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第352回 邪馬台国の会
西晋時代(台与の時代)の鏡
アイヌ民族の起源について


 

1.西晋時代(台与の時代)の鏡

「中国の西晋王朝と交渉をもった倭の勢力は西暦300年ごろまで、北九州にいた」ことについて、説明する。

■日本の邪馬台国時代は、中国では魏、呉、蜀の三国時代であった。
この時代は下記の年表参照。
(下図はクリックすると大きくなります)

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魏の総参謀が司馬懿(しばい)仲達[179(光和2)~251(嘉平3)]であり、蜀の総参謀が孔明亮(しょかつ りょう)孔明であった。有名な話が、下記の「死せる孔明生ける仲達を走らす」である。

・死せる孔明生ける仲達を走らす
司馬懿(しばい)は三国魏の大臣・字は仲達・河内温(河南)の豪族・曹丕と親しく、要職を歴任した。
230年(太和4)、曹真とともに蜀漢の諸葛亮の遠征軍に当ったが、翌年、真の死後、長安にあって全軍を指揮し、祁山(きざん)で交戦し勝たず、その名将張郃(こう)を失った。234年(青竜2)、亮と五丈原に対陣し持久策をとり、亮は戦機をえぬ間に病死した。
238年燕王公孫淵を討ち、襄平(遼陽の北方)を囲み、公孫氏の有した南満・北鮮の4郡を平定した。翌年明帝死し、新帝斉王芳を輔佐し、242年、呉を討ち鄧艾(とうがい)をして淮南北の軍屯田を経営させ、249年クーデターを行い、朝政を独占、2子 司馬師・司馬昭をへて孫の司馬炎(武帝)が西晋を興す基礎を作った。のち宣帝と諡(おくりな)された。

晋(しん)は中国の王朝名で、西晋(265~316)と東晋(317~420)に分れる。河内温(河南)の名族 司馬懿(しばい)[宣帝]は曹操依頼魏に仕え、249年(嘉平元)丞相となり、以後その子 司馬師(景帝)、師の弟 司馬昭(文帝)権勢を保持した。昭は蜀討滅の功によって晋王となり、封地は全国の3分1をしめた。晋国の官属には有能の士が集まり、さながら王朝内の王朝の観を呈した。やがて昭の子司馬炎(武帝)は魏の禅譲をうけて、晋王朝をたて、280年(太康元)呉を併合して天下を統一した。

更に西晋から東晋へとなる。
衷(あい)[恵帝]のときから国政は乱れ、帝室の藩屏として強い兵権を委ねられていた諸王は、八王の乱(300~306)を起した。すでに、内地に多く移住していた遊牧民族はこの乱を機に武力侵略をはじめ、山西にいた南匈奴の族長劉淵は自立して漢を立て、その子劉聡は311年(永嘉5)洛陽を陥れて、懐帝を捕らえ(永嘉の乱)、ついで長安で即位した愍帝(びんてい)も316年劉曜にとらえられ、ここに晋はいったん滅びた。これより先、帝室の一族、司馬睿(えい)(元帝)は安東将軍として建業(南京)に鎮していたが、乱を避けて、南遷してきた王導など華北の名族や土着の豪族たちの支持をえて即位し、晋を再興した。これが東晋である。

魏と晋の系図は下図参照


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趙(ちょう)は五胡十六国時代の国名で、前趙・後趙がある。 352-03
前趙 南匈奴は漢代から長城内に移住を許されていたが、しだいに南下して山西にひろがり、八王の乱で西晋の統治が乱れると活動をはじめた。族長劉淵は5部を統合して大単于となり、左国城(山西省離石県東北)から、平陽(臨汾県)に移って、308年漢国皇帝を称した。その子劉聡は11年洛陽を陥れて晋の懐帝を捕え(永嘉の乱)、16年一族 劉曜をつかわして長安を陥れ、愍(びん)帝を捕えて晋を滅ぼし、ほぼ華北を領有した。曜は聡の死後内紛をおさめ帝位につき(318)、長安を都とし、国号を趙と改めた。これが前趙である。しかし、劉聡の部将石勒(せきろく)[羯族(けつぞく)]は河北・山西方面により自立して(後趙)、劉曜と争い、28年劉曜は石勒に捕えられ、翌年太子熙も捕えられ、前趙は滅びた。この時代は右図参照。

