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第391回 邪馬台国の会
崇神天皇の時代の前方後円墳
シュリーマンにかえれ
大彦の命の墓
大吉備津彦の命の墓


 

1.シュリーマンにかえれ(前回まで数回の講演の若干の復習)

わが国で比較的さかんな文献学、考古学、歴史学は、世界基準の文献学、考古学、歴史学と、かなり大きく異なっている。

まず考古学をとりあげる。
現在の世界で基準となっている考古学は、ギリシャ、ローマの考古学や聖書の考古学などが母体になったものである。その考古学は、神話伝承といったものにみちびかれて成立したものであった。このことを忘れてはならない。

十九世紀的文献批判学は、文献の記述内容にたいして、批判的、懐疑的、否定的な傾向かつよい。このような傾向のため、十九世紀的文献批判学は、史的事実の把握において、大きな失敗を、くりかえすこととなった。---失敗しても、失敗しても、特定の方法に固執するのを「ドグマ」という。

おもな例をあげてみよう
(1)十九世紀の文献批判学者たちは、『イリアス』や『オデュッセイア』などを、ホメロスの空想の所産であり、おとぎばなしにすぎないとした。しかし、この結論は、学者としてはアマチュアのドイツのシュリーマン(1822~1890)の発掘によって崩壊した。
ホメロスの詩が、吟遊詩人の口承伝承であったことは、たとえば、矢島文夫氏の、『失われた古化文字99の謎』(産報刊)などにくわしい。
十九世紀後半のシュリーマンの時代にもどってみよう。
ホメロスの『イリアス』は、ゼウスの子アポロンが「遠矢をいて」アカイア人の戦列に、致命的な疾病をあたえることからはじまっている。ゼウスみずから戦いに干渉する。ゼウス、ポセイドーン、ヘルメス、アポロン、アプロディテなど、オリンポスの神々は、ギリシャ側とトロヤ側にわかれて助ける。それは、『古事記』『日本書紀』の神話よりも、はるかに神話性の強いものである。和辻哲郎は、その著『ホメーロス批判』(要書房刊)のなかで、「神々のとりあつかい方が、全然神話的である。」と述べている。
しかも、年代のととのった歴史時代以後のギリシヤ人は、一小民族にすぎなかった。壮麗な宮殿も、王の権力も、千艘(そう)の船も、そこにはみられない。どうして、ホメロスの詩が、信じられるであろうか。当時の学問的思弁が、『イリアス』は、ホメロスの詩的霊感の産物としたのも、自然な状況ではあった。
が、シュリーマンは、当時の学問的思弁よりも、古人の書いた文献のほうが、いっそう権威もあり、信頼もおけることを示した。
ホメロスの詩のテキストは、紀元前215年に生まれたアレクサンドリアの文献学アリスタルコスが、それまでの多くの研究を集成し、校訂して、はじめて固定したものとなった。ところで、トロヤ戦争により、トロヤが火につつまれて落城したのは、西暦紀元前千二、三百年ごろのことである。千年以上あとに固定したテキストが、千年以上まえの史実を語っているのである。

『イリアス』や『オデュッセイア』の物語は、神話的であるにもかかわらず、シュリーマンの発掘のための重要な手がかりを提供した。シュリーマンはトロヤの発掘(1870年)、ミケネの発掘(1876年)などを行った。
シュリーマンは『オデュッセイア』にみられるクレタ島のクノッソスも着目した、発掘せずに終わった。

(2)1900年に、イギリスのエヴァンズ(1851~1941)は、クレタ島のクノッソスの発掘を行い、ミノス文明を明らかにした。そしてギリシャ神話にみられるラビリントス(迷宮)とみとめられる宮殿などを見出した。このように、神話・伝承にみちびかれて発掘を行い、発掘の結果が、神話・伝承の中につつまれた史実を、明らかにするようになるのである。

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(3)『聖書』のうち、『旧約聖書』編纂の事業は、西紀二世紀の中ごろ、一代の碩学(せきがく)といわれるラビ・アキバによっておこなわれた。ラビ・アキバは、厖大な材料を収集、整理し、今日の『旧約聖書』を確定した。
『聖書』はひとつの伝説集にすぎないとされていた十九世紀に、『旧約聖書』の記述を信じて、メソポタミアのティグリス、ユーフラテスの二つの河の流域で発掘をおこなった人がいた。フランスのエミール・ボッタやレアードである。そして、多くの遺跡や楔形文字のきざまれた粘土板が見いだされた。楔形文字で記された文書の解読や、その後の考古学的あるいは文献学的な研究の結果、『旧約聖書』も多くの史実をふくむことがあきらかにされている。
たとえば、『旧約聖書』は、エジプトに移住したイスラエルの民が、エジプト人によって迫害をうけ、モーセにひきいられて、「出エジプト」を敢行したと記している。このイスラエル人が、出エジプトをおこなった年代は、紀元前、1250年ごろと考えて、間違いないようである。
『旧約聖書』のばあいも、史的な事実があってから、テキストが定まるまでのあいだに、長い歳月が、すぎさっているようである。千年をこえる人間のいとなみが、神と人間との物語りのなかに、織りこまれているようである。

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(4)中国においても、かつて、十九世紀的な文献批判がさかんで、学者、政治家として著名な康有為(こうゆうい)[1858~1927]が、『孔子改制考(こうしかいせいこう)』を1898年にあらわし、夏(か)・殷(いん)・周(しゅう)の盛世は、孔子が、古(いにしえ)にことよせて説きだした理想の世界にすぎないとのべた。
殷王統は、星体神話にすぎないともいわれた。
しかし、甲骨(こうこつ)文字の解読、殷墟の発掘は、『史記』の「殷本記(いんほんき)」に記されていることが、王名にいたるまで、作為でも、創作でもないことをあきらかにした。
司馬遷が『史記』を書いたのは、西暦紀元前100年前後のことである。いっぽう、殷の国が存在したのは、西暦紀元前1600年~紀元前1060年ごろとみられている。司馬遷が「殷本記」を書くまでに、およそ、一千年の歳月が流れている。「殷本記」が、史実を伝えているとは、なかなか信じがたいことである。だが、康有為の知性よりも、『史記』の「殷本記」の記述のほうが、はるかに信頼できるものであった。古人は、私たちが考える以上に誠実だったのである。最近の中国考古学界では、夏王朝の実在説も、さかんに主張されている。

トロヤにしても、『聖書』にしても、殷にしても、テキストが固定するまでの、一千年の歳月に耐え、史実が伝えられていたのである。

以上のべたもののほかにも、神話や伝説がかなりの史実をふくんでいた事例は、きわめて多い。ツェーラム著『神・墓・学者』(村田数之亮訳、中央公論社刊)などは、そのような事例の氾濫であるといえる。
世界的にみたばあい、『古事記』『日本書紀』の神話ていどの質と量とをもつテキストが、史的事実を、まったくふくんでいなかった例は、むしろ、めずらしいといえるようである。

 

■わが国のばあい
江戸時代にはいると、記紀などの古典の注釈的な研究がすすむ。さらに、ことばの注釈の学というよりも、歴史学とよぶのにふさわしい論著があらわれるようになる。

そのなかで、後代に大きな影響を与えた三つの大きな高峰は、新井白石(あらいはくせき)[1657~1725]と、本居宣長(もとおりのりなが)[1730~1801]と山片蟠桃(やまがたばんとう)[1748~1821]である。

