生まれたと考えられるという。
日本人では、遺伝的にはアイヌ人が最も縄文人と近い関係にあり、沖縄の琉球人、東京周辺の人と続いた。
現在の日本人は、縄文人と、弥生時代以降に大陸から渡ってきた渡来人が混血して形成されたと、されていた。チームの国立科学博物館の神沢秀明研究員は「日本人が、縄文人と弥生系渡来人の混血という説が、DNA解読でも裏付けられた」としている。 (神田明美)
これについて、私の疑問は下記である。
①この報道は細胞核によるものである。細胞核とミトコンドリアとで、遺伝情報の分析結果が違うようであるが、・・・・。
②今回は2人の分析である。縄文人どうしの変異(変差)は、どのていどなのか。
③今回は福島の縄文人である。アイヌと地理的に近い縄文人ではなく、九州の縄文人ではどうなのか。
④「大陸」でも、沿海州あたりの人や、チュクチなどの人は、どうなのか。これはアイヌ語と朝鮮語は偶然以上の関係がある。そうすると地理的にその中間に沿海州やチュクチ人がいるところになる。
ここで、DNAとは、
デオキシ・リボかくさん[-核酸](Deoxyribonucleic acid)で、五炭糖の一種デオキシリボースを含む核酸。細胞核内の染色体の重要成分。遺伝子の本体として遺伝情報の保存・複製に関与、リボ核酸と共に、生体の種や組織に固有の蛋白質生合成を支配する。DNAと略称。
今回の『朝日新聞』記事は三貫地(さんがんじ)貝塚の縄文人で地図から見ると、東北地域である。ナイ・ベツ地名から、アイヌに近くなる。
この新聞記事と結びつくものが、齋藤成也(注:東京大学大学院教授)著『日本列島人の歴史』(岩波ジュニア新書、岩波書店、2015年刊)に紹介されている。
右図は、これら日本列島の三集団(アイヌ、沖縄人、大和人)と韓国人、北方中国人(北京に住む漢族)、および南方中国人(中国系シンガポール人)のゲノムDNA多様性を、わたしたちの研究グループがくわしく調べた結果です。膨大なデータを主に二次元であらわすのに適した統計手法である「主成分分析(しゅせいぶんぶんせき)」という手法を用いて、ヒトゲノムの中の数万か所に存在する遺伝的個体差を示すSNP(単一塩基多型)のデータを比較し、個人の関係を表現しています。
縄文人と現代人のミトコンドリアDNAハプロタイプ頻度にもとづく相互関係
これらの結果から、アイヌとオキナワ人は近いと言っているが、細胞核とミトコンドリアとで、遺伝情報の分析結果が違うようである。
右図は細胞の構造である。
ミトコンドリア[mitochondria]は、細胞小器官のひとつ。真核生物の細胞質中に多数分散して存在し、内部にクリスタと呼ぶ棚状の構造があり、独自のDNAを持ち、自己増殖する。呼吸に関係する。一連の酵素を含み、細胞のエネルギー生産の場。独立した好気性細菌が進化の過程で別の細胞にとり込まれ、共生したものという説がある。
そして、細胞核は真核生物の細胞の中にある球形の小体。核膜に包まれ、内部に遺伝情報を担う核DNAを含む。一般には各細胞に一個。
このミトコンドリア遺伝子は母性によって遺伝していく。
ミトコンドリアの遺伝子と細胞核の遺伝子では違う。
■形態小変異からの分析
東北大学医学部教授の形質人類学者、百々幸雄(どどゆきお)氏は、「眼球を納めている穴(眼窩)の上縁に神経の通る穴があるかないか」などのような、多くの「小変異」についてしらべられた。このような「小変異」の「ある、なし」は、遺伝的な要因にかなりもとづくとみられる。このような「小変異」を統計的に分析すると、アイヌと縄文人はかなり近い。しかし、沖縄の人々は、「アイヌと遠く隔たって」いる。また、アイヌと縄文人とは、現代日本人とかなり離れている。
百々幸雄氏は、およそ、つぎのようにのべる。
「古人骨の頭骨をこまかく観察すると、計測では表すことのできない微細な形態異常がかなりある。異常といっても、体の機能には、なんの影響もない。むしろ、変異といったほうがおさまりがいい。そんな特徴を、形態小変異とよぶ。
代表的な例のひとつに、『舌下神経管二分(ぜっかしんけいかんにぶん)』がある。頭蓋の底には、脊髄への出口である大後頭孔という直径三センチほどの穴がある。その出口近くに、舌下神経という舌の運動をつかさどる神経が通る細い管が左右にひとつずつある。ふつう左右それぞれの管は、一本の管であるが、ときに二つに分かれていることがある。