■中国における銅原料は中国の北から南に移る。
銅原料における大変化がおきたのは、おもに、つぎの二つの理由によるとみられる。

①中国の三国時代、北方の魏の領域では、銅原料が、不足していた。このことについて、中国の考古学者、徐苹方氏は、「三国・両晋・南北朝の銅鏡」(王仲殊他著『三角縁神獣鏡の謎』角川書店、1985年刊所収)という文章のなかで、つぎのようにのべている。 

漢代以降、中国の主な銅鉱はすべて南方の長江流域にありました。三国時代、中国は南北に分裂していたので、魏の領域内では銅材が不足し、銅鏡の鋳造はその影響を受けざるを得ませんでした。
魏の銅鏡鋳造があまり振るわなかったことによって、新たに鉄鏡の鋳造がうながされたのです。数多くの出土例から見ますと、鉄鏡は、後漢の後期に初めて出現し、後漢末から魏の時代にかけてさらに流行しました。ただしそれは、地域的には北方に限られておりました。これらの鉄鏡はすべて夔鳳(きほう)鏡に属し、金や銀で文様を象嵌(ぞうがん)しているものもあり、極めて華麗なものでした。『太平御覧』〔巻717〕所引の『魏武帝(曹操)の雑物を上(のぼ)すの疏(そ)』[安本註。ここは「上る疏(たてまつるそ)」と訳すべきか]によると、曹操が後漢の献帝に贈った品物の中に”金銀を象嵌した鉄鏡”が見えています。西晋時代にも、鉄鏡はひき続き流行しました。洛陽の西晋墓出土の鉄鏡のその出土数は、位至三公鏡と内行花文鏡に次いで、三番目に位置しております。北京市順義、遼寧省の瀋陽、甘粛省の嘉峪関などの魏晋墓にも、すべて鉄鏡が副葬されていました。銅材の欠乏によって、鉄鏡が西晋時代の一時期に北方で極めて流行したということは、きわめて注目に値する事実です。」
魏王朝は、卑弥呼に、240年前後に、銅鏡百枚を贈った。しかし、魏は、それほど長く厖大な量の銅鏡を贈りつづけることができた状況にはなかったようにみえる。

②西暦280年に、華南の呉は、西晋によって滅ぼされた。その結果、揚子江(長江)流域の銅鉱の銅が、大量に華北に流れこむようになったとみられる。

中国出土の「位至三公鏡」「蝙蝠鈕座内行花文鏡」など西晋鏡のうち墓誌によって年代が確定できるものが、十三面ある。そのことごとくが、285年~302年のあいだの年代のものである。すべて、280年以後のものである。(あとでも示す)

★西晋鏡の示すこのような安定した年代は、わが国古代の鏡全体の年代を考えるうえで、重要な情報を提供している。西晋の存在した期間(265~316)は、比較的短いので、古代の年代を考える上での基準となりうる。

『日本書紀』「神功皇后紀」66年(西暦266年)条
「六十六年。是年(ことし)、晉(しん)の武帝の泰初(たいしょ)の二年なり。晉の起居の注に云はく、武帝の泰初(たいしょ)の二年の十月に、倭の女王、譯(をさ)を重ねて貢献(こうけん)せしむといふ。」