新井白石は、『古史通』『古史通或問(こしつうわくもん)』をあらわし、はじめて、神代を合理的、実証的に追求しようとした。
「神とは人である」と説き、神話に語られているのは、「天上」におきたことでも、外国におきたことでもなく、日本の土地でおきたことであるとし、高天(たかま)の原を、地上の特定の土地で比定した。このような見方は、今日では、さしてめずらしくないが、当時としては、画期的なことであった。また、白石は、はじめて、邪馬台国問題を、北九州か大和かという形でとりあつかった。白石は、はじめ大和説をとったが、のちに北九州説にかわっている。

本居宣長は、1798年に、『古事記伝』を完成した。『古事記』は、『日本書紀』とことなり、それまで長いあいだ人々の注目をひかなかったが、宣長の『古事記伝』以後、古典として重要視されるようになった。
宣長が主張したことは、「現在ありえないことであるからといって、古代にもありえなかったと考えるのは、あて推量である。古代のことは、古書だけをもとにして知るべきである」ということであった。たとえば高天の原が天上にあることは、古典にそう記されているのであるから、明らかなことだ、高天の原を、地上に求めるのは、みな古典にそむいた「私(わたくし)ごと」であり、漢(から)風のさかしら心[小賢(こざか)しい心]からでたものである、というわけである。           
つまり宣長は、日本人の伝統的な思想を、神話のなかに見出し、それを明確にしたのである。宣長の思想は、その死後、みずから後継者と称する平田篤胤(ひらたあつたね)によって、神学的に発展させられた。「皇道」の発揚を説いた篤胤の門下からは、多くの尊皇攘夷の志士がうまれた。篤胤派の主張は、明治維新の思想的支柱となり、維新後の教学政策にも、大きな影響を与えている。

江戸時代の末には、山片蟠桃(やまがたばんとう)があらわれ、神代および仲哀天皇以前の記事は後世の作為であるという説をとなえた。神話は、もともとつくられたものであるから、高天の原なども、「天上」とか、「地上」とか、考えること自体がナンセンスであることになる。このような考え方は、のちの津田左右吉の説につながる内容のものである。

第二次大戦後のわが国において、文献学の主流的な方法となったのは、津田左右吉によって代表される文献批判学の方法であった。
津田左右吉の文献批判学は、直接的には、江戸後期の大阪の町人学者、山片蟠桃(1748~1822)の考えをうけつぐものである。

今日でも、津田左右吉を、画期的な業績をあげた学者であるように論ずるむきがすくなくない。しかし、梅花短期大学の宮内徳雄教授は、「山片蟠桃から津田左右吉へ」という論文で、およそ、次のように述べている。
「だれが見ても、山片蟠桃と津田左右吉との古代史観が、まったく同じであるのに、津田左右吉の『古事記及び日本書紀の新研究』に、山片蟠桃についての記載が、まったくないのは、いかにも不自然である。津田左右吉は、みずからの著書が、山片蟠桃の後塵(こうじん)を拝しているような印象を与えるのを嫌って、あえて山片蟠桃を無視したのではないか。極言すれば、江戸時代の書を読み、『夢之代(ゆめのしろ)』(蟠桃の代表作。1820年完成)の存在と、蟠桃の神代史創作説を知って、それをヒントに、『古事記』『日本書紀』の研究に入ったのであるが、その結論が、あまりにも一致していたために、かえって気がひけて言いだしにくくなったのではあるまいか。津田説を主流とする現代史学の常識とその理由づけは、蟠桃によって集大成され、すでにことごとく、『夢之代』に盛られている。
津田左右吉より七歳年長で、若くして碩学(せきがく)の名を得ていた同じ東洋史学者の内藤湖南(ないとうこなん)が、蟠桃の業績について、別にこだわらずに礼賛(れいさん)しているのと対照的である。

大正の中ごろ、突如として波間から出現した新島とも見える津田史観の底には、江戸・明治と海中で噴火を続けてきた海底火山の基底があった。古代史創作説の本格的な最初の噴出が、多田義俊らの合理的歴史観を継いだ山片蟠桃の『夢之代』であり、近代津田史学が、新井白石(あらいはくせき)、本居宣長(もとおりのりなが)を批判否定した山片蟠桃に淵源(えんげん)しているという印象は、津田自身が無視したり、否定したりすればするほど濃くなる」(『季刊邪馬台国』30号所収。なお、『夢之代』の古代史研究部分の、宮内徳雄氏による現代語訳は、『季刊邪馬台国』34号にのせられている)[安本編書『江戸の「邪馬台国」』(柏書房1991年刊)所収]

山片蟠桃は、商人的実証主義、儒学(じゅがく)的・唯物論的合理主義のうえに立ち、『古事記』『日本書紀』の神話などは、荒唐無稽(こうとうむけい)な話であり、そこに、史実の核の存在をみとめることは、とうてい無理であると考えた。
「地獄なし、極楽(ごくらく)もなし我もなし、ただ有(あ)る物は人と万物。神仏(かみほとけ)化け物もなし、世の中に、奇妙不思議の事はなおなし」
このように述べる蟠桃は、地獄も極楽も信じなかったし、神も神話も信じなかった。

山片蟠桃は、『夢之代』のなかでいう。
「日本の神代のことは、存して論ぜずして可なり(不合理な話が、そこに存在しているままにして、議論しないのがよい)」
「『日本書紀』の神代の巻は、とるべきではない。神武(じんむ)以後も、それほど信頼できず、第一四代仲哀(ちゅうあい)天皇、第一五代応神天皇の記事から歴史書として用いることができる。神功皇后の三韓退治の話は、妄説(もうせつ)が多い。応神天皇からは、確実とすべきである
神武天皇から千年ほどのあいだは、神代の名ごりであって、『古事記』『日本書紀』をはじめとする史書には、どのように記載されていようと、みなつくったものである。もちろん、神代のことは、なおさら、夢のようなものである」
このように、山片蟠桃は、日本の神話は、つくられたものであり、神武天皇から仲哀天皇までの記録も、歴史的事実としては、信じられないことが多い、と説く。これは、津田左右吉の学説の骨格に、ほぼそのまま一致する。
ひとくちでいえば、山片蟠桃や津田左右吉の古代史観は、「不合理な記述をふくむものは、信じられず、歴史を構成する資料としては、みとめるべきではない」という立場に立っているといえる。

 

■十九世紀的文献批判学の誕生・発展と、その限界
西欧でも、山片蟠桃が生きた時代と同じく十九世紀に、山片蟠桃と同じような、素朴な「合理主義」にもとづく文献批判学(テキスト・クリティーク)が芽をふいた。
文献批判学(テキスト・クリティーク)は、史料が、史実をさぐる材料として役立つかどうか、もし役立つとすれば、どのていど役立つか、などを吟味(ぎんみ)する。文献を、本文にしたがって、分析究明し、それを、当時の理性にしたがって判断し、さらに、異本、伝説などを参照して、史料の価値をさぐろうとする。

ドイツのニーブール(1776~1831)、ランケ(1795~1886)は、文献批判にもとづいて、歴史研究をおこない、史学は、ようやく学問的なものとなった。そして、ドイツのドロイゼン(1808~1884)、ベルンハイム(1850~1942)、フランスのラングロア(1863~1926)、セーニョボス(1854~1942)は、十九世紀に、歴史学研究法、あるいは、史料批判の方法を、概論的にまとめた。

