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第390回 邪馬台国の会
前方後円墳は、いつ始まったか?

 

1.前方後円墳は、いつ始まったか?

■古墳時代=前方後円墳の時代=布留式土器の時代
各土器について、辞典には下記ように書いてある。
・庄内式土器(しょうないしきどき)
弥生後期の畿内第5様式土器と古墳時代前期の布留(ふる)式土器との間をつなぐ形式として、田中琢(みがく)が提唱した土器型式。古墳時代初頭の土器型式として設定されたが、都出比呂志(つでひろし)は定型的前方後円墳出現以前だとして弥生第6様式と改称した。大阪府庄内小学校々庭遺跡を標式とする。複合口縁壺、叩き目を残す丸底甕、深い杯部をもつ高杯、器台などで構成される。

・布留式土器(ふるしきどき)
畿内の古墳時代前期土師器(はじき)様式壺・甕など各器種とも丸底で、小形丸底壺(坩)・鉢・小型器台の小形精製土器3種が揃う。甕の成形法は庄内式に顕著であった叩き目が後退して刷毛目(はけめ)がほとんどとなり、胴部内面に箆削(へらけず)りを施して器壁を薄くする点は庄内式と同様である。口縁部は強く横ナデされて内湾ぎみとなり、上端が内側に丸く張り出す特徴をもつ。九州から関東まで広くこの系譜をもつ土器が分布しており、広域にわたる土器様式の変革が達成された段階である。同系の土器は須恵器出現後も存続するが、布留式の範疇(はんちゅう)からは除外する。

・須恵器(すえき)
古墳時代中期から平安時代までみられる環元焔焼成による青灰色の焼物。古墳から出土するこの種の焼物を『延喜式』にみえる「陶器」(すえのうつわもの)にあて、ついで陶器(とうき)との混同を避けるために須恵器と表記するようになった。窖窯(あながま)焼成の硬質な焼物である。陶器と土器の中間的な特徴をもつことから一時陶質土器とも呼ばれた。

・土師器(はじき)
弥生土器の系統をひく古墳時代から平安時代までの赤褐色の素焼土器。古墳から出土するこの種の土器を『延喜式』にみえる「土師器」(はじのうつわもの)にあてて用い始めた語。

土器の時代の変遷は、
弥生第5様式→庄内式土器(弥生第6様式)→布留式土器→須恵器
となる。

例として、布留遺跡(天理市)の土師器とホケノ山古墳(桜井市)から出土した小形丸底壺を下記に示す。小形丸底壺は布留式土器の初期である。
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前方後円墳の時代は布留式土器の時代でと考えられる。

 

Ⅰ.統計学的年代論(安本美典の考え)
■歴代天皇陵を見ると、崇神天皇陵から前方後円墳となったと考える
宮内庁所陵寮から出されている『陵墓要覧(りょうぼようらん)』によるとき、古代の諸天皇の陵の形は、下表のようになっている。

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『陵墓要覧』は、宮内庁諸陵寮の職員の執務の使のために編纂されたもので、陵墓台帳のようなものである。1914年(大正四)に、最初のものがだされ、以後、数回にわたる改訂版がだされている。上の表は、考古学者の小林行雄の判断によるものも記しておいた(小林行雄による陵形は、平凡社の『世界大百科事典』の「帝王陵」の項にのっている)。

上の表をみると、第一代神武天皇から第七代孝霊天皇までの陵形は、前方後円墳ではない。もし古代の諸天皇が、大和朝廷の役人たちによって机上で創作されたものとすれば、陵墓もまた、机上でつくられたことになるはずである。そのばあい、一番簡単で、容易に思いつく方法は、奈良県には立派な前方後円墳がたくさんあるのであるから、適当な前方後円墳を天皇の陵としてみつくろうことである。
とくに、第一代の神武天皇の陵などには、堂々たる前方後円墳をえらびそうなものである。
しかし、そのようなことをしていない。それは、『古事記』『日本書紀』が編纂されたころ、古代の諸天皇の諸陵墓とされるものが、すでに伝承されていたからだとみられる。
上の表をみれば、第一代神武天皇から、七代たってから、前方後円墳がきずかれるようになっている。

