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毎日新聞連載

「深読み日本史 邪馬台国」より



 吉備が譲り王都は大和に

深読み日本史タイトル 一昨年出版された『王権誕生』(講談社『日本の歴史02』)には、「説得される快感」を覚えた。政 治、流通、宗教、葬制……、時代の諸要素の 分析結果がある一点に収れんしていく。邪馬台国は奈良盆地の東南の一角、今の桜井市・纒向の地にあったと、ピンポイントの精密さで証明されるのだ。

著者は奈良県立橿原考古学研究所の寺澤薫・調査第一課長。話は2世紀後半、中国・後漢末期の混乱に始まる。後漢を後ろだてとした北部九州の優位が崩れ、日本列島内の各地域が新秩序を求めて独自性を発揮し始める。

北部九州は銅矛と中国鏡、吉備は大型の墳丘墓、畿内は銅鐸……などと、シンボル掲げて張り合う。 これが魏志倭人伝に言う「倭国乱」の実体だという。そして、3世紀初め、混乱の回避策として卑弥呼が倭王として各勢力から共立され、王都が纒向に建設される。この新大和王権誕生のモニュメント が前方後円墳だったというのである。

畿内説ではあっても、寺澤説はさまざまな点で斬新だ。例えば、なぜ畿内の大和が倭の王都になっ たかの問題。最強の大和が他地域との戦いに勝った、とするのが定説だ。ところが寺澤説は、前方後 円墳を根拠にそうはみない。

『近畿の要素が少ないんですね」と寺澤さんは説明する。この畿内発祥が疑いない墳墓も、墳丘の形 やサイズ、副葬品、葬送儀礼などの要素を分析すると妙なことになる。もっとも目立つのが吉備の要 素、次は北部九州で、畿内的要素はずっと少ないのだ。「新王権のイニシアチブを取ったのは吉備 だ」と寺澤さんは考える。

特殊器台土器 だが、常識的見地からは疑間が噴出する。さまざまな地域的要素を統合して前方後円墳の形と儀礼 を創設したというが、3世紀の人々がそうも合理的に行動できるのか。リーダー吉備が王都の地を譲るなんてことがあるのか・・・。

「だからこそ、従来とは全く別の発想に立ったんですよ」寺澤さんによると、常識論を脱却した時、考古学的事実をもっともよく説明できるという。

例えば、大陸の鉄資源入手をめぐる北部九州と畿内・瀬戸内連合の争いが倭国乱だとする有力説がある。ところが、激戦の痕跡などははどこにもない。また、鉄争いとするなら両者のカ関係が逆転した直後から、鉄器出土量の地域差も逆転しでよさそうなものだ。だが、実際にはかなり後の3世紀後半まで北部九州の優位が続く。さらに、何より卑弥呼共立の時期とピタリ重なる纒向遺跡の突如とした出現の仕方。こうした事実を前にすると、寺澤説は全く新しい説明体系として抜群の説得力を発揮し始めるのだ。

さて、気になる卑弥呼の墓はどう説明されているか。寺澤説では箸墓に始まる列島共通の大型前方 後円墳出現の前に、その祖形が誕生する。250年の直前ごろにつくられたとみられる勝山、矢塚、石塚、ホケノ山の4古墳。いずれも纒向にある。このうちの第一号、つまり連合の象徴として諸地域それぞれの特色が最初に盛り込まれたものこそが、247年かその直後に死んだ卑弥呼の墓ということになる。実のところ、ホケノ山は副葬品に武具が多いことから被葬者は男性とみていいという。答えは残る三つの中にある。

同じ畿内説でも、前回紹介した白石太一郎・国立歴史民俗博物館教授の立論とはかなり違っていることがわかる。【伊藤和史】


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