十九世紀の後半から、このような文献批判学は、わが国にも、紹介された。
ラングロアおよびセーニョボスは、史料のあつかい方について述べている
歴史家は、著者のすべての先験的記事を信用してはならない。それが虚偽でも、過誤でもないと信頼できないからである
史料のなかで一致しない記事に出会うまで、懐疑を延ばしてはならない。疑うことから開始しなければならない」(以上、高橋巳寿衛訳『歴史学入門』人文閣刊より)

このような文献批判の方法を、ひとくちでまとめるならば、次のようなテーゼとなるであろう。
確実に信用できるテキスト以外は、史料として、用いてはならない
このような考え方は、山片蟠桃と共通するところがある。たしかに、文献を盲信することにたいする警鐘(けいしょう)にはなりうる。しかし、私たちが、史的真実を知るための方法としては、それだけで、十分であろうか。
科学の方法であるといえるためには、あるひとつの考え方を提供するだけでなく、その方法によれば、真実を知りうることが、実際的にも、論理的にも、保証されなければならない。
十九世紀的文献批判学の、大きな問題点は、その方法が、西欧や中国において、しばしば、失敗を重ねてきたことである。
十九世紀的文献批判学は、文献の記述内容にたいして、批判的、懐疑的、否定的な傾向がつよい。このような傾向のため、十九世紀的文献批判学は、史的事実の把握において、大きな失敗を、くりかえすこととなった。

このような失敗をくりかえすことになるのは、十九世紀的文献批判学で用いられている「批判」が、データにもとづいて、客観的・機械的(メカニカル)に結論を出すものではなく、結局はしばしば研究者の主観的判断にもとづくところが多いからである。
東京大学の教授であった日本史家の井上光貞は、その著『日本古代史の諸問題』(思索社刊)のなかで、津田左右吉の研究を評し、「主観的合理主義につらぬかれている」と述べている。これでは、主観的には、いかに合理的であろうとも、他の研究者の主観的合理的見解と、意見が合わなくなったり、事実と合わないことが生ずるのは、当然である。
『数理哲学の歴史』をあらわしたドイツのG・マルチンは、十九世紀的文献批判学を評して、「自己自身にたいして無批判な批判」と述べている。

わが国の歴史学や考古学では、なお「属人主義」的傾向が、かなり強い。ある見解がなりたつ「証拠」とされているものが、結局は、「データにもとづく事実」ではなく、「権威をもつ某氏が述べていることである。」という形になっている。
「権威のある某氏を祭壇にまつり」そのご宣託をうかがうというスタイルである。旧石器捏造事件では、「神の手」を信じて、そのご託宣に、多くの考古学者がいっせいになびき、大失敗をしたことがある。このような方法は基本的には、宗教の方法であって、科学の方法ではない。

津田左右吉は、戦前、『神代史の新しい研究』『古事記及び日本書紀の新研究』『神代史の研究』(いずれも、岩波書店刊)など、一連の著述をあらわし、『古事記』『日本書紀』などの文献の、史料としての価値についての研究をおこなった。
津田は、主として、『古事記』『日本書紀』の記述のあいだのくいちがい、あるいは、相互矛盾をとりあげ、そこから、『古事記』『日本書紀』に記されている神話は、天皇がわが国の統一君主となったのち、第二九代欽明(きんめい)天皇の時代のころ、すなわち、六世紀の中ごろ以後に、大和朝廷の有力者により、皇室が日本を統治するいわれを正当化しようとする政治的意図にしたがって、つくりあげられたものである、と説いた。
端的にいえば、神話は、いわば机上でつくられた虚構であり、事実を記した歴史ではない、ただ、それをつくった古代人の精神や思想をうかがうものとしては、重要な意味をもつものである、というわけである。
津田の研究は、当時、若い研究者たちに、刺激を与えた。しかし、日本史家の家永三郎が、日本古典文学大系の、『日本書紀』(岩波書店刊)の「解説」で述べているように、戦前の学界では、「いわば異端的な業績として孤立して」いた、といってよい。
東京大学の日本史家の黒板勝美が、1932年(昭和7年)刊の『国史の研究』(岩波書店刊)で述べている津田左右吉の業績についての次のような意見は、当時の学界における、ほぼ代表的な見解であったと思われる。
「神話伝説というものが、とくにある時代にある目的をもって作られたようにみるのは、民族心理学的もしくは比較神話学的の考察を一蹴(いっしゅう)したような、あまりに独断にすぎるきらいがある。むしろ長い年月のあいだにだんだんそれらの説話が作られて来たとするほうが妥当ではあるまいか(原文は、旧漢字、旧かなづかい)
左翼思想、自由主義思想弾圧の時代にはいり、津田の研究も迫害される。1940年(昭和15年)、津田の著作は、発売禁止の処分をうけ、ついで津田自身が皇室の尊厳を冒瀆(ぼうとく)した疑いで、起訴され、その学問的活動は、封殺(ふうさつ)された。
しかし、津田の所説は、第二次大戦後の懐疑的風潮のなかで、はなばなしくよみがえる。そして、わが国の史学界において、圧倒的な勢力をしめることとなる。

津田左右吉の説は、科学的であったから弾圧され、非合理的な『古事記』『日本書紀』などを信ずるようであったから、日本は、第二次世界大戦に敗北したのであるというわけである。
かくて、津田左右吉とその著作は、祭壇にまつりあげられ、今からおよそ百年前に書かれたその文言(もんごん)は、金科玉条(きんかぎょくじょう)とされ、たとえば、私のような立場は、あれは、津田左右吉の説にしたがっていないからダメであると、はじめから否定する傾向を生んだ。
しかし、私からみれば、津田左右吉の説は、シュリーマン以前の西欧での十九世紀的文献批判学と軌を一にするもので、世界基準の文献学、歴史学からかけはなれたもののようにみえるのである。
事実と合致しているかどうかよりも、津田左右吉の言説(げんせつ)と合っているかどうかの方を問題とする。およそ非科学的な「属人主義」のようにみえる。

津田左右吉の言説に従って探究を進めることは、原子爆弾や水爆の時代に竹槍や火縄銃で戦争をするようなもので、いくらその武器を磨き、操作技術に習熟したとしても、とても現代の研究戦争で成果をおさめるうるとは思えないのである。
津田左右吉流の研究方法は、とくに、文献学、考古学、歴史学の京都学派に強くみられる傾向のようにみえる。
たとえば、岡山大学の教授などであった京都学派の考古学者、近藤義郎(よしろう)氏[京都大学文学部卒業]は、その著『前方後円墳と吉備大和』(吉備人出版、2001年刊)の中で述べる。
「この小著でも僕は、古事記・日本書紀・魏志倭人伝などの文献史料やその文献研究の成果を使うことを極力避けてきた。白状すると、文献研究を身を入れて学んだこともないし、その成果を判断して使う力も自信もまったくないからである。考古学を学び始めてしばらく経って、そのことに気付くと共に、誰かが文献研究の成果におんぶしないで、弥生時代・前方後円墳時代を考古資料だけでどこまで叙述できるかを試みてみたら面白いし、のちのち役に立つかもしれないと思った。」
注:はじめから学ぼうとしていない。
文献と考古資料との、文献学的研究の成果と考古学的研究の成果との凭(もた)れ合い的使用は極力避けることに努めた。
「昔は「高天が原」や「神武天皇」、今は「邪馬台国」や「卑弥呼」の論議がある。そういうものは本来、考古学には出てこない筈である。そうした作品を日頃みたり聴いたりしているので、善し悪しだけの問題ではなく、今回もやはり考古は考古で詰めてみなければどうにもなるまいと思い続けた。
近藤義郎編『前方後円墳集成』(全五巻、山川出版社)