藤井利章著『天皇と御陵を知る事典』(日本文芸社、1990年刊)から、第八代孝元(こうげん)天皇と第九代開化(かいか)天皇を見ると、下記のように記す。

第八代孝元(こうげん)天皇
陵墓名:剣池嶋上陵(つるぎのいけのしまのえのみささぎ)
所在地 奈良県橿原市石川町字剣池
「墳丘の中山塚は前方後円墳であるとされているが、生垣からかいま見るに数基の古墳群を形成する。『大和国山陵図』によると、三基の古墳が陵域内に存在し、うち一基は小型の前方後円墳で、ほかの二基は円墳である。副葬品等は未詳であるが、古墳時代中期から後期に形成された古墳群と推定できるので、中山塚を孝元天皇陵とするには疑問点が多い。

この藤井利章氏の見解について、新人物往来社から刊行されている『「天皇陵」総覧』(1994年刊)は「正鵠(せいこく)を得ていた理解といえよう。」と記す。

第九代開化(かいか)天皇
陵墓名:春日率川坂上陵(かすがのいざかわのさかのえのみささぎ)
所在地 奈良県奈良市油阪町字山ノ寺
「御陵は、ほぼ南面する前方後円墳で、全長約105メートル、後円部径約48メートル、高さ約8.5メートル、前方部幅約60メートルの規模で、春日山西麓の緩斜面の平坦地上に立地する。墳丘規模等から、後円部径を前方部幅が凌駕する形式であるので、『五世紀末から六世紀初頭の時期と推定できるから、現陵を開化天皇陵とするには疑問点が多い。

また、『「天皇陵」総覧』は次のように記す。
開化天皇陵古墳は、古墳時代中期のもので、古墳時代前期と考えられる崇神天皇陵古墳より明らかに新しいものである。
「外堤盛土内から円筒埴輪片が出土している。埴輪は小片であるが、外面調整にヨコハケをしていること、断面台形の突帯を持つことなどから、川西宏幸の円筒埴輪編年のⅢ・Ⅳ期にあたることがわかる。古墳時代中期で五世紀代のものであろう。

このように、第1代神武天皇陵~第9代開化天皇陵は前方後円墳ではないと考えられ、歴代の天皇陵で、前方後円墳が始まったのは、崇神天皇陵からと考えるのが妥当と思われる。

■何故前方後円墳と呼ばれるようになったのか
江戸時代後期に蒲生君平(1768~1813)著の『山陵志』がありそこに前方後円の記述がある。

『山陵志』は下記のように記されている。
「大祖より孝元にいたるまでは、なお丘隴(きゅうろう)について墳を起こすなり。開化よりそののち蓋寝の制あり。垂仁におよんで始めて備わり、下、敏達にいたるおよそ二十有三陵は、制ほぼ同じなり。およそその陵を営むは、山に因(よ)りてその形勢にしたがい、向こうところ方なく、大小、高卑、長短も定むところなし。その制をなすや、かならず宮車に象(かたど)り、前方後円となさしめ、壇をなすに三成(みかさね)とし、かつ環(めぐ)らすに溝をもってす。(壇はかならず三成せず。そのおおむねを挙げて、これをいうなり)
それ、その円(まどか)にして高きは、蓋を張るがごときなり。頂は一封をなす。すなわちその葬るところ方にして平らかなるは、衡(くびき)をおくがごときなり。その上の隆起せるは、梁輈(りようちゅう)のごとく、前後相接し、その間やや卑(ひく)く、左右に円丘あり、その下壇に倚り、両輪のごとし。後世に至るにおよびて、民これを睹(み)るに、よく識ることなし。なお号(なづ)けて車冢という。」

注:梁輈(りようちゅう)は車のながえのはり。

「なかでも蒲生君平は、われわれが古墳の形を表す言葉として使っている「前方後円」の名を初めて用いたことで有名である。蒲生君平は陵墓を横から見た形が宮廷の牛車に似ていることに注目した。今にいう造り出しを車輪としたとき、低い方形部を牛にくくりつける部分とし、高い円丘を人が乗る御台と見たてたのである。つまり、進みゆく方向を前として方形部が前、円形部を後ろとした。

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そして、前方後円墳のことを、車塚(くるまづか)古墳[岡山県の備前車塚古墳など]や茶臼山(ちゃうすやま)古墳[奈良県の桜井茶臼山古墳など]と呼んだりする。辞典では下記のように書かれている。