ここで、起居の注とは、下記である。
起居注は、中国で天子の言行ならびに勲功を記した、日記体の政治上の記録。従って歴朝に起居注があった。隋書、経籍志には晋代についても晋泰始起居注二十巻(李軌撰)ほか二十一部をあげ、日本国見在書目録の起居注には晋起居注三十巻をあげている。なお晋書にも類似の記事はあり、武帝紀には「泰始二年(266)、十一月己卯、倭人来献方物」といい、同四夷伝の倭人条にも「泰始、初遣使重訳入貢」としるしてある。三種を比べて、入貢の主体を倭女王とするのは本条だけであるが、この倭女王は、おそらく、魏志、倭人伝に、卑弥呼が死亡の後、一たん立てた男王が廃され、ついで立った「卑弥呼宗女壹(臺の誤りか)与、年十三」にあたると考えられている。ただ書紀は、この倭女王も卑弥呼その人と考えたのであろうとおもわれ、そこで、卑弥呼すなわち神功皇后とみなしていた書紀は、皇后の死をこの年のあとにおくこととしたのであろう。
岩波書店刊『日本古典文学大系』より

このことは、中国の泰初(たいしょ)の二年の西暦266年に西晋と倭と交流があったことを示している。台与の時代に交流があったのではないか。

台与は記紀の神話から、天照大神の子の忍穂耳の尊(おしおみみのみこと)の妃である万幡豊秋津師比売(よろづとよあきつひめ)のことであろう。

■位至三公鏡(いしさんこうきょう)などの西晋鏡について
位至三公鏡(いしさんこうきょう)の元になったのが、双頭竜鳳文鏡(そうとうりゅうほうもんきょう)である。
・双頭竜鳳文鏡(そうとうりゅうほうもんきょう)
一つの体躯の両端に、竜または鳳凰の頭がついている。これを一単位の文様とするとき、二単位(二体躯分)が、左右に描かれている。
一単位の二つの頭がともに竜頭のこともあれば、一方が竜頭、一方が鳳頭のこともある。「双頭・竜鳳・文鏡」と区切るべきである。
文様の基本は、S字形または逆S字形で、点対称。


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・位至三公鏡
位至三公鏡は、「位は三公(最高の位の三つの官職)に至る」という銘のある鏡である。鈕をはさんで、上下に「位至」と「三公」の銘文をいれ、内区を二分する。
左と右とに、双頭の獣の文様を配する。獣の文様は、ほとんど獣にみえないことがある。小形の鏡である。
中国では、後漢末にあらわれるが、おもに西晋時代に盛行した。
双頭竜鳳文鏡の系統の鏡である。双頭竜鳳文鏡にくらべ、獣の文様がくずれている。
また、双頭竜鳳文鏡では、主文様の外がわに連弧文がある。
(下図はクリックすると大きくなります)

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洛陽付近出土の「位至三公鏡」から西晋時代の鏡であることが分かる。

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出典は次のとおりである。
①『洛陽考古集成~秦漢魏晋南北朝巻~』上・下(中国・北京図書館出版社、2007年刊)
②『洛陽銅華』上冊(中国・科学出版社、2013年刊)。

位至三公鏡は洛陽付近以外でも出土している。
中国(洛陽ふきん以外)出土の「位至三公鏡」の年代(墓誌による) 352-07


右表に記したもの以外に、山東出土の「元嘉元年」のもの(9.6cm)があるが、後漢の元嘉元年(151年)か、(劉)宋の元嘉元年(424年)か、確定しがたい。そこから出土した「位至三公鏡」そのものは、西晋代のものとみられている。

河北省・北京市順義県大営村西晋墓から、2面の「位至三公鏡」が出土しており、同じ封土内の塼室墓から、西晋の泰始7年(271年)の塼が出土している。

中国出土の「位至三公鏡」「蝙蝠鈕座内行花文鏡」など西晋鏡のうち墓誌によって年代が確定できるものが、十三面ある。そのことごとくが、285年~302年のあいだの年代のものである。すべて、280年以後のものである。 

これら中国の鏡について、『洛鏡銅華』(上・下二冊、中国・科学出版社、2015年刊)のなかトビラに、西晋時代の、洛陽ふきん出土の「位至三公鏡」の写真の鮮明なもの12点がのっている。