これは、文献や伝承にもとづいて発掘を行い、それによって文献や伝承情報の中にひそむ史実をさぐろう、たしかめようとするシュリーマンなどとは、基本的な方向が、大きく異なっている。

同志社大学の教授であった考古学者の森浩一は述べている。
「後藤(守一)先生は『三種の神器の考古学的健闘』という論文を雑誌『アントロポス』に発表し、翌年には『日本古代の考古学的検討』(山岡書店)という冊子風の単行本に論文を収めた。先生の知識の豊かな事や自由な発想に、当時十八歳の僕は驚嘆した。もちろん先生の勇気にも感心した。
僕は考古学だけでは歴史にせまれないことを、この本によってさらに痛感した、神話も含め『古事記』や『日本書紀』からも信頼できる文献資料を見いだし、考古学資料と総合した時に初めて本当の歴史は描ける。」(森浩一著『森浩一の考古交遊録』朝日新聞出版、2013年)

歴史は、総合の学である。
森浩一の立場こそが、世界基準の考古学・歴史学にしたがうものといえる。
ある一つの立場だけを深堀り(タコツボ型)すれば全体的判断を誤ることはしばしばおきる。
以下では、そのような例をあげてみよう。


2.大彦(おおびこ)の命(みこと)

■大彦(おおびこ)の命(みこと)の実在性
第二次世界大戦後のわが国の考古学では、『古事記』『日本書紀』の記述などをほとんど無視するので、これらの古墳のことは、あまり話題にのぼらないが、世界基準の考古学の立場からは、やはり検討をしておくべきであろう。

大彦(おおびこ)の命(みこと)は、第八代孝元天皇の皇子である。第九代開化天皇の同母の兄である。第十代崇神天皇の伯父にあたる。大彦の命の娘の御間城(みまき)姫[『古事記』では「御真津比売(みまつひめ)の命(みこと)」]は、崇神天皇の皇后となり、第十一代垂仁天皇を生んだ。

『古事記』の記す大彦の系譜は次のとおりである。 391-03

私の、天皇の一代平均約10年説によれば、大彦の命は、まず4世紀の中ごろの人を考えてよい。

『古事記』によれば、大彦の命(『古事記』は、「大毘古の命」と記す)は、高志(こし)[越、北陸道]に遣(つか)わされたという。『日本書紀』では、「北陸(くぬがのみち)に遣(つか)わされたという。
1978年、埼玉県埼玉(さきたま)古墳群の稲荷山(いなりやま)古墳から出土した鉄剣から銘文(めいぶん)が発見された。そこに刻まれた百十五文字のなかに、この鉄剣をつくらせた「乎獲居(おわけ)の臣(おみ)」の「上祖(かみつおや)」として、「意富比垝(おほひこ)」の名がでてくる。この意富比垝は、大彦のこととみられている。

このことは、1978年(昭和53年)9月19日『毎日新聞』夕刊に、埼玉県の稲荷山古墳出土の鉄刀銘文として、大きく報じられた。『毎日新聞』のスクープのあと、各新聞社は猛烈なあと追いの報道合戦を展開した。

・鉄刀の文字の読み下し文
辛亥の年の七月中、記(しる)す。
呼獲居(をわけ)の臣(おみ)の上祖(かみつおや)、
名は意冨比垝(おほひこ)[大彦の命のことと考えられ、祖先を示している]
其の児、多加利(たかり)の足尼(すくね)、
其の児、名は弖已加利獲居(てよかりわけ)[皇室の系譜を書いた『本朝皇胤紹運録(ほんちょうこういんじょううんろく)』に大彦の孫として、豊韓別の命(とよからわけのみこと)が記載されいる。同一人物と考えられる]、
其の児、名は多加披次獲居(たかはしわけ)、
其の児、名は多沙鬼獲居(たさきわけ)、
其の児、名は半弖比(はてひ)、
其の児、名は加差披余(かさはや)、
其の児、名は乎獲居(をわけ)の臣
世々杖刀人(たちはき)の首(かみ)と為(し)て、
奉事(ほうじ)し来りて今に至る。
獲加多支鹵(わかたける)大王の寺(じ)、
斯鬼(しき)の宮に在り。時に、
吾(われ)、天下を左治(さぢ)し、
此の百練の利刀を作らしめ
吾が奉事の根原を記す也。

[現代語訳]
辛亥の年(471年)の7月中に(以下の文章を)記します。
(私)ヲワケノオミの祖先の名はオホヒコ、その児(の名)はタカリノスクネ、その児の名はテヨカリワケ、その児の名はタカシワケ、その児の名はタサキワケ、その児の名はハテヒ、その児の名はカサハヤ、その児の名は(私)ヲワケノオミでありまして、(先祖以来)世々、杖刀人(兵杖を帯びる警護の人)の首長としてお仕えしてまいり、今に至りました。
ワカタケル大王(雄略天皇)の朝廷はシキの宮にありますが、このときに私は大王が天下を統治されるのをお助けし、この練りに練り鍛えた鋭利な刀を作らせまして、(その刀に)自分の祖先以来、お仕えしてまいりました根源を書き記しておくものであります。

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山片蟠桃、津田左右吉は『古事記』『日本書紀』の神話ばかりではなく、第1代神武天皇以後、第14代仲哀天皇よりも前の記録もつくられたものとする。しかし稲荷山古墳出土の鉄刀の銘文は仲哀天皇よりも、6代ほど前の大彦の命の実在性を高めたといえる。

 

■大彦の命の墓
大彦の命の墓という伝承のある古墳で、私の知っているものに、次の二つがある。
(1)川柳将軍塚(せんりゅうしょうぐんづか)古墳
長野県長野市篠ノ井石川湯ノ入にある。

(2)御墓山(みはかやま)古墳
三重県上野市佐那具(さなぐ)にある。
(下図はクリックすると大きくなります)391-05


・四世紀の王墓級の墓、川柳(せんりゅう)将軍塚古墳
長野県長野市篠ノ井石川湯ノ入に、この大彦の命の墓と伝えられる、川柳(せんりゅう)将軍塚古墳がある。所在地は、千曲川をのぞむ標高480メートルの山地で、戦国時代の合戦場として知られる川中島の一画である。すぐ近くに、『延喜式』の式内社、布施神社がある。
布施氏は大彦の命を始祖とする氏族。阿部氏の支族。

この前方後円墳については、「崇神天皇十年、詔(みことのり)あって大彦の命、本村長者窪に本貫(本籍地)をうつし北国を鎮撫し、ついに本村にて薨ず。その埋葬せし墳墓を将軍塚という。」(『石川村誌』『布施五明村誌』)という伝承がある。

川柳将軍塚古墳は、全長90メートル。後円部径42メートル、高さ8.2メートル。前方部幅31メートル、高さ6メートル。長野県内所在の前方後円墳の最大級のものである。
崇神天皇陵古墳や、岡山県の中山茶臼山古墳、京都府の黒部銚子山古墳などと相似形古墳ではないが、少し後で示す「前方後円墳築造時期推定図」をみれば、「四世紀型古墳群」のなかでも、崇神天皇陵古墳に比較的近い時期のものであることがわかる。
大彦の命の推定活躍時期と、川柳将軍塚古墳の推定築造時期とは、大略あっているといえる。