車塚(くるまづか)[『日本考古学用語辞典』学生社、斎藤忠著、2004年刊]
前方後円墳の中、くびれ部の造り出しを円丘としこれを両輪とし前方部と後円部とを輿(こし)とみて御所車に似ていることから起った俗称と考えられる。しかし、各地の車塚といわれる前方後円墳は必ずしも造り出し部をともなわず、前方部の低いころを車を引く部分、後円部の高いところを人の乗る輿の部分と考えたようである。

茶臼山古墳(ちゃうすやまこふん)[『日本考古学用語辞典』柏書房、大塚初重など著、1996年刊]
古墳のなかで特に前方後円墳に対してつけられる呼び名。茶臼塚とも呼ばれる。茶臼の側面形に似ているのに由来する。ことに大型前方後円墳につけられることが多い。

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■第10代崇神天皇はいつごろの人か
以前に何回か説明したように、天皇1代10年説から、直線近似で、筑波大学の平山朝治氏は崇神天皇の即位年を369年頃とし、2次曲線近似から、吉井孝雄氏は崇神天皇の活躍年代を369年頃とした。
即位年と活躍年の違いはあるが、いづれにしても369年頃の天皇と考えられる。
(下図はクリックすると大きくなります)

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Ⅱ.崇神天皇陵古墳の築造年代は、西暦350年以後ごろとする諸学者の見解
考古学の分野で、画期的な業績とされている円筒埴輪による編年を示された筑波大学の川西宏幸名誉教授は、崇神天皇陵古墳の築造年代を、「360年~400年」ごろとしておられる。(川西宏幸著『古墳時代政治史序説』[塙書房、2012年刊]37ページ)。

このように円筒埴輪による編年からも、崇神天皇の時代は天皇1代10年説からと同じとなる。

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2013年に、104歳でなくなった東京大学教授であった考古学者、斎藤忠氏はつぎのようにのべている。
「今日、この古墳(崇神天皇陵古墳)の立地、墳丘の形式を考えて、ほぼ四世紀の中頃あるいはこれよりやや下降することを考えてよい
崇神天皇陵が四世紀中頃またはやや下降するものであり、したがって崇神天皇の実在は四世紀の中頃を中心とした頃と考える……」(以上、斎藤忠「崇神天皇に関する考古学上よりの一試論」『古代学』13巻1号、1966年刊)

考古学者の森浩一・大塚初重両氏も、崇神天皇陵古墳を、「四世紀の中ごろまたはそれをやや下るもの」としている(『シンポジウム 古墳時代の考古学』学生社、1970年刊)。
森浩一氏は、その著作集の第1巻『古墳時代を考える』(新泉社、2015年刊)の87ページで、つぎのように記す。
崇神陵の構築年代は、四世紀中頃から後半とするのが妥当である。
橿原考古学研究所の所員であった考古学者、関川尚功(せきかわひさよし)氏も、崇神天皇陵古墳の築造年代を四世紀後半~五世紀初頭とする(「大型前方後円墳の出現は、四世紀である。」(『季刊邪馬台国』42号、1990年刊)。

このように、崇神天皇陵古墳の築造年代は350年~400年ごろとしている学者が多くいる。

 

Ⅲ.崇神天皇陵古墳の築造年代は、西暦350年以後ごろと考えられる「統計的年代論」以外の根拠
■「いわゆる西晋鏡」にもとづく年代
前回(第389回 7月25日)の「邪馬台国の会」の定例会で述べたように、「位至三公鏡」などの「いわゆる西晋鏡」は320年~350年ごろまで、北部九州を中心に分布する。これは、おもに、「庄内式土器」の時代の鏡の分布状況を示す。したがって、そのあとの「布留式土器」の時代が前方後円墳の時代にあたる。前方後円墳時代のおもな鏡は「画文帯神獣鏡」と、「三角縁神獣鏡」である。したがって、「前方後円墳」の時代は「いわゆる西晋鏡」の時代のあとの、350年以後ごろと考えられる。


