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混一彊理歴代国都之図
 (こんいちきょうりれきだいこくとのず)


『混一彊理歴代国都之図』は、明の建文四年(1402)に、朝鮮で作成された日本についての地図(京都・龍谷 大学蔵、以下、龍谷図)である。この地図には、日本列島が南北に長く描かれている。

これが、古代から15世紀に至るまでの、中国人の日本についての認識であったとし、魏志倭人伝も、この誤った方向認識で記述されたとして、倭人伝の方角の記述を「南」を「東」に修正するべきとの論がある。

また、魏志倭人伝では、邪馬台国が北九州沿岸の国から、南の方向にあると記述されているが、この地図で南に進むと畿内方面に至ることから、この地図は、「邪馬台国畿内説」の論拠のひとつになっている。

しかし、次のような理由で、このような主張は、根拠がないと考える。
  • 弘中芳男氏の研究によって、この地図が、日本列島を南に転倒して描いているのは、15世紀の初頭に、 李氏朝鮮の廷臣である権近が、西を上方にして描かれた日本の「行基図」を、不用意に挿入してしまったためであることが明らかになった。

    すなわち、同じ元資料から作られたと思われる『混一彊理歴代国都地図』(島原市本光寺蔵、以下、本光寺図)の存在が明らかになり、本光寺図では、日本は正しく東西に画かれていたことから、周囲の島嶼の配置などの分析により、本光寺図こそ、当時の地理観を正しく反映したものであり、龍谷図は、スペースの都合などによって、日本を南北に画いたものであると判断された。

  • 『混一彊理歴代国都之図』(龍谷図)には、たとえば大 和や常陸などの旧国名ばかりでなく、陸奥には「夷地」さえ記入されている。三世紀に、わが国の国内の各国名を記した地図などがあるはずはない。

  • この図は、日本の中心を、奈良付近ではなく、京都付近においている。この図は、 あきらかに、三世紀よりずっとのちの、『古事記』『日本書紀』成立以後の、大和朝廷が畿内に 存在している時代の情報をもとにえがかれているものである。

  • 中国の歴史書は、ずっとのちになっても、『魏志』の記述を踏襲する傾向があった。そして、 邪馬台国と現実の大和朝廷とを結びつける傾向があった。すなわち、この地図は、のちの時代 の大和朝廷についての知識と、中国史書にみえる『魏志』以来の「邪馬台国」についての知識 とを、重ねあわせてえがいていると考えられるものである。


畿内説を主張する学者は、八世紀ごろ成立した『古事記』『日本書紀』などの国内文献が描く、日本の古代の情報を信頼できないとする。

そのいっぽうで、それよりも700年もあたらしい15世紀の外国文献である『混一彊理歴代国都之図』(龍谷図)をもとに、邪馬台国時代の議論を展開している。

この方々が説く「厳密な文献批判」などどいうことばは、どこにいったのであろうか。判断の基準を自由に動かして、自分勝手な都合のいい議論をしているとしかいいようがない。



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