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毎日新聞連載
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答えは「年代論」の中に・・・
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邪馬台国畿内説の立場からは、卑弥呼王権が後の大和王権、天皇家に直結する。卑弥呼を記念した
前方後円墳が畿内から全国に広まるのだから、それが論理の必然となる。ところが、古事記、日本書紀によると、天皇家の先祖は神々の国である高天原から、日向(宮崎県)の高千穂峰に降ってきたことになっている。そして、初代の神武天皇が東方に攻め上り、苦戦の末、ようやく大和(奈良盆地〉に入ることができた……。
妙な話ではないか。8世紀の日本書記編さんは、王権の正統性を強調するのが大事な動機の一つだ ったろう。天皇家が元々大和にあったのなら、なぜ、九州の勢力が大和の土着勢力を滅ぼすという過程が必要になるのか。日向や高千穂が太陽や稲を尊ぶ天皇家にとってめでたい地名であるにしても、それだけで神話の舞台として選ぱれた説明がつくだろうか。九州にあった邪馬台国が大和に東遷し、 天皇家につながった記憶の残存ではないかと考えたくもなる。 安本美典・産能大教授(数理歴史学)は、魏志倭人伝などの資料的限界を記紀で補おうと試みる。古事記に出てくる地名を地域別に数えると、最も多いのが九州、次が出雲などの山陰で、畿内はかなり少ないという。他にも奇妙なことがある。畿内説の有力候補地、奈良盆地の纒向周辺と、九州説の候補地の一つ、福岡県夜須(やす)町付近で相当多くの地名が一致していることだ。笠置山、春日、三輪…など、それぞれの位置にまで相関関係があるという。このデータも東遷説に味方しそうだ。 「記紀にみえる天皇の代数だけは信用できる」とする安本さんの仮説を紹介したい。 卑弥呼が魏に使いを送った239年はどの天皇の時代に当たるかと考える際、古今の皇帝や国王の在位年数を続計処理し、古代の天皇一代の在位を10年とする。次に、年代の確かな第31代用明天皇が在位していた586年からー代ずつさかのぼる。すると、初代神武は280〜290年ころになる。さらに記紀神話に従うと、神武の5代前が卑弥呼の時代に該当するのだが、それは天照大神なのである。 そこで安本さんは卑弥呼の神話的反映が天照大神だとみる。この神のいた所が邪馬台国なわけだから、前に書いた地名の分析に注目し、「九州からの東遷」を導くのである。 魏志倭人伝からは、激動の東アジアで生き延びようとする日本列島人の懸命な様子が伝わってくる。その必死の努力の舞台が畿内か九州なのかをあいまいにしておくのは忍びない。だが、現状では 特定するのは難しい。決定的な部分で引っかかりがあるからだ。 それは、年代論である。あるモノの実年代をどう考えるかが、研究者によって意外なほど違っている。基本となる土器型式の見方が違えば、ある型式にどの暦年を与えるかも違う。年代論が共有されない弊害は、旧石器発掘ねつ造問題で十分味わわされたことだった。 寺澤薫・橿原考古学研究所調査第一課長は「邪馬台国問題は年代論が決めると思っている」と言う。 平野邦雄・横浜市歴史博物館館長は「魏志倭人伝の表示していることを、今はまだ完全に解読できな いでいる」と述ぺた。年代の論議が深まった時、魏志倭人伝は何を語りだすのだろうか。【伊藤和史】 (おわり) |
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