■ホケノ山古墳の築造年代にもとづく年代
ホケノ山古墳は、奈良県桜井市に存在する。ホケノ山古墳については、これを庄内式土器の時代の築造とする見解と布留式土器(古墳時代前期)の時代の築造とする見解とがある。
庄内式土器の時代の築造とする見解----たとえば、寺沢薫著『弥生時代の年代と交流』(吉川弘文館、2014年刊)。

布留式土器の時代の築造とする見解----たとえば、近藤義郎著『前方後円墳と吉備大和』(吉備人出版、2001年刊)。

私は布留式土器の時代の築造とする見解が妥当と考える。その理由は次のとおりである。

(a)ホケノ山古墳から、小型丸底壺が出土している。大塚初重・戸沢充則編『最新日本考古学用語辞典』(柏書房、1996年刊)の「小型丸底土器」の項に、「古墳時代前期に特徴的な小型丸底壺形の土師器」「布留式土器を構成する重要器種であり、九州から関東・東北までの同時期の形式に存在する。庄内式末期に出現する」とある。
庄内式土器よりも、布留式土器の方が地域的分布の範囲が広い。(前の方のページの小型丸底壺の図、および「布留式土器の説明」参照)

(b)ホケノ山古墳から、篦被(のかつぎ)のある銅鏃が出土している。篦被のある銅鏃のでる古墳は、ふつう前期古墳のなかでも、前半ではなく、中頃から後半だといわれている。 390-08

篦被(のかつぎ)について、下記の説明がある。
弓の矢の、竹の棒の部分を「矢柄(やがら)」という。「矢柄」のことを、古語で、「篦(の)」という。
また、平安時代ごろから、身分のある女性が、顔をかくすために頭の上にかぶったおおいを、「被(かつぎ)」という。
矢尻(やじり)の、「矢柄」にとりつける部分において、「矢柄[篦(の)]」にかぶせる部分を、「篦被(のかつぎ)」という。

(c)ホケノ山古墳からは、また、「画文帯神獣鏡」も出土している。
「画文帯神獣鏡」は鏡の県別分布の中心が、福岡県中心から、奈良県中心へと変化する「第Ⅱ次大激変」のあとで、おもに出土する鏡である。
注:「第Ⅱ次大激変」についていては前回の第389回講演を参照)

下図をみれば、この鏡は、長江(揚子江)流域に存在した東晋(317~420)の時代(日本の古墳時代)の鏡であることがみてとれる。近畿に都をおいた大和朝廷は東晋の国と外交関係をもっていた。
(下図はクリックすると大きくなります)390-09

(d)ホケノ山古墳からは、「木槨」が出土している。「槨」は「棺」の外ばこである。
『魏志倭人伝』は倭人の葬法について、「棺あって槨なし」と記している。ホケノ山古墳の葬法は『魏志倭人伝』の記す葬法とあっていない。

弥生時代の庄内式土器の時代に、北九州で行われていた甕棺墓葬や箱式石棺墓葬は「棺あって槨なし」の葬法にあっているといえる。

『隋書(ずいしょ)』の「倭国伝」は「死者を埋葬するには、棺と槨とにおさめる」と記す。「槨」を用いるのは、邪馬台国の時代よりも、あとの時代の葬法のようである。古墳時代前・中期に行われた「竪穴式(たてあなしき)石室」などは、「槨」の一種といえよう。考古学者の近藤義郎編の『前方後円墳集性』(山川出版社刊)では、「竪穴式石槨」という表記が、かなりみえる。

(e)ホケノ山古墳については、奈良県立橿原考古学研究所から、正式な報告書『ホケノ山古墳の研究』(2008年刊)が出ている。
『ホケノ山古墳の研究』には、奥山誠義氏の報告論文「ホケノ山古墳中心埋葬施設から出土した木材の炭素14年代測定」がのっている。炭素14年代測定法による分析の結果である。

奥山誠義氏報告文の要点を、紹介しよう。
奥山誠義氏は、そこで、「最外年輪を含むおよそ12年輪の小枝」試料二点の測定値を示しておられる。奥山氏は、その報告書で、この二点の試料については、「古木効果の影響を考慮する必要は無い」、「小枝については古木効果の影響が低いと考えられるため有効であろうと考えられる」と記す。すなわち、測定対象としての妥当性をもっていることを記しておられる。