考古学者、森本六爾(もりもとろくじ)の昭和四年(1929)の調査によれば、内部主体は、割石小口積みの竪穴式石室で、石室内は朱をみることができたが石棺はなかったという。
川柳将軍塚古墳は、享保年間(1716~1736)に、鍛冶屋(かじや)彦五郎というものによってあばかれ、後には村民も荒らした。寛政十二年(1800)に地元民が発掘して、多量の遺物の出土をみたという。寛政年間に、松代藩によって出土品の若干が没収され明治になった。
川柳将軍塚古墳の遺物や、遺物についての記録からは、27面の鏡が出土したことが知られる。そのうち現存するものは、14面である。畿内古墳と肩を並べる出土量である。
その他、管玉(くだたま)102個、小玉560個、勾玉(まがたま)3個、玉杖頭2個、銅鏃17点などが知られている。王墓級の墓とみられる。

川柳将軍塚古墳の丘上に、式内社、布施神社がある。布施は、古代の布施氏に由来するもので、布施神社は、布施氏がその祖の大彦の命をまつったものであるという。
この付近一帯には、五世紀、六世紀を通じて墳墓が築かれる。大彦の命の子孫の一族のものであろうか。
今後の探究がまたれるが、川柳将軍塚古墳は、大彦の命の墓である可能性がかなりあるといえよう。
なお、川柳将軍塚古墳については、志村裕子氏の「大彦の墓」(『季刊邪馬台国』45号)にくわしい。

また、川柳将軍塚古墳の近くの、長野県更埴(こうしょく)市森の丘陵尾根上に、森将軍塚古墳がある。全長90メートルのもので、7メートルを上まわる竪穴式石室があり、「天王日月」銘のある三角縁神獣鏡が出土している。
森将軍塚古墳の築造時期は、川柳将軍塚古墳の築造時期をやや下るとみられる。

大塚初重・小林三郎他編『日本古墳大辞典』(東京堂出版刊)からの川柳(せんりゅう)将軍塚古墳の記述。
長野県長野市篠ノ井石川湯ノ入にある。千曲川をのぞむ標高480mの山頂上に立地した前方後円墳で前方部を東北に向ける。全長90m後円部径42m、高さ8.2m、前方部幅31m,高さ6mあって地形を利用していとなまれており、葺石・円筒埴輪の存在が知られる。1800年(寛政12)に地元民が発掘して多量の遺物の出土をみた。その後1893年(明治26)ごろ、やはり地元民の発掘があったが、内部主体の構造が判明して遺物の出土はなかったといわれる。江戸時代の発掘時に残された記録として『信濃奇勝録』『宝月楼古鑑譜』『小山林堂書画文房図録』『集古十種』などがあるが、学術的な調査としては、 1929年(昭和4)の森本六爾の調査がある。森本の調査は、墳丘の測量と1893年(明治26)ごろの発掘の状態と石室の復原に関する聴取、さらに江戸時代に残された古記録からの出土遺物の集成であった。森本の伝聞調査によると、内部主体は後円部に主軸に沿ってあった割石小口積みの竪穴式石室で、数枚の天井石が架けられており、石室内は朱を見ることができたが石棺はなかったことを記している。また前方部にも主軸に沿って石室が存在していたことを記している。
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出土遺物のうち、現在、将軍塚古墳出土として布制神社に蔵するものに、内行花文鏡3・捩文鏡1・珠文鏡1・管玉102 ・ 棗玉1・勾玉3・小玉560・玉杖頭2があり、他に珠文鏡1・四獣文鏡1がある。さらに前記の古記録や、それをもとにした森本の報告によれば、鏡は総計27・銅鏃17 ・ 筒形銅器2・筒形石製品2.・車輪石1・鉄刀・鉄剣・紡錘車2などがみえ、鏡の中には方格規矩四神鏡類や素文鏡・重圏文鏡の類などが見える。さらに近年発見された、江戸時代の古記録『万伝書覚帖』によれば、鏡は42面あったといい、玉類の中にも白玉や切子玉がみえる。なお金環2が出土品中に含まれている古記録もあるが、おそらく他古墳の出土品の混入であろう。
築造年代の決め手を欠くが、4世紀末から5世紀初頭の年代が考えられる。〔文献〕森本六爾『川柳村将軍塚古墳の研究』1929、岡書院、復刻版、1978、信毎書籍出版センター。宮下健司「長野県川柳将軍塚古墳をめぐる古文献」信濃31-9、1979。(小林三郎)

 

・御墓山古墳(みはかやまこふん)
大塚初重・小林三郎他編『日本古墳大辞典』(東京堂出版刊)からの御墓山古墳の記述
三重県上野市佐那具宇天王下の上野盆地北東隅、柘植川左岸平地に突き出た丘陵末端部に営造された前方後円墳である。
(下図はクリックすると大きくなります)391-07


前方部を北西方向に向けており、墳丘規模は主軸全長188m後円部径110m、高さ14m、前方部幅80m、高さ10mと、三重県下最大の規模をもつ。墳丘には段築が見られ、墳丘くびれ部東側、後円部寄りには平坦な張出しがあって造り出しと考えられる。墳丘全面には人頭大から拳大の葺右が覆い、円筒埴輪や形象埴輪の破片が散見される。後円部南側の墳丘周囲には弧状に周堀がめぐるが、前方部周囲には存在しない。周堀の囲繞はきわめて不定形である。後円部頂部には盗掘によるとみられる落ち込みがあるが、主体部の構造や副葬品については全く不明である。築造時期としては5世紀初頭が考えられる。なお、本古墳の東側に近接して一辺10mの方形の陪塚が2基ある。1921年(大正10)国指定史跡。〔文献〕鈴木敏雄「史蹟御墓山古墳」三重県における主務大臣指定史蹟名勝天然紀念物、1936、三重県。(下村)

更に、『古代地名大辞典』(角川書店、1999年刊)の「いがのくに(伊賀国)」の項から御墓山(みはかやま)古墳の記述がある。
上野市佐那具(さなぐ)には御墓山(みはかやま)古墳という全長188mで伊賀最大の古墳前期後半の前方後円墳があり、大彦命を葬るという伝承があり、約2Km南には伊賀一宮の敢国(あえくに)神社があり、大彦命を祀る。


・大量の鏡が出土する古墳
全国における鏡の多数副葬葬のランキングベスト10

①奈良県桜井茶臼山(さくらいちゃうすやま)古墳----81面
崇神天皇皇后で、大彦の命の娘の御間城姫(みまけひめ)の墓か?
この地域は大彦の命を祖先とする安倍氏が住んでいた地域、崇神天皇皇后であるが、皇后は亡くなった場合は出身地域に葬られることが多かったので、御間城姫は安倍氏の勢力の桜井市付近に葬られたのではないか。
鏡の種類として「内行花文鏡」「倣製(仿製)内国花文鏡」「方格規矩鏡」も出土している。

②福岡平原(ひらばる)王墓----40面
古墳時代より古く、弥生時代。

③京都椿井大塚山(つばいおおつかやま)古墳----36面
崇神天皇の時代に叛乱を起こした武埴安彦(たけはにやすひこ)命の墓ではないかとされている。

④奈良県佐味田宝塚(さみたたからずか)古墳----36面
黒塚古墳と相似形である。黒塚古墳が崇神天皇の妃の墓とすれば、佐味田宝塚古墳も崇神天皇の妃の墓と考えられ、遠津年魚眼眼妙媛(とおつあゆめまくわしひめ)の墓ではないかとの説がある。