この変異は、すでに胎児の頭骨にもみられる。また、以前から、アイヌに多く、日本人(和人)には、すくないことが知られていた。なんらかの遺伝子が、関与しているのであろう。このような小変異のうち、客観的に変異の『ある、なし』を判定できるものは、せいぜい30項目ていどとみられる。
そのうちの22項目を指標として、どの集団も、すくなくとも100例以上の資料を自分自身の手でしらべ、系統関係を探究した。
その結果、つぎのようなことがわかった。
①縄文人とアイヌとは、系統的には近い関係にある。
②縄文人とアイヌとは、現代日本人とはかなり離れている。
③現代日本人は、江戸時代人、室町時代人、鎌倉時代人、古墳時代人と、ほとんど変わらない。
形態小変異でみると、鎌倉時代から現代までのあいだで、出現頻度に統計学的な差があったのは、22項目のうち、わずか2項目で、ほとんどの項目は、この600年を通して変化がなかった。これは、日本人の遺伝的構成が変わっていないのを、そのまま反映しているとみられる。
④弥生人については、まず、山口県の土井ヶ浜(どいがはま)の弥生人の頭骨についてしらべた。
土井ヶ浜弥生人は、身長が高く、人類学者の金関丈夫(かなせきたけお)博士は、かつて、彼らのことを、朝鮮半島から渡来した人々と縄文人との混血集団と想定した。
土井ヶ浜弥生人についての調査データをもとに、類縁図をつくったところ、ほぼ想像したとおりの結果がでた。古墳をはじめ、現代までの集団と非常に近くむすびついた。しかし、わずかであるが、しっくりこない気持ちも残った。現代日本人の祖先集団にしては、ほんのすこしであるが、予想よりも、距離が離れているように感じた。
近隣接合法で描いた日本と周辺大陸の人類集団の類縁図
⑤つぎに、福岡市博多区の金隈(かなくま)の弥生人を中心に、北部九州の弥生人をしらべた。佐賀県の吉野ヶ里などの弥生人も、この仲間にはいる。結果は、予想どおりというか、それ以上に、古墳時代以降の集団とぴったりくっついた。これまでは、土井ヶ浜が弥生人の代表のようにいわれていたが、どうやら現代日本人の祖先集団の中心は、金隈に代表される北部九州の弥生人のようである。
⑥奄美・沖縄の人については、約230例の頭骨をしらべた。22項目を総合的に比較すると、奄美・沖縄人は、あきらかに、弥生人以降の日本人、ひいては現代日本人や、東アジアのモンゴロイドと非常に近い位置をしめる。縄文・アイヌ人とは、かなり離れている。
⑦古人骨を研究する従来の方法としては、計測値によるものがある。人骨の頭の長さとか、頭の幅、頭の高さ、顔の高さ(鼻のつけ根から上あごの下端までの長さ)、顔の幅などを測って比較する方法である。
この方法で、東京大学の名誉教授であった鈴木尚(ひさし)たちが調べたところ、江戸時代人と現代日本人とでは、頭骨にかなりな違いがあった。江戸から現代にかけて、いわゆる面長になる傾向などである。
頭の長さとか幅といった計測的特徴は、栄養や座る習慣など、生活環境の変化の影響をうけて、長くなったり短くなったりする可能性が高いようである。
人類集団の近縁関係を調べるのには、環境の影響をうけにくい形態小変異の出現頻度による方法のほうが、より優れているといってよさそうである。」(「形態小変異を読む」『科学朝日』1992年2月号所載、朝日新聞社)
下図の「眼窩上孔と舌下神経管二分の出現頻度」参照
この百々幸雄氏の研究によって、従来、疑問とされていた問題のうち、解決しているものがあるようにみえる。
沖縄の言語は、言語学的には、東京方言と同じく、日本語の仲間であり、アイヌ語とは大きく離れている。
計量言語学的には、沖縄の言語は、約1700年まえごろに、本土方言からわかれたものであり、九州から南下しかものであろうとみられていた(拙著『言語の科学』筑摩書房刊参照)。
いっぽう、東京大学の自然人類学者、埴原和郎(はにはらかずろう)などは、人骨の計測値にもとづき、沖縄人は、アイヌに近いという結果をだしていた。古い時代のものが、日本列島の北と南の両方に残ったのである、という見解がだされていた。
沖縄の諸方言は、明確に、日本語の仲間である。せいぜい2000年以内分離したものである。アイヌ語とは、大きく異なる。百々幸雄氏の研究も、それを裏づけている。