その二点の炭素14年代測定値を示すのが下表である。

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上の表は、奥山報告書にのっているもの、そのままである。
この表をよくご覧になられよ。
「1σ(シグマ)」の暦年代範(西暦年推定値)の下にアンダーラインが引かれている。このアンダーラインは、安本が引いたものではない。奥山報告書にあるもの、そのままである。
すなわち、この二点の小枝試料によるとき、二点とも西暦年数推定値の過半は、「四世紀」であることを示している。
さらに、奥山報告書によれば、これらに二点の小枝試料から推定される西暦年の分布は下図のようになっている。
(下図はクリックすると大きくなります)

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上図の上に、方眼紙をあてて面積を求めれば、度数分布が求められる下図が得られる。二点の小枝試料による、推定西暦年が300年以後、つまり、四世紀である確率は、下図に示すように、68.2%および84.3%となる。

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つまり、「ホケノ山古墳の築造年代は、四世紀である」と主張しても、その主張が正しい確率は「70%~80%」ていどとなる。

また、「ホケノ山古墳の築造年代が、西暦350年以後である確率は上図の右グラフで、36.2%、上図の左グラフで61.6%である。この二つの値の平均をとると、48.9%となる。つまりホケノ山古墳の築造年代が、西暦350年以後である確率は、約50%。西暦350年以前である確率は50%ということになる。すなわちホケノ山古墳の築造年代は、西暦350年を中心として、その前後ということになる。

考古学者の寺沢薫氏の年代観によれば、ホケノ山古墳は「庄内様式期の新段階」の時期のものであるという[寺沢薫著『弥生時代の年代と交流』(吉川弘文館、2014年刊334ページ)]。崇神天皇陵古墳の築造年代を、大方の考古学者は、布留Ⅰ式期(纏向4式)」とする(たとえば、石野博信著『古墳文化出現期の研究』(学生社、1985年刊398・424ページ)。

ホケノ山古墳の築造年代を350年前後とすれば、崇神天皇陵古墳の築造年代を四世紀の後半とする見解は、大略妥当ということになる。

 

■箸墓古墳の築造年代にもとづく年代
『日本書紀』の「崇神天皇紀」に、箸墓古墳の築造伝承がのっている。したがって、崇神天皇陵古墳の築造の時期と箸墓古墳の築造の時期とは、それほど大きな年代差はなかったとみられる。
ただ、箸墓古墳については、論ずべき点が多い。

そこで、箸墓古墳については、以下にまとめて論ずることにしよう。

・箸墓古墳の築造年代
箸墓古墳については、『箸墓古墳周辺調査』(奈良県立橿原考古学研究所編集発行2002年刊)という報告書が出ている)
この報告書は箸墓古墳から出土したものを調査したものではない。隣接する大池から出土した遺物を分析したものである。

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『箸墓古墳周辺調査』の調査報告書の年代測定結果の一部は下記である。
(下図はクリックすると大きくなります)

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ここで、『箸墓古墳周辺調査』の調査報告書の
測定番号①では試料種「ヒノキ」は補正14Cageが「2080±60」とある。現在の2080年前としている。暦年代は交点がBC60年、2σがBC330~330とBC205~AD65年である。このようにヒノキは古くでる。これはヒノキが再利用している可能性があるからである。

測定番号③では試料種「桃核」は補正14Cageが「1620±80」とある。現在の1620年前としている。暦年代は交点がAD430年、2σがAD245~620年である。このように桃核は400年くらい新しくなる。こように炭素14年代法は資料により大きな開きがある。

まとめたものが下記グラフである。桃核では年代が新しくでるのが分かる。

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(下図はクリックすると大きくなります)

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また、下記の上の表の「箸墓古墳の年代測定の比較」は箸墓古墳のヒノキ、土器付着煤(炭化物)、桃核を比較したものである。
土器付着炭化物は、クルミ・桃核などより、年代が古く出る。このことは分かっているが、それを使って、箸墓古墳は古いとしている。

更に、下の表の「福岡県では、どの時代の遺跡から出土しているか」のデータでは、位至三公鏡などの10種の魏晋鏡は弥生時代からも出土するが、画文帯神獣鏡や三角縁神獣鏡は古墳時代の遺跡からしか出土しない。画文帯神獣鏡や三角縁神獣鏡はほぼ古墳時代の鏡だと言える。