中国では洛陽付近が多く、鄂城付近にも分布している。日本では北九州が多い。このことからも、邪馬台国時代は北九州が中心であることが分かる。

中国と日本出土の位至三公鏡の分布

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位至三公鏡と同じ墓から出てくる蝙蝠鈕座内行花文鏡(前回の講演で説明)について、
同じように、中国と日本出土の蝙蝠鈕座内行花文鏡の分布

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中国では洛陽や西安付近が多く、日本では北九州が多く、中国、四国、近畿とばらついている。

中国社会科学院考古研究所の所長をされた考古学者、徐苹芳氏はのべる(下線は、安本)。
「考古学的には、魏および西晋の時代、中国の北方で流行した銅鏡は明らかに、方格規矩鏡・内行花文鏡・獣首鏡、夔鳳(きほう)鏡・盤竜鏡・双頭竜鳳文鏡・位至三公(いしさんこう)鏡・鳥文鏡などです。
従って、邪馬台国が魏と西晋から獲得した銅鏡は、いま挙げた一連の銅鏡の範囲を越えるものではなかったと言えます。とりわけ方格規矩鏡・内行花文鏡・夔鳳(きほう)鏡・獣首鏡・位至三公鏡、以上の五種類のものである可能性が強いのです。位至三公鏡は、魏の時代(220~265)に北方地域で新しく起こったものでして、西晋時代(265~316)に大層流行しましたが、呉と西晋時代の南方においては、さほど流行してはいなかったのです。
日本で出土する位至三公鏡は、その型式と文様からして、魏と西晋時代に北方で流行した位至三公鏡と同じですから、これは魏と西晋の時代に中国の北方からしか輸出できなかったものと考えられます。」(『三角縁神獣鏡の謎』角川書店、1985年刊)

この時代の鏡について、西晋鏡と画文帯神獣鏡・三角縁神獣鏡は南中国の銅原料を使っている。
(下図はクリックすると大きくなります)

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鉛の同位体比において、西晋鏡は三角縁神獣鏡(B領域)と重なる。しかし西晋鏡の分布はさらに広がっている。

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「いわゆる西晋時代鏡」にみられる鉛同位体の特徴
①「位至三公鏡」「双頭竜鳳文鏡」「蝙蝠鈕座内行花文鏡」「夔鳳(きほう)鏡」などは、北九州を中心に分布する。

②これらの鏡は、中国では、おもに華北に分布する。洛陽を中心とする形で分布する。

③それにもかかわらず、わが国出土のこれらの鏡の鉛同位体比は、双頭竜鳳文鏡をふくめ、つぎの古墳時代に出土する「三角縁神獣鏡」や「画文帯・神獣鏡」などに近い。上図の「B領域」に分布する。華中・華南産の銅が用いられている。華北の銅料ではない。つまりこれらの鏡は、それら以前の時期の中国北方系の特徴をもつ鏡と、それ以後の南方的特徴をもつ鏡との中間的・橋わたし的な特徴をもつ。文様は北方的で、原料は南方的である。

・夔鳳(きほう)鏡
「夔」は、山にすみ、竜に似ていて一本足の怪物。「鳳」は、想像上の大きな鳥で、めでたいしるしとしてあらわれるという。「夔鳳」は、本来、一匹の鳳をさす。
鈕を中心とした糸巻形[四角凸出(とっしゅつ)の方形]に四葉のついた文様で、四分割されている。
四つの各区に、あい向うおおよそ左右対称のペアの形で、二つの鳥(またはこうもり)を配置している。
日本では、ペアになっている二つの鳥を夔鳳と解釈している。縁には、十六の連弧文がある。
つぎに説明する獣首鏡とよく似ている。
獣首鏡とまとめて、鳥獣首鏡と呼ぶべきか。

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・獣首鏡(じゅうしゅきょう)
獣首鏡は、夔鳳(きほう)鏡とよく似ている。
文様は、平面的である。
鈕を中心にした糸巻形(四角凸出の方形)に四葉のついた文様によって、四分割されている。
四つの各区に、獣首の文様を配する。
獣形文には、獅子の面形のものや、竜の面形のもの、走る兎(うさぎ)の文様、節のある渦文などがある。
「君宜高官」「位至三公」あるいは紀年などの銘のあるものが多い。
わが国では、出土例がきわめてすくない。

