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毎日新聞連載

「深読み日本史 邪馬台国」より



 前方後円墳は畿内説の優等生

深読み日本史タイトル 昨年5月、奈良県桜井市の勝山古墳が「3世紀前半築造の国内最古の前方後円墳」とする調査結果の発表があった。 報道側も飛びつき、、本誌は「邪馬台国畿内説を支える第一級の資料」と報じた。

勝山古墳の築造をそこまで早める見方にも、前方後円墳に含める見解にも強い異論がある。ただ、前方後円墳の出現 時代が早まるほど畿内説に有利になるという論理に反対する研究者はいない。鏡をめぐる錯綜した議論に比べ、こ ちらはシンプルでわかりやすい。

前方後円墳はは九州から東北にまで分布するが、中心は明らかに畿内だ。最も古いタ イプのものも、最も巨大なものも畿内にある。畿内に中心を持つ後の大和王権を起源に各地に広がっていったこと は疑いようがない。問題は、卑弥呼が活躍した時期とどうからむかという年代論争になってくる。

「魏志倭人伝」 で卑弥呼に関する具体的な年代は、魏に使いを送った「景初三(239)年」や、死亡直前の記事に出る「正始八(247)年」 などだ。3世紀中ごろである。ところが、前方後円墳の出現は3世紀末〜4世紀初めとするのが定説だった。 卑弥呼とは半世紀の開きがあり、畿内説の悩みの種だった。だが、近年、この出現時期を早める研究成果 が相次ぎ、畿内説が勢いづいている。

箸墓の写真 「260年過ぎと考えざるをえません」。白石太一郎・国立歴史民俗博 物館教授は三角縁神獣鏡に注目する。最近の型式学的研究から、この鏡の製作年代には4段階あることがわか った。そこで、製作地はどこかの難問には触れることなく、どの段階のものを含むかの違いで古墳の新・古がわかるようになったというのだ。

さらに、土器の一種、須恵器の始まりが通説の5世紀半ばから 4世紀末に早まること、紀元後といわれた弥生時代中期を紀元前に早める年代学上のデータも併せ、白石 さんは「最近の材料のベクトルは、年代を早める方向で完全に一致する」と説明する。 そして、後に全国規模 で広がる大型前方後円墳の出現、つまり、その第一号である箸墓(桜井市)の築造を260年過ぎに置く結論を 導いたのである。

白石説の魅力は、260年過ぎといえぱ箸墓が伝承通り、ピタリ卑弥呼の墓になる点だ。卑弥呼 が、死んだのは247年か、その直後とみられる「かつてない大土木工事だから10年はかかる。それに、偉大な 人物の死を契機につくられた新たな政治的統合のシンポルとみれば、こんな巨大なものがつくられた理由と しても納得できる」と、白石さんは解説する。

いま多くの考古学者から支持され、畿内説の優等生とも思 える前方後円墳根拠説に穴はないのだろうか。那馬台国は九州にあり、後に大和を中心とする前方後円墳を頂く勢カに服属するようになった、とは考えられないのか。 だが、出現期の古墳が北部九州にもあるのをみると、 苦しい理屈のようだ。「東遷説」はどうか。九州にあった邪馬台国が根拠を大和に移し、前方後円墳をつくり始めた とするのだが、「大和から九州への土器の動きはあっても、逆はほとんど見られない」(白石さん)という ことで、物証がないのだ。

年代観が根底からくつがえされでもしない限り、前方後円墳根拠説は、なかなか 揺るがない説に見えるのだが・・・【伊藤和史】


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