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考古学の分野では、考古学者の大塚初重氏がのべておられるような、つぎの基本的な原則がある。
「考古学本来の基本的な常識では、その遺跡から出土した資料の中で、もっとも新しい時代相を示す特徴を以てその遺跡の年代を示すとするのです。」[『古墳と被葬者の謎にせまる』(祥伝社、2012年刊)]

しかし現実はとかく古い年代をマスコミ発表する傾向がある。

このように、箸墓古墳が古い年代とするのは、データの中で都合の良い年代のもの(土器付着炭化物)を取り出しているからである(チェリーピッキングをしている)。

・『日本書紀』は箸墓古墳は崇神天皇の時代に築造されたとしている。しかし 『魏志倭人伝』には、卑弥呼の死後に、「更(あらた)めて男王を立てた(更立男王)」とある。「更」には、「かえる」「入れかえる」「あらためかえる[更代(こうたい)]」の意味がある。「それまで、女性であったのをあらためかえて男王を立てた」意味にうけとれる。
これらの文章によれば、もとは男子の王がいたが、卑弥呼が立ったときには男王がいなかったということになる。倭迹迹日百襲姫が卑弥呼であるとすれば、当時は、男王崇神天皇がいたことになり、「歴年、主がいなかった」「あらためて男王を立てた」という『後漢書』「東夷伝」や、『魏志倭人伝』の記事と、はっきり矛盾することとなる。

・ 関川尚功氏は、2011年刊の『情報考古学』(vol.17、No.1・2) 大阪大学でおこなわれたシンポジウム「炭素14年代法と箸墓古墳の諸問題」で述べる。
私は古墳の出現が三世紀中頃か後半などと言っていることに対してはもちろんですが、以上のように三世紀末から四世紀の初めころという通説に対してもそれでも古すぎると思っています。ですから今言いました古墳の編年からみれば箸墓古墳もほぼ四世紀の中頃くらいにみておくのがいいのではないか、というのが私の結論であるわけです。

・寺沢薫氏の土器編年によれば、ホケノ山古墳は庄内3式期のもので、庄内3式期のつぎの時期の土器型式は、「布留0式期古相」である。
纏向古墳群に属する箸墓古墳は、布留0式期古相のものとされている。また、同じく纒向古墳群に属する東田大塚(ひがしだおおつか)古墳も、布留0式古相のものとされている。
そして、箸墓古墳からは、三個の桃核(桃の種の固い部分)が出土している。東田大塚古墳からは、一個の桃核が出土している。
これらの、合計四個の桃核は、箸墓古墳、および、東田大塚古墳から出土した資料の中で、もっとも新しい時代相を示している。
そして、これらの桃核の炭素14年代測定法による測定値は、ホケノ山古墳出土の小枝試料の年代測定値に近い年代を示している。
いま、ホケノ山古墳出土の二つの小枝試料、箸墓古墳出土の三つの桃核試料、東田大塚古墳出土の一つの桃核試料の合計六つのデータ(布留0式期古相の古墳)を用い、これらの西暦推定年代の分布を示せば、下図のようになる。

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上記のグラフから、下記グラフを作成して、度数分布を推定する。

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この結果、箸墓古墳(布留0式期古相の古墳)から出土した桃核が、300年以上の確立が84.8%で、350年以上のものであるとする確立は76.7%と高い結果となる。つまり、箸墓古墳は4世紀の古墳であり、4世紀も後半であると言える。

報告書、『箸墓古墳周辺の調査』のなかで、寺沢薫氏は、箸墓古墳出土の「桃核」について、「明らかに布留0式古相の土器群とPrimaryな状況で共存したと判断された桃核」と記しておられる。あとから、なにかの事情で、まぎれこんだりしたものではない、ということである。

また、桃核試料については、名古屋大学年代測定総合研究センターの中村俊夫教授が、「クルミの殼」について、「クルミの殼はかなり丈夫で汚染しにくいので、年代測定が実施しやすい試料である。」(日本文化財科学学会第26回大会特別講演資料)とのべておられることが、参考になるであろう。