⑤福岡県三雲(みくも)遺跡(王墓)----35面
古墳時代より古く、弥生時代。

⑥奈良県黒塚(くろづか)古墳----34面
この付近に大海(おうがい)という地名のあるので、崇神天皇の妃の大海媛(おおしあまひめ)の墓ではないかとの説がある。

⑦奈良県新山(しんやま)古墳----34面

⑧福岡県須久岡本遺跡----32面
古墳時代より古く、弥生時代。

⑨岡山県丸山(まるやま)古墳----31面

⑩長野県川柳将軍塚古墳----27面
42面出土との資料もある。そうすると順位が2位となる。
そして、鏡の種類として「内行花文鏡」「倣製内国花文鏡」「方格規矩鏡」が出土している。これは奈良県桜井茶臼山古墳と同じであり、大彦の命に関係していると考えられる。

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■川柳将軍塚古墳と御墓山古墳どちらが大彦の墓?
谷川健一郎編『日本の神々神社と聖地6』(白水社、1986年刊)から
「孝元紀に「大彦命は、是阿倍(これあえ)臣・膳(かしわで)臣・阿閉(あへ)臣・狭狭城山君(ささきやまのきみ)・築紫国造・越(こし)国造・伊賀臣、凡(すべ)て七族の始祖なり」とあるように、阿閉臣は阿倍臣と同族であるが、七族のうちに伊賀を本貫とする阿閉・伊賀両氏がみえることから、阿倍氏の旧本貫も伊賀であろうとする説がある。しかし文献上それを証するものはなく、たとえば大和から伊賀への入口に安部田(名張市)という地名もあるが、阿倍氏との関係は不明である。
「阿倍」も「阿閉(閇)」も同じ「アヘ」であり、『播磨国風土記』賀古郡の条の「(景行天皇が)阿閇津(あへつ)に到り、御食(みあへ)を供進(たてまつ)りき。故、阿閇の村と号(なづ)く」という記事が示唆するように、本来の意味は「饗(アヘ)」であろう。これは同族に「膳(かしわで)」氏がいることによっても裏づけられる。おそらく、大彦命を祖と唱える同族七氏は、新嘗の儀礼における供膳を職とする阿倍臣を中核とした擬制的血縁による一種の派閥であったと推定されよう。」

「敢国神社の北東1.5キロの丘上に御墓山古墳(県下最大の五世紀初頭の全長188メートルの前方後円墳)がある。これを大彦命の陵墓であるとして大正の始めから陵墓地の治定運動が展開され、呼び方も御陵(みささぎ)に倣って従来の「御墓山(おはかやま)」を「御墓山(みはかやま)」と改めたが、決め手となるものが皆無であるため、陵墓参考地にもならず、国の指定史蹟にとどまっている。」

御墓山は、大彦の命と関係があるようであるが、資料がとぼしい。

それに対し、川柳将軍塚古墳のほうは、以下の4つの理由により、大彦の墓である可能性が、かなり残るようにみえる。
(1)古墳の形
下図に見られるように、前方部の発達の度合いからいって、これは「4世紀型古墳」である。4世紀の人とみられる崇神天皇の時代と、大略時代があう。
(下図はクリックすると大きくなります)391-09


(2)竪穴式石室の存在
『日本古墳大辞典』の説明によれば、川柳将軍塚古墳には、「竪穴式石室」が存在したようである。下図にみられるように「竪穴式石室」のある古墳は、まず「4世紀型古墳」である。
(下図はクリックすると大きくなります)391-10


(3)鏡の大量埋納
奈良県を中心とする鏡の、大量埋納文化を、かなり東北方面へはなれた長野県へもっていったようにみえる。鏡を大量に埋納する奈良県の他の古墳と特徴がよく似ている。(墳形、竪穴式石室、鏡の大量埋納)

(4)古墳のある場所
『古事記』は、大彦の命が、「高志(こし)[越]」に派遣されたと伝える。『日本書紀』は大彦の命が、「北陸(くぬがのみち)」へ派遣されたと記す。そして、川柳将軍塚古墳は、「高志(越)」や「北陸」の近くの長野県に存在する。

『古事記』『日本書紀』の記事は、奈良県にあった都から遠くはなれたこの地、奈良県の文化特徴をもったこの墓が、やや孤立的に出現する理由をうまく説明してくれるようにみえる。
そして、同じく都から遠くはなれ、長野県にやや近い埼玉県の稲荷山古墳から出土した刀の銘に「大彦」の名がみえるのである。

鏡を大量に埋納する古墳で、確実に五世紀に築造されたといえる古墳はない。(ほぼ四世紀以前)
この点からも、川柳将軍塚古墳は崇神天皇陵古墳に近い四世紀に築造された古墳とみるべきである。
このようなことは、川柳将軍塚古墳が大彦の命の墓である可能性を大きくする。
なお、前の御墓山古墳所在地の地図をみれば、三重県の御墓山古墳は、大彦の命が、奈良県にあった都から、「越」の国の方へでかけるとき、または、帰るとき、出入口となるようなところにあるといえる。


3.大吉備津彦(おおきびつひこ)の命(みこと)

■大吉備津彦(おおきびつひこ)の命(みこと)の墓
『古事記』と『日本書紀』による孝霊天皇ころの系図は下記となる。
(下図はクリックすると大きくなります)391-11

 

『陵墓要覧(りょうぼようらん)』(宮内省「宮内庁」の職員の執務用の便覧書(べんらんしょ)。大正4年(1915)初版発行。以後、平成24年(2012)版まで5回の改訂版がでている。

孝霊(こうれい)天皇 片丘馬坂陵(かたをかのうまさかのみささぎ)
傍丘 奈良県北葛城郡王寺村大字王寺
陵 山形、周囲土手、石柵
系 六・皇太后押媛命
崩 七六(四四六、三、二三)

皇子 大吉備津彦命(おおきびつひこのみこと)墓
岡山県御津郡一宮村大字尾上(おのうえ)、吉備津郡真金村(元宮内)界字茶臼山(吉備の中山、中山茶臼山古墳)

皇女 倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)墓
山辺 奈良県磯城郡織田(おだ)村大字箸中(はしなか)字茶屋ノ前(ちゃやのまへ)
墓 前方後円、周囲 カシ生垣
薨 崇神天皇一一、九(五七四)

岡山県の吉備中山とその周辺の古墳
(下図はクリックすると大きくなります)391-12


・大吉備津彦(おおきびつひこ)の命(みこと)の墓と伝承されている岡山県「吉備の中山」の中山茶臼山古墳
『日本書紀』の第十代崇神天皇の巻に、四道(しどう)将軍派遣の話がのっている(「崇神天皇紀」十年九月の条)。
すなわち、遠国には、まだ大和朝廷に従わないものが多くいたので、皇族のなかから四人の将軍がえらばれて、各地に派遣された。大彦(おおびこ)の命を北陸に、武渟川別(たけぬなかわわけ)の命を東海に、吉備津彦(きびつひこ)の命を西の道(山陽)へ、丹波の道主(たにはのみちぬし)の命を丹波(山陰)へ遣わしたという。