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これらを整理すると、「中国王朝との関係からみた青銅器の年代」の表となる。

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この表から、南中国の銅が西晋式鏡から始まり、画文帯神獣鏡・三角縁神獣鏡に移っていく。
西晋式鏡は北九州から多く出土し、300年を過ぎた古墳時代に北九州も本州も同じように、画文帯神獣鏡・三角縁神獣鏡が出土する。

日本の中心が北九州から本州へ移っていったことが分かる。


2.アイヌ民族の起源について

■縄文人の核DNAからの分析によると、日本人は縄文人と弥生系渡来人の混血か?
『朝日新聞』2016年9月2日(金)(朝刊)
縄文人のDNA 大陸と大きな違い 最も近いのはアイヌ人

縄文時代に日本列島で狩猟採集生活をしていた縄文人の遺伝的特徴は、東アジアや東南アジアの人たちとは大きく離れていることがDNA解析でわかった。総合研究大学院大学や国立科学博物館などのチームが、人類学の専門誌ジャーナル・オブ・ヒューマン・ジェネティクスに1日発表した。
福島県北部の三貫地(さんがんじ)貝塚[安本注:福島相馬郡新地町(しんちまち)]で出土した約3千年前の縄文人2人の歯から細胞核のゲノム(全遺伝情報)解読を試みた。約30億個ある塩基のうち、約1億1500万個の解読に成功した。縄文人の核DNAの解読は初めて。
世界各地の現代人のDNAと比較したところ、中国南部の先住民や中国・北京の中国人、ベトナム人などは互いに近い関係にあるのに対して、縄文人はこれらの集団から大きく離れていた。
現生人類ホモ・サピエンスは4万~5万年前にアジア地域に到来し、その後、各系統に分かれたとされる。今回のDNA解読で、少なくとも1万5千年前よりも古い時期に縄文人につながる系統ができ、東アジアや東南アジアの集団は、別の系統から生まれたと考えられるという。
日本人では、遺伝的にはアイヌ人が最も縄文人と近い関係にあり、沖縄の琉球人、東京周辺の人と続いた。 
現在の日本人は、縄文人と、弥生時代以降に大陸から渡ってきた渡来人が混血して形成されたと、されていた。チームの国立科学博物館の神沢秀明研究員は「日本人が、縄文人と弥生系渡来人の混血という説が、DNA解読でも裏付けられた」としている。     (神田明美)

これについて、私の疑問は下記である。
①この報道は細胞核によるものである。細胞核とミトコンドリアとで、遺伝情報の分析結果が違うようであるが、・・・・。

②今回は2人の分析である。縄文人どうしの変異(変差)は、どのていどなのか。

③今回は福島の縄文人である。アイヌと地理的に近い縄文人ではなく、九州の縄文人ではどうなのか。

④「大陸」でも、沿海州あたりの人や、チュクチなどの人は、どうなのか。これはアイヌ語と朝鮮語は偶然以上の関係がある。そうすると地理的にその中間に沿海州やチュクチ人がいるところになる。

ここで、DNAとは、
デオキシ・リボかくさん[-核酸](Deoxyribonucleic acid)で、五炭糖の一種デオキシリボースを含む核酸。細胞核内の染色体の重要成分。遺伝子の本体として遺伝情報の保存・複製に関与、リボ核酸と共に、生体の種や組織に固有の蛋白質生合成を支配する。DNAと略称。

今回の『朝日新聞』記事は三貫地(さんがんじ)貝塚の縄文人で地図から見ると、東北地域である。ナイ・ベツ地名から、アイヌに近くなる。

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この新聞記事と結びつくものが、齋藤成也(注:東京大学大学院教授)著『日本列島人の歴史』(岩波ジュニア新書、岩波書店、2015年刊)に紹介されている。 352-16