そして、纒向遺跡を発掘し、奈良県立橿原考古学研究所の所員で、纒向遺跡を発掘し、大部の報告書『纒向』を執筆された考古学者の関川尚功氏は、つぎのようにのべている。
「箸墓古墳とホケノ山古墳とほぼ同時期のもので、布留1式期のものであり、古墳時代前期の前半のもので、四世紀の中ごろ前後の築造とみられる。」(『季刊邪馬台国』102号、2009年刊)

平原王墓の調査を担当した考古学者の柳田康雄氏は、その著『伊都国を掘る』(大和書房、2000年刊)のなかで、奥野正男氏の、平原王墓を、卑弥呼の墓であるとする説を批判して、つぎのようにのべる。
「最近の調査結果である、奈良県ホケノ山古墳が三世紀前半であることが確認され、三世紀前半が古墳時代に含まれることを裏付けている。」

しかし、この柳田康雄氏の、奥野正男氏説批判は、あたらない。
じつは、奈良県のホケノ山古墳については、炭素14年代測定が、時期をへだてて、二回行なわれている。
はじめは、ホケノ山古墳出土の木棺の炭化した部分についての年代測定である。これは、たしかに、柳田康雄氏ののべるように、三世紀前半以前の古い年代がでている[『ホケノ山古墳調査概報』(学生社、2001年刊)にその要点が紹介されている。]
しかし、この木棺に使用された木材は、古い木材の再利用であったらしい。また炭化した試料は、活性炭的な性質をもち、古い年代がでやすいことが知られている。
その後、2008年に、ホケノ山古墳の、正式のくわしい報告書『ホケノ山古墳の研究』(奈良県立橿原考古学研究所編集・発行、2008年)が刊行されている。[注:『ホケノ山古墳の研究』2008年については前述した(e)項参照]
そこでは、再利用の可能性のない二本の小枝資料の、炭素14年代測定が行なわれている。そして、四世紀を中心とする新しい年代が得られている。

・国立歴史民俗博物館副館長だった白石太一郎氏の箸墓古墳築造年代論
最近、国立歴史民俗博物館の研究グループが実施した、箸墓古墳周辺の出土土器の付着物[コゲや煤(すす)]の炭素年代測定の結果か報告されている(春成ほか、2011年)。それによると、箸墓古墳の造営期にあたる布留0式土器の年代は、西暦240~260年代という数値がえられたということである。この年代は、さきに紹介した最近の大型前方後円墳の出現年代に関する多くの考古学研究者の想定と一致しており、こうした考古学的な年代想定が、自然科学的な年代決定法によっても支持されるものであることを示すものとして、筆者はきわめて重要視している。」

国立歴史民俗博物グループ(以下、「歴博研究グループ」と略記する)の炭素14年代測定法の報告なるものは、日本考古学協会の会員であれば。だれでもが発表できる十五分ほどの発表と、それを、『朝日新聞』への事前リークを行なったものにすぎない。そして日本考古学協会での発表のさい大いに紛糾したものである。
当時の『毎日新聞』も、「会場からはデータの信頼度に関し、質問が続出した」と報じている(2009年6月1日付)。

その後、2010年3月27日(土)に、大阪大学で開かれた日本情報考古学会というこの分野の専門の学会での公式のシンポジウムでは、歴博研究グループの発表は、方法も結論も誤りであると、ほとんど全面的に否定されている。また、確実な反証が示されている。このシンポジウムの内容は、日本情報考古学会の機関誌『情報考古学』のvol.16、No.2(2010年刊)以下に、連載で掲載されている。

事前リーク後の「歴博研究グループの発表」は、2009年の5月31日(日)に、早稲田大学での日本考古学協会の研究発表会で行なわれた。
発表会は紛糾し、発表会の司会者で、日本考古学協会理事の北條芳隆東海大学教授が、そのとき、報道関係者に次のような「異例の呼びかけ」を行なったことを、『毎日新開』が報じている。
「会場の雰囲気でお察しいただきたいが、(歴博の発表が)考古学協会で共通認識になっているのではありません」(『毎日新開』6月8日付夕刊)              

北條芳隆教授のブログ
また、5月31日の歴博の研究発表の当日、会場の座長で、司会をされた北條芳隆教授は、その後、ご自身のヤフーのブログで、つぎのように記しておられる(以下、北條氏のブログから抜萃したが、北條氏のご文章の趣旨をくみとりやすいよう、かならずしも月日順によらない)。