人骨の計測値において、沖縄人とアイヌとが近くみえるのは、生活環境や栄養などが近似していたため、近くなった可能性が大きい。
百々氏の研究成果は、データ数も多く、かなり信頼できるもののように思える。
百々氏は、またのべる。
「渡来系弥生人が本土の日本人となり、列島の北と南の端に縄文系の人たちが生き残ったという単純なモデル(安本注:これは埴原和郎提出のモデル)はもう少し慎重に考え直した方がよいのではないか、と思うのである。」
「頭の長さや顔の高さのような計測値は環境変化により変わり得るが、非計画的な小変異はかなり遺伝的な要因に左右されるということであろう。」
「小変異を指標にすれば、集団間の遺伝的な親疎関係はかなり的確に推定できそうである。」(以上、『原日本人-弥生人と縄文人のナゾ-』所載の百々幸雄(どどゆきお)氏の論文「アイヌと琉球人は……」による。朝日新聞社、1993年刊)
尾本恵市氏の『日本人の起源』に、下図のような、世界25集団の、遺伝子データにもとづく分岐図がのっている。
注1:23個の遺伝子座の遺伝子頻度のデータより遺伝距離(DA)を求め、近隣結合法により分岐図とした
注2:尾本恵市著「日本人の起源」(裳華房)による。
■宝来聡(ほうらいさとし)のミトコンドリア遺伝子による報告
縄文時代に、南方から来た人々が住んでいたとみられる根拠をあげる報告も、いくつかある。
1989年10月8日付の『朝日新聞』一面に、「関東の縄文人 東南アジア人と同族?」「六千年前の骨遺伝子が一致」という見出しの記事がのっている。
その記事の要点は、つぎのようなものである。
①国立遺伝学研究所(静岡県三島市)の、人類遺伝研究部門の宝来聡(ほうらいさとし)らのグループは、1988年11月に埼玉県浦和市内から出土した約六千年まえの縄文時代前期の頭骨など、五体の人骨から遺伝子を抽出する作業を行なった。
②人骨のかけら約一グラムに塩酸をかけ、骨から溶かし出したヒ卜のミトコンドリアという細胞内にある小器官の遺伝子を、酵素を使って大量に複製した。保存状態のちがいからか、結果にばらつきはあったが、これまでに三体から、遺伝子断片の抽出に成功した。
③このうちの、浦和市内の一体については、共同研究グループの中井信之教授(名古屋大学理学部・地球化学)が、頭骨の蛋白質に含まれる放射性同位元素をしらべ、5790年まえ(誤差前後120年)の縄文時代前期のものとわかった。
④この頭骨の、遺伝子断片の塩基配列を決定し、これまでに世界的に明らかにされている現代人6人のものや、宝来氏が独自に集めた現代人95人(日本人61人、欧米人16人、アジア・太平洋地域人11人、アフリカの黒人7人)のものと比較した。
⑤その結果、ミトコンドリアの塩基配列のうち、比較でき190個は、大陸系でない東南アジアの現代人の一人の配列と完全に一致した。
しかし、大陸系のアジア人とは、かなりちがっていた。
⑥この結果は、データはすくないものの、縄文時代の関東に、東南アジアの人と共通の祖先をもつ集団が住みついていた可能性を示すものとして注目される。
⑦宝来氏は、つぎのように話している。
「縄文時代といっても、12000年ほど前から2千数百年前までと期間が長く、時期による違いや地域差があるだろうが、現代の東南アジアの人と共通の祖先をもつ縄文人がいた可能性を示唆している。
上記は東日本の縄文人のミトコンドリア遺伝子の分析の話である。
多変量解析を使っているが、近いことは分かるが、偶然以上の一致かどうか分からない。
また、宝来氏の遺伝的距離にもとづくクラスター分類のグラフをみると、日本人と繩文人とヨーロッパ人とが同じ下位クラスターにはいっていたり、日本人とアフリカ人とが同じ下位クラスターにはいっていたりする例がみられる。したがって、同じ下位クラスターにはいっていれば、かならず系統的に近いとばかりはいえないようにみえる。
下図の「現代人および古代日本人骨のミトコンドリアDNAの塩基配列にもとづいた系統樹」でクェッションマークのところは日本人、ヨーロッパ人、アフリカ人が混在するのには疑問がある。
このように、以上は科学的研究ではあるが、細胞核とミトコンドリアとで、遺伝情報の分析結果が違うことをどう解釈すべきか。分析データが少ないことも問題である。