右図は、これら日本列島の三集団(アイヌ、沖縄人、大和人)と韓国人、北方中国人(北京に住む漢族)、および南方中国人(中国系シンガポール人)のゲノムDNA多様性を、わたしたちの研究グループがくわしく調べた結果です。膨大なデータを主に二次元であらわすのに適した統計手法である「主成分分析(しゅせいぶんぶんせき)」という手法を用いて、ヒトゲノムの中の数万か所に存在する遺伝的個体差を示すSNP(単一塩基多型)のデータを比較し、個人の関係を表現しています。

 

 

 

 

 

縄文人と現代人のミトコンドリアDNAハプロタイプ頻度にもとづく相互関係

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これらの結果から、アイヌとオキナワ人は近いと言っているが、細胞核とミトコンドリアとで、遺伝情報の分析結果が違うようである。 352-18

右図は細胞の構造である。
ミトコンドリア[mitochondria]は、細胞小器官のひとつ。真核生物の細胞質中に多数分散して存在し、内部にクリスタと呼ぶ棚状の構造があり、独自のDNAを持ち、自己増殖する。呼吸に関係する。一連の酵素を含み、細胞のエネルギー生産の場。独立した好気性細菌が進化の過程で別の細胞にとり込まれ、共生したものという説がある。

そして、細胞核は真核生物の細胞の中にある球形の小体。核膜に包まれ、内部に遺伝情報を担う核DNAを含む。一般には各細胞に一個。

このミトコンドリア遺伝子は母性によって遺伝していく。
ミトコンドリアの遺伝子と細胞核の遺伝子では違う。

 

■形態小変異からの分析
東北大学医学部教授の形質人類学者、百々幸雄(どどゆきお)氏は、「眼球を納めている穴(眼窩)の上縁に神経の通る穴があるかないか」などのような、多くの「小変異」についてしらべられた。このような「小変異」の「ある、なし」は、遺伝的な要因にかなりもとづくとみられる。このような「小変異」を統計的に分析すると、アイヌと縄文人はかなり近い。しかし、沖縄の人々は、「アイヌと遠く隔たって」いる。また、アイヌと縄文人とは、現代日本人とかなり離れている。
百々幸雄氏は、およそ、つぎのようにのべる。
「古人骨の頭骨をこまかく観察すると、計測では表すことのできない微細な形態異常がかなりある。異常といっても、体の機能には、なんの影響もない。むしろ、変異といったほうがおさまりがいい。そんな特徴を、形態小変異とよぶ。
代表的な例のひとつに、『舌下神経管二分(ぜっかしんけいかんにぶん)』がある。頭蓋の底には、脊髄への出口である大後頭孔という直径三センチほどの穴がある。その出口近くに、舌下神経という舌の運動をつかさどる神経が通る細い管が左右にひとつずつある。ふつう左右それぞれの管は、一本の管であるが、ときに二つに分かれていることがある。
この変異は、すでに胎児の頭骨にもみられる。また、以前から、アイヌに多く、日本人(和人)には、すくないことが知られていた。なんらかの遺伝子が、関与しているのであろう。このような小変異のうち、客観的に変異の『ある、なし』を判定できるものは、せいぜい30項目ていどとみられる。
そのうちの22項目を指標として、どの集団も、すくなくとも100例以上の資料を自分自身の手でしらべ、系統関係を探究した。
その結果、つぎのようなことがわかった。

①縄文人とアイヌとは、系統的には近い関係にある。

②縄文人とアイヌとは、現代日本人とはかなり離れている。

③現代日本人は、江戸時代人、室町時代人、鎌倉時代人、古墳時代人と、ほとんど変わらない。
形態小変異でみると、鎌倉時代から現代までのあいだで、出現頻度に統計学的な差があったのは、22項目のうち、わずか2項目で、ほとんどの項目は、この600年を通して変化がなかった。これは、日本人の遺伝的構成が変わっていないのを、そのまま反映しているとみられる。