☆北條芳隆東海大学教授のブログ
「私がなぜ歴博グループによる先日の発表を信用しえないと確信するに至ったのか。その理由を説明することにします。」[6月2日(火)]

「怒りは収まりそうにないので、何人かの同士を募って、私の単独でなくても、どこかで発表を是非実現したいと思います。」[6月1日(月)]

「問題は非常に深刻であることを日本考古学協会ないし考古学研究会の場を通して発表したいと思います。」[6月1日(月)]

「彼らの基本戦略があれだけの批判を受けたにも関わらず、一切の改善がみられないことを意味すると判断せざるをえません。」[6月2日(火)]

「彼の返答は、どこかに『嘘』ないし『ごまかし』が含まれているものと受け止めざるをえなかった次第です。」[6月7日(日)]

「ここにも先に指摘した事柄とは別の意味での操作性が浮かび上がってきます。」[6月9日(火)]

「強い操作性が、ここにも垣間見えるわけです。」[6月6日(土)]

「歴博グループの考案した〈串刺し技法〉は、……かなり独善的な特性をもつものです。」[6月6日(土)]

「国民の多大な血税を投入して成り立っている歴(れき)とした国立の機関であるはずです。国費で賄われた研究であったはずです。」[6月10日(水)]

「今回の歴博グループの発表は、とくに春成秀爾先生の被葬者云々の主張は聞くに耐えない『戯言』にしか映りません。」[6月22日(月)]

「授業中に、学生諸君に向けて宣言してしまったことがあります。それは、来年度の協会では私自身が『歴博年代測定法批判』を口頭発表するというものです。」[6月2日(火)]

「〔七月十一日、七月十二日に名古屋大学で行なわれた日本文化財科学会の第26回大会の〕会場を包む雰囲気は、五月の日本考古学協会における歴博の発表について、もはや駄目だ、との共通認識が急速に広がっていく様子だったとのことです。」[7月13日(月)]

当日の発表において、「歴博研究グループ」の一つまえに研究発表を行なった考古学者の岡安光彦氏も、歴博の発表に関して、翌6月1日のご自身のプログのなかで、つぎのように記している。
「さて、〔歴博研究グループの〕箸墓の築造年代に関する問題の発表は、例によってAMSの結果をかなり恣意的に使っていて、危うい感じがした。脂肪酸分析の二の舞〔安本註。旧石器捏造事件のさい、捏造発覚以前に、石器から『ナウマン象』の脂肪酸が見出されたとの鑑定結果を発表した学者がいて、その後、その石器が捏造であることが判明し、笑いものになった事例をさす〕にならなければいいけれど。
何か決定的なものが出土して物語が崩壊する可能性もある。『出したい結果』が見え見え。もう少し『野心』を押さえたほうがよい。」

岡安光彦氏は、6月6日(土)のブログでもつぎのようにのべる。
「マスコミ主導のC14(炭素14)年代はいつ躓(つまず)く?
大砲発達後の戦闘では、攻撃準備射撃が行われるようになった。敵陣への突撃を開始する前に、雨あられと砲弾を打ち込んで炸裂させ、可能な限り敵を無力化しておく作戦である。
マスコミを使った攻撃準備射撃を常套手段とするのが、歴愽C14年代測定チームである。学界で正式な発表をする前に、まずはマスコミに情報を流す。このため、発表会場には記者や一般の古代史ファンが詰めかけ、異様な雰囲気に包まれる。
学界で深く議論される前に、ある一つの主張、特定の成果が世の中で一人歩きしだして、定説であるかのように羽ばたき始める。抗(あらが)うのが次第に困難になる。
こういうパターンに覚えがある人は多いだろう。そう、例の旧石器捏造の過程で進んだのと同じパターンだ。あの時も考古学の大戦果が次々に大本営発表され、それにマスコミが乗っかった。『科学』が標榜(ひゅぼう)されるところもそっくりだ。」
「それにしても、マスコミというのは、反省しないものだ。とくに某大新聞がその代表格。デタラメ脂肪酸分析の片棒を担ぎ、赤っ恥を掻いたのはつい最近のことなのに。」  
(下図はクリックすると大きくなります)390-20

 

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