『日本書紀』の話にほぼ対応する記事は、『古事記』にもみえる。
『古事記』によれば、第七代孝霊天皇の皇子であった大吉備津日子の命[吉備津彦の命、またの名を比古伊佐勢理毘古(ひこいさせりびこ)の命]と、その異母弟の若日子建吉備津日子(わかひこたけきびつひこ)の命の二人が力をあわせて、吉備の国を平定したという。
『古事記』の記事と『日本書紀』の記事とでは、若干のちがいがある。すなわち、
(1)『古事記』では、大吉備津日子の命の吉備の国平定の話は、「孝霊天皇記」にみえるが、『日本書紀』では、「崇神天皇紀」にみえる。ただし、『古事記』の記事は、孝霊天皇皇子の事跡を記したものであって、吉備の国平定の行なわれた時期が、孝霊天皇の時代であると明記されているわけではない。

(2)『古事記』には、「四道将軍」としてはでてこない。

(3)『古事記』では、大吉備津日子の命と、異母弟の若日子建吉備津日子の命とが協力して平定にあたったことになっているが、『日本書紀』の、「四道将軍」派遣のところでは、吉備津彦の命[彦五十狭芹彦(ひこいさせりひこ)の命]の名だけがみえる。

(4)『古事記』では、大吉備津日子の命(比古伊佐勢理毘古の命)は、「吉備の上(かみ)つ道(みち)の臣(おみ)の祖」で、異母弟の若日子建吉備津日子の命は「吉備の下(しも)つ道(みち)の臣(おみ)の祖」となっているのに、『日本書紀』では、「上つ道の祖」も、「下つ道の祖」も、ともに、稚武彦(わかたけひこ)の命(『古事記』の若日子建吉備津日子の命)の子孫となっている。

本居宣長は、『古事記伝』において、このことを論じ、大吉備津日子の命と異母弟の若日子建吉備津日子の命とは、ともに、吉備の国を平定したが、兄の大吉備津日子の命の子孫はいなくて、ただ弟の若日子建吉備津日子の命の子孫だけが、吉備の地で、栄えたのであろうか、としている。

(5)『古事記』では、若日子建吉備津日子の命の子どものことを、ややくわしく記しているのに、 『日本書紀』では、孫のことを、ややくわしく記している。いずれにしても『古事記』『日本書紀』ともに、弟の若日子建吉備津日子の命の子孫のことを記し、兄の大吉備津日子の命の子や孫の名を、直接的には記していない。

・茶臼山古墳築造の時期
さて、以下は前に示した「岡山県の吉備中山とその周辺の古墳」の地図を参照しながら読み進めていただきたい。岡山市の中心部から、直線距離で6キロほど西に、『吉備(きび)の中山(なかやま)』といわれる山がある。岡山平野のほぼ中央に位置し、岡山県岡山市尾上(おうえ)ならびに吉備津に所在する。
「吉備の中山」は、備前(びぜん)の国と備中(びっちゅう)の国との国境にある。そこから、「中山」の名はおきたとみられる。東西の幅約2キロ、南北2.5キロ、周囲はおよそ8キロほどの独立した小山である。

中山茶臼山古墳は、明治七年(1874)に、宮内省(現宮内庁)の管轄するところとなり、公式には、「大吉備津彦命墓(おおきびつひこのはか)」と呼ばれることになった。現在、大吉備津彦命陵墓参考地に指定されている。

中山茶臼山古墳は、前期古墳の特徴をそなえているようにみえる。
茶臼山古墳からは、退化した特殊器台形埴輪片が出土しており、築造の時期は、前期のI期の後よりと推定されている(大塚初重他編『日本古墳大辞典』東京堂出版刊。近藤義郎「中山茶臼山古墳」『岡山県史18』1986年参照)。

つまり、四世紀代の墓と推定されている。
『日本書紀』によれば、大吉備津彦の命は、崇神天皇の時代に活躍した人である。

■中山茶臼山古墳は、崇神天皇陵古墳と相似形
特筆すべきことは、中山茶臼山古墳は、奈良県の崇神天皇陵古墳と、平面図がほとんど相似形であることである。
前方後円墳の形態によって、築造の時期が推定されるとすれば、中山茶臼山古墳は、崇神天皇陵古墳とほぼ同じ時期、つまり、340~360年前後に築造されたことになる。下図参照
(下図はクリックすると大きくなります)391-13

 

『日本古墳大辞典』に記されている岡山県の中山茶臼山古墳の記述と、崇神天皇陵古墳の記述とのあいだには、いくつかの共通性がある。すなわち、
(1)ともに、前方後円墳である。
(2)ともに、自然の丘陵地形を利用したもので、丘尾切断法で築造されている。
(3)ともに、五世紀古墳にみられるような造出(つくりだ)し(前方部と後円部とをつなぐくびれ部の両側または片側に付設された方壇状の部分)がない。

私は、茶臼山古墳を、伝承どおり大吉備津彦の命の墓とみてよいと考えるものである。

なお、崇神天皇陵古墳の墳丘全長は、晋尺(しんじゃく)ではかって、ほぼ正確に一千尺である。
文献上において同時代で関連があるとされている人たちの墓が、形態上も関連し、同時代性を示している。
(下図はクリックすると大きくなります)391-14


このような事実は、四道将軍派遣の記事がたんなる伝説ではなく、四世紀代の史実にもとづくことを示しているようにみえる。

 

■崇神天皇陵などの設計
崇神天皇陵や中山茶臼山古墳では、墳丘全長の直線ABをまず定め、(下図参照) 391-15

つぎに墳丘全長の三分の二の長さで、後円部の直径を定め、さらに墳丘全長の四割ほどの長さで、前方部の幅を定めて、直線CDを引き、AとC、AとDを結ぶというような設計によっているようである。このようにすると、上図のECDは、大略正三角形になる。
あるいは、逆に、CDをまず定め、CDを一辺とする正三角形をえがき、つぎに、その正三角形の高さを半径とする円を描いたのかもしれない。
いずれにしても、比較的簡単な設計によっているようである。

 


■大吉備津彦の命をまつる吉備津神社
「吉備の中山」の西のふもとに、備中の吉備津神社がある(前に示した「吉備の中山」周辺古墳の 地図参照)。所在地は、岡山市吉備津である。
吉備津神牡は、吉備津彦神社または吉備津の宮ともいう。
JR吉備津線吉備津駅から、500メートルほどである。
明治時代に官幣中社とされた。
『古今集』の1082番の歌に、「まがねふくきびの中山おびにせるほそたに川のをとのさやけさ」がある。
「まがねふく」は、「吉備」の枕詞である。
「まがねふく」は、鉄を吹きわけるの意味であるが、吉備の国は、古く鉄を産したので、この枕詞がある。

吉備津神社は、かつて、備中の国吉備郡真金村(まがねむら)に属していた。
さきの歌の意味は、「吉備の中山が帯にしている細谷川の音のさやけさよ」という意味である。
この歌には、「承和の御べのきびのくにのうた」と、説明がついている。
承和は、仁明天皇時代の年号で、834年~848年である。「御べ」は、「おほんにへ」の略で、大嘗(おおにえ)の祭(まつり)、すなわち、即位後はじめての新嘗祭(にいなめさい)のことである。 391-16

[メモ1]前に示した「吉備氏と崇神天皇后妃関係」の図からうかがえるように、日葉酢媛(ひばすひめ)陵古墳(垂仁天皇皇后の墓)と佐味田(さみた)宝塚古墳とは、かなり近い墳形をしている。そればかりではなく、この二つの古墳からは、きぬがさ埴輪、家形埴輪、鰭(ひれ)付円筒埴輪、盾の埴輪や、碧玉製の鍬形石・石釧・盒子(ごうし)など、共通の形式の遺物が出土している。ともに、女性の墓であろうか。