④弥生人については、まず、山口県の土井ヶ浜(どいがはま)の弥生人の頭骨についてしらべた。
土井ヶ浜弥生人は、身長が高く、人類学者の金関丈夫(かなせきたけお)博士は、かつて、彼らのことを、朝鮮半島から渡来した人々と縄文人との混血集団と想定した。
土井ヶ浜弥生人についての調査データをもとに、類縁図をつくったところ、ほぼ想像したとおりの結果がでた。古墳をはじめ、現代までの集団と非常に近くむすびついた。しかし、わずかであるが、しっくりこない気持ちも残った。現代日本人の祖先集団にしては、ほんのすこしであるが、予想よりも、距離が離れているように感じた。

近隣接合法で描いた日本と周辺大陸の人類集団の類縁図 352-19

⑤つぎに、福岡市博多区の金隈(かなくま)の弥生人を中心に、北部九州の弥生人をしらべた。佐賀県の吉野ヶ里などの弥生人も、この仲間にはいる。結果は、予想どおりというか、それ以上に、古墳時代以降の集団とぴったりくっついた。これまでは、土井ヶ浜が弥生人の代表のようにいわれていたが、どうやら現代日本人の祖先集団の中心は、金隈に代表される北部九州の弥生人のようである。

⑥奄美・沖縄の人については、約230例の頭骨をしらべた。22項目を総合的に比較すると、奄美・沖縄人は、あきらかに、弥生人以降の日本人、ひいては現代日本人や、東アジアのモンゴロイドと非常に近い位置をしめる。縄文・アイヌ人とは、かなり離れている。

⑦古人骨を研究する従来の方法としては、計測値によるものがある。人骨の頭の長さとか、頭の幅、頭の高さ、顔の高さ(鼻のつけ根から上あごの下端までの長さ)、顔の幅などを測って比較する方法である。
この方法で、東京大学の名誉教授であった鈴木尚(ひさし)たちが調べたところ、江戸時代人と現代日本人とでは、頭骨にかなりな違いがあった。江戸から現代にかけて、いわゆる面長になる傾向などである。
頭の長さとか幅といった計測的特徴は、栄養や座る習慣など、生活環境の変化の影響をうけて、長くなったり短くなったりする可能性が高いようである。
人類集団の近縁関係を調べるのには、環境の影響をうけにくい形態小変異の出現頻度による方法のほうが、より優れているといってよさそうである。」(「形態小変異を読む」『科学朝日』1992年2月号所載、朝日新聞社)

 

 

 

 

 

 

 

 

下図の「眼窩上孔と舌下神経管二分の出現頻度」参照

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この百々幸雄氏の研究によって、従来、疑問とされていた問題のうち、解決しているものがあるようにみえる。
沖縄の言語は、言語学的には、東京方言と同じく、日本語の仲間であり、アイヌ語とは大きく離れている。
計量言語学的には、沖縄の言語は、約1700年まえごろに、本土方言からわかれたものであり、九州から南下しかものであろうとみられていた(拙著『言語の科学』筑摩書房刊参照)。
いっぽう、東京大学の自然人類学者、埴原和郎(はにはらかずろう)などは、人骨の計測値にもとづき、沖縄人は、アイヌに近いという結果をだしていた。古い時代のものが、日本列島の北と南の両方に残ったのである、という見解がだされていた。

沖縄の諸方言は、明確に、日本語の仲間である。せいぜい2000年以内分離したものである。アイヌ語とは、大きく異なる。百々幸雄氏の研究も、それを裏づけている。
人骨の計測値において、沖縄人とアイヌとが近くみえるのは、生活環境や栄養などが近似していたため、近くなった可能性が大きい。