[メモ2]中山茶臼古墳と箸墓古墳とからは、ともに、特殊器台形埴輪が出土している。とくに、箸墓古墳からは、都月型の特殊器台形埴輪が出土している。都月型埴輪は、岡山県の都月坂1号墳出土の特殊器台形埴輪を標式とする。岡山県との関係をうかがわせる。


吉備津神社は、「吉備津造り」と呼ぼれる建築様式をもつ。
本殿を外からみるとき、檜皮葺(ひはだぶき)の大屋根が、入母屋造(いりもやづく)りを二つ前後に連結した形であるところに特色がある。「吉備津造り」とも「比翼(ひよく)の入母屋造り」ともいわれる。(下の写真参照)

山陰を代表する神社が出雲大社であるとすれば、山陽地方を代表するのがこの吉備津神社と、安芸の厳島(いくつしま)神社である。

吉備津神社の本殿の建坪は、255平方メートルある。大建築である。高さにおいては出雲大社におよばないが、広さは出雲大社の本殿の二倍以上ある。

社伝によれば、吉備津神社は、大吉備津彦の命(吉備津彦の命)を主神とし、異母弟若日子建吉備津彦(わかひこたけきびつひこ)の命と、その子の吉備の武彦(きびのたけひこ)とをあわせまつるという(以下、よく似たこの三人の名前が頻出するので区別すること。要注意)。
なお、『新撰姓氏録』では、吉備の武彦は、若日子建吉備津日子の命の子または孫とされている。
この文では、以下、子としてあつかう。

吉備津神社の名は、『延喜式』にみえる。いわゆる式内社である。
『延喜式』の神名帳では、備中の国賀夜(かや)郡の項に、「吉備津彦神社名神大」とある(「名神大」は、「名神大社」のことで、名神祭にあずかる社格をもった神社のこと)。

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吉備津神社の社伝によれば、大吉備津彦の命は、吉備の中山のふもとに、「茅葺(かやぶき)の宮」をつくって住み、この御殿で、吉備の統治にあたったという。そして、281歳の長寿で、この宮に没し、吉備の中山のいただきに墓がいとなまれたという。     
また、近世になってできた社伝によれば、仁徳天皇の時代に、大吉備津彦の命の五代の孫の、加夜の臣奈留美(かやのおみなるみ)の命、大吉備津彦の命の御殿であった茅葺の宮のあとに社殿をたてて、祖神をまつったのが、鎮座の起源であるという。その後も、加夜の臣の子孫が、吉備津の宮に奉仕した。神社の重職は、後代にいたるまで賀陽(かや)氏であった。
古来、朝野の崇敬は、すこぶる厚く、全盛の時代には、神職の数は、300人におよんだという。
吉備津神社は、はじめ備前、備中、備後の「三備の一の宮」とよばれた。つまり、吉備の国の一の宮であった。
一の宮は、各国で由緒があり信仰のあつい神社で、その国の第一位のものをいう。
吉備津神社は、吉備津彦神社または吉備津の宮ともいう。

 

■尾上車山古墳の被葬者は、若日子建吉備津彦の命か
相似形前方後円墳の性質からみて、注目すべき重要な古墳がある。
それは、「吉備の中山」の近く、岡山県岡山市尾上にある尾上車山古墳である。(前の「吉備中山」とその周辺の古墳の地図参照)

この古墳は前に示した「吉備氏と崇神天皇后妃関係の図」からうかがえるように、崇神天皇陵、中山茶臼山古墳などと、ほとんど相似形の古墳である。

尾上車山古墳は、岡山平野の中央に位置する「吉備の中山」の丘陵の南東先端に立地する大型前方後円墳である。
尾上車山古墳は、主軸全長が140メートルで、大吉備津彦の命の陵とされる中山茶臼山古墳の120メートルより、一まわり大きい。
これまでに円筒埴輪や形象埴輪の破片が採集されているが、内部主体(内部構造)や、他の出土物(副葬品)は不明である。
大塚初重他編の『日本古墳大辞典』では、中山茶臼山古墳を古墳時代前期のI期のあと寄りに、尾上車山古墳を古墳時代前期のⅡ期の前寄りに推定されている。つまり、ともに四世紀の古墳で、尾上車山古墳を中山茶臼山古墳にすぐつづく時期のものとされている。
尾上車山古墳は、中山茶臼山古墳のすぐ近くにあることや、中山茶臼山古墳と大略相似形古墳であることからみて、この古墳の被葬者は、中山茶臼山古墳の被葬者と密接な関係をもつことが推定される。

『古事記』『日本書紀』の記述から、そのような人物を求めれば、若日子建吉備津彦の命が浮かびあがってくる。
若日子建吉備津彦の命は、大吉備津彦の命の異母弟であり、『古事記』によれば、大吉備津彦の命と協力して吉備の平定にあたったとされている人物である。大吉備津彦の命よりごくわずか時代が下るとみられ、これは古墳の築造の前後関係ともあう。また、若日子建吉備津彦の命は、吉備津神社の祭神でもある。
さらに、若日子建吉備津彦の命は、吉備の武彦の父親である。
吉備の武彦の墳墓かとみられる備前車塚古墳が、尾上車山古墳よりも後の形式をもつことは、前に示した「吉備氏と崇神天皇后妃関係の図」などをみればわかる(備前車塚古墳が吉備の武彦の墳墓かとみられることについては、あとでのべる)。

ここでも、系譜の前後関係が、古墳の前後関係と合致している。
四世紀代の古墳で、中山茶臼山古墳に距離的に近く、中山茶臼山古墳とほぼ相似形で、しかも中山茶臼山古墳よりも規模が大きく、時代的にややあとかとみられる古墳の被葬者を求めるとすればやはり、まず第一に、若日子建吉備津彦の命の名に指を折るべきであろう。
なお、この例にみられるように、相似形古墳は、小さい古墳が、大きい古墳の模倣をしたとはかぎらず、大きい古墳が後出で、小さい古墳を模倣して、規模を大きくしていることがあることも、留意すべきである。

 

★『古事記』『日本書紀』の記述と考古学的事実との並行性
筑波大学教授の考古学者、岩崎卓也氏は、その著『古墳の時代』(教育社、1990年刊)のなかでのべる。
「弥生時代の墳丘墓が、地域によってさまざまな様態を示すのに対し、いわゆる古墳は全列島的規模で等質的である。この点にこそわが国の古墳にこめられた政治的意義があると考える近藤義郎教授は、墳丘墓から古墳を識別する特色として、つぎの三点を強調する(『前方後円墳の時代』1983年)。
(1)鏡の大量副葬指向。
(2)長大な割竹形木棺とそれを被覆する施設。
(3)前方後円という墳丘の定式化とその巨大性。
前方後円墳に象徴される古墳の広範な出現は、畿内の首長を頂点とする同族的関係で結ばれた首長連合の形成という、政治社会の成立を意味するのである。
『古事記』『日本書紀』などによれば、皇族将軍たちが、各地に派遣されている。大和朝廷に関係のある人たちが、各地に封じられている。
畿内を中心として全国へ普及していく前方後円墳という形式の共通性。そして、前方後円墳のなかには三角縁神獣鏡がしばしば埋められていることなどの埋納品の共通性。これらの共通性は、『古事記』『日本書紀』などの記述にもとづいて理解しうるものと、私は考える。

第14代仲哀天皇以前の第10代崇神天皇の時代の話などは、たんなる作り話とする山片蟠桃や津田左右吉などの話には、とても賛同できない。

 

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