百々氏の研究成果は、データ数も多く、かなり信頼できるもののように思える。

百々氏は、またのべる。
「渡来系弥生人が本土の日本人となり、列島の北と南の端に縄文系の人たちが生き残ったという単純なモデル(安本注:これは埴原和郎提出のモデル)はもう少し慎重に考え直した方がよいのではないか、と思うのである。」
「頭の長さや顔の高さのような計測値は環境変化により変わり得るが、非計画的な小変異はかなり遺伝的な要因に左右されるということであろう。」
「小変異を指標にすれば、集団間の遺伝的な親疎関係はかなり的確に推定できそうである。」(以上、『原日本人-弥生人と縄文人のナゾ-』所載の百々幸雄(どどゆきお)氏の論文「アイヌと琉球人は……」による。朝日新聞社、1993年刊)

尾本恵市氏の『日本人の起源』に、下図のような、世界25集団の、遺伝子データにもとづく分岐図がのっている。 352-21

注1:23個の遺伝子座の遺伝子頻度のデータより遺伝距離(DA)を求め、近隣結合法により分岐図とした
注2:尾本恵市著「日本人の起源」(裳華房)による。

 

■宝来聡(ほうらいさとし)のミトコンドリア遺伝子による報告
縄文時代に、南方から来た人々が住んでいたとみられる根拠をあげる報告も、いくつかある。
1989年10月8日付の『朝日新聞』一面に、「関東の縄文人 東南アジア人と同族?」「六千年前の骨遺伝子が一致」という見出しの記事がのっている。

その記事の要点は、つぎのようなものである。
①国立遺伝学研究所(静岡県三島市)の、人類遺伝研究部門の宝来聡(ほうらいさとし)らのグループは、1988年11月に埼玉県浦和市内から出土した約六千年まえの縄文時代前期の頭骨など、五体の人骨から遺伝子を抽出する作業を行なった。

②人骨のかけら約一グラムに塩酸をかけ、骨から溶かし出したヒ卜のミトコンドリアという細胞内にある小器官の遺伝子を、酵素を使って大量に複製した。保存状態のちがいからか、結果にばらつきはあったが、これまでに三体から、遺伝子断片の抽出に成功した。

③このうちの、浦和市内の一体については、共同研究グループの中井信之教授(名古屋大学理学部・地球化学)が、頭骨の蛋白質に含まれる放射性同位元素をしらべ、5790年まえ(誤差前後120年)の縄文時代前期のものとわかった。

④この頭骨の、遺伝子断片の塩基配列を決定し、これまでに世界的に明らかにされている現代人6人のものや、宝来氏が独自に集めた現代人95人(日本人61人、欧米人16人、アジア・太平洋地域人11人、アフリカの黒人7人)のものと比較した。

⑤その結果、ミトコンドリアの塩基配列のうち、比較でき190個は、大陸系でない東南アジアの現代人の一人の配列と完全に一致した。
しかし、大陸系のアジア人とは、かなりちがっていた。

⑥この結果は、データはすくないものの、縄文時代の関東に、東南アジアの人と共通の祖先をもつ集団が住みついていた可能性を示すものとして注目される。

⑦宝来氏は、つぎのように話している。
「縄文時代といっても、12000年ほど前から2千数百年前までと期間が長く、時期による違いや地域差があるだろうが、現代の東南アジアの人と共通の祖先をもつ縄文人がいた可能性を示唆している。

上記は東日本の縄文人のミトコンドリア遺伝子の分析の話である。
多変量解析を使っているが、近いことは分かるが、偶然以上の一致かどうか分からない。
また、宝来氏の遺伝的距離にもとづくクラスター分類のグラフをみると、日本人と繩文人とヨーロッパ人とが同じ下位クラスターにはいっていたり、日本人とアフリカ人とが同じ下位クラスターにはいっていたりする例がみられる。したがって、同じ下位クラスターにはいっていれば、かならず系統的に近いとばかりはいえないようにみえる。

下図の「現代人および古代日本人骨のミトコンドリアDNAの塩基配列にもとづいた系統樹」でクェッションマークのところは日本人、ヨーロッパ人、アフリカ人が混在するのには疑問がある。


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このように、以上は科学的研究ではあるが、細胞核とミトコンドリアとで、遺伝情報の分析結果が違うことをどう解釈すべきか。分析データが少ないことも問題である。

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